往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。





一昨日の卦「天地否」について

天地否五変爻

一日一卦を続けています。

一昨日4/26(水)は天地否の卦が立ち、今年2回目でした。
易の卦は8×8=64通りですから、
確率的にいえば、一つの卦が出る確率は1/64です。

1年は365日ですから、平均すれば1年でだいたい5〜6回というところですね。
一昨日は今年になってから116日目でしたから、
2回目というのは確率の面からすれば概ね順当なところです。

各々の卦の出た回数が、どのぐらいのばらつきがあるのかも
1年間全体で調べてみると面白いかもしれませんね。


天地否

さて、「否」という漢字から、
また、上記の塞がった感じの図象をみるだけでも、
この卦は吉凶の判断でいえば、
「凶」または「大凶」だろうとおおかた予想がつくとおもいます。

正直、あまり出て欲しくない卦ですが、
人生上においては必ずそういうときも訪れるわけですし、
受け取り方によっては、なかなか味わい深い卦でもあり、
人はこういう不遇のときこそ、そこにどう対処するかで
真価が試されるということなんでしょう。


次の図は、本卦と変爻を施した之卦を表しています。
天地否の五変爻

サイコロ「5」の目が変爻を表しているので、
下から5番目の爻が陰陽反転(陰→陽、あるいは陽→陰)となり、
之卦は「火地晉」となります。

火地晉


河村真光さんの『易経読本 入門と実践』に書かれている
「天地否」についての文章が素晴らしい内容でしたので、
以下にご紹介します。 

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12.天地否の五爻変、火地晉に之く
 
【卦辞とその読み下し文】
否。之匪人。不利君子貞。大往小来。
 

否(ひ)の人(ひと)にあらざる。君子(くんし)の貞(てい)に利(り)あらず。大(だい)往(ゆ)き小(しょう)来(きた)る。
 
【爻辞とその読み下し文】
休否。大人吉。基亡基亡。繋于苞桑。
 
否(ひ)を休(きゅう)す。大人(たいじん)は吉(きち)。其(そ)れ亡(ほろ)びなん、其(そ)れ亡(ほろ)びなん、苞桑(ほうそう)に繫(つな)がる。
 
【キーワード】
・天地否:停滞
・火地晉:進歩
 
【表面に表れたヒント】
・リズムが変調し、歯車が噛み合わない。何をするにも気力が湧かない。
・迷い悩み、行き詰まる。しかし、閉塞状況は生きている限り誰の上にも等しく起こることである。
・腰を据えて時の来るのをひたすら待つ。そして次の飛躍に備えること。
 
【ヒントを解釈する指針】
・行き詰まりもいつか解決する。挽回も近い。しかし、そういう時は油断しやすいので気をつけること。
 
【背後に隠された機微】
・リズムが正常に戻り、気力が満ちてくる。見えなかったものが見えるようになる。功績をあげ厚遇を受ける。
・自然の摂理に従うこと。



ここまでは、毎日facebookに投稿している内容なんですが、
これは高島易断を解説したこちらのサイト
「易経で粒焼」のサイトを借用させていただいています。

易経で粒焼のトップページには、
サイコロ3つ(8面サイコロ2+6面サイコロ1)をお持ちでなくても
ワンクリックで易を立てられるようになっています。

サイコロを振っている時間がなかったときなど、
このページにお世話になったことが何度かありました。

天地否の6種類の変爻についてのガイド文はこちらをどうぞ



【卦辞・象徴】
天地否の否は<塞がる>、<とじる>、つまり否定である。天(乾)の陽気は上昇し、地(坤)の陰気は下降するので、それぞれ互いに離れ離れとなり、いつまでも交わることはない。否は前の地天泰の天地を逆転した象である。泰はわが世の春を謳歌したが、否は今や八方ふさがりの閉塞状況にある。落ち込むだけ落ち込み、抜け出す気すら起きず、今や打つ手なしという有様である。

否は内に陰が成長し、陽が外に駆逐されようとしている象でもある、互いに排斥し合うので、これではなにも生まれない。それは人道からも外れているので、否は「人にあらざる」となる。続いて、「君子の貞に利あらず」、この状態なら、いかに君子が正道を踏み、正しく実を慎んでも、所詮どうにもならない。厳しいがそれは、「大征き(陽が去り)、小来る(陰がもどる)」からである。だがこれではまったく身も蓋もない。

天地否の卦は、対応する直前の地天泰と併せてよむとわかりやすい。この場合、明らかに陰は悪であり、陽は善である。しかし、この世は一瞬も遅滞なく循環している、これが易の基本である。万物はことごとく流転し、有為転変こそが常態であるから、きのうまで有ったのも1日経てばなくなり変幻自在である。つまりはすべてが循環して止まぬからである。

地天泰も天地否も、時に浮上しまた消え去る。それ自体まことに自然であり、多くは自覚することなく刻々経過している。自然界は陰と陽が常に絶妙のバランスを保ちながら、偏ることなく活発自在に交流しているから、そこでは、泰も否もよどんだまま停滞することはない。しかし人間界は少し違う、と易の作者は考えたのかもしれない。

というのも、この宇宙にはみえざる不思議なエネルギーが満ちあふれていて、あらゆる生命はそれを摂取し、それを滋養とする機能を備えているが、人間だけは、しばしば機能障害を起こし、この「気」をスムーズに採り入れることができなくなる。こうなると否の停滞現象が起きる。<塞がる>が常態となり、そこから容易に抜け出せなくなる。即ち天地否は生命のリズムに乱れが生じ、宇宙にみなぎる「気」をスムーズに取り込むことができなくなる状態である。

私たちの周囲を見渡せば、否が不自然によどんで停滞しているケースはなにも珍しくはない。理由もなく、なぜか気が晴れない、気が重い、気が塞がるといった憂鬱な症状が生じ、何をしても当然うまく運ばない。だがそれも致し方ない。そうなれば腹をくくって、後は時を待つしかない。陰極まれば、次は陽に転ずるのが天地の変わらざる理法だからである。


【事例・要約】
天地否という言葉から受ける印象は、天地の大法則を否定しているような、いかにも何か不自然なものがあるが、ともかく天地否は、右も左も真っ暗闇の閉塞状態であり、まさしく異常事態であり暗黒時代である。

たしかに苦しいが、しかし切り抜けるには、ひたすら否を甘んじて受け入れることである。少なくとも、過敏に考えるのは百害あって一利なしで、天地否は、要するに何をしてもうまくいかない、やることなすこと失敗する、前向きの気力が湧かない、そうした不調を表すものであるが、そうした「時」があるということは、人は周りと比較して思うのではない。逆に何をしても好調という時期が、本人にこれまであったせいである。

記憶の上では、それはすでに消えているかもしれない。しかし潜在的な意識は決して忘れてはいない。いざ思い出そうとしても、それは記憶の中からすぐには取り出せない、いわば隠された楽しい思い出というものもある。

物事すべてが順調に運んでいると、最初のうちはともかく、次第に順調であること自体、不思議でも何でもなくなり、しまいにはこれが当然と思えるようになる。そうした「時」は、まず記憶に残らない。しかし、潜在的な意識は覚えていて、深層からそれは生涯消えることはない。あたかも胎内で過ごした期間のように、あくまで顕在意識としては覚えていない。ただそれだけのことである。

そうした安らかな「時」を、人は必ず体験しているので、逆に否もまた認識することができるのである。第一易では、天地否の錯卦・綜卦はいずれも地天泰である。このことは、否はいずれは泰に移行することを示すが、同時に泰を体験した者だけが否もまた味わうことになる。

易が全巻を通じて首尾一貫奏でる基調旋律は、変わるということと変わらぬということ、「変易」と「不易」、この二つの対立する概念である。宇宙は刻々と変化し、人間世界も移り変わる。昨日は再び帰らず、今この一瞬は、もはや二度と再現しない。だがこうした動きにも、不易なるもの、つまり絶対に変わらぬものがある。年々歳々花相似たり、だが同じく歳々年々人同じからず。このように万象は変わるものと変わらぬものとで成り立っている。

つまり私たちの周りで何事が起きようともそれは決してでたらめで気まぐれのものではなく、あくまで厳然たる法則性のものに展開している。情けないことに多くは私たちにはただ見えないだけである。

これを一言で言えば、一寸先は闇であり、同じくまた光明でもある。昼あればこそ夜もある。夜あればこそ昼もあるので、夜に昼を望んだところで無い物ねだりにすぎない。よって、否をいたずらに畏れ、落ち込む必要はなく、意味のない不毛とみなす姿勢も誤りであろう。

 

易経読本
 
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モーツアルト「トルコ行進曲」十態

今日は音楽の話題を。

 

W.A.モーツアルト作曲「ピアノソナタ K331 イ長調」は、

3つの楽章からできているんですが、

ソナタ形式の曲がひとつもないのに
「ピアノソナタ」と称された珍しい作品でもあります。
 

wikipediaによると、この曲は1783年頃にウィーン、
もしくはザルツブルグで作曲されたというのが定説で、
1778年頃にパリで作曲されたという説もあるそうです。
 
いずれにしても300年以上も前の時代に作曲された音楽が
今日もなお演奏されたり聴かれたりすること自体、凄いことですよね。
 

 

第3楽章は、Rondo Alla Turca(トルコ風のロンド)と冒頭に指示があり、

「トルコ行進曲」として超有名なんですが、
ピアノを弾く人にとっては演奏したくなる曲のようです。
 
わたしがこの曲を最初に聞いたのは、
たぶん小学校3年生くらいのきだったとおもうんですが、
わたしもご多分に漏れず、
いつかは弾けるようになりたいなぁとおもったものです。
 
さて、最近はYouTubeにいろんな映像が上がっているので、
今日はこの「トルコ行進曲」の聞き比べをしてみようかと。
 
まずは、フジ子ヘミングによるライブ演奏です。
 


つぎは中国のピアニスト、ラン・ラン(Lang Lang)の演奏。
フジ子さんの1.5倍速ぐらいのスピードで、エネルギッシュですね。
 


カナダの鬼才グレン・グールドの演奏(古い録音で映像はイメージのみです)
これは逆にラン・ランの1/2ぐらいの超ゆっくりさで、
こうなると「行進曲」というより「お散歩」ですね。笑
 


次はのだめ カンタービレ。コンセルヴァトワールの試験でのだめが弾くシーンです。
ちなみに、演奏は吹き替えで、女優の上野樹里さんが弾いているのではなく、
ピアニストの清塚信也さんです。
 


ここからはオリジナルをアレンジした演奏で、まずは短調と長調の入れ替えヴァージョン。
トルコ行進曲の原曲は、短調で始まって長調で終わるんですが、
途中長調になったり短調になったりめまぐるしく変わっています。
それを全部ひっくり返し、短調の部分を長調に、長調を短調に変えて弾いていて、
長調で始まり短調で終わる形になっているので、
原曲を知っている人には、何となく違和感があるんですが、
音楽として間違っているわけではないので、こういう曲もあるのかなとおもえてきますね。
 


次はひたすら別の調に移調していくバージョンですが、
こちらは何ともシュールな感じですね。
 


次はファジル・サイの演奏。サイはトルコ出身の作曲家&ピアニストということで、
トルコ行進曲を自身のトレードマークとしてJazz風にアレンジして弾いているんですが、
最初はJazzではないオリジナルの演奏を。
右手の旋律で譜面にない装飾音を混ぜてるところが若干ありますが、ほぼ原曲通りです。
 

次はファジル・サイ編曲による十八番の演奏JAZZ風ヴァージョン。
2006年に来日した際、コンサートのアンコール曲として演奏されたもの。
このアレンジは好評で譜面も出版され、サイ以外にも演奏する人が少なくありません。
 


次はヴォロドスというピアニストが編曲した超絶技巧ヴァージョン。
これも譜面が出版されているのでいろんな人が弾いているんですが、
超絶技巧で知られる女流ピアニスト、ユジャ・ワンの演奏です。
 


さいごに、前の演奏を編曲したヴォロドス自身によるライブ演奏です。
 

十態ですので、ここまでなんですが、番外編としてピアノ以外の演奏をおまけとして2つ。

ひとつめは、斎藤晴彦さんの唄うクラシックバージョンの「トルコ行進曲」
生映像はYouTubeに上がっていなかったんですが、歌詞がありました。
ソープランドという名前が使われるようになったのが1984年のことなので、
若い人たちには「トルコ風呂」いう言葉がかつて何を意味していたかなんて
まったく想像もつかない話でしょうが・・・


 
ふたつめは、由紀さおりさんと安田祥子さんのデュオでスキャットバージョン。





いずれも素晴らしい演奏でしたが、
ここまで聞くと、もう「おなかいっぱい!」って感じですよね。笑
 
聞いて下さった方、ホントにおつかれさまでした!
 
それにしても、たったひとつの作品でも、演奏する人によってさまざまな解釈が可能で、
その表現には、ここまでの大きな違いを生じせしめるんですね。
 
まずは、そのこと自体に驚きを禁じ得ません。

つまり、オリジナルと異なったスタイルにアレンジされ演奏されることの多い
J.S.バッハの作品などにも言えることですが、
こんなふうにいろいろな変化形を可能にするのは、
モトの音楽が計り知れないくらいの大きな猴焦鬮瓩鮖っていることに
起因するのではないかとおもいました。
 
おそらく、すばらしい芸術作品とは、その作品自体の完成度が高いということの他にも、
さまざまな解釈や改変を許容する犂錣旅さ瓩箸いν彖任あるのでしょう。
 
もし、モーツアルト自身がこれらの演奏を聞いたら、どうおもうでしょうか?
 
驚愕し激怒したかも・・・と一瞬はおもいましたが、いやいや、
平然として「オレってやっぱり天才だよなぁ〜」って悦に入ってたかもしれませんね。笑

・・・ということで、お後がよろしいようで。
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吉本隆明「恋唄」

吉本隆明詩集

 


九月はしるべのなかった恋のあとの月
すこし革められた風と街路樹のかたちによって
こころよ こころもまた向きを変えねばなるまい


あらゆることは勘定したよりもすこし不遇に
予想したよりもすこし苦しくなる
わたしが恋をしたら
世界は掌をさすようにすべてを打明け
幸せとか不幸とかいう言葉をつかわずに
ただひどく濃密ににじりよってきた
圧しつぶそうとしながら世界はありったけ
その醜悪な貌をみせてくれた
おう わたしは独りでに死のちかくまで行ってしまった


いつもの街路でゆき遇うのに
きみがまったく別の世界のように視えたものだ
言葉や眼ざしや非難も
ここまでは届かなかったものだ


あっちからこっちへ非難を運搬して
きみが口説を販っているあいだ
わたしは何遍も手斧をふりあげて世界を殺そうとしていた
あっちとこっちを闘わせて
きみが客銭を集めているとき
わたしはどうしてもひとりの人間さえ倒しかねていた
惨劇にはきっと被害者と加害者の名前が録されるのに
恋にはきっとちりばめられた祝辞があるのに
つまりわたしはこの世界のからくりがみたいばっかりに
惨劇からはじまってやっと恋におわる
きみに視えない街を歩いてきたのだ
かんがえてもみたまえ
わたしはすこしは非難に鍛えられてきたので
いま世界とたたかうこともできるのである

 

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吉本隆明さんの一番好きな写真

さよなら吉本隆明 裏表紙


今日は、吉本隆明さんの写真のなかからわたしが一番好きな1まいをご紹介。
 

この写真は、2012年に亡くなられた直後、
追悼号として出された別冊文藝『さよなら吉本隆明』の裏表紙にあるんですが、
子どもたちが遊んでいる路地裏を
買い物袋を手にした吉本さんが歩いている姿を写したものです。

 
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高橋悠治さんが3/30NHK-BSクラシック倶楽部に出演

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わたしが高校3年のときに出会い、人生の師として永く私淑している高橋悠治さんは、今年9/21の誕生日がやってくると79歳、数え歳で80歳となり卒寿を迎えられますが、今なお創作・演奏・執筆と現役で活躍されている音楽家です。
 
3/30の早朝に放映されたTV番組に、その高橋悠治さんが久しぶりに出演(NHK-BSクラシック倶楽部)されてました。

その日のblog記事で紹介した「あけがたにくる人よ」は、番組の最初で波多野睦美さんが歌われた、悠治さん作の歌曲作品。
永瀬清子さんが81歳のときに書かれた詞とのことですが、とっても瑞々しい内容ですね。

さて、今日はそのときに弾いていたピアノのことを書いてみようと。
 
そのピアノは、鍵盤が97鍵もある(8オクターブ)ベーゼンドルファー/インペリアル290というハイエンドモデルでした。
 
世にあるアコースティックのピアノはほとんど88鍵(7オクターブ1/4)で最低音はA音なんですが、このピアノはその長六度下のC音まであって9鍵多く、88鍵しかない他のピアノで馴れたピアニストが間違えて弾かないよう、写真のように白鍵部分も黒く塗りつぶされています。
 
なぜ97鍵なのかという理由は、ベーゼンドルファー公式Websiteの記述では、ピアニストで作曲家だったフエルッチョ・ブゾーニの要請だったとのことです。そのブゾーニが編曲したバッハの作品や、モーリス・ラヴェル「洋上の小舟」、バルトーク・ベーラ「ピアノ協奏曲第2番」などに97鍵盤のピアノでないと弾けない音が出てくるそうなんですが、全体としてみればそれほど多くはありません。

スタインウェイのピアノが使われることが多いのに、敢えてベーゼンドルファーの、しかも97鍵のインペリアルを選んだのはナゼなのか? その理由までは番組内では語られていませんでしたが、たぶん何らかの目的があったのでしょう。



ピアノ右側面に刻印されたロゴBösendorfer瓩見えるアングル

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最後のバッハ平均律6番の演奏では、珍しくこのように上から撮影するアングルもあって、97鍵のピアノを使っていることを見せたい意図を感じました。

2017-04-01 11.48.56.jpg
  ↑↑↑↑↑
黒い白鍵が5つ見えますね。


さて、今回の番組はライブではなくスタジオ録音で、冒頭から悠治さんが自らナレーションを語り、曲の合間には演奏する曲目の解説のほかにも、共演者である波多野さん、栃尾さん、写真を撮られた平野多呂さんの談話や悠治さんのコトバを挟み込むという、わたしのようなファンにはたまらない構成になっていました。まぁマニアックといえばマニアックですが・・・笑


番組内で悠治さんの朗読で紹介された悠治さんのコトバはつぎのとおり。

●音楽は社会と歴史の中で生まれ
 絡み合う音の網がうごきながら
 ことばにならない内側の感情や感覚
 まわりにある空間のひろがりの感触の記憶を残して
 消えていきます
 即興のあそびであり 音の発見であり
 残された記録を読み直すのが演奏で
 そこからまた別な音楽が生まれるかもしれない

●さまざまな音楽が響き合って
 今の世界を映しています
 音楽は
 記憶と希望を呼びさますこともある
 音楽のある場所で人は
 ひとりでないことを感じます



♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪

【番組データ】
放映日時:3/30(木) AM5:00〜5:55
番組名:NHK BS クラシック倶楽部
タイトル:高橋悠治 in NHK 〜時代を超えて 音楽の輪を回す〜
出演:「風ぐるま」(高橋悠治、波多野睦美、栃尾克樹)
撮影:平野太呂
ナレーション:高橋悠治

【演奏曲目】
・永瀬清子の詩による「あけがたにくる人よ」
・Schubert: Ellens Gesang II, III (Ave Maria) (1825)
・Schubert の詩による Klage an das Volk(民衆に訴える)(2005)
・Marin Marais: Le Tableau de l'Opération de la Taille(膀胱結石手術図)(1725)
・「網膜裂孔」(2013)
・Ivor Gurney: Sleep (1912)
・Gurneyの詩による Bach and The Sentry (2013)
・Bach: Prelude and Fugue in D minor Well-Tempered Clavier vol.1 no. 6 BWV. 851 (1722)

【見どころ】
作曲・演奏・文筆と多彩な活動を続ける高橋悠治が自作曲とそれにつらなる過去の音楽を集め、2017年1月にNHKで演奏。収録の様子は、幼い頃から高橋を見てきた写真家・平野太呂が撮影。今回の楽曲や自身の音楽観について、高橋が自らのナレーションで語り、平野の写真とあわせて高橋悠治の「現在」を伝える。共演は高橋のユニット「風ぐるま」で共に活動をしているメゾ・ソプラノの波多野睦美とバリトンサックスの栃尾克樹
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永瀬清子「あけがたにくる人よ」

永瀬清子

あけがたにくる人よ
 永瀬 清子(1906〜1995)

 

 

あけがたにくる人よ
ててっぽっぽうの声のする方から
私の所へしずかにしずかにくる人よ
一生の山坂は蒼くたとえようもなくきびしく
わたしはいま老いてしまって
ほかの年よりと同じに
若かった日のことを千万遍恋うている

 

その時私は家出しようとして
小さなバスケット一つをさげて
足は宙にふるえていた
どこへいくとも自分でわからず
恋している自分の心だけがたよりで
若さ、それは苦しさだった

 

その時あなたが来てくれればよかったのに
その時あなたは来てくれなかった
どんなに待っているか
道べりの柳の木に云えばよかったのか
吹く風の小さな渦に頼めばよかったのか

あなたの耳はあまりに遠く
茜色の向うで汽車が汽笛をあげるように
通りすぎていってしまった

 

もう過ぎてしまった
いま来てもつぐなえぬ
一生は過ぎてしまったのに
あけがたにくる人よ
ててっぽっぽうの声のする方から
私の方へしずかにしずかにくる人よ
足音もなくて何しにくる人よ
涙流させにだけくる人よ


 

永瀬清子『あけがたにくる人よ』(思潮社・1989年)より

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ドビュッシー「水の反映」(映像第1集より)

フランスの作曲家クロード・ドビュッシーが1905年に作曲した「映像第1集」という3曲からなるピアノ曲集があります。
 

この「映像・第1集」は、ドビュッシー自身が「シューマンの左かショパンの右に位置するだろう」と述べたといわれる自信作なんですが、3曲のうちでもっとも有名なのが第1曲の「水の反映」です。
 

この曲を3年前のお盆休みにわが家のピアノ(ヤマハC3A)で弾いたときの映像をYouTubeに上げてあったんですが、こちらのblogでは一度も紹介したことがなかったことをおもいだしたので、今日はそれを。
 

わたしは高校1年になってからピアノを練習し始めたんですが、ちょうどそのちょうど頃に、テレビでピアニストの野島稔さんがこの曲を演奏されているのを偶然に観て「世の中にはこんな素敵なピアノ曲があったのか!」「ドビュッシーすごい!天才!」とめちゃくちゃ感動し、いつか自分も弾けるようになれたらイイなぁ・・・とずっと想い続けて練習してきた曲です。
 

最初の出だしの和音がちょっと濁ってしまうなど、ところどころ音を外してはいるものの、致命的ミスを犯して止まってしまったり弾き直したりすることはなく、ゴマカシながらも何とか最後までたどり着いたという感じなんですが・・
 

まあ、幸い誰もが知っているほど超有名な曲ではないので、この曲をよく知らない人が聴けば、弾けているように聞こえるかも・・ということで。。(^^;)
 

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ストラヴィンスキーのことば

9517.jpg


音楽はその本質からして感情、態度、自然現象ほかいかなるものも表現しえない。


※20世紀最大の音楽家のひとりといわれる

 イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882〜1971:ロシアで生まれアメリカにて歿)のことば




 
次の絵はパブロ・ピカソが描いたストラヴィンスキーの肖像画
Pablo-Picasso-Portrait-of-Igor-Stravinsky.JPG


つぎもピカソですが、1918年に作曲された「11楽器のためのラグタイム」の楽譜の表紙を飾る、一筆書きによる2人の楽士
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ピアノも達者で、指揮、作曲とマルチな才能を発揮した音楽家でした。
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あまり有名ではありませんが1924年にピアノ・ソナタも作曲しています。


なぜこの言葉を採りあげたか、またストラヴィンスキーの音楽について、もうちょっと突っ込んだことを知りたいという方は、こちらのページに紹介されている、ストラヴィンスキーが亡くなった際の作曲家・伊福部昭さんの談話などご覧になってみてください。
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鈴木清順さんの『陽炎座』のこと


映画監督の鈴木清順さんが2/13に93才で亡くなられました。
 
松田優作さん主演の映画『陽炎座』(1981年)を観て
清順さん独特の美学にはじめて触れたのは、
まだわたしが進学塾で小中学生を教えていた30才を過ぎた頃でした。
 
1980年に公開された映画『ツィゴイネルワイゼン』とともに
狎興舂フイルム歌舞伎瓩半匆陲気譴襪海箸梁燭い海虜酩覆蓮
登場する人たちがみな生きているようでもあり死んでいるようでもあり、
時間を行ったり来たり、とっても不思議なストーリー展開で
・・というか、通常でいうストーリー的なものは無いに等しいんですが、
とりわけクライマックスといえる陽炎座の芝居小屋崩落シーンは圧巻で、
わたしにとって忘れることのできない映画です。
 
なぜこういう映画に惹かれるかについて、ここでくわしく書く余裕はないので、
生い立ちについて触れたこちらの記事などをごらんください。
 
この2作についてもう少しちょっと詳しく知りたい方は、
佐藤モリユキさんによるこちらの記事など参考になるかもしれません。
 
陽炎座のハイライトシーンがYouTubeに上がっていましたので、
2作の予告編とともにご紹介することで
ご冥福をいのりたいとおもいます。




posted by Akinosuke Inoue 17:24comments(0)trackbacks(0)pookmark





凶、大凶の日々が続いています

水火既済


昨年の元旦から始めた1日1卦をずっと続けているんですが、

2月になって体調が下降してからは
天地否、沢天夬、天水訟、山地剝、水山蹇・・・続々と凶とされる卦が。
 

また、本卦では64卦の中で比較的良い方とされている卦が立ったときでも
変爻で凶、大凶とされている卦が出ることも少なくなく、
2月にはいってからは全体のなんと6〜7割が凶または大凶という
大須観音のおみくじのような状況です。笑

でも、大須観音の・・・といっても、このローカルネタは
名古屋に縁のある一部の人にしかわかりませんね。

こちらのblog記事など参考にご覧下さい。
 

とりわけ昨日は水沢節の三爻変、
今日は沢風大過の三爻変がでて、棟木撓む・・凶!
まさに自分の現状が浮き彫りになっているなぁとおもったんですが、
易ってホントにフシギです。
どうしてわかるんでしょうねぇ・・。
 

まあ、「禍福は糾える縄の如し」とのことわざどおりで、
生きていて良いことばかりってことはないけれど、
悪いことばかりがずっと永遠に続くということもありません。

沢風大過の卦辞は、
棟(むなぎ)撓(たわ)む。往(ゆ)くところに利あり。亨(とお)る。
とあり、
棟木がたわむほどの乗るか反るか、大変な状況なんだけれど、
こうした難所を乗りきってゆくことで道が拓けていく、という意味になるので、
今が正念場というか、辛抱のしどころなのでしょう。
 


さて、最近は
「井上さんがfacebookに毎朝アップされているあのサイコロっていったい何ですか?」
って聞かれることが増えてきました。
 

今年になってから、易の本随とされる水火既済の卦が3回立ったんですが、
その3回がいずれもわたしにとって大切な日ばかりだったことに気づいて
(→1/24は寺子屋塾創立&結婚記念日、2/6は父親の誕生日、2/21は高校時代の親友の命日)
これも何かの巡り合わせなのでしょうね。
 

それで今日は、主治医の豊岡先生から奨められた
河村真光『易経読本 入門と実践』から
この「水火既済」の意味について触れたところをご紹介しようとおもいます。

河村さんはこの書のなかで、易の本質を理解するのに
勝海舟の回顧録『氷川清話』『海舟座談』を奨められているんですが、
あわせて読まれるといいかもしれません。



●水火既済

水火既済の既済とは、既(おわ)り済(す)む、すなわち完成・完結を意味する。済という字は、川を意味する水(氵・さんずい)と音をあらわす斉(さい・せい)の合字で、川を渡る、成し遂げる、終わるを意味する。

それにしてもこの既済(完結)の次が未済(未完成)なので、易の構成は皮肉にも最終回が未だ済(な)らずの未済となる。ともかく64卦は既済と未済でもって完了する。ただしそれはあくまで表面上で、実質的には再び乾・坤に戻りそこから新たに始まるのである。見落とせないのは、この両卦は明らかに全64卦の総括であり、易の真髄がここには端的に要約されていることである。

変化の書である易は、ものはみな循環して止まないとする、これが即ち第一義であり最も基本的な概念である。だから易の作者は、この世には何一つ完結などはなく、極みに到達したということは、取りも直さずすでに下降に入ったことを意味し、終わりは即ち始めとなるとみなすのである。

・・・中略・・・

・・・要するにこの世のからくりとは、ある意味ではこの世の真の象でもある。何一つ完結するものがなく(未済)、しかもすべてが緊密に絡み合ったまま(既済)、どこまでいっても解きほぐすことのできない、いわばこの世の独特の構造(既済=未済)である。ともかく人間は、それを背負って死ぬまで生きなくてはならない。

私たちはみなそれを知っていながら、あからさまに認め、直視する勇気がないので、いつも目をそらしている。だが、この水火既済というのは、それを人はみとめなければ、いくら救いを求めても如何ともしがたい、ただそれを言っているのではないか、と私にはおもわれるのである。

では実際に占ってこの卦を得たなら、どのように解釈すればよいか。表面的な事柄にまどわされず、隠された本質に目をそそぐこと。求める答えは意外なところにひそんでいるかもしれない。うわべや見かけだけに惑わされてはならない。


河村真光『易経読本 入門と実践』(光村推古書院)より

posted by Akinosuke Inoue 17:54comments(0)trackbacks(0)pookmark