往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。





吉本隆明『カール・マルクス』より

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※6/13に書いたこちらの記事で紹介した続きの部分です。

しかし、マルクスの『手稿』のなかの<自然>哲学が、人間の存在と対照的な自然とのあいだで徹底したすがたをとるとき、かならずおおきな影響をもってあらわれるのは、エピクロスの<霊魂>と<死>についての説教である。

エピクロスによれば、感覚のもっともおもな原因は<霊魂>である。

<霊魂>は微細な部分から成り、全組織体にくまなく分布しており、熱をある割合で混合している「風」にもっともよく似ている物体である。<霊魂>は、組織体の残りの部分(身体)によってかこまれて飛散しないために、感覚の原因でもあり得るので、その意味では、<身体>もまた感覚という偶然性に関与しているとされる。

この素朴なエピクロスのアトミスムは、マルクスの<自然>哲学における<疎外>に、おおきな影響をあたえた。もっと端的に人間の動物ともちがう普遍性は、自然を人間の<非有機的身体>とさせうることにあり、そのことによって人間は自然の<有機的身体>に転化するほかはないという<疎外>観は、語彙そのものからすでに、ギリシア初期<自然>哲学、とくにエピクロスのものである。
第一に、<霊魂>が微細な物体であるという概念、そして第二にこの物体が身体にくまなく分布され、かこまれているという概念は、自然が人間の<非有機的身体>となるところに人間の本質があるというマルクスの<疎外>の概念を生きたままうつしている。もし、ここに、フォイエルバッハによってつきつめられた「動物はたしかに個体としては自己に対象的になって居る。それ故にこそ動物は自己感情をもって居るのである。然し動物は種属としては自己に対象的になって居ない。」(『キリスト教の本質』)という、意識の自然性と人間性についての洞察を接ぎ木するならば、<霊魂>、<物体>、<身体>、人間の<意識>の普遍性という連鎖のなかで、マルクスの<自然>哲学としての<疎外>、いいかえれば、<非有機的身体>と<有機的身体>との関係はおのずから形成されることをしることができる。かれはフォイエルバッハを現存性の踏み台として、エピクロスの自然哲学を、徹底したすがたで蘇生させたのである。

この影響は、言語観についても、あらわれる。

それゆえ、事物の名称も、最初から人為的な定めによって生じたのではない。むしろ、ほかならぬ人間の自然的本性が、おのおのの種属ごとに、それぞれ固有な感情をいだき固有な印象をもち、これら固有な感情と印象のおのおのによって型を与えられた空気を、それぞれ異なる固有な仕方で、(音声として)発したのでる。この場合、この仕方は、それぞれの種族の住む地域の違いによる種族間の違いによっても異なっていた。(『エピクロス』出・岩崎訳:岩波文庫)

もちろん、フォイエルバッハ論のなかでつかわれている言語観は、語彙そのものからしてエピクロスのアトミスムの面影をつたえている。「『精神』は元来物質に『憑かれ』てゐるといふ呪はれたる運命を担つてゐる。現に今、物質は運動する空気層として、音といふ形をとつて、要するに言語の形をとつて現はれる。(『ドイツ・イデオロギー』)というように。

「運動する空気層」というような言葉は、現在わたしどもを感心させないとしても、デモクリトスやエピクロスを喜ばせる言葉であり、マルクスにおけるギリシア<自然>哲学のアトミスムのつよい影響のかげをとどめるものということができる。ただ<霊魂>というような言葉を<精神>とか<意識>とかいう言葉に置き換えるために、どんな手続きがいるかについては、ヘーゲル哲学の批判と、キリスト教神学の批判と対応させることによって、フォイエルバッハが精密に展開していた。マルクスはフォイエルバッハを現存性の鏡として、エピクロス哲学をまねきよせる。あるいは、エピクロスの<自然>哲学を蘇生させるために、フォイエルバッハを媒介につかったといってもよかった。

エピクロスによれば<霊魂>の特質は、天体の動きのような客観的存在、自然物を「至福なものであり不死のものであると判断しながら、しかも同時に、意志だの行為だの動機だのという至福や不死とは正反対のものをもっているかのように判断するところに」あった。そこに動機がうまれる。これがこうじてゆくと、<霊魂>は不合理な勝手な妄想をいだき、<死>んで感覚がうしなわれること自体をあたかもわれわれ人間にかかわることでもあるかのように、恐怖したり懸念したりするようになる。

マルクスが『手稿』のなかで、徹底した哲学のすがたをみせるとき、<死>にこだわり、類と個にかかずらうのはエピクロスの影響であり、また、かれの<自然>哲学からはそれをとりあげざるをえなかったのである。
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幻想論の根柢

言葉としての思想

・・・まず言語(言葉)というところからはいっていきます。言語はたれがかんがえても、たれがみても、すぐにわかる現れ方の特徴があります。言語は音声や文字で表現されますが、音声とか文字になった妙な形をした記号だということで、裏からみても、表からみても、どうひっくり返しても、それだけのものです。しかし人間の内的な意識のある表現だとして、あるいは文字に固定された記号としてみたら、言葉はある価値付けの対象となるといってよいでしょう。つまり単なる物あるいは音波にすぎないのが、何かの価値がつけられるものになります。

言葉が価値の対象になれると申しましたが、この価値は言葉がある事がらを指し示してそれを伝えるという自然な機能に基づいているということはすぐに理解されます。けれどもこの言葉の自然な機能も、ある事がらを指し示し、それをたれかに伝えようとする話し手や、書き手の意志との関連でかんがえはじめますと、自然な機能のほかの何かがつけ加わります。それはある事がらをぼんやりと指し示そうとか、よりはっきり指し示そうとか、ここは強調して伝えようとか、あいまいに伝えようとかいう意図が、音声やいい廻しのリズムを変化させることになります。そうしますと、言葉が価値の対象となるとき、すでにこのことは勘定に入れておいたほうがよいことになりましょう。

どういうことかと申しますと、言葉は話し手や書き手の意識や意志と関連させてかんがえるとき、ある事がらを指し示し、それを伝えようとする無意識の、あるいは意識されたモチーフがあるのですが、このモチーフや目的とはさしあたりかかわりない、ある普遍的な表出を実現しようとするものだということです。いいかえれば、言葉は<指し示し><伝える>という機能を実現するのに、いつも<指し示さない><伝えない>別の機能の側面を発揮するということなのです。わたしたちが、ときとして何かを指し示し、伝える必要がありながら、話したり書いたりすることがおっくうであったり、苦痛だったりするのは、この<指し示さない><伝えない>言葉の機能の側面を使わなければならないからです。

こういうものがほかにないかとかんがえてみます。ある意味でそれとよく似た性質をもったものがあります。それは流通過程にある商品というものです。商品とは素材的にいえば、(鑵ジュースを示して)単に金属でつくった鑵で、なかに液体が入っていてというだけで、それ以外の意味は何もつけられません。これを人間の社会的な努力と労働によってつくられたものだとかんがえていきますと、商品はある価値付けができることになります。もちろん価値づけは、この鑵ジュースが商品だということのなかに、すでにふくまれています。そのときに鑵のなかの液体は、化学的なある液状の成分ではなくて、飲み物だということから生まれる価値付けがなされたことになります。いいかえれば使用性あるいは飲料として美味しいもの、栄養のあるもの等々の役に立つ性質としての価値づけです。けれどもこの鑵ジュースが本来的な価値として価値付けがなされうるのは、たれかの手によってこのものが製造されたということのなかから生じます。そう見做すときにはじめて鑵ジュースが、金属の容器のなかにはいった化学的な液体成分という物質的な規定を<カッコに入れ>たあとにも露出してくる特性、飲んで美味しい、栄養がある等々の、すくなくとも人間が関与してくるとき生まれる普遍的な特性が与えられるからです。これは飲んで美味しい、栄養がある等々の<ために>鑵ジュースが製造されたり、使われたりするのだということとちがいます。むしろ飲んで美味しい、栄養がある等々<としての>鑵ジュースということに近いといってよいとおもいます。<……としての>という特性のもとにあらわれる物質ということから関与される、人間のある関与の仕方のなかに、ひとつの価値付けの本来性があるようにみえます。

ここでわたしたちは、商品が社会の経済的なメカニズムの網状態を介して、そのなかで流通していくのとおなじように、眼に視えない観念の上層のところに、やはり言葉があたかも商品と同じように、眼に視えないが類推のきく形でさまざまに錯綜して存在している、それはまるで社会構成における商品の陰画(ネガ)とおなじように、不可視の空間を飛びかい観念的に錯綜し横行している、そういうイメージをおもい浮かべることができるとおもいます。
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「自己表出」と「指示表出」

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吉本隆明さんの『共同幻想論』『心的現象論』『言語にとって美とはなにか』は、代表三部作と言われワンセットになっていると言えます。
 

吉本さんの思想の全体像をつかもうとするときには、この三冊がなぜワンセットと言われているのか、各々がどういう繋がり方をしているかを考えてみることで理解の糸口が見えてくるでしょう。


でもそうなると、政治学、経済学、宗教学、歴史学、法学、社会学、言語学、表現論、芸術論、精神医学、心理学、生物学といったさまざまな学問をふまえる必要がありますし、そうしたものをすべて俯瞰する視点は、いわゆるアカデミックな世界にはほとんど存在しないのです。


いいかえれば、過去に吉本さん以外そうしたことを考えた人はほとんどいないということになりますし、結果的に「吉本の書くものは難解だ」とレッテルを貼られ、読み解くのは易しくない、ということになるわけです。
 
ただ、文学や詩など文芸作品の言語表現に対する批評の基本的な機軸になるような理論を組みたてたいというのが、吉本さんがこの三部作を書いた動機であって、政治学、経済学、宗教学、歴史学、法学、社会学、言語学、表現論、芸術論、精神医学、心理学、生物学といった学問を統合しようというようなことを考えていたわけではありません。

それで、三部作のうちでは、どこからアプローチするのがよいのかという話になるんですが、『心的現象論』は、人間の心という眼に見えないものを扱っていますし、また、『共同幻想論』は、30万年の人類の歴史を踏まえ、国家や宗教、法というものがどのように成立してきたかという壮大な話なので、わたしたちにとって一番身近な「言葉」を題材としている『言語にとって美とはなにか』が一番入りやすいのではないかと。

それにはまず、『言語にとって美とはなにか』の全体を貫いている「自己表出」と「指示表出」という2つの座標軸を理解する必要があるんですが、この「自己表出」と「指示表出」は、それまでに吉本さん以外の誰かが考えたことを敷衍したわけではなく、吉本さんが独自に新たに生み出したものであるため、理解しようとおもうと骨が折れるわけです。

わたしも、こちらの記事で書いたとおり、今年の1月に出版された宇田亮一さんの解説本を読んできたおかげで、やっと人に説明できるぐらいまで理解が進んだんですが、それでもしっかり理解するためには三部作で言及されている全体をふまえる必要があるという、前記した話に戻ってしまうわけです。

よって、blogの1日分で書けるような文章だけで、読んだ人が「自己表出」と「指示表出」を完全に理解できるというのは不可能な課題ということになるわけですが、それを言っていても始まりませんから、「自己表出」と「指示表出」とはどんなことを表そうとしているかということを考えてみていただければと、『定本・言語にとって美とはなにか(二分冊)』の<1>に登場する図表4枚と、<2>の巻末に収められた芹沢俊介さんの解説文を以下に引用しました。

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『言語にとって美とはなにか』(以下『言語美』と略)を最初に読んだときの異様な興奮がいまもからだのなかに残っている。そのときの興奮を言葉にすれば、書かれていることはまるでわからないのだけれど、でもここには間違いなく終わりとはじまりがある、というものだ。


1965年、まだ学校を出たばかりで表現という世界に踏み込んでいなかった私は、おれもはじめられるかもしれないと思った。なにかが自分のなかで動いたのだ。それから4年後に、まさかのことが私の身に起こっていた。この『言語美』が連載された雑誌、吉本隆明が主宰する「試行」の寄稿者になっていたのだ。

 


『言語美』というこの孤高の峰の頂きにとりつこうとした人の多くは、言語とは自己表出と指示表出の織物であると述べる、この最初の命題につまずくのではないだろうか。私はつまずいた。自己表出とはなにか、指示表出とはなにかがうまくつかめない。人にうまく説明できないし、人からなるほどという説明を示されたこともないのである。


『言語美』の体系はこれら一対の概念を核に組み立てられている。二つの概念がわからなくては、この本の根幹がわからないということになる。ただ、自己表出というときの自己が、自我や表出者の主体性でないことだけは明らかであった。以下は独り言のようにして記す、自己表出・指示表出についての私なりの理解である。

 


言語は自己表出と指示表出の織物である。自己表出とは、対象にたいする意識の動きである。指示表出とは、対象を指示しようとする意識の動きであり、両者は1枚の紙の両面のような関係にある。言語は対象を指示すると同時に対象にたいする意識の動きをも同時に表しているのだ。たとえば、次のような文がある。


 <ここに本がある>
 

この文で言語は本という対象を示している。同時に本という言葉のなかには、過去から現在にいたる本という対象にたいして人びとがいだいた意識が折り畳まれている。ある時代は本は貴重であった。ほかの時代には本は溢れてゴミのように扱われていた。ある人にとっては、本はいやな想い出とともにあった。別の人にとって本は幸福の記憶がからみついていた、というように。本という言葉を発する(記す)ということは、こういう無数の本にたいする意識のつみかさなりの上に不可避的に足を乗せることなのであり、また同時にそうしたつみかさなりに遺伝子のように拘束されることでもあるのだ。


対象にたいする意識のつみかさなりの高さがその時代の自己表出の水準である。それゆえに自己表出は共有の財産であると同時に表出意識を拘束する。その意味では共同幻想である。自己表出のつみかさなりは当然のことながら時代を経るにしたがい上昇する。自己表出の課題はこの水準を踏まえ、そこに新しい一つを積み重ねることである。

 


では指示表出はどのような展開を示すのであろうか。著者の言葉を読もう。
「言語の指示表出性は、人間の意識が視覚的反映をつとに反射音声として指示したときから、他と交通し、合図し、指示するものとしてきまった。言語の意味は、意識のこういう特性のなかに発生の根拠がある。言語を媒介として世界をかんがえるかぎり、わたしたちは意味によって現実とかかわり、たたかい、他者との関係にはいり、たえずこの側面で、変化し、時代の情況のなかにいる、といってよい」
指示表出の展開を規定するのは、現実の関係である。

「言語の表現の美は作者がある場面を対象としてえらびとったということからはじまっている。これはたとえてみれば、作者が現実の世界のなかで<社会>とのひとつの関係をえらびとったこととおなじ意味性をもっている。そしてつぎに言語のあらわす場面の転換が、えらびとられた場面からより高度に抽出されたものとしてやってくる。この意味は作者が現実の世界のなかで<社会>との動的な関係のなかに意識的にまた無意識的にはいりこんだことにたとえることができる。」


・・・(中略)・・・


『言語美』をいま読まなければと思っている私自身の動機を一言だけでも語らなくてはならないだろう。いまの私が関心をもっているのは文学の理論としてではなく、関係論に引き込んで読み直していくことだ。親と子の関係、大人と子どもの関係、夫婦・恋人といった関係、それらのまっただなかに自己表出と指示表出という概念を置いてみることだ。そのことによってこの本の奥深さがさらに新しく開かれるはずなのである。


ざっと触れておきたい。親や大人に否定された子どもは、意味のある言葉を明瞭に話すことをやめ、内側に閉じこもっていく。体も大人の言葉やはたらきかけに背を向け、拒否的になる。この時点で言葉を強制的に要求しても子どもは沈黙で答えるか、感情を削除した記号的な浮遊する言葉を最少の量で発するだけだろう。内側への撤退ですまなくなると、内側をみせないように表情を消しはじめる。さらに追い詰められると心を凍らせることによって自己を守ろうとする。あるいは行動化する。パニック状態になったり、暴力をふるったりするのだ。それでも守りきれないときには自己を解離させる。


こうした現象を自己表出・指示表出で読み解くことができるように思えてきたのだ。というよりこれらの視点がなくては、ほんとうの姿を分析できないと思えてきたのである。


前の現象はこうなるだろう。親や大人に否定された子どもの言語は、発語という場面において、1枚の紙の両面のように不可分であった自己表出と指示表出が、分離されるという事態にみまわれるのである。


まず指示表出性(いいたいことを相手に明瞭に伝えることおよびその姿勢)の停止や混乱や衰弱として現れる、同時に自己表出性への撤退ということが起きているらしいということがみえてくる。否定がさらに強まると、今度は自己表出性を閉ざしていくようなのである。つまり指示表出ゼロ・自己表出ゼロの状態になるのだ。そして最後はその抱え込んだ表出性ゼロの状態に耐えきれなくなって、自己を外に分離してしまうのである。行動化は、自己表出性が危うくなったときに起こるようにみえる。


逆な現象も起こる。否定されていた子どもが大人から肯定的にその存在を受けとめられると体や顔の表情がほぐれてくる。つぎに声が発せられる。音量も小さく言葉数も少ないけれど発語が現れる。その声=発語もやはり肯定的に受けとめられると、次第に存在が居場所を得たことを感じ、体がゆったりとのびやかになり、それにつれて声が穏やかかつはっきりと大きくなり、言葉数も増え、言いたいことが明瞭になっていく。


肯定されることによってまず子どもに自己表出性(体や顔や声などの表情)が現れ、ついで指示表出性(声の意味性=いいたいこと)が明瞭になってくるのである。
こうしたことからほんの少しだけいえそうなことが出てきたのだった。


1.関係論的視点として、自己表出・指示表出にたいして、その受けとめ(発語においてあるがままに聞くこと)および受けとめ手(聞き手)という要素を導入できるように思えること。言語表出とその受けとめ、言語表出と受けとめ拒否の二つの視点から、自己表出・指示表出の行方を追跡することで子どもとかかわることの問題、具体的には養育論の一環を、構想できるように思えること。
2.発語という問題においては、子どもの存在(自己表出性)にたいする大人の態度しだいで、指示表出性の強度ないし水位(発語の音量、明瞭さ、言葉数の多さ、および意味の明瞭さ)は下がったり上がったりする状態が生じる。そうした現象は自己表出と指示表出のあいだの時間差(時間的なずれ)を想定することで了解できるように思えること。
3.発語という言語表出の機会を奪われたとき、子どもは身体表出へとその機会を移行する場合がある。このことは発語レベルの言語表出において身体と声が連続的であることを告げているように思える。両者の違いと相互性、連続性を自己表出・指示表出の二つの概念で位置づけができるのではないかと思えること。


2と3は退行という視点でもとらえられる現象である。だとすれば退行もまた『言語にとって美とはなにか』の基本概念を手放さずにどこまでも追跡することでもって記述することができるのではないか。


『言語美』はこんなところまで射程がとどいているのである。

 
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利休七則

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1、茶は服のよきように点て
2、炭は湯の沸くように置き
3、花は野にあるように
4、夏は涼しく冬暖かに
5、刻限は早めに
6、降らずとも傘の用意
7、相客に心せよ
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アインシュタインの名言

アインシュタイン

私の成功の秘訣が
ひとつだけあるとすれば、
ずっと子どもの心のままでいたことです。

 
アルバート・アインシュタインの名言より
 
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安冨歩『Tao 老子の教え あるがままに生きる』

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人がよく生きるのは、簡単なことだ。

それには、感性を豊かにすればよい。

 


身体を通じてものごとを感じれば、

自分がどうすればよいか、

自分がどのようになればよいか、

ただちにわかる。

 


このように感性が豊かに機能して、

生き生きと生きる状態を、

「仁」と呼ぶ。

 


人間ばかりではなく、天地もまた、感性をもっている。

もし天地が、その感性を失って、「不仁」であるなら、

天地は、万物を無慈悲に扱うであろう。

しかし実際には、天地は常に仁である。

 


もし聖人が、その感性を失って「不仁」であるなら、

聖人は、人を無慈悲に扱うであろう。

しかし実際には、聖人は常に仁である。

 

 


『天地をつかさどる道の作動は、

 フイゴのようだ。

 実体のない空気のようなものが循環し、

 動けば動くほどその力が湧き出てくる』という言葉がある。

 


これは、仁があまねく存在し、誰にでも備わっており、

しかも、果てしなく作動することを表現している。

 


ところが、人間は、いつも自分に備わった仁を忘れてしまう。

そして、偉い人の話を聞いて、真に受ける。

 

こんなことをするから、すぐに行き詰まってしまうのだ。


自らの内なる声に従い、「忠」を守って生きるにまさるものはない。

忠とは、自分自身の心の真ん中にいる、ということだ。

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三浦梅園「多賀墨卿君にこたふる書」より

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・・・以上のような次第ですから、天地を知るには、人間の立場からする私意を入れずに、あるがままに天地にしたがって、天地を師とするにしくはありません。けれども天地はものをいわぬもの、みる人びとの考えのままにみられるもので、そんな人それぞれの見方を指正する人の意見もまた千差万別ですから、口先、言葉の上での争いでは際限はなく、自得よりほかないのです。しかしながら、その自己納得というものも人それぞれで、だれもが狆敲源たず瓩亮己了解ですが、しかし一方、天地はしごく妙味のあるもので、天地というものはすべての根源です。ここからすれば、心々の自得による論争の訓で落ちるところは、同じ臭味の仲間がうち寄っての語らいのたぐいに止まります。だからわたしは、自説を人に強いることはしません。
 
このあいだもある人がきて、わたしの説を論破する人がいることなどを聞かせてくれましたので、爐修譴任いい里性瓩箸い辰討えしました。「是モ一無窮、非モ一無窮」です。彼是を超えて「由ラズして之ヲ天ニ照ラシ」「天地ノ正ニ乗ジテ」「無窮ノ猝性瓮龍地ニ遊ブ」(※荘子の引用「一切の相対的対立を超えよ」という意)べきです。ですからあなたにとって、もしわたしのいうことが、古今の歴史に照らして天地に試み合するところありとされるなら、この説も、目的を達するための一時の手段にはなりましょう。そこでかさねて申し入れます。人は人の境界に住んでおりますので、人の立場から智慧を開いてゆく。これもいたしかたないことです。がしかし、智を開くには、推すと反するとの二つの方法あることを心得ておくべきです。人間が人事を考えるのは、「柯ヲ執リテ柯ヲ伐ル」(※朱子『中庸』の引用「斧の柄にする木を切るには自分のもっている斧の柄を手本にすればよい」→「人の世を治めるには人間に内在する則を活かせ」という意)の道理で、自分にうれしいことは他人にもうれしいこと、自分に悲しいことは他人も悲しむこと。だが、おのれにあらざるものを考察するには、火の好みを水に推してはならず、魚の好みを鳥に推してはいけません。つまり、反観によるのでなければ、自分でないものに通じることはできませんし、推観によるのでなければ人を恕する(思いやる)ことはできません。恕の意味は、俗にいわゆる爐錣身をつねって人の痛さを知る瓩任△辰董古人の解も数多くありますので、省略します。
 
反観についてはすでに前にもふれましたが、かさねて動物、植物の例で申しましょう。動は鳥獣の総名、植は草木の総名です。動は意があり、からだは温かで、能く動き、植は意がなく、からだは冷たく、動きがない。動は内部が虚であるので、営養を下体から表面へと資る。動は本が上にあり末が下にあり、植は本が下にあり末が上にある。動は牝牡によって子を下の穴に生じ、植は華実によって子を上頭に結ぶ。動は地を離れて身を横ざまに行き、植は地にくっついて縦に立つ。動の枝葉数がきまっていて下に向かい、植の枝は数が不定で上に向かう。動は生きているうちは暖かで、死ぬと冷え、植は生きているうちは冷たく、枯れると暖かだ、というようなものです。例を山と川にとって言えば、山は本が合し末が分かれ中高で、川は本が分かれ末が合して中がくぼんでいる。昼夜でいえば、昼は地上のものをしめして天上のものをかくし、夜は天上のものをしめして地上のものをかくす。天地のものについていえば、天にあるものは、燥いていて浮かび、夜に光を発する。地にあるもの(=質)は、濁っていて沈み、昼に影をつくる(=収)。天地のものはみなこのように相い反するので、天地のものを枚挙しつくさなければ、その反を数え終わることはできません。こうして反観しなければ天を知ることはできず、推観しなければ人を知ることはできません。

 
三浦梅園『自然哲学論集』(岩波文庫)「多賀墨卿君にこたふる書」より
COMMENT:この『自然哲学論集』は7/1〜2東京に出かけた際、神田神保町の古本屋街を散策したときにゲットした1冊。冒頭に収められている同郷の医師・多賀墨卿に宛てた手紙文の一部をご紹介。梅園は江戸中期の自然哲学思想家というか、彼への研究自体が発展途上にあって全貌がまだ明らかになっていませんが、6/9〜11の記事でご紹介した山下先生の根源的イノチ論とのつながりが感じられる記述(陰陽論)も随所に垣間見え、400年近く前の日本にこのような包括的、科学的、体系的に物事をとらえ考えられる人物が存在したこと自体が驚異ですね。

梅園がたくさん描いて遺している図譜から 以下に何枚かご紹介
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吉本隆明・マチウ書試論より

マチウ書試論


「諸君は、『おまえは姦通してはならない』と言われているのを知っている。然し、わたしは諸君に言う。渇望をもって女性をみるものは誰も、既にこころのなかで彼女と姦通を行ったのである。若し、右の眼が諸君にとって、さてつの原因であるならば、それをえぐり取って遠くへ打棄れ。なぜなら、諸君にとって肢体のたったひとつが無くなり、五体がゲアンに投げ込まれないことは、ましなことだから。また、もし右の手が諸君にとってさてつの原因であるならば、切りとって遠くへ打棄れ。何故ならば、肢体のたったひとつがなくなり、五体がゲアンに行かないことは、ましなことだから。」


この性にたいする心理的な箴言は異常なものである。渇望でもって女をみるものは既に心のなかで姦通を行ったのだという性に対する鋭敏さは、けっして倫理的な鋭敏さではなく、病的な鋭敏さである。姦通してはならないという掟は、ユダヤ教の概念では、倫理的な禁制としてあるわけだが、原始キリスト教がここで問題にしているのは、姦通にたいする心理的な障害感覚であることは明かだ。こういう障害感覚を、原始キリスト教は、迫害や秩序からの重圧感に裏打ちされて体験したために、性に対する障害感覚のなかに拡大されて表出されたのである。徹頭徹尾、自意識を倫理化しようとする原始キリスト教の倫理感覚は、人間性の自然さというものに脅迫を感じ、それに対し戦いをしかけなければならなかったのだ。この性についてのマチウ書のロギアは、けっして倫理的なものではなく、むしろ本当は倫理感の喪失以外のものではないのだが、もしこのロギアを倫理的なものとして受感するならば、人間は、原始キリスト教によって、実存の意識の全領域を脅迫されるよりほかないだろう。罪という概念を心理的に最初に導入してみせたのは、原始キリスト教である。したがってマチウの作者は、このロギアを倫理的に受感することを求めているのだ。もし、ぼくたちがその受感の型を拒絶するならば、右の眼が女性にたいする渇望をおこさせる原因であるならばそれをえぐりとれと言うような言葉を精神病理学における一つの徴候としてしか読みとることが出来ない筈である。モオリヤックはその著『イエスの生涯』のなかで、「この新しい戒に対し1800年後の今日なお人々は反抗し嘲笑しふりおとそうとむなしい努力を続けるが、これをその肉体からもぎとることは出来ない。キリストが口を開いて語って以後、このくびきを受け入れる者のみが神をみいだすだろう。」と述べているが、空々しいと言うよりほかない。神学者や文学者がジェジュの生涯をどのように創作しようが、それは勝手であるが、人間は性的な渇望を、「その肉体からもぎとることは出来ない」のではない。逆である。人間は性的渇望を機能としてもっているのだ。ぼくたちが、このロギアに反抗し、嘲笑するのは、原始キリスト教が架空の観念から倫理と、くびきとを導入しているからである。前提としてある観念が、障害感覚と微妙にたすけあい、病的にひねられ、倒錯していて、人間性の脆弱点を嗅ぎ出して得意げにあばき立てる病的な鋭敏さと、底意地の悪さをいたるところで発揮している。
すこしあとのところで、全然誓いをしてはならない、髪の毛のたったひとすじも、諸君は白くしたり黒くしたりできないのだから、などと言う言葉がでてくると、ジェジュを3度否んだピエルや、ジェジュを裏切ったジュドなどという架空の人物をつくりあげ、それらの人物に、人間のいいようのないみじめさや、永遠の憎悪を集中した原始キリスト教の冷酷さをおもい出さないわけにいかない。人間性の暗黒さに対する鋭敏な嗅覚と、その露出症こそは、原始キリスト教のもっとも本質的な特徴のひとつである。かれらは、人間性の弱さを、現実において克服することのかわりに、陰にこもった罪の概念と、忍従とをもちこんだ。「悪人に抵抗するな。若し右の頬を打つものがあったら、またもう一方の頬をもさし出せ。」もしここに、寛容を読みとろうとするならば、原始キリスト教について何も理解していないのとおなじだ。これは寛容ではなく、底意地の悪い忍従の表情である。「諸君は断食するとき、偽善者のように悲しい様子をするな。彼らは断食することを人に示すために、顔色をそこなうのだ。」断食して、悲しい様子をするのは偽善者ではない。自然者である。それを、頭に香油をぬり、顔を洗えと言うほうが偽善者であろう。ニーチェのように、ちいさな不徳について大騒ぎをやらかす侏儒どもといってしまえばそれまでだが、急いこんで命令しているロギアに、どれひとつとして自然さがない。


吉本隆明『マチウ書試論・転向論』(講談社文芸文庫)より
 

COMMENT:7/13の記事では、吉本さんの数多ある著書の中から、もし最初に読むならばと『マチウ書試論』を推薦しました。なぜ吉本さんがこの時期に、思想書として聖書を読み解こうとされたのか、なぜマタイではなくマチウ、イエスではなくジェジュなのか・・・この評論文にまつわるさまざまな問いを考えてみることが、主著三部作『言語にとって美とはなにか』『心的現象論』『共同幻想論』の全体像を深く理解することにつながるようにおもうからです。犂愀犬寮簑仞瓩箸い重要キーワードを含んだこの論の結語にあたる最後の4ページについては、以前にもこちらの記事で宇田亮一さんの解説文も引きながら紹介しました。
明治維新以後に広まったキリスト教的人間観世界観が日本人の性意識に及ぼした影響は計り知れず、今回は3月に連続投稿した「教えない性教育」関連の記事との関連性も意識して、性に対する心理的箴言に言及した部分を引用しました。それにしても、「心の中でエッチな想像をするだけでも、実際にしたのと同じことだ。右目がエッチなものを見ようとするならえぐって捨てろ。罪を犯して地獄に行くより、右目を失っても天国へ入る方がいいだろ?」ってすごい表現ですよねぇ。
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IBMの「5つの言葉」

自己啓発百科.jpg

 


1.本を読め。
2.事物を鋭く観察せよ。
3.人の話をよく聞け。
4.なるたけ大勢の人と話し合え。
5.ときどき、たった一人になってモノを考えてみよ。

COMMENT:扇谷正造さんが書かれたまえがきの末尾に自己啓発のバネとしてIBMの5つの言葉瓩紹介されています。かつて世界最大のシェアを誇るコンピュータ会社として知られたIBMも、最近ではあまり社名を聞いてもピンと来ない世代の人たちが多いようで、隔世の感があります。ただ、1970年代というはるか昔に書かれたビジネス書系自己啓発本であっても、基本的な部分では今日とあまり変わり映えがしないようにおもいました。とくにこのIBMの5つの言葉はとてもシンプルに核心を突く原則が整理されていますね。
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吉本隆明さんの講演ってどれから聞いたらいいですか?

言葉としての思想

昨年のお正月明けに、宇田亮一さんの『吉本隆明 “心”から読み解く思想』(彩流社)を読んだことがきっかけとなって、わたしが20代前半の頃にはまったくチンプンカンプンだった吉本さんの本を、少しずつ読み解けるようになったという話は以前にも書いた通りです。

 


戦後日本思想界最大の巨人と称され、広範かつ重層的で複雑かつ深淵といわれる吉本隆明を読み解いていくのはさすがに骨が折れる作業でしたが、宇田さんのガイド本のお陰で、最近では人に対して説明しても納得してもらえるようなレベルにまで理解が届くようになってきました。



ところで、吉本隆明さんが生前に各所で話された講演の音声を糸井重里さんが183集め、今ではそれをだれでも無料でダウンロードできるようになっていることは、ご存知の方も多いとおもいいます。

 


iPhoneであればポッドキャストのアプリで聴けるので、わたしも全部をダウンロードして、通勤の行き帰りの電車のなかで時折聴いていますが、何せ183もありますし、講演の演題の範囲は文学、政治、経済、精神病理、風俗問題に至るまで非常に幅広く、すべて聞くまでには至っていません。

 


それでも最近では、半分ちかくの講演についてじゃ、話のアウトラインは何とか辿れるようになってきました。

 



それで、今日のblogタイトルとした猝笋き瓩任后

先日塾生のひとりから、「どの講演から聞いたらいいですか?」という質問を受けたとき、「そうですね。最初は『喩としての聖書 マルコ伝』がいいかなぁ。キリスト教徒ならともかく、聖書に格別関心がある人はそんなに多くないでしょうから、自分の興味関心から遠いことを考えてみることで、なかなか自覚しにくい無意識部分が浮き彫りにできるメリットがありますし。糸井さんのホームページには、この講演だけを採り上げたとっても詳しい解説もあるので、それを手がかりにしながら聞いてみたらどうでしょう」と話していました。

 


糸井さんの解説の載っているページはこちらで、全部で6回分あります。


また、この講演のテキストデータもダウンロードできるようになっていますが、中公文庫『語りの海 新版・言葉としての思想』に収められています。

 




吉本さんの著作は300冊以上ありますから、その全体像を掴むのは易しくありません。

もし『喩としての聖書 マルコ伝』を聴いて興味を持てたら、「思想書として聖書を読む」というつながりから、29歳のときに書かれた『マチウ書試論』を読んでみるといいでしょう。
 

吉本さんのいわゆる代表三部作『言語にとって美とはなにか』 共同幻想論』 『心的現象論序説』は、宇田さんのガイドがあっても簡単に読み解けるシロモノではありませんが、糸井さんも前述したマルコ伝の講演についての解説で触れている犂愀犬寮簑仞というキイワードは、マチウ書試論の終わりの方に登場していて、先にそれを理解しようと考えてみることは、三部作を読み解こうとする上でも重要な手がかりになるようにおもうからです。



吉本さんの世界はあまりに巨きすぎて、きっと簡単にはわからないことでしょう。
でも、そうしたすぐにわからないようなこと、答えが出ないようなことについて、あれこれ考えてみる時間ってとても大事なような気がするんですね。
 
もちろん、かく言うわたしとてまだまだ全体像までにはとても迫りきれていませんし、少なく見積もってもまだ4〜5年はかかるんじゃないかとおもっているんですが。

ただ、まだわずか1年半の間であっても、この間にわたしが学んだ、吉本さんがものを考えるときの土台とされていたフレームをもってこの世の中の諸事万般を見渡してみることで、10代の頃からずっと持ち続けてきたたくさんの問いがスラスラと解けるようになったことも事実なんです。

2013年秋、安冨歩さんの著作を中心に犧欧涼植民地化瓩箸いΕ董璽泙遼椶鬚爐気椶襪茲Δ貌匹鵑聖期がありました。もちろん、いまもそれは継続中で、安冨さんの新刊書は出るたびに手に入れて読んでいるんですが、あのときのインパクトを1とするなら、吉本さんの著作と出会い直しをするようになったこの1年半のできごとは、5000倍ぐらいのインパクトがあったといえるくらいなので。

このワクワク感というのは、たぶん読まれている皆さんにはほとんど伝わらないとはおもうんですが、ちょっとしばらくの間止まりそうにないんですね。

・・・ということで、「群盲象をなでる」状態がまだしばらく続くでしょうが、今の時点で分かっていることだけでも、これからは自分の言葉でもすこしずつ表現してみようかとかんがえているところです。
posted by Akinosuke Inoue 23:50comments(0)trackbacks(0)pookmark