往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。





吉本隆明『心的現象論序説』より

心的現象論序説


全著作集へのあとがき(部分的引用)
 

こんど全著作集にこの本をおさめることになった。最初に公刊されてから、ほぼ2年たっている。現在もなお、続稿が書きつづけられているので、内容について、じぶんで総括する段階にはいたっていない。はじめに、けわしい山に挑むつもりで、岩場に足をかけた。すこし登ったところで、雨露をしのぐだけの空間が見つかったので、テントを張って小休止した。それが本書であるような気がする。そのあとすぐに、また登りはじめた。最初の装備が悪かったかどうか、自問するいとまもないくらいである。あの装備じゃあはじめから駄目だよ、という声と、あの装備で登高しなくてはならないんだから、気の毒だなあ、という声はすでに聞えてきた気がする。けれど、本人にはひき返す余裕もなければ、その気もない。ただ、ゆくだけである。誰だって、足場が崩れたり、天候が激しかったりすれば、途中からひき返すかもしれないし、そのまま立往生ということになるにちがいない。そんなことを気にしていても仕方ないのだ。また、装備が貧弱であるかどうかも、問題にする訳にはいかない。発注した立派な装備が届かないうちは、登る気がしないというのは、いつも、わたしには無縁な世界の通念に属している。それに、わが国の知的な通念では、この世界には、こんなに立派な装備がある、と陳列してくれる人物は、けっしてじぶんで登ったり、登高者に力を貸したりしないものである。どんなことも知的な孤独を体験しないで、できることなどない。・・・(後略)・・・

 

目  次
はしがき
I 心的世界の叙述

1 心的現象は自体としてあつかいうるか
2 心的な内容
3 心的内容主義
4 「エス」はなぜ人間的構造となるか
5 新しいフロイド批判の立場について

II 心的世界をどうとらえるか

1 原生的疎外の概念を前景へおしだすために
2 心的な領域をどう記述するか
3 異常または病的とはなにか
4 異常と病的とは区別できるか
5 心的現象としての精神分裂病
6 心的現象としての病的なもの
7 ミンコフスキーの『精神分裂病』について

III 心的世界の動態化

1 前提
2 原生的疎外と純粋疎外
3 度 Grad について
4 ふたたび心的現象としての精神分裂病について
5 感官相互の位相について
6 聴覚と視覚の特異性
7 原生的疎外と純粋疎外の関係

IV 心的現象としての感情

1 感情とはなにか
2 感情の考察についての註
3 感情の障害について
4 好く・中性・好かぬ

V 心的現象としての発語および失語

1 心的現象としての発語
2 心的な失語
3 心的現象としての「概念」と「規範」
4 概念障害の時間的構造
5 規範障害の空間的構造
6 発語における時間と空間との相互転換

VI 心的現象としての夢

1 夢状態とはなにか
2 夢における「受容」と「了解」の変化
3 夢の意味
4 なぜ夢をみるか
5 夢の解釈
6 夢を覚えているとはなにか
7 夢の時間化度と空間化度の質
8 一般夢の問題
9 一般夢の解釈
10 類型夢の問題

VII 心像論

1 心像とは何か
2 心像の位置づけ
3 心像における時間と空間
4 引き寄せの構造 I
5 引き寄せの構造II
6 引き寄せの構造III
7 引き寄せの構造IV
8 引き寄せの世界
 

あとがき
全著作集のためのあとがき
角川文庫版のためのあとがき
解題「凛々たる種子」(川上春雄)
解説「転換期にたつ思想」(森山公夫)
索引


吉本隆明『心的現象論序説』(角川文庫版・1982年初版)より

COMMENT:わたしたちは「心」という言葉を日常的に、しかも頻繁に口にするし、その言葉の意味を知らない人はほとんどいないでしょう。でも、「心とはいったいなんなのか?」という問いを真剣に考え続け、自分なりの答えを出した人は、果たしてどれだけいるでしょうか。吉本隆明という人は、フロイド、ユング、ヤスパース、ビンスワンガー、キルケゴール、ハイデガーなど、同じ問いに挑んだ精神科医や心理学者、哲学者等の考察を参考にはしてもそれに依存することなく、ほとんど0から自分で組み立てながらこの難問に挑んだ人でした。この本には、まさにそうした吉本さんの格闘の軌跡が克明に記されているんだとわかって、わたしを大きく震撼させたのです。内容についてはテーマが大きすぎて安易に触れられるようなものではなく、吉本さんの真摯な凜とした姿勢を取っていただければと考え、全著作集へのあとがきと記された小文と目次をご紹介することにしました。

 

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鹿島茂『悪魔の引用句辞典』より

悪魔の引用句辞典_鹿島茂.jpg

 


社会がますます機能化と能率化を高度に推し進めていくとき、言葉は言葉の本質の内部では、ますます現実から背き、現実から遠く疎遠になるという面を持つものであり、言語は機械化に向かえば向かうほど、言語本質の内部での疎遠な面を無声化し、沈黙に似た重さをその背後に背負おうとする。つまりコミュニケーションの機能であることを拒否しようとする。


−−−吉本隆明『自立の思想的拠点』(徳間書店)より
 

昔読んだので記憶があいまいだが、ジョージ・オーウェルの近未来SF小説『1984年』に、全体主義社会では、住民たちは、ニュー・スピークと呼ばれる簡易言語を話すようになるエピソードがあったと思う。語彙の少ない簡単な表現ですべてコミュニケーションが成り立ってしまうのである。

この未来予測は、少なくとも日本にかんする限り、見事に当たった。「ムカつく」「感動した」「泣ける」「KY(空気読めない)」etc.。まさにニュースピークそのものである。それどころか、ニュースピークの首相まで現れ、マスコミでもニュースピーク派が多数派を占めるという状況が生まれてきている。全体主義社会ではないにもかかわらず、である。

では、なにゆえに、高度資本主義の社会で、このようなニュースピーク化現象が起きるのかと考えているときに、最初の言葉に出合った。

 

すなわち、社会が機能化と能率化を追求していくと、当然、言語もそれに伴って機能化・能率化する(つまりニュースピーク化する)わけだが、その一方で個々の言葉は、現実から遠ざかるという指摘である。ソシュール理論のシニフィアン・シニフィエでいうと、シニフィアン(音声・文字記号)によって喚起されるシニフィエ(概念)の中で、その概念抽出のもとになる「現実」とのつながりが失われてしまっているということだ。吉本の言語理論なら、指示表出ばかりが前面に出て、自己表出が稀薄になることだ。

しかし、では、こうした現実から離れ、薄っぺらになったニュースピーク(機能化言語)を用いている人は、それによって、コミュニケーションがより円滑になっているのかといえば、そんなことはない。むしろ、逆であって、ニュースピークでは掬いきれずに残る感情と心理の余剰部分(自己表出部分)は、澱(おり)となって心の底に沈み、無声の言語、すなわち沈黙でしか表現できないものと化す。

その象徴が、という筋書きに当てはめて考える。すなわち、昨今のわが国で、殺人や傷害致死などの重大犯罪を犯して逮捕された少年・少女たちの口から洩れてくるあきれるような言葉の数々である。犯罪の動機というには、あまりにも幼稚で単純な言語!

「なぜ殺したのか?」
「ムカついたから!」
「なぜムカついたのか?」
「無視されたから」
「どのようなところで無視されたと感じたのか?」
「わからない」
これはつまり、「言葉のコミュニケーション機能の拒否」である。
彼ら少年・少女(ときには中年・中女)はニュースピークを用いているからといって、感情や心の襞がないわけではないし、それを表出したいという願望がないわけではない(ニュースピークによるブログの繁盛を見よ)。ただ、困ったことに、ニュースピークでは、最も本質的な部分、つまり、一番言いたいことが、沈黙という言語でしか語りえない構造になってしまっているのである。なんというパラドックス!

機能化・能率化を目指した社会は、機能化・能率化言語としてのニュースピークを生んだが、そのニュースピークは逆にコミュニケーション機能の喪失をもたらし、いわゆる語り得ない「心の闇」を大量発生させる結果となったのである。

ところで、マルクスの指摘をまつまでもなく、言語のような上部構造は、経済という下部構造を、ある種、歪んだかたちで反映しているという。ならば、効率化・能率化を追い求めたあげくに自爆した経済を、これからの経済はどのようなかたちで反映することになるのだろうか?

ニュースピークの解体だろうか、それともさらなるニュースピーク化の加速だろうか? こちらも予断を許さない状況になってきているようである。

 

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『ひとり 15歳の寺子屋』52回めを読み終えて

 


吉本さんの『ひとり 15歳の寺子屋』を読みました。
 

 

この本のことは、今までにもこちらの記事などでご紹介していて、読むのは今日が初めてではありません。
 
この本を「100回繰り返し読む」と決めたのは、いつだったか正確に記憶していないのですが、以来写真のように1回よむ毎に正の字で一本ずつ記入するようにしてます。
 

 

 

100回繰り返し読んでみようっておもったきっかけは、吉本さんが『日本語のゆくえ』という本に、「1冊の本を100人の人に読ませたら、100通りの感想や意見が返ってくる。でも、その100人が100回ずつ読んだら、その感想や意見はほぼ一致するようになってきて、作者の考えに近づいていくのではないか」と書かれているところを読んだことからです。

 
通算で52回めを数える今日も、やっぱりなにがしか新しい発見があって、「あまりに好きすぎて、だれにも読ませたくないっ!」てくらいのお気に入り本になってしまいました。(^^;)


ただ、この本について1点だけ難点をいうと、各章の見出しを「〜時間目」と学校の授業をおもわせるようなスタイルにしたところだけは止めて欲しかったですねぇ・・・

 

 

 

 


犹子屋瓩辰討いΩ斥佞蓮⊂学校の社会科の教科書にも出てきますから、知らない人はほとんどいません。
 

 

わたしも寺子屋を仕事上の屋号としていますし、今日でも「教育の場の代名詞」としてかなり頻繁に使われています。
 

寺子屋塾ってネーミングにした理由のひとつに、誰もが知っている言葉ということから、特別なことをやっている場所ではなく、ふつうにどこにでもある場所ということを大事にしたかったという気持ちもありました。
 

でも、ちょっと気になるのは、「教育の場の代名詞」として安易に使われすぎるために、いまある学校と混同されがちだというところです。
 

 

 

 

実際、この記事などでも紹介されているように、江戸期以前の寺子屋では、一斉授業がまったく無かったわけではないようですが、自学自習、個人別学習という形が中心でした。
 

つまり寺子屋は、一斉授業のスタイルが中心となっている今日の学校のような場とは似て非なる存在で、その違いにこだわってネーミングした者からすると、「〜時間目」というような、学校みたいな章立てではない形にしてほしかったわけでして。

 


 

さて、だいたいこの1冊を1時間ぐらいあれば読めるってことは分かってたんですが、今日は1回読むのにどれだけかかるか、
正確にタイマーで計ってみるということをやってみました。
 

 

結果は44分33秒。
 
今ではこの本のどこに何が書いてあるかほとんど覚えてしまっているぐらいですから、もちろん、最初の頃よりは読むスピードがずいぶん早くなっているんですが、これからもきっともっともっと早く読めるようになっていくことでしょう。

 

 

同じ本を繰り返し繰り返し読む・・・繰り返し読むにあたいするような素晴らしい本にたくさん恵まれてきたわたしですが、それでもさすがに100回読んだような本は過去にはないので、たぶんこの本が初めての体験になります。
 

 

さてさて、100回読み終えたときにわたしにいったいどんなことが起きるのか、今からワクワクしますね。(^^)/

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三宅陽一郎さんのことば

内面において戦えない者が、

自分の外に戦いを持ち出す。

 

持ち出された戦いは互いに連鎖し、

やがて大きな戦禍を巻き起こす。

 

巻き起こされた戦禍は罪なき者を引き込み、

暴力の連鎖に繋げる。

 

内面における自分との戦いこそ

偉大で豊かな成果をもたらす。

 

教育が教えなければならないのは、

このことである。

 

※三宅陽一郎さん(ゲームAI開発者)のことば

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自灯明・法灯明(『ブッダ最後の旅』より)

ブッダ最後の旅

第2章 9.旅に病む ベールヴァ村にて
「アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか?わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。完(まった)き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は、存在しない。『わたくしは修行者のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は、『わたくしは修行者のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたしに頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。
 アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。譬(たと)えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ。
 しかし、向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく一部の感受を滅ばしたことによって、相の無い心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、彼の身体は健全(快適)なのである。 」
 それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。では、修行僧が自らをたよりとして、他人をたよりとせす、法を島とし、法をよりどころとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころととしないでいるということは、どうして起こるのであるか?
 アーナンダよ。ここに修行僧は身体について身体を観じ、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
 感受について感受を観察し、 熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
 こころについて心を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
 諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
  アーナンダよ。このようにして、修行僧は自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるのである。
  アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう、----誰でも学ぼうと望む人々は----。」  
 
第3章 13.死別の運命
  そこで尊師は修行僧たちに告げられた、「さあ、修行僧たちよ、わたしはいまお前たちに告げよう、-----もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠けることなく修行を完成なさい。久しからずして修行完成者は亡くなるだろう。これから三カ月過ぎたのちに、修行完成者は亡くなるだろう」と。
 尊師、幸いな人、師はこのように説かれた。----
 「わが齢は熟した。
  わが余命はいくばくもない。
  汝らを捨てて、わたしは行くであろう。
  わたしは自己に帰依することをなしとげた。
  汝ら修行僧たちは、怠ることなく、よく気をつけて、
  よく戒めをたもて。
  その思いをよく定め統一して、おのが心をしっかりとまもれかし。
  この説教と戒律とにつとめはげむ人は、生まれをくりかえす輪廻をすてて、
   苦しみも終滅するであろう」と。
 
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「力」の捉え方(野口三千三のことば)

野口体操_羽鳥操.jpg

 


●「力」の捉え方

 

力を抜けば抜くほど力が出る。


「力を抜く」ということを主題として教えられたことがなく

「力を入れる」ということの本質を考えたこともない。

 

ただ、「頑張れ」と言われ続けただけだという人が多い。
 

「力を抜く」という事実とその実感が分からなければ

「力を入れる」という事実も実感も分かりようがない。

 

この基礎的事実と実感のないところでは、

どんな理論も実技も空論となり、無意味なものとなる。


力とは常に流動変化するなかで、

その時その場における「丁度よさ」が分かる能力のことである。
 

 

※野口体操創始者・野口三千三のことば

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五木寛之『愛について 人間についての12章』

五木寛之_愛についての12章.jpg

 


マニュアルをほしがる風潮はなにもセックスに関することだけに限りません。生身の人間を扱う医療や教育の現場でもその傾向が強く、しばしば大きな混乱をおこしています。最近の小学校の出来事です。生徒からきわめて無邪気に何の悪意もなく、「先生、どうして人を殺してはいけないんですか」という質問が寄せられて、先生たちはその都度立ち往生してきた。そこで、教育関係者たちの集まりで、そういう質問に対する模範解答を作ってほしい、対処の方法について具体的なガイドラインを設定してほしいという意見が数多く寄せられたというのです。

その話を漏れ聞いて、非常にびっくりしました。そのような質問に先生たちが答えられないのは当然です。そこで、「ほんとにどうして殺しちゃいけないんだろう。戦争だと殺さなきゃいけないのにな」と一緒に頭を抱えてもいいでしょう。絶句して、立ちすくんでもいいでしょう。「なに言ってるんだ。そんなこと当たり前じゃないか」と、信念を持って一喝する手もあるでしょう。教師がそれぞれの心の声にしたがえば、さまざまな答えが生まれて当然です。そのときの率直な、正直な対応の仕方こそ、子どもに対する大切な教育なのではないでしょうか。

画一的にひとつのスタイル、ひとつのノウハウ、ひとつのガイドラインというものを設定して、そのマニュアルにしたがって生徒に答えを与える、そうなってしまったら、それこそ人間性は殺されてしまっているといっていい。

 

そのような(マニュアル的な)機械的な教育が横行しがちな中で、一人の人間的な教師の話を聞いて、とても感動しました。それは、伝統ある私立小学校の性教育の時間のことです。男女共学のその学校では、4年生のときに、男女別々に、理科の先生からセックスについての話を聞くのが慣わしでした。最近のませた小学生は10歳になるかならないかでも、すでに、セックスとはどんなことをするのかという知識は持っているそうです。そして、腕白坊主の何人かは、独身の理科の教師が答えにくいことを聞いて困らせてやろうと手ぐすね引いて待っていました。教師がひとしきり、人体図を見せながら男性の性というものを科学的に説明し終わると、一人の子どもが手をあげて、質問したそうです。
「先生はどんなときに、おちんちんが大きくなるんですか?」
独身の先生はその質問にちょっとたじろいだものの、こう答えました。「好きな人と一緒にいるとき」。その素直で率直で自然な答えに、いたずら坊主たちは息を呑んで静まったといいます。彼等は一瞬ひるんだ態勢をすぐに立て直して、重ねて聞いてきたそうです。
「女の人とセックスすると、気持ちがいいんですか」先生は答えました。「好きな人を大切に思いながらすると、気持ちがいいし、そうでもない人と、遊び半分にすると、あんまり楽しくないんじゃないかな」と。

自分たちの質問の意図を承知しながら、それを真正面から受け止めて、人生の大切なことを教えてくれた先生の率直な心は生徒達にストレートに伝わりました。もうだれもからかったり、嬌声をあげて騒いだりしなかったそうです。深い温かい感動がクラス全体に静かに流れて行ったそうです。子どもたちの良心は目覚め、確かになにかをつかんだのではないでしょうか。


マニュアルなしで、ガイドラインを持たずに、ひとりで生徒たち向かい合った先生の自然さ、率直さの中には、学ぶべき点がたくさんあるように思います。このような自然な気持ちで、自分たちの性をもう一度見直すことは、とても大事であると感じているのです。繰り返し言いますが、人間には百人百様の生き方があります。こういう生き方が望ましい、こういう生き方でなければならないという決まりはどこにもないはずです。それと同時に、百組の恋人同士には、百の愛の形、ラブスタイルがあるのだと私は思うのです。
 

五木寛之『愛について 人間についての12章』(角川書店・2003年) 第12章 新しい愛の形 より

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吉本隆明が語る親鸞

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糸井:どうしても人は「善悪」を大きな判断基準にしてしまいがちですが、東日本大震災が起きて、多くの人が「実はそんな単純な話ではない」ということに気づき始めたんじゃないかと思います。でも、「じゃあ、一体どうすればいいの?」というところで戸惑い、立ち止まってしまっているんじゃないかという気もするんです。価値判断のよりどころを、見失ってしまったというか。
 
吉本:その点に関して、親鸞ははっきり言っています。「善悪の問題を、第一義のことと錯覚してはいけない」とね。何かをしたほうがいい、あるいはしないほうがいいといった判断を「善悪」に基いてしてしまうと、どうしても自己欺瞞に陥ってしまいます。そうではなく、「人には『契機』というものがあり、それによって、『おのずから』何かをしたいと思ったらすればいいし、したくないと思うならしなくていい。そう考えればいいんだ」と言っています。「自然法爾」という言葉が仏教用語にありますが、これはまさに、人為ではなく、あくまでも「おのずから」に任せる、つまりは他力という状態でものごとを考えるということで、親鸞の考え方の、ひとつの核となる部分だと思います。
 
糸井:いま仰った「契機」に関しては、『未来に生きる親鸞』で詳しく解説されていますし、『親鸞から見た未来』で言及なさっている「緊急の課題」と「永遠の課題」という喩えについても、今日のお話をふまえた上で読んでみると、また新たな発見がある気がしてきました。
 
吉本:親鸞の思想というのは、現代、そして未来にも通用する部分がたくさんあると思います。「契機」についてもそうですし、「死」というものをどう捉えていくか、という点についてもそうです。いまひとつだけ申しあげるとすると、親鸞は「死」というものを、「あの世」と「この世」の中間に移したと言えるでしょう。その場所がいわば「浄土」であり、そこに往って還ってくる視線が、とても大事になってくるわけです。そうすることによってはじめて、「親鸞がいまに生きていたらどう考えるだろう」ということを、実感として語れるようになっていくのだと思います。

 
糸井:中世に生きていた頃の親鸞が出した結論を、そのまま援用するのではなく、親鸞がいま生きていたと仮定して、そこから考えてみるということですね。
 

吉本:その通りです。かつての教えをいまに当てはめるのではなく、かつて用いたであろう思考法を、現代ならではの視点をふまえて、もう一度たどってみることが大切なんです。
 
糸井:だとすると、親鸞がなぜそのような思考にたどり着いたのかを見極めることが重要になってきて、それにはやはり、京都を出てからの親鸞について、思いをめぐらせてみる必要がありますね。
 
吉本:過酷な暮らしをしていたと思いますよ。新たな土地ばかりを歩いていますからね。僻地を歩いて自分で開拓をしたり、時にはふつうの農民と同じく畑仕事もしていますからね。
 
糸井:京都を離れて越後や常陸まで赴いた道のりや、その地で僧侶として果たしていた役割を改めて想像すると、非僧非俗という考え方も、妻帯や肉や魚を食べることも、不思議ではない気がします。
 
吉本:そうですね。僧侶が妻帯するという習慣は平安の頃から始まってましたが、親鸞は、独特の言い方で妻帯について語っています。たとえば、「自分は人に教えることが好きだった。それに女の人が好きだった」と公然と語り、「そのふたつの要素があったから、自分はふつうの人にはなれなかったし、それが自分の弱点だ」と言っています。ふつうの人というのは、土地を耕したり、工事をしたりする人ということですが、自分は人にお説教をすることが好きで、生涯やめられなかった。その一方で、戒律を設けて独身を守れなかった。行く場所場所で奥さんを見つけて、一緒に生活をしていた。そのふたつの点において、自分はふつうの人にもなれなかったし、本格的な坊さんにもなれなかった、と言っています。
ふつうの坊さんにとは考え方がまるで反対ですね。「駄目なんだ」と言っていますが、実はそこがすごいところなんですけどね。ふつうの坊さんは、どこかに座って寺に弟子を集めて、勢力を拡げようと考えていましたが、親鸞は逆で、「自分は『ふつうの人になりたい』とつとめてきたんだけど、女の人と、人にものを教えることが好きで、それをやめられなかったことにより、ふつうの人よりも堕落した人間なんだ」という独特の自己評価、つまり非僧非俗であると判断を下しているわけですから。
 
糸井:ふつうの坊さんなら隠そうとしますよね。でも親鸞は、それを一切隠さないで、あからさまにしているところがすごい。
 
吉本:そうなんです。そこからいけば、親鸞というのは、一見坊さんとしては変わり種ですが、ぼくは、問題にならないくらい偉い人だと思いますね。ふつうの坊さんよりも堕落していたという自己評価、そういう自覚を持っているというのが、すごいと思います。 

 
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村瀬学『次の時代のための吉本隆明の読み方』より

次の時代のための吉本隆明の読み方

地図とはいったい何なのだろう、という問いかけを考えていたときに、ふと思いがけない形で「吉本隆明」が見えてきた。それは「見えてきたぞ!」というようなちょっと不思議な体験であった。

「吉本隆明を論じる」というのは、批評家にとってはさまざまなことを意味している。彼の数え切れない著作と、意味の定まりにくい用語群のはざまで、そういうものを読みこなすことが「吉本隆明を論じる」批評になる次元から、彼と論戦し、罵詈雑言の応酬のはてに、彼の存在の1から10までを否定しつくすことが「吉本隆明を論じる」ことになる次元まで、「吉本隆明を論じる」スタイルはじつにさまざまであった。

後から来たものは、そういう先人の「戦いぶり」が、すこぶる興味深かったし、そこから学ぶものはたくさんあった。でも、そこから自分が「吉本隆明を論じる」ということには、なぜか至らなかった。自分が論じる「動機」が、そういう批評史や論戦史のなかには、なかなか見いだせなかったからだ。

ところが「地図」について考えることになってから、急にというか、一気に「吉本隆明」という在り方がリアリティをおびるようになっていった。
わたしがそのとき考えたのは、こういうことだった。たとえば、人は、青年期に「哲学」の本を読んだりするのは、人生を生きるための「地図」を得たいと思ってのことではなかったか。社会に出ると、今度は社会情勢や政治情勢を読み解くための「地図」を手に入れたいと思うようになる……。

「吉本隆明」という存在は、そういう意味では、日本のある時代の「地図」として読まれていたことがあった。でも、それが「地図」にならないと「見切り」をつけられる時期も後に出てきていた。彼がもしあるときに「地図」であったときがあるなら、そういうことは起こり得ただろう。世界や時代は動き変化しているのだから、あるときに使えた地図をいつまでも使えることはあり得ないのだから……。

しかし、わたしが今述べた言い回しには、決定的に問わなくてならない問いが一つ欠けている。では、そもそも「地図」とはいったい何なのか、という問いかけである。おそらく哲学の根本の問いも、じつはこの「地図とは何か」という問いに関係している。人生の指針・地図としての哲学、そして、その思考地図としての哲学史……。

そういう「地図」への問いを自覚したときに、急に「吉本隆明」が見えてきたのである。それはまるで気球に乗った人が感じる視界の開けのような体験だった。

詳しいことは、本文を読んでいただくしかないが、もしこの「気球に乗って見えてくる……」という言い回しの「見え」がこのあとの本文の光景として見えてきたなら、わたしがそれを比喩として言っているわけではないことが、わかっていただけるに違いない。


村瀬学『次の時代のための吉本隆明の読み方』(洋泉社・2003年初版)まえがき全文

 
COMMENT:村瀬学さんは、1949年生まれの児童文化研究者、心理学者。わたしが昨年のお正月明けに宇田亮一さんの『吉本隆明 こころから読み解く思想』を読んだときに感じたことも、まさにここに書かれているような「まるで気球に乗った人が感じる視界の開け」体験だったので、ここで紹介したまえがきに記された「地図」という言葉とその問いは、読み解く上での重要なキーワードだと感じています。吉本さんを論評した書物は数多ありますが、この本のように次の時代に活かそうとする視点を明確にうたったものはそれほど多くはなく、吉本隆明ビギナー向け入門書としてオススメの1冊。現在では洋泉社版は絶版で古書でしか入手できませんが、2012年に言視舎から増補版が出ました。
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野口晴哉『健康生活の原理 活元運動のすすめ』より


健康生活の原理といっても、栄養をどう摂れとか、睡眠は何時間とれとか、ということではありません。体と体の使い方の問題だけであります。体の問題といっても、胃袋がどうなるとか、肺がどうなるとか、心臓がどう脈をうつとか、というようなことではありません。そういうような医学的な面での体のことは、皆さんのほうがよくご存知だと思うからであります。

私がお話するのは、いままでの学問的な考え方では考えきれない体の問題なのであります。私たちの胸の中に肺臓と心臓があるということは、どなたもご存知ですが、それらを動かしているある働きがあることには気づかないでいる。例えば、恋愛すれば食事がおいしくなるし、好きな人に出会えば心臓が高鳴ってくるが、借金をしていると食事もまずいし、顔色も悪くなってくる。このように恋愛とか借金とかいうものによって生じてくるある働きと、肺臓とか心臓とかいうものが関係ないとはいえない。ところが胸の中を解剖してみても、レントゲンでいくら探してみても、そういうものは出てこない。だから人間の生活の中には解剖してしまったら判らない、また胃袋とか心臓とかいうように分けてしまったら判らないものがある。電報1本で、途端に酒の酔いが醒めてしまうこともありますが、どういうわけで醒めるのかは判らない。その判らないもののほうが、却って人間が健康に生きて行くということに大きな働きをもっているのです。

最近、大脳反射とか、ストレスとかいう学説が出てまいりましたが、例えば、A氏はB女が嫌いでD女が好きだということは、大脳を解剖しても、内分泌物を検査しても判らない。男は女を好悪するということぐらいしかわからないのです。学問が人間の実際生活に役立つことはもっと先のことでありましょう。

また同じ刺戟で生じたストレスも、人によっては現れ方がみんな違う。ある人は恋愛をすると食欲がすすむのに、ある人は胃袋より心臓に現れたりする。同じストレスでも、筋が硬張ったり、糖尿を出したり、尿がつかえたりする人もあれば、呼吸器のはたらきの異常となって現れる人もある。そういう違いは何によって起こるのだろうか? 人間とは個人であって、その個人個人には魚の好きな人もあれば、イモの好きな人もある。十億円の借金を背負っても平気な心臓もあれば、千円や1万円の借金を苦にして顔が青くなるような心臓もある。みんな体の傾向が違うのです。

そういう違いに立脚しないと、個人個人の健康問題は理解できない。つまり私がお話しようとする健康生活の原理というのは、そういう体の普遍的な面だけを追求していたのでは判らない人間の体、その生きているということの何らかについて、私が50数年、大勢の人を指導してきて得てきた生命観と言いますか、健康生活の哲学といいますか、そういったようなことをお話しようと思うのであります。


 

野口晴哉『健康生活の原理 活元運動のすすめ』(全生社)健康生活の原理(まえがき)より

posted by Akinosuke Inoue 23:55comments(0)trackbacks(0)pookmark