往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。





マインドセット(為末大さんのblog記事より)

為末大さんのblogTAMESUEが更新され、本日3/24付けで新しくアップされていた記事のテーマは「マインドセット」でした。
為末さんの著書『諦める力 勝てないのは努力が足りないからではない』のことをこちらの記事で採りあげたこともありましたし、unlearningと題されたblog記事についてこちらでご紹介したことがあります。
 
いま寺子屋塾で学んでいる塾生たちがこの記事を読めば、なぜわたしがこの記事をこ紹介しようとおもったかがすぐにわかる人が多いとおもいます。
塾生たちは「ここの塾でやっていることは、ここに来ていない人には説明不可能です」と口を揃えて言っているんですが、それは、まさにここに書かれているマインドセットの為せる技でもあるのです。
つまり、教室を訪れたことが無い方、実際に学習を体験されていない方にとっては、そうした「マインドセット」が存在すること自体が想像できないので、当塾でどんな学習をしているのかについては、想定外の世界にあるというか、どんなに言葉を尽くして説明しようとしても残念ながらサッパリ伝わらないんですね。笑
 
よって、為末さんがこの記事に書かれている言葉を使って当塾の学習を説明するなら、「自分が現実だとおもって見ている世界は、実はそうではなく、自分がそのように見ているからそうなんだ、というマインドセットに自ら気づき、それを変えていくことができるという学習を、算数などのプリントや経営ゲーム、未来デザイン手法等のツールを通じて行っている場」と言えるようにおもったんですが、それでもこれだけではやっぱり伝えるのは無理ですよね。笑
 
為末さんのblog記事の全文を以下にご紹介します。
 
野茂英雄さんが1995年にメジャーリーグに挑戦されました。それまでは日本人がメジャーで活躍するのは難しいだろうという意見がありましたが、実際に活躍されると同時に、日本人メジャーリーガーが少しずつ増え、今ではもうたくさんの選手がメジャーリーガーになりました。
 
野茂さん以前と以後では一体何が変わったのでしょうか?おそらくは技術的に変化があったわけでしょうし、システムが変わったわけでもないと思います。一番大きく変わったのは、野茂さんの事例を見てそれは可能なことなのだというマインドセットが変わったのだろうと思います。
常に全力を出しているスポーツの世界ですら、マインドセットが変わると前提が変わり、行動が変わり、結果に差が出ることの一例ではないかと思います。
マインドセットを日本語で訳しているものを見ると、思い込み、先入観、刷り込み、などがあります。要は自分が判断をしたり行動をすることの前提になっている(おそらくは無意識の領域で)考え方や見方の癖と言えるのではないかと思います。
例えていうならば、テレビでニュースを見ている時に、現場で起きているそのものを写していても、どの画角を切り取るか、またカメラのレンズや色の違い、などを介して私たちはそれを見ているわけです。この編集の仕方の癖や、カメラのレンズそのものの偏りで、いくらでも現実は変わって見えます。このカメラや編集の癖にあたるものがマインドセットになろうかと思います。
実際に人間は見ているものすべてが意識に上っているわけではなく、無意識に編集し選択されたものを見ているというのを示した実験もあります。私たちは編集済みの世界を既に生きているわけです。
じゃあ、そのマインドセットを変えればいいじゃないかと思うのですが、マインドセットが変わるということはまさに自分にとっては世界が変わるということですから、なかなか簡単ではありません。難しいのは承知の上で、マインドセットはどんなプロセスを経て変わっていくのか、現役時代の経験から、どういうプロセスだったかをまとめてみました。
 
1、マインドセットが存在することに気づく
ー 世の中がそうなのではなく私がそう見ているという発見。
 
2、どんなマインドセットを持っているかを把握する
ー 課題が難しいかどうかではなく、課題を難しいと感じる傾向にあるマインドセットを持っているなど。
 
3、マインドセットは選べることを認識し、選ぶ
ー 見方を変えることはできる。ただし、マインドセットはそう簡単には切り替わらない。
 
4、兆しを見て、マインドセットが変わり始める
ー 人は兆しがなければそれを信じることはできない。いきなり変えるのではなくまず現実は変えることができるという証拠を見せる。
 
5、現実が変わる
ー マインドセットが変わるとほぼ必ず現実も変わる。信じようとしている状態と、信じるという意識もなく身についた状態では、相当差がある。
 
6、マインドセットが変わっていたことに気がつく
ー マインドセットが変わったことに気づくのはいつも振り返った時。最中は夢中で目の前に取り組む。

 
特に重要な点は、マインドセットに気づき選べるとわかること。兆しを作ることではないかと思います。人はいきなり勝てると言われても信じませんが、今までとは違う何か兆しを見た時に勝てると信じ始めます。チームが強くなる時に、だいたいまずはなんらかの結果で兆しを見ることで、チーム内の空気が変わり、大きな変化が起きていくように思います。
 
ドミノの一つ目を倒すように、ある一点に集中して兆しを作るというのが有効なのかもしれません。
 
マインドセットが変わったことがある人間は、それを変えられると信じますが、変わった経験がないとそもそもマインドセットというものが存在するとすら考えないのではないかと思います。心理学の認知療法でも、それがそうなのではなく、あなたがそう見ているという風に認識を持ってもらうのに時間がかかるようです。(websiteTAMESUE THINK 2017.3.24より)
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「仏教を学ぶ」とはどういうことか?

仏教をどんなに学んでも、
たぶん、それだけでは悟ることはできないでしょう。
 
そもそもまず、「なぜ自分は
仏教を学ぼうとしているのか?」という動機そのものや、
その動機を生み出している「自分」を観ることの方が
先なのではないかとおもうからです。
 
仏教はすばらしい教えではありますが
あくまで数多ある「教え」のひとつにすぎません。
 
言い換えれば、「仏教とは何か?」
「何のために仏教はあるのか?」という問いの本質について、
考えを自ら深めていくことではじめて、
仏教の世界に近づいていけるようにおもうのです。
 
あなたは「どういう状態になったら、
自分は『仏教がわかった』と言っていいのか?」
ということについて考えたことがありますか?
 
つまり、自分が仏教を学んで、
仏教の某かが「わかった」というのなら、
おそらく自分の何かが変化するのではないかとおもうのです。
 
もし、何も変わっていないというのなら、
そもそもあなたは
何のために仏教を学んだのでしょうか?
 
何も変わっていないというのに、
はたしてそれで「仏教を学んだ」「仏教が解った」と
言っていいのか?ということです。
 
ビフォーアフター・・仏教を学ぶ前と学んだ後で
自分のいったい何が変わるのか・・・
それを考えずして
人から聞いた仏教についての知識や情報を
ただアタマに詰め込むばかりでは、
悟るどころか、苦しくなるばかりではないでしょうか?
 
「仏教を学ぶということは、崇高な理想を持つことだ」
と考える人がいるかもしれません。
そして、崇高な理想を持つことは、
人間として立派なことだとおもうかもしれません。
 
でも、「崇高な理想のために生きる」というのは、
言い換えれば、
崇高な理想の奴隷になるということではないでしょうか。
 
なぜなら、どんなに立派な理想をもったとしても、
その理想が自分の中から生まれ出たものでなく、
自分にとって本当に必要なものでないのなら、
却って自分を苦しめてしまうのではないかとおもうのです。
 
ですから、「なぜ自分は、
お釈迦さまのように、崇高な理想が
放っておいても自ずと生まれてきてしまう人間ではないのか?」
と問うことが先で、
それを邪魔しているものは何か?を問う必要があるのです。
 
お釈迦さまのような覚者の言うことが
われわれのような凡夫になかなか理解できないのは、
そもそも視点が違うためではないかとおもうのです。
 
つまり、視点を変えることなく、
自分の視点、自分の思考回路でもって
彼らの言葉を理解しようとしたところで、
彼らの世界には一歩も近づけないのでしょう。
 
ですから、どうして彼らがその視点に立てたかを問い、
自分自身がその視点に立つことができたなら、
そこではじめて、仏教とは何かが
理解できるようになるのではないでしょうか?
 
COMMENT:先日教室で、仏教について塾生のひとりと対話していたとき、話していた内容や、後からおもい浮かんだことなどを整理して書いてみました。
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可能性を自ら拓く人間に不可欠な条件6つ

可能性を自ら拓く人間に不可欠な条件6つ
 
^嫐がないようなことでもまずやってみようとおもえる
 →学ぶ目的を狭く限定せずオープンマインド

∋纏(勉強)と遊びを分けていない
 →受け止め方は自分次第だとかんがえ
  どんなことでも楽しみながらやれる
 
m危阿擦困北笋ち蠎蠅力辰房を傾けられる
 →聞くことの大切さを常に念頭において実践し、
  自分が何を知っていて何を知らないかを自覚している

た佑らの提案にスッと乗れる
 →成り行き次第では出会いがチャンスを生むと捉え
  やることを自分ひとりだけで決めない
  
ジき不向きはないとおもっている
 →何ができて何ができないか自分で枠をつくらず
  苦手に感じることこそ伸びしろが大きいとおもっている

ι堙垤腓文充造砲弔あたっても落ち込まない
 →好ましい自分だけでなく、どんな自分も受容していて
  やり続けていさえすれば何とかなるとおもえる
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「らくだメソッドの手引き」無料で差し上げます


寺子屋塾では、1994年の開塾当初より
らくだメソッドを主軸教材として採用しています。
 
らくだメソッドを開発された平井雷太氏によって
2014年に制作された
らくだメソッドで学習する上でのポイントとエッセンスをまとめた小冊子
「らくだメソッドの手引き」(36ページ)を無料で差し上げています。
 
1週間のおためし学習もいつでも無料で体験していただけます。
 
たとえば、算数・数学のらくだメソッドには、
数字を練習する幼児教材から高校数靴糧分・積分まであります。
 
そのうちのどこからでも始められ、
1日の学習量も自由に調節できるシステムのため
個別の多様な課題や学習目的にも柔軟に対応でき、
過去には2歳から74歳まで受け容れました。
 
また、不登校、ひきこもり、うつ病、発達障がいなど、
既存の学校や塾などで学ぶことに
不自由を感じられたことがきっかけで当塾で学習を始められた方は、
過去の塾生全体の2〜3割ほどを占め、
教育問題や心身の健康面を中心に、
人生全般あらゆるご相談に応じています。


幼児〜小学校低学年のお子さんをお持ちの方には、
こちらの記事でご紹介した
幼児からのらくだメソッドガイドブックも一緒にどうぞ。

 
また、らくだメソッドの学習は、
自ら学ぶ力を身につけることに主眼を置いた
爛曄璽爛好ーリング瓮好織ぅ襪里燭瓠
遠方にお住まいの方でも
通塾コース(教室に通う形)とほぼ同じ条件で学習が可能です。
 
通塾コースでは、原則として週1回から、
通信コースでは、原則2週間に1回、教材を郵送でやりとりしながら、
電話やメール、SNS等を併用し、
各々がコミュニケーションしやすい通信手段で学習をすすめていきます。
 
詳細は井上までお気軽にお問い合わせください。
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井上さんってドラえもんみたいですね〜


写真はわたしがいま使っているiPhone5のアプリトップ画面なんですが、20ぜんぶ揃えるとドラえもんになるというこれらのアプリは、2010年に公開された映画「ドラえもん のび太の人魚大海戦」のPRをかねて作られたものでした。
 
期間限定アプリなので、今ではもう手に入りません・・・といっても、OSがバージョンアップしたために、ほとんどのアプリが動かなくなってしまっているんですが。(^^;)

ところで、以前にわたしの仕事を手伝ってくれていた人から、「井上さんってドラえもんみたいですね」と言われたことがありました。
 
それまで自分のことをそんな風におもったことはまったくなかったのでびっくりしたんですが、いろいろ困ったことや問いを投げかけると、教室の本棚やわたしのアタマの中の引き出しから、書籍や雑誌、未来対応型の学習ツールなどがいろいろ出てくるからでしょうか。(^^;)

ご存じのように、ドラえもんの漫画も、ごく普通の日常生活が舞台なんですが、わたしの仕事においても狷常瓩箸いΩ斥佞禄斗廚淵ーワードです。
 
野比のび太は、勉強も運動も苦手で、弱虫のボケキャラ代表選手のような存在なわけですが、困ったことが起きるとすぐにドラえもんに泣きついたり、頼ったりしてしまいます。

そうしたときにドラえもんは、ポケットからさまざまな「ひみつ道具」を出してくるわけですが、ドラえもんは、のび太が直面している問題を、のび太の代わりに解決してしまうわけではないし、正解を教えるわけではありません。

ひみつ道具をつかうことで、問題がよりいっそう複雑にこじれたり、予期せぬ状況を生みだしたりします(笑)。

でも、その体験によって、のび太やドラえもんも含めたまわりの人が、いろんなことに気がついて、それまで見えていなかった大事なことが見えるようになったり、貴重な教訓を得たりするストーリー展開が多いわけですが・・・。

わたしは誰かが抱えている問題を、その人に成り代わって解決することはできないし、教えたいことを一方的に教えたところで、ほとんど意味をなさないように常々おもっているので、そういう意味でいうなら、わたしもまさにそうしたドラえもんのような存在といえるかもしれませんね。

あなたはどんなことで困っていますか? 何が学びたいですか?
 
寺子屋塾は、道具、場所、チャンス等を提供する爛札襯侫妊競ぅ鵐好ール(自分で自分をデザインする学びの場)瓠ΑΑΔ錣燭靴砲任ることは、あなたにしかない固有の問いを引き出し、学習課題をいっしょに探すことぐらいでしかありません。
 
らくだメソッドやトータルゲーム、未来デザイン技法などの未来対応型学習ツールは、きっとあなたの人生を豊かにする強力な味方になるとおもいますが、あくまでプレイヤーはあなた自身なのですから。
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らくだメソッド6ヶ月間の学習をふりかえって

昨年11月から寺子屋塾で学習されている本田信英さんが、6ヶ月間の学習をふりかえって文章を書いて下さいましたので、今日はそれをご紹介しようとおもいます。

 

本田さんが3ヶ月をふりかえっての文章は、こちらのblog記事でご紹介したことがあるので、読まれた方もいらっしゃるかもしれません。

 

以下、本田さんが書かれた文章です。

 

 

 

 

 

 ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪

 

 

 

半年を終えて             本田 信英

 

 

 

らくだメソッド(以下ラクダ)を始めて半年が過ぎた。

 

今、私は3ヶ月目の時とはまた違った状態にいる。

 

3ヶ月目までは「自分に気づく」ためのプロセスだった。今まで意識的あるいは無意識的に見ないようにしていたことがラクダを通して炙り出すような時間だったと思う。

 

それはまっさらな金脈で砂金を見つけ出すような行為だった。次から次へと発見があり、その作業はどちらかといえば楽しかった。「知っている」と思っていた私自身の知らない一面をどんどん知ることができたからだ。時には嫌なものも出てきたけれど、それは探索と発見のプロセスはとても愉快だった。

 

そして半年が過ぎた今、別の過程に移り変わってきたように感じる。

 

すなわち、「自分と向き合う」プロセスだ。

 

浮き彫りになった自分に気づいた。

 

ただそれだけではどうも前に進めないぞ、ということが朧ろげながらわかってきた。

 

気づいた以上はもはや、そのまま眼を逸らすことはできない。出先で自分の寝癖に気づくと、もうそのままにしておくのは辛いようなものだ。

 

けれど直そうと意気込んだらいきなり変わるものでもない。

 

なぜなら、それは自分が生きてきた年月だけ身体に染み込んだものだから。ちょっとやそっと染み抜きを使ったくらいでどうにかなるものでもない。

 

そこで初めて直面した。自分を変えることの難しさに。

 

こうしよう、と頭では思っていても身体は慣れ親しんだ方向へと動いてしまう。手ぐしではなかなか寝癖が直らないように、思い通りにならないのが歯がゆい。

 

自分の「出来なさ」と相対することが以前はそれほど辛くなかったけれど、今は少し辛く感じる。

 

そこにどんな違いがあるのだろうか?

 

自らに問いかけてみると、沈黙の後にポツポツと言葉が返ってくる。自分ができないことが当たり前ではなくなってきているのだ。だから「できないこと」が余計に際立って迫ってくる。

 

それは自分が前進している証だとわかっていても苦しい。

 

自分の嫌な面がどうにもならないことに苛立ちすら感じる。

 

3か月の時点での振り返りで、テニスの壁打ちの例を出したけれど、やはり練習すれば最初は上手くなる。伸び代ばかりだからだ。けれど、ある程度習熟してきた時に、一旦壁にぶつかる。成長自体は続いているのだけど、それは最初に比べればかなり緩やかになってしまっているからだ。

 

ともすれば、成長していないのではないかと不安がもたげる。

 

あらぬ方向にボールが飛ぶことはほとんどなくなった。けれど、逆にどれだけやってもスイートスポット(中心)から少しずつずれてしまう。そのズレに意識が向き始めると、もどかしさ歯がゆさが湧き上がってくる。たまにミスをして、とんでもない方向に飛んでいけば、ことさら疲労感がのしかかってくる。

 

それでもなお続けるということは一体どういうことなのだろうか?

 

止めてしまえばいいのに、夜遅くとも、疲れていようとも、私を机に向かわせるのはなんなのか?

 

そんな疑問を抱えながら毎日プリントへと向かっている。

 

そうして壁打ちを重ねていくと、だんだんそんなモヤモヤもどうでも良くなってくる瞬間がある。

 

考え疲れて、悩み疲れて半ば投げやりな気分で力が抜けてくる。

 

すると壁打ちの回数を数えることから、いかにペースを、すなわち自分自身を保つことができるかに意識が向き始める。つまり、いつまででも続けられると確信できる心身の状態があって、いかにそれを持続できるかが焦点になってくる。

 

「壁打ち」という行動をしていたはずなのに、その動作から抜け出して、いつの間にか自分との対話になっているのだ。

 

ただ、少しでも「良い状態だな」と自分で自覚した、その次の瞬間には慢心が生じて、安定した状態は崩壊してしまう。生き物として、常に変化し続けている人間がペースをキープし続けることがいかに難しいかを思い知らされている。

 

今はそんな状態だ。

 

私は自分の求めていた「明確なゴール」がないことに、朧げながら気づいてしまった。

 

それは井上さんとの会話の中でも既に知っていたことだけれど、実感した。

 

今は中学生のプリントをやっていて、このまま高校までのプリントを終えたとして、それでおしまいなのかと言われれば終わりはないのだ。

 

すなわち、100回やってミスしなくなっても1000回やったらミスが出てくる。1000回やってミスがなくても10000回やったらミスが出る。人間はパソコンではないから完璧にこなすことはできない。

 

つまり、どこにも終わりがないのだ。ただ、いつでも終わらせることはできる。

 

それは生きることと同じだったりする。

 

だから私は今、このラクダを通して、どうやって生きていくのかを考えているのだろう。

 

正直、なぜ毎日続けられているのが自分でも不思議なのだけど、きっとそういうことなのだと折り合いをつけている。(2016.6.1

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塾生の体験レポートをご紹介

教育現場で「学習者主体の学びの場づくり」ということが語られるようになって久しいです。
教える立場の人間が、自分の教えたいことを一方的に教えるやり方を軸としている限りは、この理念は単なるお題目にすぎないというか実現しません。
 
それで、寺子屋塾では、この「学習者主体の学びの場づくり」という課題にどこまで迫れるか、22年間実践を重ねてきました。
でも、「一人ひとり学ぶべき課題は各々異なる」ことを前提とした学びの場をつくろうとすれば、その教室でいったい何をやっているのか、先生の立場にあるわたしからは語れなくなってしまったのです。
そのアプローチを一言で表現するなら、「教えない教育」となるわけですが、それだけではまったく意味不明なので、最近は各々の塾生が何を学んでいるか、体験レポートを書いてもらっています。
 
ということで、今日は昨年12月から寺子屋塾で学習を開始した小出光優季さんが4月の初めに書いてくれたレポートをご紹介。
 
「セルフラーニングには他者の存在が重要」「プリントという他者、指導者であるわたしや他の塾生を鏡に、自分のなかにも他者を見出し、自分自身との対話が可能になる」「考えずに淡々と目の前のことに取り組んでいくことの大切さ」等について触れているんですが、わたしの書いている文章よりもずっとわかりやすいですよね。(^_^;)

以下、小出さんのレポートです。

 
 
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私は今まで塾と呼ばれるたぐいのものに通ったことがほとんどありませんでした。中学三年生のときに母が自宅で学習塾を開き、地域の子が勉強を教わりに来ていましたが、私にとってはいわゆる塾というよりは、自主学習の場でした。母からなにか教わることよりも、母がいる部屋で私が学習をしているということが私にとって重要であったことを覚えています。普段母は褒めることが苦手で、衝突することも多かったけれど、学習に関してはフラットに接してくれました。自室でひとり受験勉強をしているときは不安や焦りにおそわれ、ヒステリックになることもしょっちゅうで周りを困らせていました。私にとって自律学習は「今私は自律している」ということを誰かに認められて、初めて自律学習となり得たのだと思います。
 
寺子屋塾では学習者が自分で学ぶことを選択し、プリントを選び、量を決めていきます。記録表に日々の学習の様子を書き込み、定期的に先生に報告する。人は比較のなかで自分を見つけるものなのだ、そして比較とは順位をつけるということではなく、比較した物同士の距離について考察するということだということを感じました。なにができたのか、できなかったのか。それはどうしてだったんだろうか。自分の理想や、イメージ、最良の状態や調子の悪かったとき、様々なことと照らし合わしてその距離にあるものの中身を考えていく。自分の中にひとつのものしかないときには比較ができません。それは比較をする行為者自身にも言えることで、客観的に自分のことを見つめるためには、主体である自分とは別に客体を用意せねばなりません。客体とは主体の言い訳をしたり、逆に「自分が悪かった・怠けていた」と課題を見極めずに切り捨てるのではなく、そこにあった現象をありのまま受け止め、考察していく存在です。「教えない先生」を通して自分の中に主体と客体を生みだし、育てていくことができるのだと考えました。先に書いた、母との思い出についても、母を通して学習者である自分と、学習者を見つめる自分をその場に作り出すことが出来たのだと思います。
 
ただ、何かを考えるとか、課題を見つけるということはとてもむずかしい。人は毎日、膨大な量の「意識していない」思考のもと行動し、生活しています。ひとつひとつに「なぜだろう」とか課題意識を持っていては、あっという間に溺れて身動きが取れなくなってしまう。だから「淡々と続けていく」という一見考えるということとは間逆な行為が必要なのだと感じました。淡々と続けていくうちに、膨大なデータから、必要なものが残っていく。じわじわと焦点を定めていくような感覚がありました。


2016/04/04 小出 光優季


 
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いま小出さんは隔週の月曜に教室に来ています。
今日も夕方から中村教室に来ていたんですが、このレポートでも触れている「考えずに淡々とやるってどういうこと?」について、他の塾生数名との間でやりとりが始まって、なかなかイイ感じの対話の場が生まれていました。
 
小出さんはこのレポートを書いた直後ぐらいからblogまわるを書き始めたんですが、仕事のことや日常の雑感、らくだメソッドの気づき等書かれていますので、あわせてご覧下さいね〜 (^^)/
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5/3 寺子屋デイ2016,里簡鷙

寺子屋塾では2012年より毎年5月3日(憲法記念日)と11月3日(文化の日)の年2回、「寺子屋デイ」と銘打って塾生+αで集まりを持つようにしてきました。
 
その日に決めたのは、ちょうど半年に1回のインターバルになることと、両日とも曜日に左右されない祝日であることから、参加しやすい人が多く、日にちが固定で決まっていれば、仕事が入っていても休みをとるなどして、前もって予定を立てやすいという理由からです。

寺子屋デイを始めた頃は、各自研究テーマ決めての発表を行っていましたが、最近の寺子屋デイは、前半はインタビューゲーム、後半はインタビューを終えての気づきを共有しながらこの半年(〜1年)をふりかえり、フリーに意見交換するというスタイルに落ち着いてきました。

寺子屋塾の学習スタイルは体験学習中心であるわけですが、原則として教室に直接通う通塾コースの場合は週1回わたしと面談し、通信コースの場合は2週間に1回というインターバルで教材をやりとりするようにしているのは、一定のインターバルでそれまでの学習をふりかえるということが大切だからです。
 
よって、わたし自身も寺子屋デイの日には、それまでの半年間をふりかえってのハイライトを、できるだけ普段の教室ではあまり話していないような形で語るように心がけていますので、それをたのしみに集まってきてくれる人も中にはいたかもしれません。
 
GW後半3連休の初日という日に、直前のご案内だったにもかかわらず、今回の寺子屋デイは15名もの参加があり(うち塾生は12名)、地域資源長屋1Fの会議室がほぼ満席状態でした。
 
参加者数が奇数だったので、インタビューゲームにはわたしも参加し、後半のふりかえりはファシリテーターを務めたので、写真を撮るヒマがなかったのが残念!
 
もちろん写真があったとしても、あの場の空気感を伝えることは不可能なんですが、参加された皆さんにプログラム終了後に書いて下さった感想文をご紹介。(2名早退されたので13名分です)。
 




 
●人が紡ぎなおした物語は客観的に自らを見つめることができたし、物語となることで伝わるものが大きいと感じた。先回りして、聞いちゃいけないことかな(ご両親の離婚のこと)と思っていたが、敢えて聞いてみると、「両親が離婚してくれたことで、私は自由に海外にも行けてラッキーだった」という返答にとても愉快になった。楽しいことは、楽になること!!



●開き直ること・それが自分だということ・色々とすててシンプルになること。これまで井上先生の作って下さった場で得てきた気づきが、自分の日々の生活を生きやすくしていると思うことが多い。楽な人生を送っているなと再認識をした時間。ただ、それが他者にとってどうなのか、自分のやりたいことを本当にできているのか、また問いを続ける日々が続きそう。とりあえず有限の時間。動こう。



●自分を見たり、受容したり、認めたり、赦したり、味わったり…仕事でもプライベートでも、ずっとずっとしてたつもりなのに(ここ数年)また違う面が見えた。というより、同じ「自分」もいて何だかイタい(笑)。インタビューしてくれる人が変われば引き出される「自分」は違う。「自分」って多面、無限、形がない。つまり「自分」なんてやっぱりない!のだと思った。新しいこと、古いこと、知らないこと、おもしろいこと、おもしろい場所、ただありのままを受け入れてくれる場所。わたしって向上心とわがままの固まりだ。その固まりをたのしく体験していこう。これでOK。こういう場、こういう場が好きな方、いてくれてありがとう。



●自分と全く違った考えをもっている人達がいておもしろかった。自分が興味のある話題、ない話題がはっきりしていてそれもおもしろかった。自分のことは自分にしかわからないと感じていたけれど、他者を通して自分の本音に気づくこともあると知った。自分が思っていたより自分が好き。1年後、2年後、10年後とかにもインタビューゲームをしてみて、どんな変化があるのか知りたいと感じた。



●初めてインタビューゲームに参加しました。自分の話した内容で自己紹介されることがないので、こういう風に感じているのだなぁと思いました。インタビューゲームをする中で、相手に対しても共感や興味があると、自分の知らなかった気づきにもなれて、おもしろかったです。思考停止することより、自分の中の問いを捨てない。人がものがたりを語ったり、聞くことへの大切さを知りました。「物語を伝える→手放せる」という気づきもあり、まさしく今、ここにある向き合っているものに出会えたと思いました。
全体でのふりかえりでは、自分だけでは気がつかない問題点や言葉をもらえたので、とても良い時間になりました。



●インタビューゲームは2回目ですが、今回もワクワクしながら楽しい1日を過ごせました。自分のことを深掘りすることができ、気づきが多かったです。日常に流されて、漠然と過ごしている僕ですが、非日常の空間に身を置くと、身体の底から活き活きしてきます。井上先生の話は、なるほどの連続でした。今日出会った参加者の皆様の質問も参考になることが多かったです。自分を深掘りするのは快感と言われていた方がみえましたが、その通りだと思いました。インタビューをすると質問したいことがどんどんあふれてきて、時間が足りない位でした。インタビューゲームはワクワクの泉です。



●来る前は緊張していたけれど、インタビューゲームをしている頃には安心して話すことができた。自分が聞く側の時は、普段の会話ではなかなか聞けない質問(仕事のこと)をすることができた。相手の人から聞く話はとても魅力的で、感動したり驚いたり・・・。聞いてもらった時は、深める質問にドキっとしたが、それが心地良く感じた。まとめを読んでありがたいと思った。皆さんの話をきくのもおもしろかったし、ドキドキした。本人が書いたものでははない、インタビューした人がまとめたものを自己紹介として聞くのは不思議な感覚でした。ふりかえりの時間も貴重な話を聞けて、人となりも感じられて楽しかった。今日は充実した1日だった。ありがとうございました。



●これだけ多くの人の中でインタビューゲームをやることがなかったのでとても新鮮でした。人数が多いほどにそれぞれの視点も増えるので、振り返りの内容も深まるなと感じました。その人の今のあり方がとても良く現われていて、面白くて仕方がないです。
今日は話すことよりも、聴くことそして観察することに意識を向けていました。発言をしていない人も観察していると、その仕草から共感を示していたり、思考が刺激されていたりするのがわかりました。とても勉強になりました。今日参加された全ての方に感謝です。



●寺子屋デイに参加し、自己紹介にはじまり、インタビューゲームをしていく中で、自分が自分に爐海Δ靴覆韻譴覆覆蕕覆き甅犲分はこうだ瓩箸い枷(かせ)をしていることに気づきました。そして、その枷は、コミュニケ―ションについて、人に対してもしてしまっているのだと感じています。つまり、自分が不自由な状態で今、生きているという状態が浮かび上がってきました。その不自由な状態から、自由になっていくヒントがインタビューゲームの中にあったとおもいます。インタビューゲームのように、自分の日常に自分のルールを設けること、つまり主体的に生きること、そして人との関わりの中で自分の枷に気づき、再検証し、外すのか、そして新しい何かを選択し生きていくのか選ぶこと。それからインタビューゲームをし、みなさんの人生や考えを知ることで、自分の知らない人の価値観や世界を知ることが大切と感じました。



●感じたことがありすぎて表現できないという状態に今、おちいっています。人ってこんなに共感し合えるのに(今の場が異空間だからでしょうか)日常ではそうではないこともたくさんあります。今日、やっぱり人間に生まれてきて良かったと思いました。いかに自分をニュートラルな場所に置くか、また、相手や周りの状況は犇性瓩世箸いΔ海箸最近ようやく実感できてきた。今日、インタビューゲームを通して、さらにそれがよく分かりました。有り難うございました。



●相手にインタビューするとき(質問をするとき)、自分が問われている気持ちになった。インタビューされて答えているときもそうなのだが、相手に問うとき、それは自分が問われていること、問われたいこと、問われたくないことなのだと感じた。つまり「自分」がはっきりしてくる、あるいは、「自分」がある程度ないと、まともな質問はできない。また、自分のことをまとめてもらったとき、受容された気持ちになれた。結局この集まりを終えて「違い」がこんなにもうれしくすばらしいのだと思えた。「違う」命を精一杯生きている同朋を感じることが出来、勇気が出てきた。



●20分のインタビューゲームだけで、広い範囲で深い話ができたと思います。個人的には正解信仰という言葉に気づきがありました。何でも答えを見つけにいくことで、苦しみや無理が生まれ、またそれに悩んでいる私がいるんだということに気づきました。



●今日1日を終えて。まずは会場に入った瞬間、「おっ!!人が増えてる」と驚きました。教育、学びの場は様々あって、その多くの資源を選ぶ自由がある自分の環境に心からありがたいと感じると同時に、こういう、誰にも評価判断されない、主体的になれる学びがいま人々にとって旬になりつつあるのかなと思いました。
インタビューゲームのふりかえりをポストイットにいくつか書いていると、皆さんわりとポジティブなのに反して、「まだこうあるべきというべき・ねば感覚が手放せない」「自分のクセが気になってしまう」等と自分をディスっている自分の思いぐせに行きつきます。
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塾生のふりかえり文より(その2)

4/11の記事で、寺子屋塾を休会される際に塾生が書いた文をご紹介しました。

何に気づくか、何を学ぶかは各々で異なるということを書いたので、今日は、寺子屋塾で1年ほど学んだ別の塾生が休会する際に書いた文を紹介します。

 
●寺子屋塾の学習で気づいたこと、学んだこと

‖昭塢床舛ら自己受容へ
これまで他者評価ばかり気にしていましたが、自己評価の手法を知り、良い部分もダメな部分もそれぞれ許容できるようになりました。

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これまで仕事でこだわってきた部分が
ブリコラージュの考え方との出会いにより、うまく自分の中で整理でき、今後の仕事の目標ができました。

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せっかちな部分も多く、ささいなことで突発的に怒ることも多かったのですが、夫婦げんかの後、らくだプリントをしたことで怒りが消えてしまった経験から、少しの気分転換で怒りがおさまることを知り、怒りが長時間持続しなくなりました。

ぅ織をかける
自分が自分に制約を課すことの重要さがわかりました。

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職場の同僚にイライラしていたことも多かったのですが、大事にしていることや優先することが違うことがわかり、イライラを感じることが少なくなりました。

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少しでも歩み続ければゴールには届く。つまずいて転んでも膝がガタガタになり足を引きずってでもゴールには届く。ゴールに到達してもそれで終わりでなく、次のゴールに向けて歩みを続ける必要がある。

Т萎超人では無い
昔読んでいたキン肉マンに出てくる悪役の名称ですが、完璧であり続けようとし続けるのでは無く、ダメな自分も表面化させることも大事だと分かりました。
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塾生のふりかえり文より

入学、進学のシーズンですね。
 
でも、寺子屋塾には「入学式」も「卒業式」もありません。
 
いつでも、だれでも、どこででも、どのようにでも学べる場とチャンスをどう提供するか、つまり、「学びのバリアフリー」が寺子屋塾のテーマだからです。

在籍する期間についてももとくに定めはなく、月単位で更新していくシステムなので、いつお休みしてもいいし、いつからでも再開できるという風になっているんですが、入塾資格は、「寺子屋塾で学ぶ」と自分で決めた人ならどんな人でも受け入れるという方針を開塾当初から貫いてきました。

また、学ぶに適したタイミングは人によって異なり、いつから学んでも遅すぎるとか、早すぎるということはないと考えていて、入塾時点での過去最低年齢は2歳、最高年齢は74歳です。

体験学習中心の寺子屋塾ではふりかえりを重視しているので、在籍している塾生が途中で休会するときには、それまでの学習で気づいたこと、学んだこと、残されている課題は何かなどを書くように提案しているんですが、つぎの文章は、寺子屋塾で3年半ほど学んだひとりの塾生が休会する際に書いたものです。
 
●寺子屋塾の学習で気づいたこと、学んだこと

・人は自ら決めない限り、やらないし、続けられない(というより続けない)
 
・人と比較をしている限り、自分を見つめること、自分自身を見つけることはできない。
 
・できない人をみると自分と同じだとほっとする、できる人をみると自分とは違うと区別する。できることはいいことで、できないことは悪いことという固定概念で捉えてしまい、多様さ(学ぶ理由や取り組み方や気づき)に目が向かなくなってしまう。そのように1つの基準でしか物事ごとを捉えられないのは、もったいないし、貧しいなあと思います。

・自分は人生の中で、「決める」ことをしてこなかったのを実感しました。だからやれない、やらないし、前に進まないんだと気付きました。

・「まずやってみる」とは、頭ではなく心が感じたことを大切にしながら、目の前にあることに素直に取り組んでみるということだと学びました。そのためには、「自分はどう感じているか」と心を澄ますこと。その心の声を聴いてくれる相手がとても大切だということも学びました。そして、そっと背中を支えてくれる人、そっと背中を押してくれる人も大切だと思います。

・内田樹著『先生はえらい』の27頁に「先生は同じことを教えたのに、生徒は違うことを学んだ。』とあったんですが、らくだプリントは教えないけれど同じだなと思いました。
 
・この頃とくに資格試験が流行っています。就職に有利だとか実際職場で有用だとか理由はいろいろあるようですが、そうではない学びがこれからは求められるようになると思います。なぜなら、ますます学びの主体性が求められる時代だからです。『先生はえらい』に、「私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために私たちは学ぶのです」(33頁)とあったんですが、学びや働き方もこれからはもっと多様になっていくのではないでしょうか。
 
COMMENT:寺子屋塾では、どの塾生にも一律に何かを教えるということがなく、わたしも各々に異なった対応をしているので、学習のプロセスで何を気づき、何が学べたかについてもひとりひとり個々に異なります。
 
また、学習者の自己決定権を保障する関わり方を大切にしているので、こうした文章を書くことについてももちろん任意で強制ではありません。
 
よって、この文章はあくまでひとつの事例でしかなく、たとえば、これを読まれているあなたが入塾されても、ここに書かれたことが学べるというわけではないのですが、在籍している塾生が実際にどんな心持ちで、何を学んでいるかを知って頂くための参考としてご紹介しました。
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