往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。





一昨日の卦「天地否」について

天地否五変爻

一日一卦を続けています。

一昨日4/26(水)は天地否の卦が立ち、今年2回目でした。
易の卦は8×8=64通りですから、
確率的にいえば、一つの卦が出る確率は1/64です。

1年は365日ですから、平均すれば1年でだいたい5〜6回というところですね。
一昨日は今年になってから116日目でしたから、
2回目というのは確率の面からすれば概ね順当なところです。

各々の卦の出た回数が、どのぐらいのばらつきがあるのかも
1年間全体で調べてみると面白いかもしれませんね。


天地否

さて、「否」という漢字から、
また、上記の塞がった感じの図象をみるだけでも、
この卦は吉凶の判断でいえば、
「凶」または「大凶」だろうとおおかた予想がつくとおもいます。

正直、あまり出て欲しくない卦ですが、
人生上においては必ずそういうときも訪れるわけですし、
受け取り方によっては、なかなか味わい深い卦でもあり、
人はこういう不遇のときこそ、そこにどう対処するかで
真価が試されるということなんでしょう。


次の図は、本卦と変爻を施した之卦を表しています。
天地否の五変爻

サイコロ「5」の目が変爻を表しているので、
下から5番目の爻が陰陽反転(陰→陽、あるいは陽→陰)となり、
之卦は「火地晉」となります。

火地晉


河村真光さんの『易経読本 入門と実践』に書かれている
「天地否」についての文章が素晴らしい内容でしたので、
以下にご紹介します。 

----------------------------------------------
12.天地否の五爻変、火地晉に之く
 
【卦辞とその読み下し文】
否。之匪人。不利君子貞。大往小来。
 

否(ひ)の人(ひと)にあらざる。君子(くんし)の貞(てい)に利(り)あらず。大(だい)往(ゆ)き小(しょう)来(きた)る。
 
【爻辞とその読み下し文】
休否。大人吉。基亡基亡。繋于苞桑。
 
否(ひ)を休(きゅう)す。大人(たいじん)は吉(きち)。其(そ)れ亡(ほろ)びなん、其(そ)れ亡(ほろ)びなん、苞桑(ほうそう)に繫(つな)がる。
 
【キーワード】
・天地否:停滞
・火地晉:進歩
 
【表面に表れたヒント】
・リズムが変調し、歯車が噛み合わない。何をするにも気力が湧かない。
・迷い悩み、行き詰まる。しかし、閉塞状況は生きている限り誰の上にも等しく起こることである。
・腰を据えて時の来るのをひたすら待つ。そして次の飛躍に備えること。
 
【ヒントを解釈する指針】
・行き詰まりもいつか解決する。挽回も近い。しかし、そういう時は油断しやすいので気をつけること。
 
【背後に隠された機微】
・リズムが正常に戻り、気力が満ちてくる。見えなかったものが見えるようになる。功績をあげ厚遇を受ける。
・自然の摂理に従うこと。



ここまでは、毎日facebookに投稿している内容なんですが、
これは高島易断を解説したこちらのサイト
「易経で粒焼」のサイトを借用させていただいています。

易経で粒焼のトップページには、
サイコロ3つ(8面サイコロ2+6面サイコロ1)をお持ちでなくても
ワンクリックで易を立てられるようになっています。

サイコロを振っている時間がなかったときなど、
このページにお世話になったことが何度かありました。

天地否の6種類の変爻についてのガイド文はこちらをどうぞ



【卦辞・象徴】
天地否の否は<塞がる>、<とじる>、つまり否定である。天(乾)の陽気は上昇し、地(坤)の陰気は下降するので、それぞれ互いに離れ離れとなり、いつまでも交わることはない。否は前の地天泰の天地を逆転した象である。泰はわが世の春を謳歌したが、否は今や八方ふさがりの閉塞状況にある。落ち込むだけ落ち込み、抜け出す気すら起きず、今や打つ手なしという有様である。

否は内に陰が成長し、陽が外に駆逐されようとしている象でもある、互いに排斥し合うので、これではなにも生まれない。それは人道からも外れているので、否は「人にあらざる」となる。続いて、「君子の貞に利あらず」、この状態なら、いかに君子が正道を踏み、正しく実を慎んでも、所詮どうにもならない。厳しいがそれは、「大征き(陽が去り)、小来る(陰がもどる)」からである。だがこれではまったく身も蓋もない。

天地否の卦は、対応する直前の地天泰と併せてよむとわかりやすい。この場合、明らかに陰は悪であり、陽は善である。しかし、この世は一瞬も遅滞なく循環している、これが易の基本である。万物はことごとく流転し、有為転変こそが常態であるから、きのうまで有ったのも1日経てばなくなり変幻自在である。つまりはすべてが循環して止まぬからである。

地天泰も天地否も、時に浮上しまた消え去る。それ自体まことに自然であり、多くは自覚することなく刻々経過している。自然界は陰と陽が常に絶妙のバランスを保ちながら、偏ることなく活発自在に交流しているから、そこでは、泰も否もよどんだまま停滞することはない。しかし人間界は少し違う、と易の作者は考えたのかもしれない。

というのも、この宇宙にはみえざる不思議なエネルギーが満ちあふれていて、あらゆる生命はそれを摂取し、それを滋養とする機能を備えているが、人間だけは、しばしば機能障害を起こし、この「気」をスムーズに採り入れることができなくなる。こうなると否の停滞現象が起きる。<塞がる>が常態となり、そこから容易に抜け出せなくなる。即ち天地否は生命のリズムに乱れが生じ、宇宙にみなぎる「気」をスムーズに取り込むことができなくなる状態である。

私たちの周囲を見渡せば、否が不自然によどんで停滞しているケースはなにも珍しくはない。理由もなく、なぜか気が晴れない、気が重い、気が塞がるといった憂鬱な症状が生じ、何をしても当然うまく運ばない。だがそれも致し方ない。そうなれば腹をくくって、後は時を待つしかない。陰極まれば、次は陽に転ずるのが天地の変わらざる理法だからである。


【事例・要約】
天地否という言葉から受ける印象は、天地の大法則を否定しているような、いかにも何か不自然なものがあるが、ともかく天地否は、右も左も真っ暗闇の閉塞状態であり、まさしく異常事態であり暗黒時代である。

たしかに苦しいが、しかし切り抜けるには、ひたすら否を甘んじて受け入れることである。少なくとも、過敏に考えるのは百害あって一利なしで、天地否は、要するに何をしてもうまくいかない、やることなすこと失敗する、前向きの気力が湧かない、そうした不調を表すものであるが、そうした「時」があるということは、人は周りと比較して思うのではない。逆に何をしても好調という時期が、本人にこれまであったせいである。

記憶の上では、それはすでに消えているかもしれない。しかし潜在的な意識は決して忘れてはいない。いざ思い出そうとしても、それは記憶の中からすぐには取り出せない、いわば隠された楽しい思い出というものもある。

物事すべてが順調に運んでいると、最初のうちはともかく、次第に順調であること自体、不思議でも何でもなくなり、しまいにはこれが当然と思えるようになる。そうした「時」は、まず記憶に残らない。しかし、潜在的な意識は覚えていて、深層からそれは生涯消えることはない。あたかも胎内で過ごした期間のように、あくまで顕在意識としては覚えていない。ただそれだけのことである。

そうした安らかな「時」を、人は必ず体験しているので、逆に否もまた認識することができるのである。第一易では、天地否の錯卦・綜卦はいずれも地天泰である。このことは、否はいずれは泰に移行することを示すが、同時に泰を体験した者だけが否もまた味わうことになる。

易が全巻を通じて首尾一貫奏でる基調旋律は、変わるということと変わらぬということ、「変易」と「不易」、この二つの対立する概念である。宇宙は刻々と変化し、人間世界も移り変わる。昨日は再び帰らず、今この一瞬は、もはや二度と再現しない。だがこうした動きにも、不易なるもの、つまり絶対に変わらぬものがある。年々歳々花相似たり、だが同じく歳々年々人同じからず。このように万象は変わるものと変わらぬものとで成り立っている。

つまり私たちの周りで何事が起きようともそれは決してでたらめで気まぐれのものではなく、あくまで厳然たる法則性のものに展開している。情けないことに多くは私たちにはただ見えないだけである。

これを一言で言えば、一寸先は闇であり、同じくまた光明でもある。昼あればこそ夜もある。夜あればこそ昼もあるので、夜に昼を望んだところで無い物ねだりにすぎない。よって、否をいたずらに畏れ、落ち込む必要はなく、意味のない不毛とみなす姿勢も誤りであろう。

 

易経読本
 
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吉本隆明「スケベの発生源」

背景の記憶

寝ころんで、おれどこが一番スケベかなと、いっしょうけんめい考えているうち、睡りこんでしまった。
そこへ催促の電話で、いま書いているところですと答える。

猶予はならない。中途半端だが、急ぎふたつ挙げます。

ひとつめはフェティシズム傾向。どうも覆いがたいようで、街路を歩いていて、若い女性のものと思える下着が干してあるのを見かけると、瞬間、本能的に視線が吸いこまれ、つぎの瞬間にそれを意識して固くなり、気にかかりながら、眼をそらせてしまう。
これは思春期からはじまり、いまもほとんどかわらないから、どうも素因的といっていい気がします。思春期と変わったことといえば、いまなら、マンションの窓ごとに満艦飾みたいに干してあるときなどは、まっ直ぐ視られるようになったことです。

ふたつめは、たとえば、J.デリダみたいに「人間的欲望と動物的欲求、女性への関係と雌への関係、との差異は、死の恐怖である」といったようなことを、いまだに正面きって考察できないことです。
つまりじぶんのエロスのある部分については、生々しくて、まだ対象的になれないことです。
その部分がじぶんのスケベの発生源でしょう。

さて、ここまで書いてきて、なんとなくまだまだたくさん嘘をついている気がしてきました。
もっと皮を何枚もめくってゆくと「赤裸々」というのが、
あるかのように錯覚されてきたのです。
ほんとはもっと興味尽きないことが答えられるはずなのに、何となく浮かない感じです。
もっと時間が欲しい!
そうすればきっと「私が一番スケベだと思うこと」に嘘いつわりなく、
たっぷり答えられる気がします。

「わたしにもっと時間を!」



※「小説新潮」1984年7月臨時増刊号に初出掲載
 『背景の記憶』(平凡社ライブラリー)および『重層的な非決定』(大和書房)に所収

 
重層的な非決定へ
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事実と認識と感情を分ける

事実と認識と感情


仕事柄、いろんな方からいろんな相談をいただきます。
 

そうしたときのわたしの基本スタンスは一定していて

対話をしながら、事実と認識と感情を分けて、

それを自ら整理できるようにしていくということです。

 

 

犹実瓩亙僂┐蕕譴覆い掘
一旦引き起こされてしまった犂蕎隲瓩鮓紊ら否定しようにも
問題はこじれるだけです。

変えられるのは自分自身の倏Ъ鵜瓩里澆任后
 

 

問題の根源にあるのは、
だれかの倏Ъ鵜瓩鵬瓩ない意見や評価を、
あたかも事実であるかのようにおもいこみ、
絶対化してしまう思考回路であると言えます。
 

 

結局わたしたちは、
そうした思考回路に知らず知らずはまってしまって
苦しんでいるわけですから、

自分を苦しめているのは他でもない自分自身でもあるわけです。
 

 

もし、そうした思考回路の組み換えをはかろうとするのであれば、
 

 

´犹実甅倏Ъ鵜甅犂蕎隲瓩鮑同しないで分離すること
↓倏Ъ鵜瓩録佑凌瑤世韻△襪海箸鮃く知ろうとすること
ひとつの事実に様々な角度から光を当てて観察すること
き犹実瓩鉢犂蕎隲瓩搬昭圓劉倏Ъ鵜瓩鯤僂┐茲Δ箸靴覆い海
ヂ昭圓劉倏Ъ鵜瓩某兇蟆鵑気譴襪海箸覆犹実瓩鬚發箸鉾獣任垢襪海

 

が大事になります。
 

 

よって、寺子屋塾の学習は、
そうした思考を計算プリントや経営ゲームのワークショップ、

ファシリテーション講座などで狷常化瓩垢襪海箸鮨篆覆垢覲惱
といえるでしょう。

たぶん、このようにコトバで説明すれば
大方の人は、大脳次元では理解できるのでしょうが、
それが実践できているかどうかは別の話なので、

アタマだけの理解にとどめず、
カラダに染みこませるプロセスが必要なんですね。
 

 

よって、皆さんが日常生活されている場や仕事の現場が
大事な猊饌罩瓩如教室は牾擴悪瓩鵬瓩ませんから、

寺子屋塾の教室が犇気┐覆ざ軌薛瓩両譴箸覆襪里蓮⊆明の理ともいえますね。

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プレモル「香るエール」がリニューアル

香るエールのリニューアル


今日はビールの話題を。
ビールと言えばわたしのお気に入りはプレモルなんです。
 
昨年のお正月1/3になぜプレモルがお気に入りかについて書いたので、
読まれていない方はまずこちらの記事を読んでください。
 
そこにも記したように、
2016年3月に発売された「香るエール」は、
その前に期間限定で出されたものがレギュラー化され、
以後スタンダードのプレモルとの二本立てになりました。
 
その「香るエール」がこの4/11リニューアルされたようで、
メーカーのサントリーからのプレスリリースはこちらです。
 
写真は、前のプレモルと新しいプレモルを
並べて置いてみたものなんですが、
紺色だった缶のパッケージがやや淡いブルーになり
「香るエール」の文字も「<香る>エール」
微妙にデザインもあたらしくなっていますね。
 
味については言葉では表現が何とも難しいのですが、
新しい方がちょっと淡泊なスッキリした感じがしました。
 
さて、あなたは新しい<香る>エール
どんなふうに感じられたでしょうか?
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禍福は糾える縄の如し 2月と3月の卦をふりかえってみて

2/25に書いた「凶、大凶の日々が続いています」という記事の続きです。
 
易経についてよくわからないという方は、
昨年3月に書いた「易は現状把握のためのツール」などを参考にしてください。
 
低迷していた2月と低迷から回復基調にあった3月を
1ヶ月分の一日一卦をそれぞれまとめてふりかえってみたんですが、
あきらかに、2月が「凶の中に吉がときどきある状態」だったのに対し、
3月は「吉の中に凶がときどきある状態」だったことがよくわかります。

また、一日一日の立つ卦は一見ばらばらなようなんですが、
ひとつのストーリーというか流れのようなものが存在していることも
すこしだけ感じられるようになりました。

良くない状態が続くようであっても、そのままずっと続くことはなく、
どんなに長いトンネルでもいつかは外に出るときがやってくるわけで。

その転機のタイミングには、同じ卦が続けて出たり(2/26ー2/27)、
純卦(上卦と下卦が同じ卦)が続けて出たりして(2/28ー3/1)、
それまでとちょっと違った特色有る卦が立つことがあることも気づきました。

2月と3月の一日一卦は以下の通り
本卦と之卦の吉凶判断は、銭天牛『銭流「易経」』をもとにしています。
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2/1(水) 12.天地否の三爻変、天山遯に之く   大凶ー凶
2/2(木) 49.沢火革の三爻変、沢雷随に之く   吉ー凶
2/3(金) 49.沢火革の四爻変、水火既済に之く  吉ー吉
2/4(土) 27.山雷頤の二爻変、山沢損に之く   半吉ー凶
2/5(日) 21.火雷噬嗑の上爻変、震為雷に之く  半吉ー凶
2/6(月) 63.水火既済の初爻変、水山蹇に之く  半吉ー半吉
2/7(火) 57.巽為風の五爻変、山風蠱に之く   半吉ー吉
2/8(水) 43.沢天夬の上爻変、乾為天に之く   凶ー大凶
2/9(木) 25.天雷无妄の二爻変、天沢履に之く  凶ー凶
2/10(金) 48.水風井の初爻変、水天需に之く  半吉ー凶
2/11(土) 07.地水師の初爻変、地沢臨に之く  吉ー半吉
2/12(日) 02.坤為地の上爻変、山地剝に之く  吉ー半吉
2/13(月) 54.雷沢帰妹の三爻変、雷天大壮に之く 半吉ー凶
2/14(火) 37.風火家人の五爻変、山火賁に之く  大吉ー大吉
2/15(水) 44.天風姤の上爻変、沢風大過に之く  凶ー凶
2/16(木) 06.天水訟の上爻変、沢水困に之く   凶ー凶
2/17(金) 23.山地剝の三爻変、艮為山に之く   大凶ー凶
2/18(土) 10.天沢履の上爻変、兌為沢に之く   半吉ー大吉
2/19(日) 56.火山旅の四爻変、艮為山に之く   凶ー凶
2/20(月) 31.沢山咸の三爻変、沢地萃に之く   吉ー半吉
2/21(火) 63.水火既済の初爻変、水山蹇に之く  半吉ー半吉
2/22(水) 39.水山蹇の四爻変、沢山咸に之く   大凶ー凶
2/23(木) 05.水天需の五爻変、地天泰に之く   半吉ー大吉
2/24(金) 60.水沢節の三爻変、水天需に之く   吉ー凶
2/25(土) 28.沢風大過の三爻変、沢水困に之く  凶ー凶
2/26(日) 25.天雷无妄の三爻変、天火同人に之く 凶ー凶
2/27(月) 25.天雷无妄の上爻変、沢雷随に之く  凶ー凶
2/28(火) 30.離為火の五爻変、天火同人に之く  半吉ー半吉

 

3/1(水) 57.巽為風の五爻変、山風蠱に之く   半吉ー吉
3/2(木) 11.地天泰の五爻変、水天需に之く   吉ー吉
3/3(金) 25.天雷无妄の上爻変、沢雷随に之く  凶ー凶
3/4(土) 46.地風升の上爻変、山風蠱に之く   大吉ー凶
3/5(日) 31.沢山咸の三爻変、沢地萃に之く   吉ー半吉
3/6(月) 46.地風升の五爻変、水風井に之く   大吉ー吉
3/7(火) 40.雷水解の初爻変、雷沢帰妹に之く  大吉ー吉
3/8(水) 01.乾為天の三爻変、天沢履に之く   吉ー半吉
3/9(木) 21.火雷噬嗑の初爻変、火地晉に之く  半吉ー凶
3/10(金) 14.火天大有の上爻変、雷天大壮に之く 大吉ー吉
3/11(土) 05.水天需の四爻変、沢天夬に之く   半吉ー吉
3/12(日) 27.山雷頤の上爻変、地雷復に之く   半吉ー大吉
3/13(月) 40.雷水解の三爻変、雷風恆に之く   大吉ー半吉
3/14(火) 34.雷天大壮の五爻変、沢天夬に之く  半吉ー凶
3/15(水) 14.火天大有の二爻変、離為火に之く  大吉ー大吉
3/16(木) 11.地天泰の三爻変、地沢臨に之く   吉ー半吉
3/17(金) 29.坎為水の四爻変、沢水困に之く   大凶ー半吉
3/18(土) 55.雷火豊の初爻変、雷山小過に之く  吉ー吉
3/19(日) 55.雷火豊の四爻変、地火明夷に之く  吉ー半吉
3/20(月) 36.地火明夷の三爻変、地雷復に之く  大凶ー吉
3/21(火) 45.沢地萃の五爻変、雷地豫に之く   吉ー大吉
3/22(水) 45.沢地萃の初爻変、沢雷随に之く   吉ー大吉
3/23(木) 40.雷水解の二爻変、雷地豫に之く   大吉ー大吉
3/24(金) 01.乾為天の初爻変、天風姤に之く   吉ー半吉
3/25(土) 29.坎為水の上爻変、風水渙に之く   大凶ー大凶
3/26(日) 60.水沢節の五爻変、地沢臨に之く   吉ー吉
3/27(月) 57.巽為風の初爻変、風天小畜に之く  半吉ー半吉
3/28(火) 57.巽為風の三爻変、風水渙に之く   半吉ー凶
3/29(水) 14.火天大有の四爻変、山天大畜に之く 大吉ー吉
3/30(木) 42.風雷益の上爻変、水雷屯に之く   吉ー凶
3/31(金) 15.地山謙の五爻変、水山蹇に之く   半吉ー半吉

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W.バーロウ『アレクサンダー・テクニーク』より

W.バーロウ AT表紙

性の知覚
学問の世界が生み出した性に関する情報を集めて、大きな図書館を造ることもできるでしょうし、必要な道具はなんでも手に入れることもできるでしょうが、それでもなお、なんの効果もないかもしれません。ここでもまた、方法(how)を知ることと、その本質(what)を知ることの違いという話になるのです。性の成功は、究極的には理論によるよりも実践によるものだという点においては、他の技法と異なるところはないのです。


舞台は準備されます―――デートする、やわらかな光。結婚、欲望。必要品と補助的なもの。そのリズムを、沼や森から文明社会の心地好い寝室へと運ぶ反射作用。まだ、何かが必要なのです。文明人は今やその性的経験をその度ごとの瞬間瞬間に新しくしなければならないのです。


それぞれのセックスの瞬間は創造的なものであって、それぞれに異なっているものなのです。自分のいささか鈍感な反応のために起こる落とし穴にはいり込まないように、人々はどんな違った工夫をするでしょうか? アレクサンダー原理の言葉でいえば、セックスの中のコミュニケーションという微妙な用具に、からだの「善用」についての気づきをどのように適合させるか?ということなのです。


芸術作品を造るアプローチとセックスの技法には、大変似通ったところがあるのです。芸術作品と駄作とのハッキリとした違いは、私たちが何度も前に戻って新しい局面を認めたり、最初の印象を変えたり、混み入ったところや微妙なニュアンスを発見したりすることができるところにあるのです。


多くの人が認めているのですが、音楽の世界もまた、非常にはっきりとした類似点があるのです。未熟な聞き手は、最初は、ベートーベンの交響曲を聞いても、あるメロディだとか、リズムの型だとか、主要な楽器などにこころを奪われるだけなのです。もっと経験を積みますと、テーマや型の違いを見分けたり、そしておそらく、ある転回だとか、省略法だとか、移調した部分などに気づくことができるでしょう。いろいろの楽器にも集中することができるし、曲や引きのばされた楽節にもついていくことができるようになるでしょう。ひとつひとつの動きがつながっていくのにもじっと耳を傾けることができ、気分が変わって行くのも認めることができるようになるでしょう。


もっと洗練された聞き手になりますと、それぞれの部分の関係を認めることもできるようになり、今はひとつのリズム、メロディ、調和、楽器演奏の局面に、そして今はまた次の局面へと、次々と焦点を合わせることができるようになり、そしてやがてはこうしたいくつかの局面に同時に焦点を合わせることができるようになるでしょう。


結局彼は、この交響曲が非常によくわかるようになり、自分の心の中でそれを再生してみたり、演奏のある面を批判したり、その意味や可能性を予測したりできるようになるでしょう。こうした洗練された能力にもかかわらず、彼は時には、ただ原始的な知覚だけを用いて、メロディとリズムだけに集中して、他の局面は無視するかもしれません。あまり上手でない聞き手とは違って、彼は、自分の望むときは、もっと明晰な、もっと洗練された楽曲の理解に自由に立ちもどることができるのです。

 

このような感性豊かな音楽鑑賞者の話をしたからといって、それと性の問題が同じだというぞんざいな比較をするつもりはありません。ただ、指摘できると思うことは、性の行動においては、聴衆のひとりであるのではなくて、音を作ったり、それに耳を傾けたりするオーケストラの演奏者の方だということです。そしてまたそのことは、私たちがたずさわる最も創造的で、最も芸術的な行為についても、そのまま当てはまることだと思います。

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小野ひとみ『アレクサンダー・テクニーク やりたいことを実現できる<自分>になる10のレッスン』より

アレクサンダー・テクニーク


鴻上 読者には「アレクサンダー・テクニークって一体なんだ?」っていうのがあると思うんですね。詳しいことは本も出版されているのでそれを読んでいただくとして、簡単に「アレクサンダー・テクニークって何ぞや?」ということを聞かせていただければと。

小野 簡単に言ってしまうと、「習慣的な反応から自分を解き放つための方法」と言えばいいのかな。
アレクサンダー・テクニークというのは、オーストラリアのF.M.アレクサンダーという人が作ったものです。彼は舞台俳優で公演のときに声が出なくなっちゃったんですね。お医者さんに行ったら、「疲れているんだろう」と言われて、それなら休めば治るわけだけれど、良くなっても、また舞台に出たら声がでなくなってしまうという状態だったんだそうです。
そこで、ここが天才的だと思うんだけれど、自分の身体が悪いんじゃなくて、自分のしている行為が悪いんじゃないかというところに着目したのが始まりなんですね。そして、数年にわたって自分の身体の動きを観察し続けて、発見したのが「方向性」というもの。「身体の中にある自然な方向性」ですね。その方向性を十分に伴わない動きをした自分が悪くて声が出なくなったんだということを発見したんです。
そこから、今度は、「方向性」があるのはわかったんだけど、いくらその「方向性」を自分で実践しようと思ってもできなかったのね。そして、どうもこれは「する」ものではないらしい、その「方向性」が自然に出るような状態に自分がならなければいけないんだ、ということに気づいた。
でも、それも難しいわけです。日常は、次の行動から次の行動へと忙しくて、あれやらなきゃ、これやらなきゃという状態、そういう日常に追われていては、自身を意識する暇がないわけですよね。じゃ、どうしたらいいんだということで、暇をつくろうということになって、そこから「自分の行動を抑制する」(インヒビション)という方法を見つけだすんです。
その上で「方向性」を感じることによって、「自分はこう動きたいんだな」ということを実感して「自分が動きたいようにやろう」と選択して実行していくうちに、声が出るようになった。要するに今までやっていた悪い行為を止めることができて、自然に自分の身体が声を出すという行為ができるようになったんですね。
その後、自分だけではなくて、芝居仲間に「こうやるといいよ」というふうに伝えていたのが、次第に広まっていって、非常に呼吸にいいということがわかっていったんです。彼はある時期「ブリージング・マン」と呼ばれていたそうです。


小野ひとみ『アレクサンダー・テクニーク やりたいことを実現できる<自分>になる10のレッスン』巻末に収められた鴻上尚史さんとの対談より
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つんどくらぶ 第10回のご報告

風邪の効用


昨日4/20夜に開催したつんどくらぶ第10回のご報告を。
 

今回のお題本は野口晴哉さんの『風邪の効用』でした。

写真は1962年に全生社から出された単行本です。
 

この本については、以前にも何度かこのblogでは紹介しているので、
本の概要についてはこちらの記事こちらの記事をご覧ください。
 
今回は5名の申込者のうち3名が直前にキャンセルとなり
前回、前々回が満席(8名)だったため、
参加2名というやや淋しい集まりとなりましたが、
そのぶん少ない人数でじっくり本を読み込んで、
濃密なやりとりができた感じがしています。
 
わたしが最初にこの本を読んだのはもう20年以上も前のことですが、
今回再読してみて、
人間の身体や心の性質や仕組みをきちんと把握することや
タイミングを見計らって対処することの大事さを改めておもいました。

 
以下、ご参加くださったお二人の感想文です。
 

●今回初参加で、本を読んでなくても良いということで、読まずに参加させて頂きましたが、やはり読んでおいた方がもっと深く考察できたかな、意見交換できたんじゃないかなと思いました。それでも楽しませていただきましたし、発見やなるほど!と思うことが沢山あったなと感じることができ良かったです。潜在意識や空想の方向づけによって風邪の活用というか、良くも悪くもするという考え方が非常に興味深く、もっと掘り下げて知っていきたいお話、考え方だなと思いました。猊邪瓩箸い症状から普段の生活、しいては人生への影響につながっていく感覚は、なんだかスリリングだなと感じました。これからの日々にどう活用していくのか、自分なりに考えて、自覚をもって行動していきたいと思います。

 

●今回は参加者が少なかったこともあり、個々人の意見をよく聴くことができたかと思います。お題となった『風邪の効用』は、何となくつかみどころが得られず、一人で読んでいた時は、なかなか心に落ちてみませんでした。ですが、一人ひとりが声にして読み、それを聴くことで、何気なく読み飛ばして居た部分に実は大きな意味があり、「風邪」だけに必ず生活全般に通じるものがあることがよくわかりました。なかでも「空想の方向付け」は目からウロコが落ちた感がしました。他人から自分に対して及ぼされる影響、また逆に自分から人に対して及ばせる影響。一度方向付けられてしまうと、自分の意志ではなかなか訂正できないという、なんとももっともだと思いました。
 心と体の相互関係は、思いあたることはありましたが、改めて考えてみると全くその通りであります。心が健康であれば、すなわち体も健康であるにちがいない、これからは「ただの風邪だ」と思い流すのではなく、そこから導き出されるモノをじっくり見つめてみたいと思いました。



 
次の写真は意見交換時のメモです。

 
170420第10回意見交換メモ01.jpg


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ご参加ありがとうございました。<(_ _)>

次回の読書会つんどくらぶは7月の予定です。
開催日とお題本が決まり次第お知らせしますね。(^^)/
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『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』より(2)

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夫婦と他人
 

河合 実際、実生活でも、急に奥さんが、あるいは、夫の方がフッと見えなくなるんですよね。

 

村上 見えなくなる……?


河合 「理解しよう」と考えると、まったく理解できないことがわかったりする。いままで、いっしょに住んでいてわかっていると思っていたんだけど、急にハッとわからなくなったりするでしょう?


村上 そうですね。

 

河合 そこから出発して、わかろうということを始めたら大変なことで、たいがいの場合は相手を非難することになるのです。わからんやつだとか、男なんてやつは大したことがないとか。

 

村上 ぼくはアメリカ人の夫婦を見てほんとうに思うのは、いっしょにいるあいだはすごく仲がよくてベタベタしているんですよね。どこかに行くときは、ちゃんと手をつないで行くとか、そのくせ別れるときにはパッと別れる。日本みたいに好きじゃないけどいっしょにいるとか、子どもがいるからとか、そういうことはほとんどないですね。

 

河合 それと、アメリカ人の場合は、自分達の関係がどこかで本物ではないという意識があるんだと思いますね。

 

村上 ということは?

 

河合 だから、いつも意識的にベタベタせざるをえないんですよ。意識のところでいつも、愛し合っていますよ、と確かめないと、もう不安でしかたない。確かめそこなったら、パッと別れるのですね。

 日本の場合は、よい言い方をすると、確かめないまま、それこそさっきも話に出たずるい哲学で、なんとなくちゃんと同調しているのです。ぼくは、夫婦というのはそういうほうがおもしろいんじゃないかと思っているんですが。

 

村上 関係のなかにいろいろな側面がある?


河合 そうです。西洋の場合は、どうしてもロマンチック・ラブというのを下敷きにしていますね。ロマンチック・ラブというのは長続きしないんです。もしロマンチック・ラブを永続させようと思ったら、性的関係を持ってはならないんです。性的関係を持ちながらロマンチック・ラブの考えを永続させようというのは、不可能なんだとぼくは思うんです。もし夫婦の関係を続けていこうと思ったら、違う次元に入っていかないといかないとダメですね。

 

村上 ただ、その性的な関係にも一種の治癒作用はあるのですね。ところが、それはある時点から別のかたちの治癒作用に変わっていかなくちゃいけない……そこには井戸掘りが必要なのですか。

 

河合 そうです。若い間は性的な関係はすごく大事だし、治癒作用を持っているけれど、それだけではもういけないですね。

 

村上 その時点で井戸掘りに移行できない人は、別の性的治癒に走るのですか?

 

河合 そうそう、どこかで探して、別の性的関係を結ぶとか、日本だったら家庭内離婚というやつになるのですね、心の中では離婚しているけれど、いちおう同じ家に住んでいるという。

 もうひとつあるのは、日本人の場合は、異性を通じて自分の世界を広めるということを、もうすっかりやめてしまうということもあるんですね。細かいことを調べて学者になっているとかね。エロスが違う方を向いているのです。エロスを女性に向けるというのは、相手は生きているからこれはなかなか大変ですけれども、エロスを、たとえば、古文書に向けてもいいわけです。ここのところ虫が食っているなとか、なんていう字だろうなんて考えることにすごい情熱を燃やすでしょう、それは危険性が少ないですね。

 

村上 あるいは会社で一所懸命働くとか。

 

河合 そうそう。生きた人間でないものにエロスを向けている人はすごく多いですよ。

 

村上 でも、いちがいにどっちがいいとは言えない。

 

河合 言えないです。結局、自分がどういう生き方をしていくかということだと思うんです。夫婦ということをすごく大事にする生き方というのは、少数の人にしかできないものかもしれません。ぼくはすごくおもしろいと思いますけれども。こんなおもしろいことないんじゃないかと思うんです。そして、日本人にとっては、夫婦ってのは、おそらく宗教ということがわかる入り口になることが多いのじゃないかと思います。

 

村上 ぼくは、自分では格闘しているような気持ちでいる。

 

河合 そうですか。結局は完全な答えというのはわからないし、自分のコントロールを越える存在、心の動きというものがあるのに気がつくし、だから、宗教性ということを実感する入り口のひとつは、夫婦の関係ではないかと思うのです。まあ、そういうことも別にしなくてもいいわけですけれどね。

 

村上 古文書を調べていて。それが楽しければいいのですね。

 

河合 しかし、下手すると、男のほうは古文書を見て楽しもうとしても、奥さんのほうが夫婦のあり方というのを大事にしだしたりすると、悲劇が起こるんですよ。奥さんも、「夫婦のあり方」なんて放っておいて、子どものことに一所懸命になるとか、漬け物を漬けるのに必死になるとかなれば、なんとなく安定していっているのですがね。

 ですから、いろいろなバラエティがあって、どれがいいということはもう言えないと思っているのです。ただし、自分のやっていることはせめて自覚してほしい。近所迷惑ということもありますからね。

 

村上 近所迷惑って言いますと?

 

河合 たとえば、夫が古文書でがんばっていても、奥さんがものすごく困っていることがあるでしょう。主人のほうは古文書やって、奥さんは子どもの世話して喜んでいたら、これは安定しますよね。

 ところが、奥さんのほうが夫婦の関係を求めているとすると、旦那のやっていることは、奥さんにすごい危害を加えていることになるのですね。だから、自分のしていることがだれに害を加えているかということは、つねに考えるべきだと思うのですよ。それは西洋流かもしれないけれど、個人の責任の問題ですね。


『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』(新潮文庫・1998年)より

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吉本隆明「情況とはなにか 」より

自立の思想的拠点

・・・現在にいたるまで、知識人あるいはその政治的集団である前衛によって大衆の名が語られるとき、それは倫理的かあるいは現実的な拠りどころとして語られている。大衆はそのとき現に存在しているもの自体ではなく、かくあらねばならぬという当為か、かくなりうるはずだという可能性としての水準にすべりこむ。大衆は平和を愛好するはずだ、大衆は戦争に反対しているはずだ、大衆は未来の担い手であるはずだ、大衆は権力に抵抗するはずだ、そして最後に爐呂梱瓩任△訛臀阿蓮△泙誠燭乏仞辰鬚靴瓩靴討い覆ぢ減澆任△襪箸いΔ海箸砲覆襪里澄もちろん、こういう発想はまったく無意味である。「否」の構造をとって、大衆は平和を好まないはずだ、大衆は戦争に反対しないはずだ、大衆は未来の担い手ではないはずだ、大衆は権力に抗しないはずだ、といっても同じだからである。あらゆる啓蒙的な思考法の動と反動は、この爐呂梱瓩任△訛減澆鯡こ仞辰両態とむすびつけることによって成立する。

しかし、わたしが大衆という名について語るときには、倫理的なあるいは政治的な拠りどころとして語っているのでもなければ、啓蒙的な思考法によって語っているのでもない。あるがままに現に存在する大衆を、あるがままとしてとらえるために、幻想として大衆の名を語るのである。

わたしたちが、情況について語るときには、社会的に語ろうとも政治的に語ろうとも、情況に関わることが、現にわたしたちが存在することにとって不可欠なものであるという前提の下にたっている。たとえ社会の情況がどうあろうとも、政治的な情況がどうであろうとも、さしあたって『わたし』が現に生活し、明日も生活するということだけが重要なので、情況が直接にあるいは間接に『わたし』の生活に影響をおよぼしていようといまいと、それを考える必要もないし、かんがえたとてどうなるものでもないという前提にたてば、情況について語ること自体が意味がないのである。これが、かんがえられるかぎり大衆が存在しているあるがままの原像である。


この大衆のあるがままの存在の原像は、わたしたちが多少でも知的な存在であろうとするとき思想が離陸してゆくべき最初の対象となる。そして離陸にさいしては、反動として砂塵をまきあげざるをえないように、大衆は政治的に啓蒙さるべき存在にみえ、知識をそそぎこまねばならない無智な存在にみえ、自己の生活にしがみつき、自己利益を追求するだけの亡者にみえてくる。これが現在、知識人とその政治的な集団である前衛の発想のカテゴリーにある知的なあるいは政治的な啓蒙思想のたどる必然的な経路である。しかし、大衆の存在する本質的な様式はなんであろうか?
 
大衆は社会の構成を生活の水準によってしかとらえず、けっしてそこを離陸しようとしない理由で、きわめて強固な巨大な基盤のうえにたっている。それとともに、情況に着目しようとしないために、情況にたいしてはきわめて現象的な存在である。もっとも強固な巨大な生活基盤と、もっとも微小な幻想のなかに存在するという矛盾が大衆のもっている本質的な存在様式である。
 
知識人あるいは、知識人の政治的な集団としての前衛は、幻想として情況の世界水準にどこまでも上昇してゆくことができる存在である。たとえ未明の後進社会にあっても、知識人あるいは前衛は世界認識としては現存する世界のもっとも高度な水準にまで必然的に到達する宿命を、いいかえれば必然的な自然過程をもっている。それとともに、後進社会であればあるほど社会の構成を生活の水準によってとらえるという基盤を喪失するという宿命を、いいかえれば必然的な自然過程をもっている。このような矛盾が、知識人あるいは政治的な前衛がもっている本質的な存在様式である。わたしのかんがえでは、これが大衆と知識人あるいはその政治的集団である前衛にあたえうるゆいつの普遍的な存在規定である。

吉本隆明『自立の思想的拠点』(徳間書店・1966年)所収 「情況とはなにか機|亮運佑搬臀亜P.101〜103より
COMMENT:吉本隆明さんの「情況とはなにか」と題された評論文集より、知識人と大衆との関係について触れた部分です。吉本思想を読み解く重要なキーワードのひとつに狢臀阿慮響瓩あります。この言葉についてもさまざまな議論があったようですし、まだまだわたしも吉本さんの全体像を把握できていないんですが、端的に書くとするならたとえば、こういうことでしょうか・・・つまり、思想というものは、どんなに気をつけていても必ず権力性や党派性を帯びてしまう宿命にあり、思想を無思想よりも絶対に上位に置かないというタガを自らに課し、マルクスのような1000年にひとりしか現れない人物といえども、市井の無名の人とまったく同価値と断じた吉本さんの姿勢がこの言葉を生み出したことにつながっていると感じています。ひとは知識をもつと「良い考えを普及、拡大、啓蒙していくことが良い社会づくりにつながっていく」という幻想につい囚われてしまいがちで、つねに自戒していたい考え方だとおもいました。
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