往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。





治さない医療とは?

病気になると誰もが治そうとするが、
自然治癒力は誰の身体にも例外なく備わっているのだから
その自然治癒力が働くようにするだけで、

病気は自然に治っていくはずなのに

現実には治る病気と治らない病気があるのは、

いったいどうしてだろう?

病気を嫌がる人は多いけれど、
その人がどんな病気になり、

その病気が治るか治らないかは
まわりの人との関係や

その人自身の心の持ち方、考え方と

無関係でないように思えるし、

まさに病気とはその人の人生そのものともいえる。


そうであるなら、たぶんどのような病気であっても、

その人にとってその病気が必要だったからで
病気のままでいるのも病気が治っていくのも、

その人自身の選択だと考えると
病気をいかに治すかということよりも、

病気になったこと自体の方に

意味があるように思えてくる。


よって、その病気をまわりの人間が治してしまうことは
せっかくなった病気をとりあげてしまうことになるわけで、
病気になったことの意味がなくなってしまうのかもしれない。


病気になるのもその人自身の選択で、

病気を治すのもその人自身で選択であるとするなら、
医師の役割は病気を治すことにはなく、
どうしてその病気になったかをその人が自分で気づき
その人自身の中に病気を治す力があることに
気づくように援助することではないだろうか。

そうすると、病気にならないように注意を払うことよりも
いつ病気になっても大丈夫と思えるように日々を過ごし
病気とどう付き合って行くかを工夫することの方が
大事なことのように思えてきた。(2000.7.10)

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おもい通りに行かないから面白い

体験するためにこの世に生まれてきたのなら

自分のおもい通りに行かないからこそ、
生きていて面白いのだ。


もし、すべてのことが予定通り
おもい通りに運ぶのならば、
生きてみるだけの価値などない。(2000.6.11)
            

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ありのままの自分=都合のいい自分?

さなぎから羽化した蝶

 

ありのままでいることの大事さについて語られることを最近よく耳にします。

 

でも、ありのままをきちんと見て受容することを、

自分を固定化させ、決めつけ、

「そのままでいいさ」と開き直ることと勘違い、

混同しているんじゃないかとおもうこともすくなくありません。

 

もちろん、勘違いや混同というのは

人間が学んでいくプロセスで少なからず起こり得るので、

そのことを良くないと言いたいわけではないんですが、

「ありのままが大事!」と力説している人ほど、

そのことに気づく前の姿と、気づいた後の姿の間に

あまり変化がないようにみえるのは、わたしだけでしょうか・・笑

 

ありのままの自分でいられることとは、

つまり、犲己受容瓩噺世ご垢┐討發いい里任垢、

理想の自分の姿をアタマで描いて、

それに向かって頑張るようなことを一切止めることですから、

頑張って努力しないと得られないものではありません。

 

ましてや、ビデオを観て学習したり

犲己受容瓮札潺福爾鮗けたりする必要もないのですが、笑

でも、もし、いのちある存在として、いまの自分の全体を、

あるがままにちゃんと見つめられたら、

その瞬間に、質的な変化を遂げているはずなのです。

 

そしてその変化とは、

たとえるなら青虫がさなぎを経て蝶になるような、

ある面からみればまったく自然な流れに沿っていて、

なおかつ根本的な変化です。

 

よって、もし「ありのままが大事」だと頭では理解できているのに、

何も変わってないなぁ・・と感じられるようなら、

自分に都合のいいところだけ切り取って、

それを爐△蠅里泙洵瓩箸靴討い覆いどうか、

自分の全体をちゃんと見ようとすることを避けていないか問い直し、

自分に見えていない盲点がまだまだあるのかもと

考えた方がよいのではないでしょうか。

 

 

 

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ホンモノを見抜く眼をもつこと

教える教育をしている人にも
教えられないことが
いくつかあるとおもうのですが、
そのひとつが
ホンモノを見抜く眼をもつことです。

そもそもそうした眼をもっていない人には
どうしたらそういう眼がもてるようになるのか
人に教えられないのはあたりまえですし、
たとえ、その方法を知っていたとしても、
それを教えてしまったが最後、
他でもない自分自身がニセモノだったなら
そのことがバレてしまって困りますから、
教えたくないとおもうのがふつうでしょう。

たぶん、ただアタマで知っているだけでなく
何がホンモノで、何がニセモノなのか、
それを見分ける作業を
日々実践し続けている人だけにしか
教えられないことではないかとおもうのです。

でも、そもそもホンモノは、
自分がホンモノだなんて
これっぽっちもおもっていないし、
まして、それを人に言うなんてことも
絶対しないので、
世界中探したところで、そのような人には、
めったにめぐり会えないのがふつうでしょう。

ホンモノを見抜く眼をもつこと・・・
つまり、人生において結局のところ
いったい何が大切なのかということだけは、
人から教わることを期待しても絶望的で、
自分のアタマで考え、
自分の直観で見つけるしかないのです。(2017.5.26)
COMMENT:5/26にfacebookタイムラインに投稿した詞をリライトして投稿しました。ホンモノ、ニセモノという言葉をつかっていますが、選別し評価するという意味は載せていないつもりです。「教える教育」と「教えない教育」の関係と同じで、良し悪しの対立軸でとらえているわけではなく、陰と陽、コインの表と裏のような感じでしょうか。

たとえば、わたしは吉本隆明さんのことをホンモノだとおもいますが、それはわたしが勝手にそうおもいこんでいるだけで、ほんとうにそうなのかどうかはわかりません。ただ、吉本さんは「人間はみな平等。マルクスのような1000年に1人現れるかどうかという人も、市井にすむ無名の人とまったく同価値だ」「思想は、無思想よりも下位にあることを心得ている」って書かれていて、ご自身のことをホンモノだってこれっぽっちもおもっていなかった人だったようです。そうだからこそ、わたしにはいっそうこの人はホンモノなんだっておもえてきてしまうんですが。
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ふりかえりは過去からいまの自分を観ること

反省ではなくふりかえり.jpg

あの・・ふりかえりって
過去をおもいだしたり、
過去のことを良し悪しで
評価したりすることじゃないんですよ。
 
反省っていうと、
だいたいは、ここが良かったとか、
あれはダメだったとか、
良し悪しの評価を言うことだと
おもってる人が多いので、
「反省」と「ふりかえり」と
区別して使うようにしているんですが
まったく似て非なることなんです。
 
だって、良し悪しを評価するってことは、
良し悪しを言った時点から先は
自分を観ようとすることそのものを
もう止めてしまっているでしょう?
 
自分の眼で自分の眼を
観ることができないのと同じで、
いまの自分で
いまの自分を観ようとしたって
どだい無理な話ですよね?
 
だから、いまの自分が観ている
いまの自分の像っていうのは、
どれだけ精密にとらえようとしても
とらえたつもりになっているだけで
結局ゆがんでいるし、すぐに
トートロジー(同語反復)に陥ってしまいます。
 
つまり、視点(視座)は、
いま、ここ以外の時間、場所に置かなければ、
いまの自分を観ることなんてできないし、
どんなことでも自分で体験してみるってことは、
そういう意味で決定的に重要なんです。
 
視点をいま以外の時間や場所に置いて、
体験した爐い泙亮分瓩砲弔い董
一切の評価をせず、ありのままに観る・・・
それが爐佞蠅える瓩辰討海箸覆鵑任后

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天才=自分はバカだと自覚する人

天才バカボン

物事の本質を見ようとしない人は、
自分の見ている世界だけがすべてだから、
見えているところだけを見て、
「わたしにはすべてがわかっている」と錯覚している。
 
物事の本質を見ようとする人は、
自分に見えないものが無数にあるとわきまえているから、
見えていないところを見て、
「わたしは何もわかっていない」と自覚している。
 
謙虚さと素直さとは、言い換えると、
「わたしはバカである」自覚のことであり、
いまの時代を生きのびる上で何よりも大切。
 
よって、狹刑有瓩箸蓮
「わたしはバカである」と常に自覚している人のこと。
天才スティーブ・ジョブズも言ってました、
stay hungry! stay foolish!と。(2015.4.28)
 
COMMENT:「井上さんの携帯着信音は何で狹刑優丱ボン瓩覆鵑任垢?」と問われて、ふとおもったことを詞にしてみました。ちなみに、この携帯着信音は、天才バカボンのテーマ曲オリジナル版ではなく、東京芸大の作曲科を卒業した平野弦さんという人が作曲した「天才バカボンのテーマによるフーガ」という作品で、この曲を携帯着信音にしている人は、世界広しといえどもたぶんわたしひとりではないかと。(^^;)

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人目を気にしすぎる人は・・・

人目を気にしすぎる人の

全部が全部そうだというわけではないんですが、

実のところ、見ているようでいて

自分のこともまわりのことも、

よく見えていないところがあるんじゃないでしょうか・・・

という意味の詞をfacebookに投稿したので、

その記事をそのまま貼り付けてみます。
 

 

 

 

 

 

人間の基本的な心の性質としては、

まわりと関わりを持ちたいところがあるようで、

気になりながらも、その実、もっと自分のことを見て欲しい

人からの注目を集めたい、という気持ちが潜在的にあって、

その裏返しだったりするのかもしれませんね。

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ちょっとだけエロい川柳2首

節 分 に  豆 ま き わ す れ  豆 い じ り



 

 

恵 方 巻  咥 え て 彼 を  お も い だ し

 

COMMENT:セクシュアリティの話題がつづきましたが、カタイ話ばかりでも疲れてしまいますから、ちょっとエッチな川柳を2首ほどひねってみました。ホントは節分の日に投稿したかったんですが・・・もう3月も半ばですね。読んでもどこがエッチなのか意味がよくわからない真面目なお子さまは、もう少し大人のお勉強が必要かもしれません。笑
イラストはネットで公開されているフリー素材を使わせて頂きました。<(_ _)>
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「学び」とは心の壁を自らうち壊すこと

できるかどうかは
やってみなければわからないのに、
「やればできる」とおもってしまうのは、
実は、いままでの自分が
わかる範囲だけでものをかんがえ、
できる範囲のことしかしてこなかったことに
気づいていないからにほかならない。

だから、自他に対して
「問い」が浮かぶかどうかが決定的に大切で、
わからないことをわからないまま、
できるかできないかをかんがえず、
まずはやってみようとすることに価値がある。

なぜなら、どんなことでもやり続けていけば
かならず「できない」壁につきあたるので、
そこではじめて、
自分の「わかる」基準や「できる」基準が
独りよがりなおもいこみでしかなかったことに気づけるからだ。

そのときに、その心の壁を自らうち壊すことこそが
真に「学ぶ」ということであり、
知識を体験をふやすことだけが「学び」ではない。(2017.2.21)
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わかっているという自覚、わかっていないという自覚

「わかっているけどできない」という人は、
「わかっている」ということ自体がおもいこみで、
本当は、できないのではなく、
わかりたくないからやろうとしていないだけだと
自分で気づいていない。

「自分は何もわかっていない」という自覚がある人は、
わからないままやっているから、
できない現実に突き当たっても
そのことでいちいち落ち込まないし、
できない体験を積み重ねていくプロセスで
すこしずつわかっていけばいいと気づいている。

 
posted by Akinosuke Inoue 23:29comments(0)trackbacks(0)pookmark