往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。





三宅陽一郎さんのことば

内面において戦えない者が、

自分の外に戦いを持ち出す。

 

持ち出された戦いは互いに連鎖し、

やがて大きな戦禍を巻き起こす。

 

巻き起こされた戦禍は罪なき者を引き込み、

暴力の連鎖に繋げる。

 

内面における自分との戦いこそ

偉大で豊かな成果をもたらす。

 

教育が教えなければならないのは、

このことである。

 

※三宅陽一郎さん(ゲームAI開発者)のことば

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頑張りすぎないことの大切さ

5/18に新・働き方総合研究所のJapan Bissiness Pressで配信された篠原信さんの

『失われた20年の本当の原因は「頑張りすぎた」から 〜バブル期の働き方を引きずるのはもうやめよう〜』

を興味深く読みました。

篠原さんには、NPO法人 地域の未来・志援センター企画の研修イベントで、1度お目にかかったことがあります。
 

 

twitterやfacebookでこまめに情報発信されていて、時折やりとりをさせて頂いているんですが、昨年11月には『自分の頭で考えて動く部下の育て方 上司1年生の教科書』(文響社)を上梓されました。


 
さて、本日のテーマは「頑張りすぎないこと」です。
 

 

わたしは教室でも教室以外でも、まわりの人に「頑張れ」という声かけをほとんどしていません。

いろんなトラブルは、力が足らなくて起こっていることはほとんどなく、ほとんど、力が入りすぎてちぐはぐになっているように感じているからです。

たとえば、健康面でいうと、「生活習慣病」という言葉がありますよね。

つまり、現代人のほとんどは、栄養が足らなくて病気になっているのではなく、栄養のとりすぎが病を招いているように感じるんですが、犂癲覆ん)瓩箸いΥ岨が「疒(やまいだれ)に品物の山」と書くのは、言い得て妙です。
 

 

つまり、もし、癌を治そうとするのならば、基本的な心構えとして、栄養たっぷりの食事や薬を!というよりも、まず、食べる物自体を物理的に減らすアプローチがまず必要なのではないかと。

 


それこそ、力が入りすぎている人には、「頑張らなくていいよ」って言いたいんですが、そう言うと今度は「『頑張らないこと』を一所懸命に頑張ろう!」として却って逆効果になってしまう人もいて、「力を抜く」というのは、つくづく難しいことなんだと痛感しています。

緊張している人に向かって、「緊張しなくていいよ〜」って言ったところで、ますます緊張してしまいますからね。
 
記事の後半で、「病院で手術室を常に1つ空けておくという、一見ムダにおもえることを実践することで、意識化できていなかったもっと大きなムダが改善し、こなせる手術数が大幅に増加した」というエピソードが登場します。
 

 

これはまさに当塾で実践している学習そのもの!なんですね〜
 

 

つまり、小学校の算数の計算プリントは、多くの大人にとっては、してもしなくてもどちらでもいいような、一見ムダのようにおもえる学習なわけです。
 

 

でも、そうした1枚の計算プリントを学習するという行為を、たとえ5分であっても1日24時間ある自分の生活の中に自ら位置づけようとすることで、それまでの自分に見えていなかった「盲点」・・つまり、さらに大きなムダが浮き彫りになるというようなことが起きてくる・・・
 

 

もちろんこれは、あくまで可能性としてという話なので、必ずそうなるって保証はないんですが、結局は頑張りすぎてギリギリのところまで力をつかってしまわず、自分のなかにいつも爐垢海靴龍白部分瓩魍諒櫃靴討く姿勢というのは、大事なんだという話に通じるようにおもうわけです。

茂木健一郎さんの著書『ひらめき脳』にでてくるエピソードは、3ヶ月ほどまえにこちらのblog記事でもご紹介しました。


また、こちらの記事に書かれているんですが、F1などで走る競技用の車を除き、ほとんどの車のハンドルには意図的に微量の遊びをつくってあります。
 

 

もし、その遊びがないと、どんな結果を招くかなんて、想像したことがなかったんですが、ハンドルにちょっと触れただけでタイヤの軸が左右にズレてしまいますから、めっちゃ運転づらいでしょう。


もちろん、自分のエネルギー120%を出し切って頑張らないといけないときもときにはあります。

でも、そんなパワー全開状態は長くは続けられないし、闇雲に頑張るばかりでは、すぐに息切れしてしまいますから、その時々で発揮できる力の落差が大きいと、トータルで見ればパフォーマンスがあまりよくないんですね。
 

 

このテーマは、以前に書いた引き算の教育という記事にもつながるんですが、自分とまわりをよく観察して力の入れどころを工夫すること、努力よりも脱力を意識することは重要だとおもうわけです。
 

 

つまり、どこに注力することが結果的に自分のパフォーマンスをあげることにつながるのかというのは、思案のしどころではないでしょうか。
 

 

 

以下は、篠原さんの記事から一部分を引用させて頂きました。


------------------------------


今の日本に必要なのは、これまでの「もっと頑張れ、そうでなければ世界から取り残される」と脅し、尻を叩き、余裕ひとつ残さず無休憩で頑張らせようとすることではなく、「もう十分頑張ってる。むしろ“少し頑張らない”余白を意識的に作り、力こぶの入れ所を考え直そう」と訴えることではないか。
 
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉がある。溺れて慌てて暴れると、余計に溺れる。溺れた時はあえてジタバタせず、覚悟を決めて力を抜くと体が自然に浮かび、そのうち浅瀬に打ち上げられる、という、なかなか味わい深い言葉だ。
 
拙著『自分の頭で考えて動く部下の育て方』への批判的な声には、「そんなに手間暇かけて部下を育てていられる恵まれた職場なんて現実にはないよ」というものがある。私もその通りだと思う。だから指示待ち人間が増え、指示を出すのに忙しくて「自分がやった方が早い病」になり、仕事の能率が落ち・・・という悪循環に陥るのだろう。
 
思うに、自分の頭で考える部下が育てば、能率は大幅に向上する。それを妨げているのは、目一杯に頑張ってしまうことなのだ。頑張るから能率が下がる悪循環に陥ってしまうのだろう。
 
「失われた20年」では、皆が溺れて慌ててジタバタしていた。しかし、もはや少子高齢化で大変になることは請け合いなのだ。ならばいっそ脱力してみよう。脱力して生じた余力、余白が、私たちに思考する余裕を与え、力こぶの入れ所を教えてくれるように思う。

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「初心忘るべからず」とお試しプリントのこと

風姿花伝・三道.jpg

「初心忘るべからず」って言葉を聞いたことがありますか?。

室町時代に能を大成したと言われる世阿弥(1363〜1443)が著した『花鏡』『風姿花伝』に出てくる言葉で、おそらくまったく聞いたことがない方は少ないでしょう。

ただ、「この言葉の意味は?」と尋ねると、本来の意味と違う意味で使われている方が大半なんですね。

さて、皆さんはどのような意味だとおもわれてましたか?

ネットで検索してみると、誤用をそのまま鵜呑みにして、誤用のままで説明しているページも少なくありません。

たとえば、故事ことわざ辞典を見ると、
 
学び始めた頃の謙虚な気持ちを忘れてはならないという戒めで、世阿弥が能楽の修行について言った言葉。『花鑑』に「当流に万能一徳の一句あり。 初心不可忘」とあるのに基づく。

とありますし。

また、「初心忘るべからず」には、裏の意味がある。を読むと、


「この格言には、実は裏の意味があって、世阿弥でさえ、初心を忘れて苦労をした、と言われ、いかなる人間でも必ず初心を忘れてしまうという人間心理をついている」


という、いかにももっともらしい説明まで書かれていて、おもわず、そのまま信じてしまいそうになりますね。


気がついた人もいらっしゃるかもしれませんが、そうです。

おそらく「初心忘るべからず」という言葉がこのように、
 
「物事に慣れてくると、慢心してしまいがちであるが、
はじめたときの新鮮で謙虚な気持ち、志を忘れてはいけない」

という本来の意味と異なる使われ方がされるようになったのは、「始めた頃の高邁な志を最後まで貫く」という意味で使われる
 
「初志貫徹」
 
という四字熟語と混同してしまったためでしょう。


つまり、世阿弥が「初心忘るべからず」という言葉で言わんとしたことは、こちらのページにもあるように、初めの頃の新鮮で謙虚な気持ち、高邁な志、というよりはむしろその逆、
 
始めた頃のみっともなさを忘れてはいけない。そのことで、そこから向上した今の芸も正しく認識できる。かつての未熟な自分を折に触れて思い出し、あの状態には戻りたくないと自覚することが大切だ、
 
ということのようなんですね。

・・・なんて、エラそうに書いているわたし自身、このことを知ったのはつい5年ほど前のこと。

それまでは、前記したような誤用の方の意味でおもいこんでいたんですが。(^^;)



さて、ここまでは前置きで、この話と寺子屋塾の学習がどうつながるかってことが本題です。

らくだメソッドの学習を始められる際には、どなたにも最初、以下の7枚からなる「お試しプリントセット」をお渡ししています。

‐1−24(たし算 暗算120問)
⊂2−20(足し算 筆算 96問)
小2−30(引き算 筆算 99問)
ぞ3−14(かけ算 筆算 45問)
ゾ4−15(わり算 筆算 64問)
小4−41(分数の約分 99問)
Ь5−25(分数の加減算、約分 63問) 


もちろん、この7枚は学習対象者が主として小学校5年生〜成人の場合で、小学4年生以下のお子さんの場合は、もうすこし易しいプリントになるんですが、いずれのプリントも、それぞれの単元のまとめにあたるものです。

たとえば、Ь5−25は、小学校の算数教材すべての中でもっとも難しいプリントなのですが、これがどのぐらい難しいかをお伝えするために、いつもお話しているエピソードがあります。

10年ほど前でしたか、三重県教育委員会の企画で、県立高校の先生方対象の研修会が持たれ、らくだメソッドの開発者・平井雷太さんが講師として招かれたことがありました。

そのときは、各校から教頭先生と進路指導部の部長の先生と2名ずつ、県庁講堂の広い部屋には130名ほどの先生方が集まられて、
全員がこの小5−25プリントを全員が学習されたんですが、さてさて、そのとき、そのうちの何人が合格できたとおもいますか?

現役の高校の先生方ばかり130名ですから、その中にはきっと数学の先生もいらっしゃったとおもうのですが・・・


合格者は・・・



なんと・・・







0名!!

だったんです。



平井さんいわく、
「このプリントを初めてやって合格できる人は
1000名に1人ぐらいなんです」とのこと。。。

つまり、なぜ、そのような難しいプリントを学習を開始する前のタイミングで行うようにしているかとことなんですが、それが冒頭にご紹介した「初心」を忘れないためであり、

最初に

「できない体験」

をして頂くことが目的なんですね。

つまり、小学校の算数プリントですから、わたしが何も説明しないとみなさん、「たかが小学生のプリント、これぐらい簡単にできるさ〜」とおもわれてしまいます。

でも、そうすると、できない現実に直面したときのショックがあまりに大きく、この学習自体に対するモチベーション自体が下がってしまいかねないので、前に書いた高校の先生のエピソードなども交えて、7枚のプリントはいずれも難しいプリントばかりで、とくに枚目のプリントなどは、小学校5年とあっても、

1000人にひとりしか合格しない

とてつもなく難しいプリントなんですよと
まえもって丁寧に説明するようにしているわけです。


このように「できない体験」が主旨であることや、そのことの大切さもふまえ、このお試しプリントは、かなり丁寧に説明したうえでやって頂いているんですが、こうした手順をていねいに踏んでも、ひとの話を話半分にしか聞いていないというか、まあ、鵜呑みにしない、真に受けないという姿勢は大事だなぁとはおもうんですが、

大きなショック!

を受ける方は時折いらっしゃるんですね。
 
たとえ、たったひとつのことであっても、それをちゃんと「伝える」ということは、ホントに難しいんですね〜 (^^;)


最初は誰もが「できない」のがあたり前で、そのできない自分を受容し、目の前のプリント1まいを淡々とやり続けさえすれば、だれもが例外なく、1000人に1人しか合格しないような小5-25プリントも、すらすらできるようになってしまいます。
 
よって、まだ、学習は始まっていないわけですし、

「できない」ことは何の問題もない

ということを、お伝えしたいというか・・・

つまり、「できない体験」というのは、「できる」ようになってしまってからではできませんから、らくだメソッドで学習を開始される前のこのタイミングでしか体験できず、貴重なチャンスであるわけです。


過去にはこんな詞を書いたこともありました。

 
病気になったときに
治ろうとする力がはたらき始めるように、
できない壁につきあたったときにこそ
学ぼうとする力がはたらき始める。
 
何かをし続けていれば
できない壁につきあたるのは
あたり前のこと。
 
だから、
できないことは困った問題でなく、
できない自覚が生まれ、
今まで見えなかった壁が
見えるようになるチャンスだと
おもうだけでよかった。(1998.3.7)


という詞も書いたことがありましたし、
また、「できない自覚」がいかに大切かというテーマについては、
以前にもこのblogでは何度もとりあげていますので、
こちらの記事などをご覧頂ければ有り難いです。


らくだメソッドのお試し学習(1週間分のプリント7枚)は、いつでもどなたでも無料で体験していただけますので、お気軽にお問い合わせください。

以下の写真は算数教材一覧表の一部なんですが、学年の後に「相当」という文字がついているのが見えますか?

大人の方でも、小4相当のプリント数枚を合格するのに、半年以上かかることもあり、実はこの「相当」がミソなんです。笑

 
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自灯明・法灯明(『ブッダ最後の旅』より)

ブッダ最後の旅

第2章 9.旅に病む ベールヴァ村にて
「アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか?わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。完(まった)き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は、存在しない。『わたくしは修行者のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は、『わたくしは修行者のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたしに頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。
 アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。譬(たと)えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ。
 しかし、向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく一部の感受を滅ばしたことによって、相の無い心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、彼の身体は健全(快適)なのである。 」
 それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。では、修行僧が自らをたよりとして、他人をたよりとせす、法を島とし、法をよりどころとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころととしないでいるということは、どうして起こるのであるか?
 アーナンダよ。ここに修行僧は身体について身体を観じ、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
 感受について感受を観察し、 熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
 こころについて心を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
 諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
  アーナンダよ。このようにして、修行僧は自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるのである。
  アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう、----誰でも学ぼうと望む人々は----。」  
 
第3章 13.死別の運命
  そこで尊師は修行僧たちに告げられた、「さあ、修行僧たちよ、わたしはいまお前たちに告げよう、-----もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠けることなく修行を完成なさい。久しからずして修行完成者は亡くなるだろう。これから三カ月過ぎたのちに、修行完成者は亡くなるだろう」と。
 尊師、幸いな人、師はこのように説かれた。----
 「わが齢は熟した。
  わが余命はいくばくもない。
  汝らを捨てて、わたしは行くであろう。
  わたしは自己に帰依することをなしとげた。
  汝ら修行僧たちは、怠ることなく、よく気をつけて、
  よく戒めをたもて。
  その思いをよく定め統一して、おのが心をしっかりとまもれかし。
  この説教と戒律とにつとめはげむ人は、生まれをくりかえす輪廻をすてて、
   苦しみも終滅するであろう」と。
 
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「力」の捉え方(野口三千三のことば)

野口体操_羽鳥操.jpg

 


●「力」の捉え方

 

力を抜けば抜くほど力が出る。


「力を抜く」ということを主題として教えられたことがなく

「力を入れる」ということの本質を考えたこともない。

 

ただ、「頑張れ」と言われ続けただけだという人が多い。
 

「力を抜く」という事実とその実感が分からなければ

「力を入れる」という事実も実感も分かりようがない。

 

この基礎的事実と実感のないところでは、

どんな理論も実技も空論となり、無意味なものとなる。


力とは常に流動変化するなかで、

その時その場における「丁度よさ」が分かる能力のことである。
 

 

※野口体操創始者・野口三千三のことば

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五木寛之『愛について 人間についての12章』

五木寛之_愛についての12章.jpg

 


マニュアルをほしがる風潮はなにもセックスに関することだけに限りません。生身の人間を扱う医療や教育の現場でもその傾向が強く、しばしば大きな混乱をおこしています。最近の小学校の出来事です。生徒からきわめて無邪気に何の悪意もなく、「先生、どうして人を殺してはいけないんですか」という質問が寄せられて、先生たちはその都度立ち往生してきた。そこで、教育関係者たちの集まりで、そういう質問に対する模範解答を作ってほしい、対処の方法について具体的なガイドラインを設定してほしいという意見が数多く寄せられたというのです。

その話を漏れ聞いて、非常にびっくりしました。そのような質問に先生たちが答えられないのは当然です。そこで、「ほんとにどうして殺しちゃいけないんだろう。戦争だと殺さなきゃいけないのにな」と一緒に頭を抱えてもいいでしょう。絶句して、立ちすくんでもいいでしょう。「なに言ってるんだ。そんなこと当たり前じゃないか」と、信念を持って一喝する手もあるでしょう。教師がそれぞれの心の声にしたがえば、さまざまな答えが生まれて当然です。そのときの率直な、正直な対応の仕方こそ、子どもに対する大切な教育なのではないでしょうか。

画一的にひとつのスタイル、ひとつのノウハウ、ひとつのガイドラインというものを設定して、そのマニュアルにしたがって生徒に答えを与える、そうなってしまったら、それこそ人間性は殺されてしまっているといっていい。

 

そのような(マニュアル的な)機械的な教育が横行しがちな中で、一人の人間的な教師の話を聞いて、とても感動しました。それは、伝統ある私立小学校の性教育の時間のことです。男女共学のその学校では、4年生のときに、男女別々に、理科の先生からセックスについての話を聞くのが慣わしでした。最近のませた小学生は10歳になるかならないかでも、すでに、セックスとはどんなことをするのかという知識は持っているそうです。そして、腕白坊主の何人かは、独身の理科の教師が答えにくいことを聞いて困らせてやろうと手ぐすね引いて待っていました。教師がひとしきり、人体図を見せながら男性の性というものを科学的に説明し終わると、一人の子どもが手をあげて、質問したそうです。
「先生はどんなときに、おちんちんが大きくなるんですか?」
独身の先生はその質問にちょっとたじろいだものの、こう答えました。「好きな人と一緒にいるとき」。その素直で率直で自然な答えに、いたずら坊主たちは息を呑んで静まったといいます。彼等は一瞬ひるんだ態勢をすぐに立て直して、重ねて聞いてきたそうです。
「女の人とセックスすると、気持ちがいいんですか」先生は答えました。「好きな人を大切に思いながらすると、気持ちがいいし、そうでもない人と、遊び半分にすると、あんまり楽しくないんじゃないかな」と。

自分たちの質問の意図を承知しながら、それを真正面から受け止めて、人生の大切なことを教えてくれた先生の率直な心は生徒達にストレートに伝わりました。もうだれもからかったり、嬌声をあげて騒いだりしなかったそうです。深い温かい感動がクラス全体に静かに流れて行ったそうです。子どもたちの良心は目覚め、確かになにかをつかんだのではないでしょうか。


マニュアルなしで、ガイドラインを持たずに、ひとりで生徒たち向かい合った先生の自然さ、率直さの中には、学ぶべき点がたくさんあるように思います。このような自然な気持ちで、自分たちの性をもう一度見直すことは、とても大事であると感じているのです。繰り返し言いますが、人間には百人百様の生き方があります。こういう生き方が望ましい、こういう生き方でなければならないという決まりはどこにもないはずです。それと同時に、百組の恋人同士には、百の愛の形、ラブスタイルがあるのだと私は思うのです。
 

五木寛之『愛について 人間についての12章』(角川書店・2003年) 第12章 新しい愛の形 より

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分数の約分プリントやり続けて4年になりました

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指導者の立場にあるわたしですが、

わたしもらくだメソッドのプリントで学習を続けています。
 

 

分数の約分のプリントをやり始めたのは2013年5月13日でしたので、

一昨日でちょうど丸4年になり、
一昨日に学習したプリントで2376枚目を数えます。
 

 

最初は同じプリントを180枚やる目的で始めたんですが、

そのときには4年も続くことになろうとは想像だにしませんでした。
 

 

2013年の1年間に180枚を学習し終え、

2014年の年明けすぐに書いたふりかえりの文章があります。
 

 

その後も学習が続いていることもあって、

結局公開するタイミングを逸してしまっていたんですが、

今日はそれをご紹介することにしました。
 

 

これを書いてから以後の気づきもまた
興味深いものがいろいろあったので、

いつかは総括して書いてみたいとおもっています。
 

 

♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
 

 

らくだメソッド・算数小4−41(分数約分のまとめ)ふりかえり(2013.5.13〜12.28)

 

【この学習をはじめたきっかけ】

2014年は、らくだメソッドを用い始めて20周年を迎えます。このメソッドは、常に学習者の犧瓩鯢發彫りにするため、マニュアル的対応は通用しません。そのため、指導マニュアルのようなものが一切用意されていないのですが、この20年の間に300人以上の生徒と接するなかで、わたし自身も数え切れないほど多くのことを学んできました。

 

またその一方で、指導経験をつめば積むほど、その経験が却って邪魔をして、わかったつもりになってしまっているのではないか、ということも気になっていました。以前は、指導者対象の研修会が比較的頻繁に持たれていたのですが、最近はそういう機会も少ないので、今一度私自身原点に戻って学び直したいとおもったことが一番大きな動機です。つまり、このメソッドで学ぶことが、今のわたし自身にとっても大切な気づき、変化、成長を本当にもたらすのかどうか、20年を1つの節目として検証してみたいという想いがありました。
 

ただ、わたし自身は指導者ですから、らくだメソッドの学習は過去にひと通り終えています。それで、既に体験したやり方と同じやり方で学習するよりは、今までやったことのない新たなチャレンジをした方が良いと思ったのですが、そのためにどんな設定や枠組みが適切なのかと考えたとき、ふと浮かんだ言葉が「180枚同じプリントをやり続ける」でした。
 

らくだメソッドの説明をするときに、「何をどのように学ぶかについて、学習者が自分で決められる学習であり、自分でカリキュラムをつくれるメソッドである」ということをお伝えしています。そのことの大事さを説明する際、よくご紹介しているエピソードの1つに、同じプリントを180枚やり続けた生徒さんの話があります。それは、そのプリントを学習すると自分で決めたからこそできたのであって、もし人から強制される状況下であったなら、絶対にできない学習だからです。
 

でも、それは、わたしの教室で学んだ生徒の話でなく、他の教室の指導者から伝え聞いた、他の教室の生徒の話なのです。私自身もらくだメソッドの学習は「めやす時間内、ミス3個以内」であれば次のプリントに進んでOKというルールに従って学習したので、同じプリントを180枚やりつづけたという経験はないので、自分自身で実感していない単なる受け売り情報を語っているにすぎません。そこで、「もしわたしが同じプリントを180枚やり続けたとしたら、いったいどういうことが起きるだろうか?」と自分に対しての興味が沸いたのです。
 

【5/13の時点で決めたこと】
・1日1枚だけ。2枚以上はやらない
・毎日やり続けることだけにとらわれない
→毎日やれなかった時は、毎日やり続けたときと、間が空いたときとでどう違うのか、その間も2日空いたとき、3日空いたとき・・・とでどう違うかを知るチャンスと考える
・いろんな時間帯、いろんな環境でやってみることを大事にして、やり方を固定化しない
・180枚続けることをとりあえずの目標にする


【なぜ小4−41のプリントを選んだか】
ファシリテーションで最も難しいと言われているスキルのひとつに、合意形成の促進があります。AさんとBさんが意見の食い違いで対立しているとき、ファシリテーターがAさんの意見とBさんの意見に共通する要素を瞬時に見つけて両者が納得するような提案ができれば、合意形成が進むように思うのですが、なかなか簡単ではありません。

 

らくだメソッドの小4−41は、分数の約分のまとめのプリントで、問題が99問並んでいます。分数の約分問題を解くときの要所は、分子と分母の異なる2つの数字を見て、共通する最大の約数(因数)を見つけられるかどうかにかかっています。たとえば、38/95という分数を約分するときに、38と95の最大公約数を探るわけですが、共通因数19というのは素数ということもあり、なかなか思い浮かびません。あくまでアナロジーであり、仮説ではあるのですが、この19が瞬時に閃いて、38÷19=2、95÷19=5 → 2/5 という計算ができるようになることを異なったものの中に共通する要素を見つけられる能力の開発や、合意形成のファシリテーションスキルの向上にもつなげられないだろうか、ということです。
 

 

【学習プロセスで気づいたこと】
1枚のプリントをやり終えた時点で気づいたことは、すぐに学習記録表などに書きとめるようにして、1ヶ月に1回ぐらいの割で、それまでの学習をふりかえって総括するよう心がけ、時折facebookにもその内容を投稿していました。

 

 

ヽ惱する時間帯が遅くなるほど時間が長くかかり、ミスも増える
→「プリントやらないと・・・」という思いをひきずりながら夜まで1日過ごすより、早めに終わらせたほうがメンタル的にはスッキリする
→学習はなるべく早い時間帯に終わらせたほうが良い
→算数の問題を解くことはアタマの準備体操になる
→1日の始めにプリント1枚やることで、生活のリズムを自分でコントロールしやすい環境が生まれる

 

 

△燭箸┌影5分の学習でも、続けることで学習した時間の総和以上の効果が生まれてくる。
具体的に書くとすれば、50分の学習を1日でやるよりも、5分の学習を10日続けた方が同じ時間を使っていても効果が高いということです。
→勉強はかけた時間ではなく勉強する中味と姿勢、その質が問題。結局、時間よりも密度が大事だということ。

 

 

A瓩やろうと時間を意識すればするほど時間は長くかかって遅くなる。時間を気にせずに学習するために時間を計っている。
→スピードアップを目的にせず、意識せず、淡々とやることがスピードアップの秘訣
→「学力向上は、学びの結果として現れてきたものであって目的ではない。学力向上の最大の秘訣は学力向上を目的としないことにある。」(佐藤学)

 

 

た卦録が出る前は不調(スランプ)が続くことが多い
→記録は少しずつ短くなるのでなく、行ったり来たりしながらのプロセスを経て、ある日突然のように新記録が出ることが多い
→「夜の終わりに朝が来る。しかし夜明け直前の闇は最も暗い」(むのたけじ)

 

 

テ韻献廛螢鵐箸魴り返しやっていても間違える問題はだいたい同じ
→どの問題で間違えやすいかを分析することで、思考パターンや癖がよくわかる
→人はだいたいいつも同じ問題で躓いている

 

 

Φい魎砲瓩襪箸垢阿坊覯未箸靴童修譴
100枚を超えるあたりから、ミスがほとんどなくなってきたのですが、それでもたまに1つ2つ間違えることがあり、思わぬ処に伏兵が隠れていたという感じがしました。150枚を超えたあたりになってようやく百発百中という状態になってきたのですが、それでも時間を急ぐとミスをすることには変わりはありませんでした。
→油断大敵!伏兵に注意!

 

 

С惱場所(環境)や筆記具、着る服、身につけるものなどに影響を受ける
これらの影響は、「めやす時間内、ミス3つ以内であれば次に進む」という通常のスタイルで学習している範囲ではほとんどで自覚できません。しかし、時間を短くするチャレンジをやっていると限界が近づくにつれて次第に敏感になってきます。
筆記具はエンピツが一番よいようです。また、すべてのエンピツを試したわけではないのですが、トンボのMONOやステッドラーが良い感触でした。


【月別の学習状況 学習日数と学習率】

  月  学習日数/日   学習率
----------------------------------------------------
 5月   18/ 19  94.7%
 6月   25/ 30  83.3%
 7月   22/ 31  71.0%
 8月   26/ 31  83.9%
 9月   24/ 30  80.0%
10月   10/ 31  51.6%
11月   22/ 30  73.3%
12月   27/ 28  96.4%
----------------------------------------------------
 全体  180/230  78.2%


【全体をふりかえって】
●今の自分の状態が自分で把握できる
7月上旬に尿路結石を起こしたときには、痛みのあまりさすがにプリントをやろうという気持ちが起きませんでした。たった2〜3分の短い時間であっても、プリントを1枚やるということを1日の生活に組み込んでおくことで、結果的にプリントがやれなくても、プリントをやることに対する自分の気持ちの向かい具合がどうかがわかるし、プリントをやってみれば、その日のアタマの働き具合というか、自分のコンディションが自分で掴めます。このことは生活や仕事全般に影響が及ぶもので、うまく活用すればメリットがとても大きいように感じました。

 

 

●セルフラーニングはひとりではできない
らくだメソッドを開発した平井氏が「セルフラーニングは自学自習ではない」「セルフラーニングはひとりではできない」「犲己決定瓩箸蓮⊆分ひとりだけで勝手に決めないこと」ということを言っているんですが、伴走者として見守る指導者の役割はとても重要なのです。指導者の立場にある私がこうしてfacebookで学習プロセスを公開し、180枚続けると宣言してしまうと、途中で「や〜めた!」とは絶対に言えません。やらざるを得ない状況に自分を置くこと、根性や意志、努力に頼るのではなく、そういうしくみをつくる工夫をすることの大事さを改めて思いました。
つまり、寺子屋塾の教室で指導者の私が果たしている伴走者の役割を、私の学習の場合はfacebookのお友達の皆さんが果たして下さったわけで、こうして続けられたのは、見守ってくださった皆さんのお陰です。

 

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MagSafe to MagSafe2 アダプタのこと

今日は久しぶりのMacネタです。
 

MacBookが2012年にフルモデルチェンジした際、
ACアダプターと本体の接続インターフェースが変わり、
それまでのMagSafeコネクター(次の写真右側)よりも
縦幅が若干狭く横幅が若干広いMagSafe 2コネクター(左側)となりました。
 
magsafe-magsafe2.jpg
それで、そのとき、ずっと前からMacを使っている人間としては、
旧モデルのACアダプターが新しいマシンでは使えなくなるので、
そういうことで出費が嵩むのは
勘弁して欲しいなぁとおもったんですが、
MagSafeコネクターをMagSafe2のMacbookでも使えるようにできる
アダプターがあるってことを知って、ホッと胸をなで下ろしたのでした。
 
モデルチェンジをしてもう5年近く経っているので、
最近MacBookを使い始めた人はまだしも、
わたしのように長期にわたってMacBookを使っているような人であれば
たぶんすでに知っているネタでしょうが、
ニッチな部分で、もしかしたら見逃している人もおもったので、
念のために書きとめておこうとおもいます。
 
これがアップル純正のMagSafe-MagSafe2コンバータ(MD504ZM/A)で、
1200円+消費税で買えます。
 
MagSafe-MagSafe2 converter_package.jpg

こんなふうにつなげて使います。
磁石でくっつくので、接続は簡単!
 
2017-05-14 14.34.20.jpg

MacBookのACアダプターは結構壊れやすく、
過去にも何度も修理に出したり、買い直したりしたことがあったので、
こういうアダプターがあると、ちょっと助かりますね。

ネットで検索してみると、このような記事もヒット!
まあ、やっぱり考えることは同じようで。(^^)/
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吉本隆明が語る親鸞

吉本隆明が語る親鸞.jpg

糸井:どうしても人は「善悪」を大きな判断基準にしてしまいがちですが、東日本大震災が起きて、多くの人が「実はそんな単純な話ではない」ということに気づき始めたんじゃないかと思います。でも、「じゃあ、一体どうすればいいの?」というところで戸惑い、立ち止まってしまっているんじゃないかという気もするんです。価値判断のよりどころを、見失ってしまったというか。
 
吉本:その点に関して、親鸞ははっきり言っています。「善悪の問題を、第一義のことと錯覚してはいけない」とね。何かをしたほうがいい、あるいはしないほうがいいといった判断を「善悪」に基いてしてしまうと、どうしても自己欺瞞に陥ってしまいます。そうではなく、「人には『契機』というものがあり、それによって、『おのずから』何かをしたいと思ったらすればいいし、したくないと思うならしなくていい。そう考えればいいんだ」と言っています。「自然法爾」という言葉が仏教用語にありますが、これはまさに、人為ではなく、あくまでも「おのずから」に任せる、つまりは他力という状態でものごとを考えるということで、親鸞の考え方の、ひとつの核となる部分だと思います。
 
糸井:いま仰った「契機」に関しては、『未来に生きる親鸞』で詳しく解説されていますし、『親鸞から見た未来』で言及なさっている「緊急の課題」と「永遠の課題」という喩えについても、今日のお話をふまえた上で読んでみると、また新たな発見がある気がしてきました。
 
吉本:親鸞の思想というのは、現代、そして未来にも通用する部分がたくさんあると思います。「契機」についてもそうですし、「死」というものをどう捉えていくか、という点についてもそうです。いまひとつだけ申しあげるとすると、親鸞は「死」というものを、「あの世」と「この世」の中間に移したと言えるでしょう。その場所がいわば「浄土」であり、そこに往って還ってくる視線が、とても大事になってくるわけです。そうすることによってはじめて、「親鸞がいまに生きていたらどう考えるだろう」ということを、実感として語れるようになっていくのだと思います。

 
糸井:中世に生きていた頃の親鸞が出した結論を、そのまま援用するのではなく、親鸞がいま生きていたと仮定して、そこから考えてみるということですね。
 

吉本:その通りです。かつての教えをいまに当てはめるのではなく、かつて用いたであろう思考法を、現代ならではの視点をふまえて、もう一度たどってみることが大切なんです。
 
糸井:だとすると、親鸞がなぜそのような思考にたどり着いたのかを見極めることが重要になってきて、それにはやはり、京都を出てからの親鸞について、思いをめぐらせてみる必要がありますね。
 
吉本:過酷な暮らしをしていたと思いますよ。新たな土地ばかりを歩いていますからね。僻地を歩いて自分で開拓をしたり、時にはふつうの農民と同じく畑仕事もしていますからね。
 
糸井:京都を離れて越後や常陸まで赴いた道のりや、その地で僧侶として果たしていた役割を改めて想像すると、非僧非俗という考え方も、妻帯や肉や魚を食べることも、不思議ではない気がします。
 
吉本:そうですね。僧侶が妻帯するという習慣は平安の頃から始まってましたが、淫乱は、独特の言い方で妻帯について語っています。たとえば、「自分は人に教えることが好きだった。それに女の人が好きだった」と公然と語り、「そのふたつの要素があったから、自分はふつうの人にはなれなかったし、それが自分の弱点だ」と言っています。ふつうの人というのは、土地を耕したり、工事をしたりする人ということですが、自分は人にお説教をすることが好きで、生涯やめられなかった。その一方で、戒律を設けて独身を守れなかった。行く場所場所で奥さんを見つけて、一緒に生活をしていた。そのふたつの点において、自分はふつうの人にもなれなかったし、本格的な坊さんにもなれなかった、と言っています。
ふつうの坊さんにとは考え方がまるで反対ですね。「駄目なんだ」と言っていますが、実はそこがすごいところなんですけどね。ふつうの坊さんは、どこかに座って寺に弟子を集めて、勢力を拡げようと考えていましたが、親鸞は逆で、「自分は『ふつうの人になりたい』とつとめてきたんだけど、女の人と、人にものを教えることが好きで、それをやめられなかったことにより、ふつうの人よりも堕落した人間なんだ」という独特の自己評価、つまり非僧非俗であると判断を下しているわけですから。
 
糸井:ふつうの坊さんなら隠そうとしますよね。でも親鸞は、それを一切隠さないで、あからさまにしているところがすごい。
 
吉本:そうなんです。そこからいけば、親鸞というのは、一見坊さんとしては変わり種ですが、ぼくは、問題にならないくらい偉い人だと思いますね。ふつうの坊さんよりも堕落していたという自己評価、そういう自覚を持っているというのが、すごいと思います。 

 
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詞「人目を気にしすぎる人は・・」をめぐってのやりとり

5/11の記事で書いた詞「人目を気にしすぎる人は・・」
facebook上でいくつかのコメントを頂いたんですが、
そのやりとりがfacebookの記事として流れて行ってしまうのが
もったいない内容だったと感じたところがあり、
その部分を記事として再録しておこうとおもいます。

わかりやすいように後から言葉を補足したり、
書き換えた部分が若干ありますが、
話の骨子というか、大きな流れは変えていません。

コメントを下さった方に
こういう形でblogで再録することへの了解は得ていますが、
もともと公開を前提にやりとりしたわけではなく、
あくまでわたしと個人的というか
プライベートな一対一のやりとりのつもりで行われたものなので、
実名は記さずにKさんとさせて頂きました。
 
  ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪  

Kさん:自分が恥かいたー!なんて思ってても、人ってそんなこと覚えてもないですもんね。それが救い?(笑)

井上:極端に恥ずかしがる人ってときどきであうんですが、たぶんおもいこみが激しいというか、自意識過剰なんでしょうね〜笑

Kさん:そうだと思います(笑)。人は良くも悪くもそんなに他人のことに興味ないんですよね(笑)。でも、極端に恥ずかしがる人って、良い意味で自分に注目されたい気持ちが強い人なのかなと思います。

井上:あがり症っていうのもそうで、「人はそんなに他人のことに興味ない」って事実を認めたくないってところはあるんじゃないでしょうか。実を言うと、わたしもつい最近までけっこうあがり症だったんですが、一昨年の春ぐらいから人前へ出てしゃべったり講座の案内役をしたりするのが、あまり気にならなくなりました。ただ面の皮が厚くなっただけかもしれませんが・・・笑

Kさん:わたし、自分ではあがる方だと思ってますが、人からは全然そう見られてないみたいです。「誰かぁー、わかってぇー!」(笑)

井上:そうですね〜 人は心の動きや内面が表情やしぐさとなって外に出ることもありますが、そうばかりとも言えず、ほんとうのところは人にはよくわからないものなんですよね。わたしも「3年前ぐらいまではあがり症だったんです」って話して、「全然そんなふうに見えませんでした」ってよく言われます(苦笑)。どうやら、あがり症でないフリをするのは上手くなってたみたいです。笑

Kさん:周りの人が、私があがってるの気がつかないって、わたし、信じられません。あがってないフリも下手(笑)。でも、あがってないフリができるって、それだけ余裕があるってことで、つまり、ホントにあがってないってことなんでは?(笑)

井上:本人は、あがってないフリをしていたつもりなんて全くないんです。「井上さんがあがっているなんて全然みえませんでした」と言われたとき、「本当はあがっているんだけど、あがっていないようなフリはできてたかも」っておもったわけでして。だから内心は、全然余裕なんてないんです。でも、そういう脳内パニクったような状態であっても、余裕があるようにまわりに見せることは可能なんだって気づいたというか・・・つまり、自分が想像しているようには、まわりの人は自分のことを見てはくれない、ということでもあるんだと。だから、Kさんがどんなにあがっていても、まわりの人が気がつかないっていうのも、やっぱりそういうものだとおもうわけです。

Kさん:なるほど、フリじゃないんですね(笑)。自分が想像しているようには人は見てくれないし、自分が見てほしいようにまわりをコントロールしようと思っても多分無理なんですよね。そもそも、自分が思う「まわりの人はこう思っている」っていうのが怪しいし(笑)。わたし、自分があがってたのか、あがってなかったのかも、なんか自信なくなってきました(笑)。
余裕があるように見せかけることも可能と言えば可能で、幻想といえば幻想? あがっているということについてもそうなのかもしれず、結局自分が、今の現実はこうだと認識したことを、自分にとっての事実と受け止めるしかないのかもしれませんね。

井上:そうなんです。あがっているか、あがっていないかを判断しているのは、結局は自分の主観なんですが、その主観的判断ってヤツが甚だアヤシイわけで。判断する基準が人によっては結構ずれていて、全然客観的なんかじゃないのに、いつのまにかみんながそうだとおもいこんでしまっている。だから、良し悪しも含め、その判断を絶対化しない姿勢が賢明ではないかと。
勉強ができるかできないか、わかっているかわかっていないか、というのも、これと似たようなところがありますね。まさに観念の世界でのできごとというか、所詮幻想にすぎないわけで。
事実をどのように認識しているか、その認識を生み出しているのは自分であって、他者の認識は自分と同じではないこともあると気づいていれば、自分の認識に執着することが自分を苦しめてしまうとわかるし、手放せるんじゃないかと。

Kさん:どう思うのも自分の自由なんですもんね(笑)。
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