往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。





「幻想」というコトバの意味について

 

本書が最初に出版された1968年当時、『共同幻想論』というタイトルから、本書を、「国家は幻想にすぎない」という形で国家をラディカルに無化した革命的な本であると、極めて単純に理解した能天気な左翼がいっぱいいた。

 

だが本書における幻想という言葉は、虚偽・架空という意味での「イルージョン」と解されてはならないのだ。

 

吉本のいう幻想過程とは、私たち人間において現実的・物質的な生存過程からある必然性をもって生じる逸脱を通して形成された一個の余剰(過剰)領域、言い換えれば私たち人間がこころや感情、意識を持ち、それに基づいた自己了解の構造を自身の存在の内部に産み出してしまうことに根源的には根ざしている、人間存在の物質性・客観性には最終的に還元することの出来ない領域を意味している。

 

(略)

 

国家が個々人の心的な過程を国家に向けさせ同化させるための、言い換えれば個々人の心的な過程における内的な自己了解の次元に、国家という共同性の次元が相互媒介的に重ね合わされ、国家の共同性が内発的かつ自発的な服従=了解の構造へと溶かし込まれてゆくための媒体が不可欠だからである。

 

その媒体こそが幻想的な共同性であり、だからこそ国家の本質とは幻想的な共同性に他ならないのである。

 

だとすれば、「国家は幻想にすぎない」ではなく、「国家は幻想であるからこそその支配は強固であり、その力はあなどれないのだ」というべきであるはずなのだ。

 

そして国家の現実的な本質性がなぜ幻想的な共同性として現出するのかという問題を徹底的に追求すべきなのである。

 

吉本が『共同幻想論』のなかで論じようとしているのはこの問題に他ならない。

 

※高橋順一『共同幻想論』読解の試み より(『現代思想』2008年8月臨時増刊「吉本隆明 肯定の思想」所収)

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『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』より

 

河合 いまの若者たちもやっぱりデタッチメントの気分は非常に強いですよね。コミットするやつは,極端に言えば、バカだと,そのぐらいの感じがあるんじゃないでしょうか。デタッチメントであるのを,クールで格好いいことのように思っている。

 

村上 ただ,95年はオウム事件と阪神の大地震がありました。あれはまさにコミットメントの問題ですよね。

 

河合 そうです。そこにものすごい反動のようなものが出たんですよ。ふだんデタッチの状態でいるような若者たちが,ものすごくコミットしたんです。
若者のボランティアは予想外にたくさん神戸に来たのです。日本人も、できるかぎりは何かにコミットしたいと,おそらく潜在的には思っているのだけれど,それが表に出ていなかったのが、地震と、あの事件ですごく出てきましたね。

 

村上 そうですね,どちらも日常的な想像力を超えた出来事ですよね。通常でない状況が出現して,そこではじめてそれがあらわれてくるのですね。

 

河合 それをほんとうはもうちょっと研究すべきだと思うのだけども,震災のときに日本の若者がコミットしてやってきたボランティアの活動と,アメリカなどでやっているボランティアと,行動がどのぐらいちがうのか,同じなのかということは,興味あるところですね。日本の場合は,どうしてもコミットしだすと,みんなベタベタになるというところがあるのです,一丸になってしまうという。

 

村上 それはたしかに学生運動のときもそうだったですね。

 

河合 だから,学生運動のころに,ぼくがよく学生を冷やかしていたのは、きみたちは新しいことをしているように見えるけれども,体質がものすごく古い,グループのつくり方がものすごく古い,ということですね。あれはおもしろいですね。みんなが集まるというときに,ちょっとサボっていると,おまえは付き合いが悪いとか。つまり個人の自由を許さなくなるんですよ。全体にベタベタにコミットしているやつが立派なやつで,自分の個人のアイディアでなんかしようとするやつは,それは異端になってしまうでしょう。
ところが,その点,欧米のコミットする人は,個人としてコミットしますからね。来るときは来る,来ないときは来ないというふうにできるんですよ。

 

村上 それぞれいろいろな事情をもってボランティアに参加していても,週に三回来られる人と一回しか来られない人がいて,三回来られる人がいばるというのが出てくるのですよね。

 

河合 必ずいますね。

 

『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』第一夜「物語で人間は何を癒すのか」P.15〜18より(岩波書店・1996年刊)

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はかなく、つたなく、しどけなきもの人間

愛読している松岡正剛さんの『千夜千冊』というwebsiteは、単なる本の書評というよりは、1冊の本を縦横無尽に読み解きながら作者の世界観、人生観に迫りつつ、正剛さん自身のエピソードやリアルタイムの出来事なども織り交ぜながら書かれている魅力的なページです。

この千夜千冊のなかでも、992夜・小林秀雄『本居宣長』は、わたしの格別お気に入りのページのひとつで、何度読み返したかわかりません。

文章自体が長文で、沢山の指摘をしていますが、とりわけ最後に言っておきたいこととして2つ挙げられた2つめの話は、正剛さん自ら「千夜千冊の中でも十指に入る指摘」と書いていてとてもインパクトがありました。

それは、武士支配の時代だった江戸時代に生きていた本居宣長が、なんと「しごくまつすぐに、はかなく、つたなく、しどけなきもの」こそが人間の本来の本質であると考えていたという話です。

そうです。たしかに、「はかなく、つたなく、しどけなき存在」であるからこそ人間は、すばらしい立派な目標を立てて努力し、楽しい人生を歩もうするということは言えるかもしれません。
 

でも、それはないものねだりというか・・・人生の本義というか、人生の根底にあるものは、やはり犇讚瓩任△雖犲難瓩世伴覚しておくことが大事なようにおもうのです。

「人生は犇讚瓩任△雖犲難瓩澄廚覆鵑峠颪と、「なんてネガティブなマイナス思考を」っておもわれるかもしれないのですが、わたしは、人生を必要以上に悲観的、否定的に捉えているつもりはありません。
 

 

つまり、人生は楽しいものだとおもっていれば、楽しいできごとがあっても当たり前で、そのことにさほど喜びを感じられないでしょうが、人生はそもそも苦しいものだということを前提としていれば、楽しいできごとと出会ったときには、喜びがいっそう大きく感じられるし、逆もまた然りではないかと。

また、一口に「苦しみ」といってもいろいろあるのでひとくくりにはできないし、その苦しみの質が問題だっておもうんですね。

以前、こちらの記事で紹介した「自己否定の苦しみと自己批判の苦しみは、同じ苦しみであっても似て非なるモノ」という詞を書いたことがありました。

まあ、大雑把な分け方ですが、苦しみには「意味がある苦しみ」と「意味のない苦しみ」というのがあるわけで。

だから、人生は苦だからといって、苦しめば良いってもんじゃない・・・好きこのんで苦しみを得ようとする姿勢って、結局Mなだけってことですし・・笑。

お釈迦さまもその苦については、四苦八苦・・・つまり生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦(生きること、老いること、病むこと、死ぬこと、愛する者と別れねばならないこと、憎む者に出会わなければならないこと、求めても得られないこと、人間自身が存在していること)と説いていますから、これは単なるわたしの個人的な考えではなく、普遍的な真理にちかいものと言えるでしょう。

・・・で、お釈迦さまというか仏教のすごいところは四諦(したい)・・・この言葉は「4つの真理」という意味なのですが、
 

苦…人生とは苦であるという真理
集…苦には原因があるという真理
滅…苦は無くなるという真理
道…苦の無い世界への道があるという真理


というふうに、人生は苦しいものだけれど、でも、その苦しみにはちゃんと原因があって、その苦がまったく存在しない世界はありますよ、その世界を実現する具体的方法(八正道)もちゃんと考えてありますよ、と示しているところですね。


精神科医ヴィクトール・フランクルは、「意味のある苦しみは志向性がある」という言葉を残しています。

つまり、人生が犇讚瓩任△襪里蓮∨楴舛任△蟒斌燭世韻譴鼻△修龍譴鮴犬澆世靴討い襪里和召任發覆ぜ分自身であって、その苦を自らの内側に閉じ込めて爍佑平有瓩卜韻泙襪茲蠅蓮▲灰灰蹐魍阿乏いて昇華超越させていったほうがいいのではないかと。

いや、良し悪しの問題でなく、そうすることでいつの間にか犇讚瓩篭譴任覆なっていくのではないかと。

そもそも、体験するために、経験を得るために、あなたはあの世からこの世に肉体をもって生まれてきたんではないですか?


関連する先人の言葉を以下に集めてみました。
 

 

●行為がその人の真の経験になるためには、否応なしに、それが自分に身につくような痛みを感じなければならないし、痛みを感じれば、忘れようと思っても、忘れられるものではない。(中村雄二郎)


●経験が主として苦痛に満ちた、不愉快な経験であるのは、何か特別な悲観主義を意味するのではなく、その本質から直接に理解できる。否定的な裁きをへてのみ、人は新しい経験に達する。経験の名に値するものは、みな、期待を裏切っている。(ハンス・ゲオルグ・ガダマー)


●人を襲う事件は、人に学ぶことを強いる。これは、説明を求められても、まず理解できないような過去の現象を考察するときに――すなわち期待も予想もしないのにかかわらず、出会ってしまったものを消化して同化するときに――このことは生じる。後から消化して自分の生活の中に受け入れるときにはじめて「事件」は「経験」となる。「人は経験をする」とよく人は言うけれども、彼が出会っているのは、まず意味のない「事実」である。それを持続的に自分に同化し、自分の将来を決めるために、ひとつの「教え」をそこから引き出すときに初めて、それは「経験」となる。(オットー・フリードリッヒ・ボルノー)


●真実の教育はすべて経験から生まれる。(ジョン・デューイ)


●人は自分にとって意味のあるものをつくるときに最も学ぶことができる(シーモア・パパート)
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ドビュッシー「水の反映」(映像第1集より)

フランスの作曲家クロード・ドビュッシーが1905年に作曲した「映像第1集」という3曲からなるピアノ曲集があります。
 

この「映像・第1集」は、ドビュッシー自身が「シューマンの左かショパンの右に位置するだろう」と述べたといわれる自信作なんですが、3曲のうちでもっとも有名なのが第1曲の「水の反映」です。
 

この曲を3年前のお盆休みにわが家のピアノ(ヤマハC3A)で弾いたときの映像をYouTubeに上げてあったんですが、こちらのblogでは一度も紹介したことがなかったことをおもいだしたので、今日はそれを。
 

わたしは高校1年になってからピアノを練習し始めたんですが、ちょうどそのちょうど頃に、テレビでピアニストの野島稔さんがこの曲を演奏されているのを偶然に観て「世の中にはこんな素敵なピアノ曲があったのか!」「ドビュッシーすごい!天才!」とめちゃくちゃ感動し、いつか自分も弾けるようになれたらイイなぁ・・・とずっと想い続けて練習してきた曲です。
 

最初の出だしの和音がちょっと濁ってしまうなど、ところどころ音を外してはいるものの、致命的ミスを犯して止まってしまったり弾き直したりすることはなく、ゴマカシながらも何とか最後までたどり着いたという感じなんですが・・
 

まあ、幸い誰もが知っているほど超有名な曲ではないので、この曲をよく知らない人が聴けば、弾けているように聞こえるかも・・ということで。。(^^;)
 

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マインドセット(為末大さんのblog記事より)

為末大さんのblogTAMESUEが更新され、本日3/24付けで新しくアップされていた記事のテーマは「マインドセット」でした。
為末さんの著書『諦める力 勝てないのは努力が足りないからではない』のことをこちらの記事で採りあげたこともありましたし、unlearningと題されたblog記事についてこちらでご紹介したことがあります。
 
いま寺子屋塾で学んでいる塾生たちがこの記事を読めば、なぜわたしがこの記事をこ紹介しようとおもったかがすぐにわかる人が多いとおもいます。
塾生たちは「ここの塾でやっていることは、ここに来ていない人には説明不可能です」と口を揃えて言っているんですが、それは、まさにここに書かれているマインドセットの為せる技でもあるのです。
つまり、教室を訪れたことが無い方、実際に学習を体験されていない方にとっては、そうした「マインドセット」が存在すること自体が想像できないので、当塾でどんな学習をしているのかについては、想定外の世界にあるというか、どんなに言葉を尽くして説明しようとしても残念ながらサッパリ伝わらないんですね。笑
 
よって、為末さんがこの記事に書かれている言葉を使って当塾の学習を説明するなら、「自分が現実だとおもって見ている世界は、実はそうではなく、自分がそのように見ているからそうなんだ、というマインドセットに自ら気づき、それを変えていくことができるという学習を、算数などのプリントや経営ゲーム、未来デザイン手法等のツールを通じて行っている場」と言えるようにおもったんですが、それでもこれだけではやっぱり伝えるのは無理ですよね。笑
 
為末さんのblog記事の全文を以下にご紹介します。
 
野茂英雄さんが1995年にメジャーリーグに挑戦されました。それまでは日本人がメジャーで活躍するのは難しいだろうという意見がありましたが、実際に活躍されると同時に、日本人メジャーリーガーが少しずつ増え、今ではもうたくさんの選手がメジャーリーガーになりました。
 
野茂さん以前と以後では一体何が変わったのでしょうか?おそらくは技術的に変化があったわけでしょうし、システムが変わったわけでもないと思います。一番大きく変わったのは、野茂さんの事例を見てそれは可能なことなのだというマインドセットが変わったのだろうと思います。
常に全力を出しているスポーツの世界ですら、マインドセットが変わると前提が変わり、行動が変わり、結果に差が出ることの一例ではないかと思います。
マインドセットを日本語で訳しているものを見ると、思い込み、先入観、刷り込み、などがあります。要は自分が判断をしたり行動をすることの前提になっている(おそらくは無意識の領域で)考え方や見方の癖と言えるのではないかと思います。
例えていうならば、テレビでニュースを見ている時に、現場で起きているそのものを写していても、どの画角を切り取るか、またカメラのレンズや色の違い、などを介して私たちはそれを見ているわけです。この編集の仕方の癖や、カメラのレンズそのものの偏りで、いくらでも現実は変わって見えます。このカメラや編集の癖にあたるものがマインドセットになろうかと思います。
実際に人間は見ているものすべてが意識に上っているわけではなく、無意識に編集し選択されたものを見ているというのを示した実験もあります。私たちは編集済みの世界を既に生きているわけです。
じゃあ、そのマインドセットを変えればいいじゃないかと思うのですが、マインドセットが変わるということはまさに自分にとっては世界が変わるということですから、なかなか簡単ではありません。難しいのは承知の上で、マインドセットはどんなプロセスを経て変わっていくのか、現役時代の経験から、どういうプロセスだったかをまとめてみました。
 
1、マインドセットが存在することに気づく
ー 世の中がそうなのではなく私がそう見ているという発見。
 
2、どんなマインドセットを持っているかを把握する
ー 課題が難しいかどうかではなく、課題を難しいと感じる傾向にあるマインドセットを持っているなど。
 
3、マインドセットは選べることを認識し、選ぶ
ー 見方を変えることはできる。ただし、マインドセットはそう簡単には切り替わらない。
 
4、兆しを見て、マインドセットが変わり始める
ー 人は兆しがなければそれを信じることはできない。いきなり変えるのではなくまず現実は変えることができるという証拠を見せる。
 
5、現実が変わる
ー マインドセットが変わるとほぼ必ず現実も変わる。信じようとしている状態と、信じるという意識もなく身についた状態では、相当差がある。
 
6、マインドセットが変わっていたことに気がつく
ー マインドセットが変わったことに気づくのはいつも振り返った時。最中は夢中で目の前に取り組む。

 
特に重要な点は、マインドセットに気づき選べるとわかること。兆しを作ることではないかと思います。人はいきなり勝てると言われても信じませんが、今までとは違う何か兆しを見た時に勝てると信じ始めます。チームが強くなる時に、だいたいまずはなんらかの結果で兆しを見ることで、チーム内の空気が変わり、大きな変化が起きていくように思います。
 
ドミノの一つ目を倒すように、ある一点に集中して兆しを作るというのが有効なのかもしれません。
 
マインドセットが変わったことがある人間は、それを変えられると信じますが、変わった経験がないとそもそもマインドセットというものが存在するとすら考えないのではないかと思います。心理学の認知療法でも、それがそうなのではなく、あなたがそう見ているという風に認識を持ってもらうのに時間がかかるようです。(websiteTAMESUE THINK 2017.3.24より)
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ストラヴィンスキーのことば

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音楽はその本質からして感情、態度、自然現象ほかいかなるものも表現しえない。


※20世紀最大の音楽家のひとりといわれる

 イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882〜1971:ロシアで生まれアメリカにて歿)のことば




 
次の絵はパブロ・ピカソが描いたストラヴィンスキーの肖像画
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つぎもピカソですが、1918年に作曲された「11楽器のためのラグタイム」の楽譜の表紙を飾る、一筆書きによる2人の楽士
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ピアノも達者で、指揮、作曲とマルチな才能を発揮した音楽家でした。
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あまり有名ではありませんが1924年にピアノ・ソナタも作曲しています。


なぜこの言葉を採りあげたか、またストラヴィンスキーの音楽について、もうちょっと突っ込んだことを知りたいという方は、こちらのページに紹介されている、ストラヴィンスキーが亡くなった際の作曲家・伊福部昭さんの談話などご覧になってみてください。
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「仏教を学ぶ」とはどういうことか?

仏教をどんなに学んでも、
たぶん、それだけでは悟ることはできないでしょう。
 
そもそもまず、「なぜ自分は
仏教を学ぼうとしているのか?」という動機そのものや、
その動機を生み出している「自分」を観ることの方が
先なのではないかとおもうからです。
 
仏教はすばらしい教えではありますが
あくまで数多ある「教え」のひとつにすぎません。
 
言い換えれば、「仏教とは何か?」
「何のために仏教はあるのか?」という問いの本質について、
考えを自ら深めていくことではじめて、
仏教の世界に近づいていけるようにおもうのです。
 
あなたは「どういう状態になったら、
自分は『仏教がわかった』と言っていいのか?」
ということについて考えたことがありますか?
 
つまり、自分が仏教を学んで、
仏教の某かが「わかった」というのなら、
おそらく自分の何かが変化するのではないかとおもうのです。
 
もし、何も変わっていないというのなら、
そもそもあなたは
何のために仏教を学んだのでしょうか?
 
何も変わっていないというのに、
はたしてそれで「仏教を学んだ」「仏教が解った」と
言っていいのか?ということです。
 
ビフォーアフター・・仏教を学ぶ前と学んだ後で
自分のいったい何が変わるのか・・・
それを考えずして
人から聞いた仏教についての知識や情報を
ただアタマに詰め込むばかりでは、
悟るどころか、苦しくなるばかりではないでしょうか?
 
「仏教を学ぶということは、崇高な理想を持つことだ」
と考える人がいるかもしれません。
そして、崇高な理想を持つことは、
人間として立派なことだとおもうかもしれません。
 
でも、「崇高な理想のために生きる」というのは、
言い換えれば、
崇高な理想の奴隷になるということではないでしょうか。
 
なぜなら、どんなに立派な理想をもったとしても、
その理想が自分の中から生まれ出たものでなく、
自分にとって本当に必要なものでないのなら、
却って自分を苦しめてしまうのではないかとおもうのです。
 
ですから、「なぜ自分は、
お釈迦さまのように、崇高な理想が
放っておいても自ずと生まれてきてしまう人間ではないのか?」
と問うことが先で、
それを邪魔しているものは何か?を問う必要があるのです。
 
お釈迦さまのような覚者の言うことが
われわれのような凡夫になかなか理解できないのは、
そもそも視点が違うためではないかとおもうのです。
 
つまり、視点を変えることなく、
自分の視点、自分の思考回路でもって
彼らの言葉を理解しようとしたところで、
彼らの世界には一歩も近づけないのでしょう。
 
ですから、どうして彼らがその視点に立てたかを問い、
自分自身がその視点に立つことができたなら、
そこではじめて、仏教とは何かが
理解できるようになるのではないでしょうか?
 
COMMENT:先日教室で、仏教について塾生のひとりと対話していたとき、話していた内容や、後からおもい浮かんだことなどを整理して書いてみました。
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三砂ちづる『オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す』より



はじめに

日本の昔話には、よくオニババや山姥が出てきます。たとえば、山にひとりで住む山姥が、ときおり道に迷った小僧さんを夜中に襲う話があります。私の子供たちが小さかったころ、夜寝る前に、昔話をよく読んであげていましたが、「ざらんざらん、べろんべろんと小僧さんの尻をなめた」などという表現が、子供向けの絵本に出てきて、ぎょっとしたのを覚えています。

あれは、社会の中で適切な役割を与えられない独身の更年期女性が、山に籠もるしかなくなり、オニババとなり、ときおり「エネルギー」の行き場を求めて、若い男を襲うしかない、という話だった、と私はとらえています。

この「エネルギー」は、性と生殖に関わるエネルギーでしょう。女性のからだには、次の世代を準備する仕組みがあります。ですから、それを抑えつけて使わないようにしていると、その弊害があちこちに出てくるのではないでしょうか。また、仕組みを使って、性と生殖に向き合ったとしても、それが喜びに満ちた経験でなければ、そのようなエネルギーは本当に満たされたはいえません。

私は長い間、日本や外国の研究機関で、母子保健、女性のリプロダクティブヘルスといった仕事に関わってきました。そのなかでたくさんの女性と出会い、女性の性と生殖について考える機会が多くありました。そこで感じたのは、女性として生まれてきたからには、自分の性、つまり月経や、性経験、出産といった自らの女性性に向き合うことが大切にされないと、ある時期に人としてとてもつらいことになるのではないか、ということです。

表現は怖いのですが、オニババ化への道です。反対に、自分のからだの声を聞き、女性としてからだをいとおしんで暮らすことができれば、いろいろな変革をとげることができるのです。それは、成長であると同時に、とても楽しい経験でありうるのですが、今の日本では、あまり大切にされていません。

「おばあちゃん」という響きはもともとやさしいものです。なつかしくて、温かくて、何でも受けとめてもらえる。親にしかられても、おばあちゃんがよしよし、と言ってくれる穏やかに微笑み、人生の多くの困難を乗り越えてきた人だけが持つ、誰をも安心させる温かさを持っています。ところが、最近、やさしい、かわいらしいおばあちゃんが減りました。孫を母親と同じように厳しくしかっているおばあちゃんをよく見ます。きつくて怖いおばあちゃんが増えていないでしょうか。

どうしてこんなふうになってしまったのでしょう。おばあちゃんたちは、穏やかに「枯れられない」何かを持っているような気がします。人間のやるべきことは、最終的には次の世代に何かを手渡していくことだと考えると、いつまでも自分のことばかり考え、周囲に苛立ちをぶつけているのは、どこかで歯車がずれているのでしょう。

戦後の暮らしで、経済的には少しずつ恵まれ、理不尽なことも少しずつ減る方向にあったはずの彼女たちの人生で、何か根本的なものが満たされていない、と感じられるのです。どうやら、今の60代、70代の日本の女性あたりから、性と生殖、女性の身体性への軽視が始まったのではないでしょうか。

この世代の親の娘たちは、現在4、50代で、フェミニズムを生きてきた女性たちです。「産んでも産まなくてもあるがままの私を認めてほしい」というフェミニズムの主張は、私たちに多くの恩恵をもたらし、女性の生きる場をずっと風通しよくしてきました。親は娘がより自由に生きていくことを喜びをするものだと思いますが、6,70代の親は必ずしもこの娘たちの得た自由を喜んでいるように見えないし、娘たちも母親になんとなくすっきりしないものを感じているようで、この世代間は、なんとなくぎくしゃくしています。女性の身体性に根ざした知恵を大切なものとして伝承できなくなると、「お互いをあるがままに受け入れられない」ことになるのではないか、とこの世代間の葛藤を見て感じるようになりました。

現代をのびのび生きているように見える、20代、30代の女性たちにも、この女性のからだへの軽視がしっかりと根づいています。「別にしたくなければ結婚しなくていいよ」「仕事があれば子どもがいなくてもいいよ」という上の世代からのメッセージは、若い女性に一見自由な選択を与えているようですが、そこに、「女としてのからだを大切にしない」という大きな落とし穴があることに、あまり気づかれていません。


このままほうっておけば、女性の性と生殖にかかわるエネルギーは行き場を失い、日本は何年かあとに「総オニババ化」するのではないか、と思われるふしがあります。それは女性とともに生きていく男性にとっても、けっして幸せなことではないでしょう。

この本は、性や思春期、月経、出産と言う、女性のからだにとって重要だと思われることについて、すこし違った視点から取り上げたものです。オニババ化とは何か、女性はどのようにからだに向き合うことができるのか、について考えてみたいと思います。ちょっと怖い、でも、きっと興味を持っていただけるお話です。ぜひ、しばらくお付き合いください。



目次

第1章 身体の知恵はどこへいってしまったのか

性と生殖への軽視
自分の身体に対する漠然とした不安
子どもを産むのは恐怖である?
女としての生活を楽しめなかった戦後世代
憧れの「病院出産」
娘の生き方に嫉妬する世代
からだの持つ「子育ての力」
心に届かない近代医療の「知識」
病院がないと幸せになれないのか
産む人と産まない人とのギャップが広がっただけ
ポリネシアの驚くべき避妊法
インディオは更年期を楽しみにしている
一年間かけて伝えられる母の知恵
月経血を止められた日本女性
「毎月生まれ変わる」という発想
お産の達人だった日本人
上の世代の話があると不安が消える
自分のからだの声に耳をすます


第2章 月経を「やり過ごして」よいのか

骨盤底筋がたるんできた
くるくると丸めた綿花を詰めていた
八十代ではナプキンが主流に
京都の芸の世界
詰めた部分に意識を集める
「トイレで出さないなら、どこで出すの?」
現代にもいた「できる」女性
言語化する必要のなかった身体知
なぜ九十代から次の世代に伝わらなかったのか
女性性の中心軸を作る


第3章 出産によって取りもどす身体性

「痛くてつらい出産」はどこまで本当か
中高生に植え付けられた「股を切られる恐怖」
医療を「水のように」享受する危険性
日本に助産婦が残った「幸運」
「ヒッヒッフー」はもう古い
お産と女性の変化
「原身体経験」の砦としてのお産
お産は「受けとめられ体験」を作りなおす場
継続ケアがあれば「救急搬送」は少なくなりうる
「あと回し」にされた母性保健
とにかく「施設化」へ向かった
施設化が生んだ恐怖の中の出産
ブラジルに助産所を―JICAのプロジェクトの成果
お産に「決まり」は必要ない
お産が怖い産科医
出産経験を定義する
「つらい出産」でも大丈夫


第4章 女性はなぜオニババになるのか

「負け犬」より心配な「その他大勢」の女性たち
「女として生きろ」というオプションがない
性体験はからだをゆるめていく経験
宙ぶらりんのままのからだの欲求の行方
少子化対策の的はずれな感じ
なぜオニババになるのか
からだは共に生きる誰かを探している
「子宮を空き家にしてはいけない」
若者は背中を押されるのを待っている?
性体験はもっと深いもの
アメリカ流の薄っぺらい性行動
卵子にも個性がある
子宮口にも心がある
「お産はセックスから始まる」
セクシュアリティの流れが悪いと病気になる
行き場を失ったエネルギーをどうするか
「盛り」としての持ち時間は意外と少ない
娘の生殖年齢をスポイルする親たち


第5章 世代をつなぐ楽しみを生きる

早婚のすすめ
仕事はゼロにしなければいい
からだを張って母親を守る大人がほしい
命の勢いがあるうちに出産する
セックスするなという性教育
授かった命は愛するという発想
日本にもいた「早婚の民」
出産を選びとる若い女性の増加
家族の楽しみ
子育てにエロスが足りない
大人になる楽しみを教えよう
「めかけ」のすすめ?
子どもは矢にして放つものである
母親の軸がないとしつけができない
子どもはすべてわかっている存在
ブラジルでは子どもをせかさない
抱きとめられて育ったからだ
からだの欲求と援助交際
おばあちゃんも受けとめられていない
昔話が伝えていたからだの知恵
いつまでも自分のことばかりに関心がある世代
子どもは親を許すために生まれてくる
女性はからだに向き合うしかない
自分のからだをよい状態にする
いつもよい経験に戻っていける

女性性が男性を導く


三砂ちづる『オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す』(光文社新書・2004年初版)より はじめに と 目次
 

COMMENT:この本が出た直後は過激なタイトルから賛否両論大きな反響を呼び起こしたようです。わたしもこの本に書かれている内容がすべて正しいと考えているわけではないのですが、狄搬寮瓩箸いβμ未ら女性の性の問題を採り上げている本は、この本が出る前にはそれほどなかったようにおもわれ、「人間にとって性とはなにか?」という問いについて考えを深める犇気┐覆だ教育甼飢塀颪里覆の1冊としてご紹介しています。出版後まもないタイミングで書かれた内田樹さんのblog記事や、出版後10年経過したときに行われた三砂さんへのインタビュー記事(5回分あります)も参考にしてください。
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鈴木清順さんの『陽炎座』のこと


映画監督の鈴木清順さんが2/13に93才で亡くなられました。
 
松田優作さん主演の映画『陽炎座』(1981年)を観て
清順さん独特の美学にはじめて触れたのは、
まだわたしが進学塾で小中学生を教えていた30才を過ぎた頃でした。
 
1980年に公開された映画『ツィゴイネルワイゼン』とともに
狎興舂フイルム歌舞伎瓩半匆陲気譴襪海箸梁燭い海虜酩覆蓮
登場する人たちがみな生きているようでもあり死んでいるようでもあり、
時間を行ったり来たり、とっても不思議なストーリー展開で
・・というか、通常でいうストーリー的なものは無いに等しいんですが、
とりわけクライマックスといえる陽炎座の芝居小屋崩落シーンは圧巻で、
わたしにとって忘れることのできない映画です。
 
なぜこういう映画に惹かれるかについて、ここでくわしく書く余裕はないので、
生い立ちについて触れたこちらの記事などをごらんください。
 
この2作についてもう少しちょっと詳しく知りたい方は、
佐藤モリユキさんによるこちらの記事など参考になるかもしれません。
 
陽炎座のハイライトシーンがYouTubeに上がっていましたので、
2作の予告編とともにご紹介することで
ご冥福をいのりたいとおもいます。




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団まりな『性と進化の秘密 思考する細胞たち』より

性と進化の秘密

 


雄は作られた性
脊椎動物の元祖的存在のサカナでは、事情が少し違っています。種類によって、水槽の中に雌ばかりがいると、その中で、一番大きい魚が雄になったり、その逆のことも起こります。サカナは、ヒトのように発生過程で片方の生殖器官を消さないで、両方ともきちんと作り上げます。その上で状況を見て、「あれオスがいないぞ、じゃわたしがオスになるか」というので雌の器官のスイッチを消して雄になったり、また元に戻ったりするのです。そういうことが自在にできます。人間もそうなっていたら、日本人の男女比はどこに落ち着くだろうかと思うことが時々あります。

でも、人間を含めた大部分の脊椎動物は、後戻りができないようになっています。片方に専門化することによって、その片方により上手になることができます。ぐらぐらする仕方が少なくてすみます。つくりあげていく途中はともかく、できてしまえばヒトの性はもううごきません。

先ほどチラと触れましたが、脳のつくりも男女で少しだけ違いがあります。女としての個体を運営していく脳と、男としての個体を運営していく脳がまったく同じでは、困るからです。平均的には、男が女に引かれ、女が男に引かれるようでないと、生殖の機能が果たせません。しかし、その脳と身体がかもし出す、人間の資質としての女らしさ、男らしさとなると、大きな個体差が生じます。胎児の時代に受けた男性・女性ホルモンの割合やレベルの違い、母親の身体の状態、胎児と母親の個性、両者のずれの幅など、さまざまな要因が複合的にはたらくからです。まして、社会的な人間の女っぽさ、男っぽさとなると、個人差の上に社会的バイアスが加わって、何が本当かわからなくなってしまいます。人間の性のこの柔軟性が、さまざまなバリエーションを楽しむといったポジティブな方向にではなく、男女差別などのネガティブな方向に利用されていることは、浅ましく、悲しいことです。

最近の世情をつらつらながめていると、男の力の弱り方がとみに目につきます。「女は度胸、男は愛嬌」は、もはや冗談とはいえません。もちろん女も弱ってはいます。わたしの周囲の人を見渡しただけでも、子どもを産むことが昔に比べてはるかに大仕事になっています。しかし、男力の低下は女力の低下に比べて、はるかに多面的、かつ重度であるように見えます。

このことを意識するたびに、その原因の深いところに、男の性が作られたものであることがはたらいているのではないか、と考えさせられます。女がどっしりと足を地につけて生きているのに対し、男にはどこかふわふわとした不安定感があり、社会的な影響を受けやすいように見えるのは、男の身体が女の身体に上乗せしたものであり、足が地面にとどきにくいからではないのか。男の性転換願望が深く肉体的であるのに対し、女のそれは男装であり、社会的な色合いが濃いのも、同じ原因なのではないか。

私自身も若い頃は、さまざまな女性差別を感じるたびに、どうして女に生まれついてしまったのか、と悔しい思いを何度もしました。でも最近は全くちがいます。日本社会の混乱と堕落や世界規模の行き詰まりを目の当たりにするにつけ、一生を男社会のメカニズムから体よくはじき出されて暮らしてきたことで、少なくともズブには加害者側に立たないですんだ。女を踏みつけにした上で、爐罎蠅ごから墓場まで畆蠍く保護される、そんな性の側に加担しないですんで、本当に助かった、という安堵をおぼえます。

この状況を打開するためには、すでに手遅れかもしれませんが、男が自分の弱さを認識しなければなりません。男は強くて有能であり、女は社会的能力が低く、けがらわしく、自分たちが支配してやらなければロクな知性も持てないものだ、などと虚勢をはらず、自己欺瞞を止めることです。自分の脆弱さを率直に受け入れ、女の力を計算に入れ、両者で協力し合っていくことです。その入口を導いてくれる手本は、海外に山ほどあります。女の力を理解できない社会という意味では、日本は世界屈指の位置につけているといえるでしょう。

目覚めよ、男たち!
真の協力者は、あなたの傍らにあるのです。


団まりな『性と進化の秘密 思考する細胞たち』(角川文庫)第5章 身体ができる、そして雄と雌 より

posted by Akinosuke Inoue 12:52comments(0)trackbacks(0)pookmark