往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。





三砂ちづる『オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す』より



はじめに

日本の昔話には、よくオニババや山姥が出てきます。たとえば、山にひとりで住む山姥が、ときおり道に迷った小僧さんを夜中に襲う話があります。私の子供たちが小さかったころ、夜寝る前に、昔話をよく読んであげていましたが、「ざらんざらん、べろんべろんと小僧さんの尻をなめた」などという表現が、子供向けの絵本に出てきて、ぎょっとしたのを覚えています。

あれは、社会の中で適切な役割を与えられない独身の更年期女性が、山に籠もるしかなくなり、オニババとなり、ときおり「エネルギー」の行き場を求めて、若い男を襲うしかない、という話だった、と私はとらえています。

この「エネルギー」は、性と生殖に関わるエネルギーでしょう。女性のからだには、次の世代を準備する仕組みがあります。ですから、それを抑えつけて使わないようにしていると、その弊害があちこちに出てくるのではないでしょうか。また、仕組みを使って、性と生殖に向き合ったとしても、それが喜びに満ちた経験でなければ、そのようなエネルギーは本当に満たされたはいえません。

私は長い間、日本や外国の研究機関で、母子保健、女性のリプロダクティブヘルスといった仕事に関わってきました。そのなかでたくさんの女性と出会い、女性の性と生殖について考える機会が多くありました。そこで感じたのは、女性として生まれてきたからには、自分の性、つまり月経や、性経験、出産といった自らの女性性に向き合うことが大切にされないと、ある時期に人としてとてもつらいことになるのではないか、ということです。

表現は怖いのですが、オニババ化への道です。反対に、自分のからだの声を聞き、女性としてからだをいとおしんで暮らすことができれば、いろいろな変革をとげることができるのです。それは、成長であると同時に、とても楽しい経験でありうるのですが、今の日本では、あまり大切にされていません。

「おばあちゃん」という響きはもともとやさしいものです。なつかしくて、温かくて、何でも受けとめてもらえる。親にしかられても、おばあちゃんがよしよし、と言ってくれる穏やかに微笑み、人生の多くの困難を乗り越えてきた人だけが持つ、誰をも安心させる温かさを持っています。ところが、最近、やさしい、かわいらしいおばあちゃんが減りました。孫を母親と同じように厳しくしかっているおばあちゃんをよく見ます。きつくて怖いおばあちゃんが増えていないでしょうか。

どうしてこんなふうになってしまったのでしょう。おばあちゃんたちは、穏やかに「枯れられない」何かを持っているような気がします。人間のやるべきことは、最終的には次の世代に何かを手渡していくことだと考えると、いつまでも自分のことばかり考え、周囲に苛立ちをぶつけているのは、どこかで歯車がずれているのでしょう。

戦後の暮らしで、経済的には少しずつ恵まれ、理不尽なことも少しずつ減る方向にあったはずの彼女たちの人生で、何か根本的なものが満たされていない、と感じられるのです。どうやら、今の60代、70代の日本の女性あたりから、性と生殖、女性の身体性への軽視が始まったのではないでしょうか。

この世代の親の娘たちは、現在4、50代で、フェミニズムを生きてきた女性たちです。「産んでも産まなくてもあるがままの私を認めてほしい」というフェミニズムの主張は、私たちに多くの恩恵をもたらし、女性の生きる場をずっと風通しよくしてきました。親は娘がより自由に生きていくことを喜びをするものだと思いますが、6,70代の親は必ずしもこの娘たちの得た自由を喜んでいるように見えないし、娘たちも母親になんとなくすっきりしないものを感じているようで、この世代間は、なんとなくぎくしゃくしています。女性の身体性に根ざした知恵を大切なものとして伝承できなくなると、「お互いをあるがままに受け入れられない」ことになるのではないか、とこの世代間の葛藤を見て感じるようになりました。

現代をのびのび生きているように見える、20代、30代の女性たちにも、この女性のからだへの軽視がしっかりと根づいています。「別にしたくなければ結婚しなくていいよ」「仕事があれば子どもがいなくてもいいよ」という上の世代からのメッセージは、若い女性に一見自由な選択を与えているようですが、そこに、「女としてのからだを大切にしない」という大きな落とし穴があることに、あまり気づかれていません。


このままほうっておけば、女性の性と生殖にかかわるエネルギーは行き場を失い、日本は何年かあとに「総オニババ化」するのではないか、と思われるふしがあります。それは女性とともに生きていく男性にとっても、けっして幸せなことではないでしょう。

この本は、性や思春期、月経、出産と言う、女性のからだにとって重要だと思われることについて、すこし違った視点から取り上げたものです。オニババ化とは何か、女性はどのようにからだに向き合うことができるのか、について考えてみたいと思います。ちょっと怖い、でも、きっと興味を持っていただけるお話です。ぜひ、しばらくお付き合いください。



目次

第1章 身体の知恵はどこへいってしまったのか

性と生殖への軽視
自分の身体に対する漠然とした不安
子どもを産むのは恐怖である?
女としての生活を楽しめなかった戦後世代
憧れの「病院出産」
娘の生き方に嫉妬する世代
からだの持つ「子育ての力」
心に届かない近代医療の「知識」
病院がないと幸せになれないのか
産む人と産まない人とのギャップが広がっただけ
ポリネシアの驚くべき避妊法
インディオは更年期を楽しみにしている
一年間かけて伝えられる母の知恵
月経血を止められた日本女性
「毎月生まれ変わる」という発想
お産の達人だった日本人
上の世代の話があると不安が消える
自分のからだの声に耳をすます


第2章 月経を「やり過ごして」よいのか

骨盤底筋がたるんできた
くるくると丸めた綿花を詰めていた
八十代ではナプキンが主流に
京都の芸の世界
詰めた部分に意識を集める
「トイレで出さないなら、どこで出すの?」
現代にもいた「できる」女性
言語化する必要のなかった身体知
なぜ九十代から次の世代に伝わらなかったのか
女性性の中心軸を作る


第3章 出産によって取りもどす身体性

「痛くてつらい出産」はどこまで本当か
中高生に植え付けられた「股を切られる恐怖」
医療を「水のように」享受する危険性
日本に助産婦が残った「幸運」
「ヒッヒッフー」はもう古い
お産と女性の変化
「原身体経験」の砦としてのお産
お産は「受けとめられ体験」を作りなおす場
継続ケアがあれば「救急搬送」は少なくなりうる
「あと回し」にされた母性保健
とにかく「施設化」へ向かった
施設化が生んだ恐怖の中の出産
ブラジルに助産所を―JICAのプロジェクトの成果
お産に「決まり」は必要ない
お産が怖い産科医
出産経験を定義する
「つらい出産」でも大丈夫


第4章 女性はなぜオニババになるのか

「負け犬」より心配な「その他大勢」の女性たち
「女として生きろ」というオプションがない
性体験はからだをゆるめていく経験
宙ぶらりんのままのからだの欲求の行方
少子化対策の的はずれな感じ
なぜオニババになるのか
からだは共に生きる誰かを探している
「子宮を空き家にしてはいけない」
若者は背中を押されるのを待っている?
性体験はもっと深いもの
アメリカ流の薄っぺらい性行動
卵子にも個性がある
子宮口にも心がある
「お産はセックスから始まる」
セクシュアリティの流れが悪いと病気になる
行き場を失ったエネルギーをどうするか
「盛り」としての持ち時間は意外と少ない
娘の生殖年齢をスポイルする親たち


第5章 世代をつなぐ楽しみを生きる

早婚のすすめ
仕事はゼロにしなければいい
からだを張って母親を守る大人がほしい
命の勢いがあるうちに出産する
セックスするなという性教育
授かった命は愛するという発想
日本にもいた「早婚の民」
出産を選びとる若い女性の増加
家族の楽しみ
子育てにエロスが足りない
大人になる楽しみを教えよう
「めかけ」のすすめ?
子どもは矢にして放つものである
母親の軸がないとしつけができない
子どもはすべてわかっている存在
ブラジルでは子どもをせかさない
抱きとめられて育ったからだ
からだの欲求と援助交際
おばあちゃんも受けとめられていない
昔話が伝えていたからだの知恵
いつまでも自分のことばかりに関心がある世代
子どもは親を許すために生まれてくる
女性はからだに向き合うしかない
自分のからだをよい状態にする
いつもよい経験に戻っていける

女性性が男性を導く


三砂ちづる『オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す』(光文社新書・2004年初版)より はじめに と 目次
 

COMMENT:この本が出た直後は過激なタイトルから賛否両論大きな反響を呼び起こしたようです。わたしもこの本に書かれている内容がすべて正しいと考えているわけではないのですが、狄搬寮瓩箸いβμ未ら女性の性の問題を採り上げている本は、この本が出る前にはそれほどなかったようにおもわれ、「人間にとって性とはなにか?」という問いについて考えを深める犇気┐覆だ教育甼飢塀颪里覆の1冊としてご紹介しています。出版後まもないタイミングで書かれた内田樹さんのblog記事や、出版後10年経過したときに行われた三砂さんへのインタビュー記事(5回分あります)も参考にしてください。
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団まりな『性と進化の秘密 思考する細胞たち』より

性と進化の秘密

 


雄は作られた性
脊椎動物の元祖的存在のサカナでは、事情が少し違っています。種類によって、水槽の中に雌ばかりがいると、その中で、一番大きい魚が雄になったり、その逆のことも起こります。サカナは、ヒトのように発生過程で片方の生殖器官を消さないで、両方ともきちんと作り上げます。その上で状況を見て、「あれオスがいないぞ、じゃわたしがオスになるか」というので雌の器官のスイッチを消して雄になったり、また元に戻ったりするのです。そういうことが自在にできます。人間もそうなっていたら、日本人の男女比はどこに落ち着くだろうかと思うことが時々あります。

でも、人間を含めた大部分の脊椎動物は、後戻りができないようになっています。片方に専門化することによって、その片方により上手になることができます。ぐらぐらする仕方が少なくてすみます。つくりあげていく途中はともかく、できてしまえばヒトの性はもううごきません。

先ほどチラと触れましたが、脳のつくりも男女で少しだけ違いがあります。女としての個体を運営していく脳と、男としての個体を運営していく脳がまったく同じでは、困るからです。平均的には、男が女に引かれ、女が男に引かれるようでないと、生殖の機能が果たせません。しかし、その脳と身体がかもし出す、人間の資質としての女らしさ、男らしさとなると、大きな個体差が生じます。胎児の時代に受けた男性・女性ホルモンの割合やレベルの違い、母親の身体の状態、胎児と母親の個性、両者のずれの幅など、さまざまな要因が複合的にはたらくからです。まして、社会的な人間の女っぽさ、男っぽさとなると、個人差の上に社会的バイアスが加わって、何が本当かわからなくなってしまいます。人間の性のこの柔軟性が、さまざまなバリエーションを楽しむといったポジティブな方向にではなく、男女差別などのネガティブな方向に利用されていることは、浅ましく、悲しいことです。

最近の世情をつらつらながめていると、男の力の弱り方がとみに目につきます。「女は度胸、男は愛嬌」は、もはや冗談とはいえません。もちろん女も弱ってはいます。わたしの周囲の人を見渡しただけでも、子どもを産むことが昔に比べてはるかに大仕事になっています。しかし、男力の低下は女力の低下に比べて、はるかに多面的、かつ重度であるように見えます。

このことを意識するたびに、その原因の深いところに、男の性が作られたものであることがはたらいているのではないか、と考えさせられます。女がどっしりと足を地につけて生きているのに対し、男にはどこかふわふわとした不安定感があり、社会的な影響を受けやすいように見えるのは、男の身体が女の身体に上乗せしたものであり、足が地面にとどきにくいからではないのか。男の性転換願望が深く肉体的であるのに対し、女のそれは男装であり、社会的な色合いが濃いのも、同じ原因なのではないか。

私自身も若い頃は、さまざまな女性差別を感じるたびに、どうして女に生まれついてしまったのか、と悔しい思いを何度もしました。でも最近は全くちがいます。日本社会の混乱と堕落や世界規模の行き詰まりを目の当たりにするにつけ、一生を男社会のメカニズムから体よくはじき出されて暮らしてきたことで、少なくともズブには加害者側に立たないですんだ。女を踏みつけにした上で、爐罎蠅ごから墓場まで畆蠍く保護される、そんな性の側に加担しないですんで、本当に助かった、という安堵をおぼえます。

この状況を打開するためには、すでに手遅れかもしれませんが、男が自分の弱さを認識しなければなりません。男は強くて有能であり、女は社会的能力が低く、けがらわしく、自分たちが支配してやらなければロクな知性も持てないものだ、などと虚勢をはらず、自己欺瞞を止めることです。自分の脆弱さを率直に受け入れ、女の力を計算に入れ、両者で協力し合っていくことです。その入口を導いてくれる手本は、海外に山ほどあります。女の力を理解できない社会という意味では、日本は世界屈指の位置につけているといえるでしょう。

目覚めよ、男たち!
真の協力者は、あなたの傍らにあるのです。


団まりな『性と進化の秘密 思考する細胞たち』(角川文庫)第5章 身体ができる、そして雄と雌 より

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短編集『闇鍋』より 会話劇(その2)「ABC作文(H〜M)」

【会話劇】ABC作文(H〜M)

 


「ねえ、そういえば知っている? 愛の前にはエッチがあるのよ?」


「藪から棒に何を言ってるんですか!? ABCの歌を口ずさみながら英和辞典を引いているかと思えば」

「だから、Iの前にはHがあるのよ。アルファベットの並び順、わかる?」

「そりゃ知ってますよ、もちろん。ついさっきまでABCの歌を聴いていたくらいです」

「なら、愛の前にエッチがあるのは分かるわね」

「あの、先輩。その『どう、上手いでしょ?』みたいな顔やめて下さい」

「なに? ワタシの才能に嫉妬?」

「先輩の言動に辟易してるんですよ。それに結構有名なネタですよ、それ」

「いつにも増して生意気ね。じゃあ、I(愛)の次はなんだか分かるのかしら?」

「Jですよね?」

「そのJにはどういう意味があるのかを訊いてるのよ」

「わかりませんし、普通そんなくだらない事は考えません」

「だからアナタは無能なのよ。でも、それならワタシの才能に嫉妬して生意気な態度を取ってしまうのも納得だわ」

「たかだか同じ部活の先輩というだけの人に、どうしてここまで理不尽な物言いをされなきゃならないんですか……なら敢えて聞きますけど、H(エッチ)I(愛)ときてJは何なんですか」

「自衛よ」

「自衛!? 愛を得た2人の間に何があったんですか!?」

「愛が重すぎたのね」

「自衛行動を必要とされるほど重い愛って……」

「かわいそうに。相手は俗に言うヤンデレだったのね。でも安心なさい? J(自衛)の次は、Kよ」

「Kだから警察とかですか?」

「K察? アナタはゴミを木に変える能力者の義理の母親なのかしら?」

「その漫画は好きでしたけど、そんな小ネタまで覚えてませんよ!」

「やっぱりアナタは無能なのね。ほら、ファンキーな神様が中学時代の義母に会った時の話にあったじゃない」

「そんな話はあった気がしますけど、そんなとこまで覚えてませんて。普通は」

「無能」

「三度目!? どこまで無能呼ばわりしたいんですか!?」

「二度じゃ足りないと思って。というか“普通”という言葉は便利よね。自分を多勢の側に付けつつ、相手を『お前はこの多勢から外れた場違いな存在なのだ』と見下せるもの。しかも、それを倒置法で強調するあたり、本当にアナタの卑しさが滲み出ているわ。大衆の意見に同調する事がそんなに偉いのかしら? そこが日本人のダメなところなのよ」

「ボク、何か怒らせるような事しましたっけ? そんなことより先輩。話が逸れてますよ」

「…………チッ……まあいいわ。下劣な思考回路を持った後輩の言う通り、少し話が逸れていたわね。 どこまで話したかしら」

「小さく打った舌打ちも、やたら突っかかってくる態度も、話が進まないのでこの際ツッコまないことにします。Kは警察じゃないって話からですよ。結局Kは何なんです?」

「刑よ。ヤンデレは国家権力に裁かれたの」

「いきなりの急展開ですね。愛し合っていたのに……」

「その程度の愛だったというだけの事よ。愛し合ったと言っても、愛の重さは人それぞれなのだから。まあ、最初はお遊びのエッチから始まった恋愛だもの。妥当な最後じゃない?」

「あの、さっきから思ってたんですけど、花の女子高生がエッチだとかお遊びだとか言わないでください」

「別にいいじゃないの。減る物でもないのだし」

「好感度って増減するんですよ?」

「それなら寧ろ増えるでしょ? 先刻から言っているエッチだのお遊びだのという、ふしだらな単語も、無能呼ばわりしているのも、実は全部好感度アップ狙いだったり。こういうのが嬉しいんでしょ? 本当に変態ね!」

「変態じゃないやい!」

「あら、意外。放送禁止ギリギリの顔してるから、てっきり……」

「人の中身を顔で決めつけるな! あと、そんなに酷い顔なんですか!?」

「安心なさい。人間のおよそ七割が自分の容姿を平均かそれ以上だと考えている、という話を聞いたこともあるし。それに、モザイクのおかげで随分マシよ?」

「え、なに? ボクの顔にはモザイクが掛かっているんですか?」

「さて、閑話休題。話を戻すけれど、Hから始まった物語には続きがあるの」

「強引に話を戻しましたね。モザイク云々の件も精神衛生上非常に聞いておきたいですけど、まずは物語の結末を聞きましょうか。気になりますし。で、H(エッチ)からI(愛)し合い、J(自衛)やK(刑)ときて、次はどうなるんですか?」

「ヤンデレ化してしまった相手を求刑し、無事平穏な日常に戻った主人公は今回の一件から、あるものをL(得る)のよ」

「なにをですか?」

「文字通り、M。マゾ属性よ」

「ひでぇオチだな、オイ」

「アナタの顔ほど酷くはないわよ」


・・・・END・・・・
 

※エルバッキーさんの短編集『闇鍋』より転載しました。

 
COMMENT:昨日分で投稿した、上から目線のセンパイ女子高生といじられキャラの後輩男子高生の対話劇「卑猥な漢字」が好評でしたので、同じスタイルで書かれた作品をもうひとつ。いわゆるアルファベットから端を発するダジャレなんですが、ボケとツッコミの掛け合い漫才風でテンポ良く会話ははずみ、最後のオチまで笑わせてくれる佳品。他の作品も読んでみたいとおもいました。
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短編集『闇鍋』より 会話劇「卑猥な漢字」

【会話劇】卑猥な漢字

「ねえ、“凹凸”って、とても卑猥な漢字だと思わない?」

「藪から棒に何言ってんですか先輩。女子高生なんですから、そういう下ネタは控えてくださいよ」

「女子高生は下ネタが大好きなのよ」

「男の夢を壊さないでください」

「夢と現(うつつ)は違うのよ。夢を見たけりゃ寝なさいな。どうせ生きてても後悔するだけよ」

「永眠しろと!?」

「で、社会的にはもう死んでいる変態な後輩に、専門的な意見を聞きたいのだけれど。変態として“凹凸”という漢字から、ゲスなアナタはどんな妄想をするのかしら?」

「社会的に死んでないし、変態でもないですよ。さらに言えば“凹凸”という漢字からゲスな妄想なんて、普通はしません」

「あらあら、照れちゃって。童貞君には“凹凸”はストレート過ぎたかしら」

「『ストレート過ぎた』って何ですか。漢字にストレートも変化球もありませんよ。……というか、さっきから漢字辞典を真剣に読んでいると思ったら、こんなくだらない事を考えてたんですか」

「なによ、その蔑むような視線は! 憐れむような口調は!美少女女子高生には下ネタを語りたい時だってあるのよ!」

「さりげなく自分で美少女とか言わないでください」

「ワタシが美少女なのは紛れもない現実なのだから、別に良いじゃないの。アナタが紛うことなき変態ブサイク童貞なのと同じ、現実なのよ」

「一言多いです。一言余計です」

「ふふ、眉間にシワを寄せちゃって。可愛い。さて、閑話休題するけれど、世の中には卑猥な漢字が多く存在しているのよ」

「あー……“嬲”とか“姦”とかですか?」

「うわぁ…………普段アナタがどんな劣情を抱いているかが垣間見えるわね。気持ち悪っ……」

「ドン引きしないでくださいよ! 普通はその辺りの漢字を想像しますって!」

「顔を真っ赤にして普通普通と五月蝿いわね」

「じゃあ、これ以外にどんな漢字が卑猥だって言うんですか」

「そうね“抜”なんてどうかしら。手で自分の友をヌく。卑猥じゃない?」

「たしかに、卑猥ですね」

「アナタの場合、友はムスコなのでしょうけれど」

「いつにも増して下ネタ全開ですね……」

「これが女子高生よ。他にも“包括”なんて生々しくて卑猥だと思うわ。手と舌で包むんですもの」

「ナニを、とは聞きませんよ?それにしても、よくもまあそんな発想が出ますね」

「美少女だからよ」

「意味が分かりませんね」

「そんなアナタにピッタリな漢字は“液”ね」

「夜の水、ですか?」

「そうよ。毎朝毎晩、年がら年中孤独エッチしているアナタには最適でしょ?だから水のように薄いのよ」

「ボクのライフスタイルを勝手に決めつけないでください。そんな頻繁じゃないですって。あと、孤独エッチって何ですか。そんなに独り身を強調したいんですか」

「ぼっちエッチの方が良かった?でも、ぼっちとエッチだと韻を踏んでしまうから、これだと無駄にかっこよくなっちゃうのよね……語感も良いし……」

「知りませんし、それほど語感も良くありませんよ。第一、そんなくだらないことで真剣に悩まないでください」

「ほら、ワタシって妥協を許さないストイックな性格だから」

「それは他で活かすべきだと思います」

「……そうよね。ごめんなさい。才能がなくて妥協するという選択しか出来ない童貞も、悲しいことに存在するのよね……」

「こっちを見ながら言わないでください」

「才能ではなく梅干しの種を与えられたアナタのところへ全裸の天使が現れることを祈っているわ」

「わざとらしく涙を拭わないでください」

「それもそうね。アナタ如きのために演技するのも馬鹿らしいわ。そうそう。“如”で思い出したのだけれど、“突如”も中々卑猥よね?」

「……その話題、まだ続けるんですか」

「ほら、ストレートなモノだと話題を反らそうとする。変化球の方が好きとか、とんだ変態さんね」

「先輩はボクを変態と罵りたいだけですよね?」

「アナタが韻を踏んでもかっこよくないわよ?そうね変化球なら……“拙子(せっし)”なんてどうかしら。アナタにピッタ――」

「ピッタリじゃねえよ!先に言っておきますけど、ボクは全然ロリコンなんかじゃないですからね」

「なら“下拙(げせつ)”ね。卑しいという意味もあるし」

「下ネタに手を出す先輩の方がピッタリじゃないですか」

「残念ながら、“下拙”は男が使う一人称よ。“僕”だの“下拙”だのと男は自分を貶め過ぎよね」

「一人称にケチつけないでください」

「はぁ、この変態は文句しか言えないのかしら……じゃあ、“挊”なんてどう?」

「何ですか、その漢字……」

「見たままよ。手を上下に動かす、正にアナタの人生にピッタリな漢字じゃないの。孤独エッチしてたら死んでました、みたいな? テクノブレイクみたいな?」

「『みたいな?』じゃねえよ!」

「怒鳴らないでよ。童貞が感染(うつ)る。それにしても、“挊”なんて誰が考えたのかしらね」

「いや、そもそも“挊”なんて初めて見ましたし……」

「“挊”は“弄”の俗字よ。変態失格ね」

「失格の方が嬉しいですよ」

「『非変態は、アレを固く握りながら笑えるものでは無いのである。変態だ。変態の笑顔だ。ただ、アレが醜い皮に包まれているだけなのである』」

「太宰治に謝れ!あと改変するにせよ、もっと上手く弄れ!」

「アナタ以上に上手く挊れるはずないじゃないの。あ、ちなみに“挊”には自慰の意味もあるんですって」

「知らねえよ」

「本家の“弄”は、玉を両手で持って遊ぶ様子を表した文字なのだけれど、竿よりも玉の方が気持ち良いのかしら」

「知らねえよッ!」

「知っておきなさいな。アナタも将来、新しい漢字を生み出すのだから」

「そんな形で歴史に刻まれたくないです。…………って先輩、なんで自分だけ帰り支度してるんですか」

「下校時刻だからよ。こんな変態養成所なんて一刻も早く帰りたいもの」

「学校は変態養成所じゃないです」

「“学校”よ? 木との交わり方を学ぶ施設じゃないの」

・・・・END・・・・

 

※エルバッキーさんの短編集『闇鍋』より転載しました。

 
COMMENT:3/4から教えない性教育の記事を連投していますが、昨日の参考図書紹介記事がみうらじゅんでしたので、どんどん脱線して道草を食って行こうとおもいますww
たまたまネットで見つけた対話劇が下ネタを扱っているんですが、かといって下品すぎず、笑いや教養が感じられる内容でしたので、今日はそれを皆さんにご紹介したくなりました。漢字一つだけでこれだけ妄想が膨らませられる人間ってすごいな〜っておもいます。笑
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みうらじゅん『正しい保健体育』より

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さぁ、これから始める授業は「義務教育」ではありません。

学校では決して学ぶことのない本音の「保健体育」です。

だから先生も自らの経験をフルに生かし、身を切ってもいい覚悟で臨みます。


皆さんは、「大人になったらわかるから」というセリフを耳にしたことがあるでしょう。
でも、言っている大人すらわかっていないことがこの世の中にはいっぱいあるのです。


特に男子は、自分という存在は何なのか? どうしてムラムラするのか? という疑問に

若いうちから悩んでおく必要があります。

それは、いつの日か、女子に「どうしてくれんのよ!」と凄まれたときに、

少しでも怖じ気づかないための予行演習でもあるのです。


正しい保健体育を学んで、人として正しい道を歩んでいってください。

それでは授業を始めます。
 

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COMMENT:あの、エロエロみうらじゅんが書いた性教育の教科書ですから、解説は野暮かもしれません。タイトルに冠せられた「正しい」という形容詞が、世で行われている保健体育の授業を皮肉っているわけですが、最初からさいごまでとにかく抱腹絶倒の1冊。書いてある内容はムチャクチャであっても、その支離滅裂な言葉の背後に牋Ν瓩感じられます。世で行われている多くの狎教育瓩如△そらく最も欠けているのはこの狆个き甅爛罅璽皀↓瓩陵彖任任呂覆い任靴腓Δ。昨日の記事でご紹介した渡辺京二さんの本にもありましたが、春画というのは単なるポルノグラフィーではなく、大人も子どもも問わず庶民が大事にしていた笑いの文化だったようで、江戸時代の日本にはその世界が息づいていたのでしょう。
単行本は理想社から「よりみちパン!セ」シリーズの1冊として2005年に出版され、また2015年には、『正しい保健体育2結婚編』と合わせて『正しい保健体育・ポケット版』というタイトルで文春文庫に入りました。こういうファンキーなメディアがお好きな方は『正しい保健体育DVD版』もぜひどうぞww!
ちなみにさいごの写真は、単行本の末尾より、谷川俊太郎さんから「よりみちパン!セ」シリーズ著者全員に向けられた4つの質問に応えている部分です。
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渡辺京二『逝きし世の面影』より


(296〜298頁)
・・・幕末来日した西洋人を仰天させ、ひいては日本人の道徳的資質さえ疑わせるにいたった習俗に、公然たる裸体の習慣があったことはひろく知られている。日本は、西洋では特殊な場所でしか見られない女の裸が、街頭で日常的に目にしうるという意味でも「楽園」だったのである。


ペリー艦隊に通訳として同行したウィリアムズは、1854(安政元)年の下田での見聞をもとに次のように断定を下した。「私が見聞きした異教徒諸国の中では、この国が一番みだらかと思われた。体験したところから判断すると、慎みを知らないといっても過言ではない。婦人たちは胸を隠そうとはしないし、歩くたびに大腿まで覗かせる。男は男で、前をほんの半端なぼろで隠しただけで出歩き、その着装具合を別に気にもとめていない。裸体の姿は男女共に街頭に見られ、世間体なぞはおかまいなしに、等しく混浴の銭湯へ通っている。みだらな身ぶりとか、春画とか、猥談などは、庶民の下劣な行為や想念の表現としてここでは日常茶飯事であり、胸を悪くさせるほど度を過ごしている」。ウィリアムズは「この民族の暗愚で頽廃した心を啓示された真理の光が照らし得るよう、神に望み、かつ祈る」と日記に書くような、無邪気に傲慢な宣教師根性の持ち主だったから、日本の庶民のあけっぴろげな服装を、可能なかぎり歪曲して誤読したのは仕方ないことだった。だが、春画や混浴にピューリタンが嫌悪をおぼえたのはいくらか同情してよいだろう。


おなじくペリー艦隊に随行したドイツ人画家ハイネの場合、ピューリタニリズムの眼鏡がかかっていない分、記述は淡々として客観的である。「浴場それ自体が共同利用で、そこでは老若男女、子供を問わず混じり合って、ごそごそとうごめき合っているのである。また外人が入って来ても、この裸ん坊は一向に驚かないし、せいぜい冗談交じりに大声をあげるくらいだった。この大声は、私が察するには、外人が一人入って来たので、一人二人の女性の浴客があわてて湯船に飛び込んで水をはねかしたり、あるいは、しゃがみ込んだ姿勢で、メティチ家のヴィーナスよろしく手で前を隠すポーズをとったりしたからであるらしかった」。この記述ぶりからすれば、ハイネの方も一向におどろいた形跡はない。彼は日本人の「極端な綺麗好き」の例証として、入浴シーンを紹介しているにすぎないので、そういう素直な眼のせいでこの混浴情景は、ウィリアムズのいうような野放図な情欲にくまどられた堕落図ではなく、おおらかで自然な習俗としての性格を示すものになっている。
 

(302頁)
・・・正面切って日本人を弁護したのはリングダウである。彼は言う。「風俗の退廃と羞恥心の欠如との間には大きな違いがある。子供は恥を知らない。だからといって恥知らずではない。羞恥心とは、ルソーが正当に言っているように『社会制度』なのである。…各々の人種はその道徳教育において、そしてその習慣において、自分たちの礼儀に適っている、あるいはそうではないと思われることで、基準を作ってきているのである。率直に言って、自分の祖国において、自分がその中で育てられた社会的約束を何一つ犯していない個人を、恥知らず者呼ばわりすべきではなかろう。この上なく繊細で厳格な日本人でも、人の通る玄関先で娘さんが行水をしているのを見ても、不快には思わない。風呂に入るために銭湯に集まるどんな年齢の男女も、恥ずかしい行為をしているとはいまだ思ったことがないのである」。リングダウは「大変育ちの良い日本人」とこの問題について話し合う機会があったが、その日本人は「ヨーロッパ人の憤激と、私が説明しようと努めたためらい」をまったく理解できず、次のように反問したという。「そうですね、私は風呂で裸のご婦人に気付いたとしても、目をそらすことはしませんよ。そうすることに、何か悪いことでもあるのですか」。


(315〜316頁)
・・・さらにまた、幕末の外国人観察者を驚かせたのは、春画・春本のはばかりない横行である。ヴェルナーは先述したように、日本人の裸体への禁忌の欠如を同情的に理解しようとつとめたのだが、それを「楽園の気楽さ」とみなす見解には、同意できないものを感じた。「日本にはそもそも欧米的な意味における無邪気さなどない。…絵画、彫刻で示される猥芸な品物が、玩具としてどこの店にも堂々とかざられている。これらの品物を父は娘に、母は息子に、そして兄は妹に買ってゆく。十歳の子どもでもすでに、ヨーロッパでは老貴婦人がほとんど知らないような性愛のすべての秘密となじみになっている」。ヴィシュスラフツォフによれば、本屋でよく見かける三文小説の挿絵には「品位というものにまったく無頓着」なものがあり、しかもそういう絵本を子どもが手にしていた。「それが何の絵であるか、熟知しているらしかった」。

 


(320〜322頁)
・・・一生独身を守った謹厳なハリスが眉をひそめ、こういう日本人を内心軽蔑しただろうことは想像にかたくない。だが、井上清直は川路の実弟で、幕末屈指の廉直な能吏として知られた人物だった。当時の日本人には、男女間の性的牽引を精神的な愛に昇華させる、キリスト教的な観念は知られていなかった。日本人は愛によって結婚しないというのは、欧米人のあいだに広く流布された考えだった。例えばヴェルナーは述べている。「わたしが日本人の精神生活について知り得たところによれば、愛情が結婚の動機になることはまったくないか、あるいはめったにはない。そこでしばしば主婦や娘にとって、愛情とは未知の感情であるかの印象を受ける。わたしはたしかに両親が子どもたちを愛撫し、また子どもたちが両親になついている光景を見てきたが、夫婦が愛し合っている様子を一度も見たことがない。神奈川や長崎で長年日本女性と夫婦生活をし、この問題について判断を下しうるヨーロッパ人たちも、日本女性は言葉の高貴な意味における愛をまったく知らないと考えている」。


たしかに日本人は西欧的な愛、「言葉の高貴な意味における愛」を知らなかった。ヴェルナーのいうように、「性愛が高貴な刺激、洗練された感情をもたらすのは、教育、高度の教養、立法ならびに宗教の結果である」。一言でいうならキリスト教文化の結果である。「真の愛情は洗練された羞恥の念なくしては考えられない。なんらかの理由から羞恥の念をもっていない娘は、愛を感じることもないし、また愛を与えることもできない。さらに勝手気ままに多くの妻をめとることを許している日本の婚姻法が、愛をめざめさすことはできない」とヴェルナーはいうが、男女の性的結合は「言葉の高貴な意味における愛」であるべきだとするキリスト教文化の見地に立つならば、彼の言うところはいちいちもっともということになるだろう。われわれはこうしたいわば高度な見識が、プロシャの一海軍将校によって開陳されていることに、十九世紀西欧文明の水準の高さを認識しないわけにはいかない。にもかかわらず、そのようなキリスト教的な異性愛の観念が、十九世紀後半から二十世紀前半にかけての西欧文学において、いかに多くの「愛」からの脱走者を生んだことかということを想いやればわれわれはこの問題についておのずと違った断面を見出すこともできる。


当時の日本人にとって、男女とは相互に惚れ合うものだった。つまり両者の関係を規定するのは性的結合だった。むろん性的結合は相互の情愛を生み、家庭的義務を生じさせた。夫婦関係は家族的結合の基軸であるから、「言葉の高貴な意味における愛」などという、いつまで永続可能かわからぬような観念にその保証を求めるわけにはいかなかった。さまざまな葛藤にみちた夫婦の絆を保つには、人情にもとづく妥協と許し合いだったが、その情愛を保証するものこそ性生活だったのである。

当時の日本人は異性間の関係をそうわきまえる点で、徹底した下世話なリアリストだった。だから結婚も性も、彼らにとっては自然な人情にもとづく気楽で気易いものとなった。性は男女の和合を保証するよきもの、ほがらかなものであり、従って羞じるに及ばないものだった。「弁慶や小町は馬鹿だなァかかぁ」という有名なバレ句に見えるように、男女の営みはこの世の一番の楽しみとされていた。そしてその営みは一方で、おおらかな笑いを誘うものであった。徳川期の春本は、性を男女和合と笑いという側面でとらえきっている。化政期には怪奇趣味や残酷趣味が加わるけれども。それも性自体のおそろしさ、その深淵のはらむ奇怪さを意識したものとはいえない。


従ってサディズムやマゾヒズムの要素も乏しい。刺激を求めて怪奇な趣向をこらそうとも、本質的にあっけらかんと明るい性意識がその根底にある。オリファントが彼を「いくらか不真面目で享楽的な民族」と感じたのは、一理も二理もあるというべきだった。
だが、西欧流の高貴な愛の観念と徳川期日本人の性意識は、いいかえるとハリス的な愛のリゴリズムと幕吏のシニシズムすれすれのリアリズムは、相討ちみたいなところがあって、どちらが思想的に優位であるか判定することはできない。この問題は伊藤整が名論文『近代日本における「愛」の虚偽』で論じたところで、いまは深入りを避けたいが、性を精神的な憧れや愛に昇華させる志向が、徳川期の社会にまったくといっていいほど欠落していたことが、日本人の性に対する態度になにか野卑で低俗な印象を帯びさせているという事実には、やはり目をつぶるわけにはいかない。しかしそれにしても、当時の日本社会に、性に関するのどかな開放感がみなぎっていたことは、何度強調しても足りない事実なのだ。

 

 

渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)第8章 性と裸体 より引用

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望月正弘『12歳の性 スケベでエッチなホンネを育てる』より


・・・ここでわたしが当面していたもっと難しい問題、

それは「性」と「愛」について、子どもたちと学びあうことであった。

未来に生きる明るい展望をもちながら、いかにそれを授業として組んでいくか。

たまたまわたしが、つぎに赴任していった学校が

「性教育研究校」という歴史を持った学校であったにもかかわらず、

あの「男女仲よくものがたり」のクラスの卒業から7年がたち、

「性教育」に手をつけないまま、6年生を2回、送り出していた。

その間、わたしの中で「性教育にとりくもう」という気持ちが熟してこないのは、

何であったのだろう。
 

 

それは、学校にあるカリキュラムが

たてまえとしては人間教育というようなことをとなえているけれども、

実際は、「生理」とか「精通」といったものだけを
内容としているからではないのか。

そこには、これから思春期のまっただなかで生きてゆこうという子どもたちの

「心」の問題がすっぽり落ちているのではないか。

「心」が落ちているから「セックス」が落ちているのである。

わたしの性教育のテーマを「思春期をどう生きるか」というところへしぼっていったとき、

わたしの授業へのイメージがはっきりし、わたしの気持ちが熟してきたのであった。


どんな授業でももちろんそうであろうけれども、

とくに性教育においては、

教師そのひとの存在、生き方が大事であろう。
 

わたし自身について言えば、わたし自身が暗やみの性教育のなかで育ち、

いわば、暗がりのなかでこそこそと語りつがれる性環境のなかで、

みずからの性のエネルギーと戦いながら自分を作ってきた大人のひとりなのである。

わたしのなかには、当然のように暗やみの性教育のぼろきれが、

いっぱいつまっているのである。
 

 

たとえばわたしは、子どもたちが日常使っている性器をあらわす用語をすらすら言えるであろうか。

どうしても何か羞恥心のようなものがわたしの心のなかに芽生えてしまう。

性器を、たとえば、指や耳と同じように、

体の一つの器官としてあたりまえに考えたり、

きちんとみつめたりすることができないのである。
 

 

それは性教育をたてまえとして認めても、

どこかで性はいやらしいこと、

秘密めかしくしたいこと(大人たちが独占しておきたいこと)、

はずかしく、人まえでは口にしてはいけないこと……という本音の部分が、

深く深くわたしのうちにあるのではないか。

性のことに真剣にとりくもうという教師は、

日々、このみずからの性意識とたたかわねばならないのである。


このことは、授業を受ける子どもたちも同じであった。

わたしの授業は

「あけすけで、えろい(子どもたちはエッチなことをこう言う)話をいっぱいさせて、

 それを180度転回して、いのちのふしぎさ、尊さに導こう」

というものであったけれど、授業はそうはうまくはいかないのである。
 

 

いつもの暮らしのなかでは、

あけすけで言いたいことをいくらでも言うクラスの子どもたちが、

「性の授業」の入口では口を閉ざし、

かたくなになってしまうのがしばしばであった。

 

貝殻のようにかたくなった彼らのなかにも、

わたしと同じような性意識があるのだ。

そうであるなら、

知識の量ばかりが多い教師が知識の少ない子どもに教える、

というだけの姿勢では、

子どもたちの心はひらかないであろう。

 

おなじ時代を生き、

おなじように暗やみからの性意識をひきずるものどうしが、

自分のからだをみつめなおし、
発見のよろこびをわかち合うことでなければ、

真の性教育とは言えないだろう。
 

 

ことばばかりの多いわたしの授業は、

わたしの願いからすればこころもとないかぎりだが、

授業のなかで生まれた子どもたちの声はみずみずしく、

授業の方向はまちがって居ないことを示していると思う。


性教育とは、教師の性意識の変革なしには成り立たないのではあるまいか。

いま、性教育の必要性は、若者たちの性にたいする意識の変化、

非行の問題、エイズの問題などから叫ばれているが、

それが「性情報から子どもを守る」といった対症療法的な指導になっていったとき、

やがて私たちは若者たちから強烈なしっぺ返しを受けるのではないだろうか。
 

 

「未来にどう生きるか」という展望のなかでの性教育ではなく、

大人社会の常識を押しつけるだけの授業では、

性の問題は、若者のエネルギーとともに暗やみに沈んでいくばかりではないだろうか。
 

 

望月正弘『12歳の性 スケベでエッチなホンネを育てる』(太郎次郎社)
 エピローグ・子どもたちのエネルギーに答えるために より引用

 

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『チビっ子猛語録』第7章 インテリジェンス より

 


昨日に続いて3/9に投稿した記事でご紹介した『チビっ子猛語録』の内容をご紹介。

 

この本は学校生活について、学ぶ側の子どもの視点で書かれていて、

学校に対して批判的な部分もすくなくありません。
 

 

45年も前に書かれたことや、デンマークで書かれたものを

北欧と日本との違いを意識しながら、

日本人に合わせて日本人が翻訳していることを考慮して読む必要はありますが

いまこの齢になったわたしが読んでもなかなか読み応えがあります。
 

昨日は先生についての文章で、

犇気┐覆ざ軌薛瓩慮凝世箸い辰討發茲さ述をご紹介したんですが、

今日は「インテリジェンス」と題された章から、

猜册闇塾牢儉瓠頁塾呂呂匹里茲Δ砲任睚儔修靴Δ襪箸いΩ方)の大切さに触れた部分です。
 

 

犖把蠻塾牢儉瓠頁塾呂論犬泙譴弔決まっていて変わらないという見方)に

ガンジガラメになっている人は

今日でも少なくないように感じています。
 

 

たしかに能力の個人差は存在するけれど、

その違いっていうのはそんなにたいしたことじゃない、という見方は、

こちらの記事で紹介した『ひとり 15歳の寺子屋』でも

吉本隆明さんが語られていました。
 

 

勉強ができないのは、個人の責任でもなく、

また、学校だけの責任でもないですね。
 

 

「〜の責任」という発想そのものを超えなければいけないし、

ひとつのところだけからモノを見ることには、

どんな場合においてもマチガイがあり得るということを、

常に念頭に置いておきたいことです。
 

 

 

♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ 


・・・勉強のできない子は、頭がヨワイ。すなわちパーだ。

昔は、本気でこう思われていたんだ。
 

またこうも考えられていた。
「勉強のできない子は、インテリジェンスが欠けている。

 だから、何をやってもダメなんだ」―――と。
いや、昔ばかりでない。

現在でも困ったことに、こう信じている人はかなりいるんだ。


たしかに人間というのは、生まれたときから頭脳も体力もまったく同じではない。

体が丈夫で、頭のちょっとヨワイ子もいるし、

オツムはバツグンにいいが、三日にあげずカゼをひいているような子もいる。

みんなそれぞれにちがっているんだ。


人びとは、この相違をまるでうまれついての宿命のようにきめてかかる傾向がある。

勉強のできない子は何をやってもダメだし、

学校でもほかの生徒にまじって、うまくやっていくことはできないのだと。


しかしこういうことをおぼえておこう。

人間は、たしかに能力の差がある。

ところが世の大人たちが考えているほど、その差は大きいものではないんだ。

「何をやってもダメ」なんてことはあり得ないのサ。


こうは言えないだろうか。

勉強のできない子は、彼、あるいは彼自身がダメなのではなく、

学校が彼らをうまく指導できないのじゃないかと。

つまり学校なり先生の指導能力欠如というわけなんだ。


学力がいちじるしく低下している生徒は、

自分の家に送りかえされてしまうことがある。

 

学校の程度には、とうてい順応していけないから、というのがその理由だ。
 

だが逆にいえば、学校がこうした生徒をうまく

順応させていけなかったということになるんだ。


学校は、すべての生徒達をうまく指導していく義務をもっている。

勉強ができなかったり、みんなよりおくれてしまう生徒にだって、

すこしでも向上させ、うまく社会にでられるようにしていく。

これが学校のもっている役目なんだ。


なにもかもできない生徒のセイにするのはまちがっている。

「何をやってもダメ」なんてことはないんだ。

世間が勝手にあたえた評価だって、

見る角度をちがえればまったく意味が変わってくる。
 

 

ひとつのところからものを見るってことは、いつの場合だってマチガイがあるのさ。
 

S.ハンセン&J.ジェンセン『チビっ子猛語録』(二見書房)より

 第7章 インテリジェンス より インテリジェンスは変えられる
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『チビっ子猛語録』第2章 レッスン より

 

・・・しかし、先生といっても、決して捨てたものではなく、

10人に1人くらいは優秀な、そして良心的な先生もいる。

 

この数少ない、だが優れた先生たちは、つぎのような方法で授業をするんだ。


彼は、まずキミたちに、何を学ぶべきかを自主的に決定させる。

キミたちはクラスの仲間と、あるいはグループで、

いったい何を勉強すればよいかを相談し最良の方法をえらぶわけだ。


先生がやるのは、キミたちの決定がうまくいくかどうかを見守ることなんだ。

そして先生は、キミたちがもっとも効果的に勉強できるように授業をおこなう。


先生はキミたちに、1から10まですべてを教えようとはしない。

キミたちが自発的に学問できるように、キッカケをあたえ、

道を切りひらいてくれるだけなんだ。


こういう先生は、実習のためにはどこかに行くこともすすめるし、

自由な討論もさせてくれる。

10分の9の先生たちのように、教科書だけにしがみついたりはしないんだな。

つまり流動性があるってことなんだよ。


たしかに自分でいろいろな実験をしてみることはむずかしいかもしれない。

しかしキミたちは、その困難さの中から、

旧態依然とした授業からは得られない、

新しいものを獲得できるんだ。


先生がキミたちに、自分でやることを任せる課目は、

ほかの先生たちやキミの両親が、

あまり重要だと思っていない種類のものかもしれない。

たとえば、図画とか、工作とかいったぐあいに——


しかしバカにしてはいけない。

それはキミたちにとって、またとないチャンスだし、

また大いに利用すべき意味があるんだ。

キミたちは、こうした機会をつくってくれた先生に感謝しなくてはいけない。


新しいことをやるというのは、先生たちにとってはつねに不安なんだ。

もし失敗したらどうしよう?

先生というのは、ウワベは何となくエラそうな顔をしてるけれど、

内心ではキミたちにバカにされたり、批判されたりするのを極端に恐れている動物なんだ。
(生徒たちはオレのやり方をいったいどう思っているんだろう?

 オレのことを好いているんだろうか?

 それともあんな教師なんぞ早くいなくなればいいと考えているのだろうか?)


これが多くの先生の、いつわりない心境だ。

どの先生も見かけによらず、みんな心の中では生徒たちの人気者になりたいと、

けっこう無邪気なことを考えているんだよ。


キミたち! 先生方のこうしたウィークポイントを利用しない法はないゾ。

キミたちには、講義のヘタな先生、一方的な先生、横柄な先生を

みんなの世論の力で人気最低の教師にしてしまうことだってできるんだ。
つまり、キミたちには、すべてを決定する権利があるということだ。


ただお義理で講義をしているだけの先生を、

10人に1人しかいない貴重な先生に仕立て上げるチャンスはここにひそんでいる。

忘れちゃいけないことだヨ。

 

S.ハンセン&J.ジェンセン『チビっ子猛語録』第2章 レッスン より 10人の先生のうちの1人がすること
 
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『チビッ子猛語録』のこと



3/4に書いた犇気┐覆だ教育瓩砲弔い
の続編なんですが、

今日は、昨日挙げた20タイトルの本のうち、
わたし自身が一番はやく出会った本について書いてみます。
 
40年以上も前の本だけに
さすがにアマゾンの古書市場やヤフオクなどでも僅かにしか流通していないようで、
おそらくこれを読まれている方でも
ほとんど知らないんじゃないかとおもいますが、
1972年1月に初版が出ている豆本『チビッ子猛語録』がそれです。
 
豆本・・・いまではもうほとんど見かけませんが、
文庫本よりも一回り小さいポケットサイズの装丁でした。

この本が出たときは、わたしは小学6年生でしたし、
今となってはおぼろげなんですが、
手に入れたのは中学1〜2年ぐらいだったように記憶しています。

ちなみに、1972年11月に初版が出た『新チビッ子猛語録』の方は
アマゾンにも掲載がなく、
ネットでもこちらの記事ぐらいしかヒットしません。

最初に出た左側の本は、デンマークで出た原書
Little Red School Book を翻訳したもので、
毛沢東語録を意識した赤い表紙の装丁といい、
書名といい(猛語録←毛語録)、
当時としてはなかなか過激な内容で、目次は次の通りです。
 
第1章 なにをどうして学ぶのか?
第2章 レッスン
第3章 宿題
第4章 先生
第5章 学校での罰則
第6章 生徒・友だち
第7章 インテリジェンス
第8章 成績
第9章 自由時間
第10章 セックス
第11章 刺激剤
第12章 体制・キミの場所

出版後、PTAなどから猛反発を食らって、すぐ発禁図書扱いとなったらしいです。

でも、それにしても、なぜ発禁になったような本が
いまわたしの手元にあるんでしょう???・・謎ですねぇ・・笑
 
『ちびっ子猛語録』の方は、12の章立てで構成され、
学校生活のなかにセックスの話題が位置づけられているんですが、
『新ちびっ子猛語録』の方は、
『ちびっ子猛語録』を翻訳した人のひとり・石渡利康さんが著者で、
当時欧米で出版されていた性教育の本20冊近くを参考に執筆され
1冊まるごとセックスの話題です。

 
わたしの両親は、いずれも昭和ひと桁の生まれで、
たぶん、それぐらいの世代の人は
セクシュアリティの問題をオープンに語ったり、
子どもへの性教育を熱心にやろうとした人は
少なかったとおもいますし、
両親からそうした教育を受けた記憶はありません。
 
まあ、学校でも性教育の授業をうけたという記憶がなく、
当然のことながらこれらの2冊は、
親から買ってもらったものではなく、
わたしが近くの本屋でこっそり手に入れて
親に隠れてナイショで読んでたというわけです。
 
・・・というわたしは、
けっこう早熟なこどもだったかもしれないのですが、
セクシュアリティの問題は、
家庭でも学校でもないフィールドで、
それぞれ成熟度や興味関心度合いに沿って、
自発的に情報収集して・・・というのが
いちばん自然な在り方なのでは、とおもうし、
以前こちらの記事で紹介した
内田樹さんが三砂ちづるさんとの対談本「身体知」で語っているように、
「政治と宗教とセックスは、家庭では話題にしちゃいけない」という方針に
基本的に賛成なんです。
 
でも、それだと各々に異なる周囲の環境と
偶発性にゆだねられてしまうので、
中学生時代にこういう情報と出会えたわたしは、
ラッキーな人間のひとりだったかもしれませんね。
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