往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。





吉本隆明『フランシス子へ』

フランシス子へ
・・・だから親鸞はそうじゃなくって、もっと個っていうものに還元して考えようとした。

それまでの宗教の広く広くとる考え方とはまるで反対の考えかたで、もっともっと小さく縮こまって個々の問題を考えることで、人間の存在っていうものの原型に近いところまでたどりつく考え方っていうのを、親鸞は欲しかったんじゃないか。

そうすれば、本当に実感をともなうところまで持っていけるんじゃないかって。

人間の存在のしかたっていうのは、その人が本筋をどこでつかまえてきてるかってことに関係してくるわけですよね。つかまえかたがちがえば、個人の考えといえどもちがってくる。

それこど、外房と内房でもちがうし、漁師さんと商売人でもちがうし、おなじような信仰を持ってる人間の間でもちがってきちゃうっていう。

そういう中で親鸞は、個人の個性でもないし、もっと奥にある人間の原型みたいなものにたどりつきたくて、最後には人間の肉体、生理的な在りかたの問題にまで突入していく。

人間の個的精神の一番根底に還るっていうのが、親鸞の考えだったとおもいます。

うず潮は、そういう親鸞が最後にたどりついた場所でした。

外房と内房とでは、海流の水の水位がかなりちがう。それでふたつの海流がまじりあうと、うず潮という現象が起きる。そういうことは、昭和になって調査してわかったことで、親鸞の時代にはまだわからなかった。つまり親鸞は、ふたつの海流が出会うとどうなるのか、その場所に行くまではまだ知らなかった、見たことがなかったんじゃないでしょうか。

また外房と内房では、生息している生き物も、獲れる魚もちがうし、住んでいる人間の気質も、信仰の立てかたもやっぱり少しずつちがっていました。境界というものを大事に考えた親鸞ですから、異なるふたつが接する場所にはきっとものすごく関心があったはずです。

ぼくの考えでは、それを確かめたくって親鸞は関東の果ての果て、房総半島の先端に向かったんじゃないか。
(中略)

そのためにそれまでの全部を捨てて、たったひとりで、とにかくそこに行ってみようとおもって行ってみたら、たどりついたその場所ではふたつの海流がせめぎあって、うずを巻いて、うず潮になっていた。

異なるふたつのものがあわさって、まじりあうってことはこういうことなのか。
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吉本隆明「スケベの発生源」

背景の記憶

寝ころんで、おれどこが一番スケベかなと、いっしょうけんめい考えているうち、睡りこんでしまった。
そこへ催促の電話で、いま書いているところですと答える。

猶予はならない。中途半端だが、急ぎふたつ挙げます。

ひとつめはフェティシズム傾向。どうも覆いがたいようで、街路を歩いていて、若い女性のものと思える下着が干してあるのを見かけると、瞬間、本能的に視線が吸いこまれ、つぎの瞬間にそれを意識して固くなり、気にかかりながら、眼をそらせてしまう。
これは思春期からはじまり、いまもほとんどかわらないから、どうも素因的といっていい気がします。思春期と変わったことといえば、いまなら、マンションの窓ごとに満艦飾みたいに干してあるときなどは、まっ直ぐ視られるようになったことです。

ふたつめは、たとえば、J.デリダみたいに「人間的欲望と動物的欲求、女性への関係と雌への関係、との差異は、死の恐怖である」といったようなことを、いまだに正面きって考察できないことです。
つまりじぶんのエロスのある部分については、生々しくて、まだ対象的になれないことです。
その部分がじぶんのスケベの発生源でしょう。

さて、ここまで書いてきて、なんとなくまだまだたくさん嘘をついている気がしてきました。
もっと皮を何枚もめくってゆくと「赤裸々」というのが、
あるかのように錯覚されてきたのです。
ほんとはもっと興味尽きないことが答えられるはずなのに、何となく浮かない感じです。
もっと時間が欲しい!
そうすればきっと「私が一番スケベだと思うこと」に嘘いつわりなく、
たっぷり答えられる気がします。

「わたしにもっと時間を!」



※「小説新潮」1984年7月臨時増刊号に初出掲載
 『背景の記憶』(平凡社ライブラリー)および『重層的な非決定』(大和書房)に所収

 
重層的な非決定へ
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W.バーロウ『アレクサンダー・テクニーク』より

W.バーロウ AT表紙

性の知覚
学問の世界が生み出した性に関する情報を集めて、大きな図書館を造ることもできるでしょうし、必要な道具はなんでも手に入れることもできるでしょうが、それでもなお、なんの効果もないかもしれません。ここでもまた、方法(how)を知ることと、その本質(what)を知ることの違いという話になるのです。性の成功は、究極的には理論によるよりも実践によるものだという点においては、他の技法と異なるところはないのです。


舞台は準備されます―――デートする、やわらかな光。結婚、欲望。必要品と補助的なもの。そのリズムを、沼や森から文明社会の心地好い寝室へと運ぶ反射作用。まだ、何かが必要なのです。文明人は今やその性的経験をその度ごとの瞬間瞬間に新しくしなければならないのです。


それぞれのセックスの瞬間は創造的なものであって、それぞれに異なっているものなのです。自分のいささか鈍感な反応のために起こる落とし穴にはいり込まないように、人々はどんな違った工夫をするでしょうか? アレクサンダー原理の言葉でいえば、セックスの中のコミュニケーションという微妙な用具に、からだの「善用」についての気づきをどのように適合させるか?ということなのです。


芸術作品を造るアプローチとセックスの技法には、大変似通ったところがあるのです。芸術作品と駄作とのハッキリとした違いは、私たちが何度も前に戻って新しい局面を認めたり、最初の印象を変えたり、混み入ったところや微妙なニュアンスを発見したりすることができるところにあるのです。


多くの人が認めているのですが、音楽の世界もまた、非常にはっきりとした類似点があるのです。未熟な聞き手は、最初は、ベートーベンの交響曲を聞いても、あるメロディだとか、リズムの型だとか、主要な楽器などにこころを奪われるだけなのです。もっと経験を積みますと、テーマや型の違いを見分けたり、そしておそらく、ある転回だとか、省略法だとか、移調した部分などに気づくことができるでしょう。いろいろの楽器にも集中することができるし、曲や引きのばされた楽節にもついていくことができるようになるでしょう。ひとつひとつの動きがつながっていくのにもじっと耳を傾けることができ、気分が変わって行くのも認めることができるようになるでしょう。


もっと洗練された聞き手になりますと、それぞれの部分の関係を認めることもできるようになり、今はひとつのリズム、メロディ、調和、楽器演奏の局面に、そして今はまた次の局面へと、次々と焦点を合わせることができるようになり、そしてやがてはこうしたいくつかの局面に同時に焦点を合わせることができるようになるでしょう。


結局彼は、この交響曲が非常によくわかるようになり、自分の心の中でそれを再生してみたり、演奏のある面を批判したり、その意味や可能性を予測したりできるようになるでしょう。こうした洗練された能力にもかかわらず、彼は時には、ただ原始的な知覚だけを用いて、メロディとリズムだけに集中して、他の局面は無視するかもしれません。あまり上手でない聞き手とは違って、彼は、自分の望むときは、もっと明晰な、もっと洗練された楽曲の理解に自由に立ちもどることができるのです。

 

このような感性豊かな音楽鑑賞者の話をしたからといって、それと性の問題が同じだというぞんざいな比較をするつもりはありません。ただ、指摘できると思うことは、性の行動においては、聴衆のひとりであるのではなくて、音を作ったり、それに耳を傾けたりするオーケストラの演奏者の方だということです。そしてまたそのことは、私たちがたずさわる最も創造的で、最も芸術的な行為についても、そのまま当てはまることだと思います。

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小野ひとみ『アレクサンダー・テクニーク やりたいことを実現できる<自分>になる10のレッスン』より

アレクサンダー・テクニーク


鴻上 読者には「アレクサンダー・テクニークって一体なんだ?」っていうのがあると思うんですね。詳しいことは本も出版されているのでそれを読んでいただくとして、簡単に「アレクサンダー・テクニークって何ぞや?」ということを聞かせていただければと。

小野 簡単に言ってしまうと、「習慣的な反応から自分を解き放つための方法」と言えばいいのかな。
アレクサンダー・テクニークというのは、オーストラリアのF.M.アレクサンダーという人が作ったものです。彼は舞台俳優で公演のときに声が出なくなっちゃったんですね。お医者さんに行ったら、「疲れているんだろう」と言われて、それなら休めば治るわけだけれど、良くなっても、また舞台に出たら声がでなくなってしまうという状態だったんだそうです。
そこで、ここが天才的だと思うんだけれど、自分の身体が悪いんじゃなくて、自分のしている行為が悪いんじゃないかというところに着目したのが始まりなんですね。そして、数年にわたって自分の身体の動きを観察し続けて、発見したのが「方向性」というもの。「身体の中にある自然な方向性」ですね。その方向性を十分に伴わない動きをした自分が悪くて声が出なくなったんだということを発見したんです。
そこから、今度は、「方向性」があるのはわかったんだけど、いくらその「方向性」を自分で実践しようと思ってもできなかったのね。そして、どうもこれは「する」ものではないらしい、その「方向性」が自然に出るような状態に自分がならなければいけないんだ、ということに気づいた。
でも、それも難しいわけです。日常は、次の行動から次の行動へと忙しくて、あれやらなきゃ、これやらなきゃという状態、そういう日常に追われていては、自身を意識する暇がないわけですよね。じゃ、どうしたらいいんだということで、暇をつくろうということになって、そこから「自分の行動を抑制する」(インヒビション)という方法を見つけだすんです。
その上で「方向性」を感じることによって、「自分はこう動きたいんだな」ということを実感して「自分が動きたいようにやろう」と選択して実行していくうちに、声が出るようになった。要するに今までやっていた悪い行為を止めることができて、自然に自分の身体が声を出すという行為ができるようになったんですね。
その後、自分だけではなくて、芝居仲間に「こうやるといいよ」というふうに伝えていたのが、次第に広まっていって、非常に呼吸にいいということがわかっていったんです。彼はある時期「ブリージング・マン」と呼ばれていたそうです。


小野ひとみ『アレクサンダー・テクニーク やりたいことを実現できる<自分>になる10のレッスン』巻末に収められた鴻上尚史さんとの対談より
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『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』より(2)

村上春樹、河合隼雄に会いに行く_新潮文庫版.jpg

夫婦と他人
 

河合 実際、実生活でも、急に奥さんが、あるいは、夫の方がフッと見えなくなるんですよね。

 

村上 見えなくなる……?


河合 「理解しよう」と考えると、まったく理解できないことがわかったりする。いままで、いっしょに住んでいてわかっていると思っていたんだけど、急にハッとわからなくなったりするでしょう?


村上 そうですね。

 

河合 そこから出発して、わかろうということを始めたら大変なことで、たいがいの場合は相手を非難することになるのです。わからんやつだとか、男なんてやつは大したことがないとか。

 

村上 ぼくはアメリカ人の夫婦を見てほんとうに思うのは、いっしょにいるあいだはすごく仲がよくてベタベタしているんですよね。どこかに行くときは、ちゃんと手をつないで行くとか、そのくせ別れるときにはパッと別れる。日本みたいに好きじゃないけどいっしょにいるとか、子どもがいるからとか、そういうことはほとんどないですね。

 

河合 それと、アメリカ人の場合は、自分達の関係がどこかで本物ではないという意識があるんだと思いますね。

 

村上 ということは?

 

河合 だから、いつも意識的にベタベタせざるをえないんですよ。意識のところでいつも、愛し合っていますよ、と確かめないと、もう不安でしかたない。確かめそこなったら、パッと別れるのですね。

 日本の場合は、よい言い方をすると、確かめないまま、それこそさっきも話に出たずるい哲学で、なんとなくちゃんと同調しているのです。ぼくは、夫婦というのはそういうほうがおもしろいんじゃないかと思っているんですが。

 

村上 関係のなかにいろいろな側面がある?


河合 そうです。西洋の場合は、どうしてもロマンチック・ラブというのを下敷きにしていますね。ロマンチック・ラブというのは長続きしないんです。もしロマンチック・ラブを永続させようと思ったら、性的関係を持ってはならないんです。性的関係を持ちながらロマンチック・ラブの考えを永続させようというのは、不可能なんだとぼくは思うんです。もし夫婦の関係を続けていこうと思ったら、違う次元に入っていかないといかないとダメですね。

 

村上 ただ、その性的な関係にも一種の治癒作用はあるのですね。ところが、それはある時点から別のかたちの治癒作用に変わっていかなくちゃいけない……そこには井戸掘りが必要なのですか。

 

河合 そうです。若い間は性的な関係はすごく大事だし、治癒作用を持っているけれど、それだけではもういけないですね。

 

村上 その時点で井戸掘りに移行できない人は、別の性的治癒に走るのですか?

 

河合 そうそう、どこかで探して、別の性的関係を結ぶとか、日本だったら家庭内離婚というやつになるのですね、心の中では離婚しているけれど、いちおう同じ家に住んでいるという。

 もうひとつあるのは、日本人の場合は、異性を通じて自分の世界を広めるということを、もうすっかりやめてしまうということもあるんですね。細かいことを調べて学者になっているとかね。エロスが違う方を向いているのです。エロスを女性に向けるというのは、相手は生きているからこれはなかなか大変ですけれども、エロスを、たとえば、古文書に向けてもいいわけです。ここのところ虫が食っているなとか、なんていう字だろうなんて考えることにすごい情熱を燃やすでしょう、それは危険性が少ないですね。

 

村上 あるいは会社で一所懸命働くとか。

 

河合 そうそう。生きた人間でないものにエロスを向けている人はすごく多いですよ。

 

村上 でも、いちがいにどっちがいいとは言えない。

 

河合 言えないです。結局、自分がどういう生き方をしていくかということだと思うんです。夫婦ということをすごく大事にする生き方というのは、少数の人にしかできないものかもしれません。ぼくはすごくおもしろいと思いますけれども。こんなおもしろいことないんじゃないかと思うんです。そして、日本人にとっては、夫婦ってのは、おそらく宗教ということがわかる入り口になることが多いのじゃないかと思います。

 

村上 ぼくは、自分では格闘しているような気持ちでいる。

 

河合 そうですか。結局は完全な答えというのはわからないし、自分のコントロールを越える存在、心の動きというものがあるのに気がつくし、だから、宗教性ということを実感する入り口のひとつは、夫婦の関係ではないかと思うのです。まあ、そういうことも別にしなくてもいいわけですけれどね。

 

村上 古文書を調べていて。それが楽しければいいのですね。

 

河合 しかし、下手すると、男のほうは古文書を見て楽しもうとしても、奥さんのほうが夫婦のあり方というのを大事にしだしたりすると、悲劇が起こるんですよ。奥さんも、「夫婦のあり方」なんて放っておいて、子どものことに一所懸命になるとか、漬け物を漬けるのに必死になるとかなれば、なんとなく安定していっているのですがね。

 ですから、いろいろなバラエティがあって、どれがいいということはもう言えないと思っているのです。ただし、自分のやっていることはせめて自覚してほしい。近所迷惑ということもありますからね。

 

村上 近所迷惑って言いますと?

 

河合 たとえば、夫が古文書でがんばっていても、奥さんがものすごく困っていることがあるでしょう。主人のほうは古文書やって、奥さんは子どもの世話して喜んでいたら、これは安定しますよね。

 ところが、奥さんのほうが夫婦の関係を求めているとすると、旦那のやっていることは、奥さんにすごい危害を加えていることになるのですね。だから、自分のしていることがだれに害を加えているかということは、つねに考えるべきだと思うのですよ。それは西洋流かもしれないけれど、個人の責任の問題ですね。


『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』(新潮文庫・1998年)より

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吉本隆明「情況とはなにか 」より

自立の思想的拠点

・・・現在にいたるまで、知識人あるいはその政治的集団である前衛によって大衆の名が語られるとき、それは倫理的かあるいは現実的な拠りどころとして語られている。大衆はそのとき現に存在しているもの自体ではなく、かくあらねばならぬという当為か、かくなりうるはずだという可能性としての水準にすべりこむ。大衆は平和を愛好するはずだ、大衆は戦争に反対しているはずだ、大衆は未来の担い手であるはずだ、大衆は権力に抵抗するはずだ、そして最後に爐呂梱瓩任△訛臀阿蓮△泙誠燭乏仞辰鬚靴瓩靴討い覆ぢ減澆任△襪箸いΔ海箸砲覆襪里澄もちろん、こういう発想はまったく無意味である。「否」の構造をとって、大衆は平和を好まないはずだ、大衆は戦争に反対しないはずだ、大衆は未来の担い手ではないはずだ、大衆は権力に抗しないはずだ、といっても同じだからである。あらゆる啓蒙的な思考法の動と反動は、この爐呂梱瓩任△訛減澆鯡こ仞辰両態とむすびつけることによって成立する。

しかし、わたしが大衆という名について語るときには、倫理的なあるいは政治的な拠りどころとして語っているのでもなければ、啓蒙的な思考法によって語っているのでもない。あるがままに現に存在する大衆を、あるがままとしてとらえるために、幻想として大衆の名を語るのである。

わたしたちが、情況について語るときには、社会的に語ろうとも政治的に語ろうとも、情況に関わることが、現にわたしたちが存在することにとって不可欠なものであるという前提の下にたっている。たとえ社会の情況がどうあろうとも、政治的な情況がどうであろうとも、さしあたって『わたし』が現に生活し、明日も生活するということだけが重要なので、情況が直接にあるいは間接に『わたし』の生活に影響をおよぼしていようといまいと、それを考える必要もないし、かんがえたとてどうなるものでもないという前提にたてば、情況について語ること自体が意味がないのである。これが、かんがえられるかぎり大衆が存在しているあるがままの原像である。


この大衆のあるがままの存在の原像は、わたしたちが多少でも知的な存在であろうとするとき思想が離陸してゆくべき最初の対象となる。そして離陸にさいしては、反動として砂塵をまきあげざるをえないように、大衆は政治的に啓蒙さるべき存在にみえ、知識をそそぎこまねばならない無智な存在にみえ、自己の生活にしがみつき、自己利益を追求するだけの亡者にみえてくる。これが現在、知識人とその政治的な集団である前衛の発想のカテゴリーにある知的なあるいは政治的な啓蒙思想のたどる必然的な経路である。しかし、大衆の存在する本質的な様式はなんであろうか?
 
大衆は社会の構成を生活の水準によってしかとらえず、けっしてそこを離陸しようとしない理由で、きわめて強固な巨大な基盤のうえにたっている。それとともに、情況に着目しようとしないために、情況にたいしてはきわめて現象的な存在である。もっとも強固な巨大な生活基盤と、もっとも微小な幻想のなかに存在するという矛盾が大衆のもっている本質的な存在様式である。
 
知識人あるいは、知識人の政治的な集団としての前衛は、幻想として情況の世界水準にどこまでも上昇してゆくことができる存在である。たとえ未明の後進社会にあっても、知識人あるいは前衛は世界認識としては現存する世界のもっとも高度な水準にまで必然的に到達する宿命を、いいかえれば必然的な自然過程をもっている。それとともに、後進社会であればあるほど社会の構成を生活の水準によってとらえるという基盤を喪失するという宿命を、いいかえれば必然的な自然過程をもっている。このような矛盾が、知識人あるいは政治的な前衛がもっている本質的な存在様式である。わたしのかんがえでは、これが大衆と知識人あるいはその政治的集団である前衛にあたえうるゆいつの普遍的な存在規定である。

吉本隆明『自立の思想的拠点』(徳間書店・1966年)所収 「情況とはなにか機|亮運佑搬臀亜P.101〜103より
COMMENT:吉本隆明さんの「情況とはなにか」と題された評論文集より、知識人と大衆との関係について触れた部分です。吉本思想を読み解く重要なキーワードのひとつに狢臀阿慮響瓩あります。この言葉についてもさまざまな議論があったようですし、まだまだわたしも吉本さんの全体像を把握できていないんですが、端的に書くとするならたとえば、こういうことでしょうか・・・つまり、思想というものは、どんなに気をつけていても必ず権力性や党派性を帯びてしまう宿命にあり、思想を無思想よりも絶対に上位に置かないというタガを自らに課し、マルクスのような1000年にひとりしか現れない人物といえども、市井の無名の人とまったく同価値と断じた吉本さんの姿勢がこの言葉を生み出したことにつながっていると感じています。ひとは知識をもつと「良い考えを普及、拡大、啓蒙していくことが良い社会づくりにつながっていく」という幻想につい囚われてしまいがちで、つねに自戒していたい考え方だとおもいました。
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栗本慎一郎『パンツをはいたサル』

パンツをはいたサル


学問というものは、大きく二つに分けられている。自然科学と社会科学だ。哲学や歴史学を人文科学として、社会科学を分立させることもあるが、ふつうは、数量で測れない人間の諸活動の研究として、自然科学に対立する側に入れられている。

けれども最先端の学者達にとっては、このような区別は、いまや根本的に無意味になりつつあるようだ。宇宙や物性を研究していても、行き着く先は、やはり人間とは何かに戻って考えざるを得ないし、人間の社会的活動を研究しているつもりが、いつのまにか人体内の筋肉における電流の強弱だとか、天体の運行と精神のリズムの係わりについても考えなければならないことになってきている。

それでも、あいもかわらず、タコツボのような古い学問体系の枠にこだわっている学者もいる。しかし、そんなことでは学問が成り立っていけない時代の趨勢は、はっきりしている。ただ、日本の学界というものは、一度教授の地位を占めたら、女子学生と教室でセックスしたことを週刊誌にすっぱ抜かれないかぎり、クビにはならないし、学問研究に自ら見切りをつけた科学者としての無能力者にかぎって、内外に対して虚勢を張り、ボスたろうと努力するものだから、外から偉そうにみえる学者ばかりを見ていると、その実態がわからないだけの話である。

物理学だ、法学だ、生物学だ、経済学だといった枠にこだわらず、現代の科学や社会が抱えている悩みや難問に答えようとすると、もはや学際的といった犂鼎き疉集修離譽戰襪任呂さまりきらないという強い決意が必要だが、考えてみると、アインシュタインなどは昔からそうした試みをしていたわけだ。つまり、現代の人間の諸問題に答えうる科学とは、近代の大学が教授をたくさん作るために、やたら分解してしまったナントカ学の数を減らして、人間の問題を包括的に考えるものでなければならないのである。

 

というと、すぐに、「総合科学部」だの「人間科学部」だのという名称だけ作って、なんとか学問のセクショナリズムはそのままにして、やはり三流教授の数を増やすことにしかならないのも困ったことだ。部分の総和は決して全体にはならない。個別のナントカ学の寄せ集めでは、現代の人間の諸問題、かつ地球上の諸問題に説明をなしうる学問などできるわけはない。

私が、この本で自ら学界の道化役を買って出て、少なくとも、生物学、物理学、法学、経済学、宗教学、精神分析学をゴタゴタにしたうえ、勝手にまとめてしまったのは、そろそろだれかアホが突撃して、大衆の目前で敵弾に当たって倒れる役も必要だろうと思ったことによる。これだけ杜撰な議論なら、あとから進む人も屍を乗り越えやすかろうという配慮までしておいた。

1973年、コンラート・ローレンツが生物学でノーベル賞をとって以来、世界には動物行動学ブームが起こり、一部では人間の行動は、すべて生物学的に理解、分析できるとの幻想も生まれた。人間は、「裸のサル」であるというデスモンド・モリスの諸説は、部分的にはたいへんおもしろいが、人間における根本的なエロティシズムの存在や、道徳の堅持とその侵犯というおかしげな「行動」については、ふれることもできなかった。それに、人間はサルが裸になっただけでなく、パンツをはいて、それを脱いだり、脱ぐ素振りでオスを誘ったり、おかしげな行動をシステマティックにとっているではないか。

私流に言わせてもらえば、これらの行動は、人間にとって根本的な特徴であり、その他の生物からよく似た行動をさがして、対比してみせてくれる生物学者の説明は、いずれももうひとつ説得性がなく思えていた。人間はサルが裸になったものではなく、サルがパンツをはいたものだとして説明することにした。そうしたら、法律や経済だけでなく、人間の人間たる所以の理性的だったり、馬鹿げていたりする、あらゆる行動がきちんと説明できたのである。

もちろん、私は動物行動学者ではなかったから、イヌだの鳥だのを使ってデータをとったことはない。それらはすべて、動物行動学者の報告を基にしている。しかし、ときどき、彼らの解釈に反対の解釈を与えているため、依拠した文献などは繁雑になるので挙げなかった。多くの勝手に使われた動物学者の皆さんには、まことに申し訳なく思っている。しかし、私の場合は、生物としてのヒトのデータには事欠いていなかったので、ヒトを対象とした新種の動物行動学者として認めていただいて、ノーベル賞戦線の一角にも加えていただければ幸甚である。

そして、その結果、この本は先にも挙げた諸分野をみんなとりこむことになってしまった。こういうかたちの本を書くと、なかには学説の方を変えて、大衆に迎合するかのような学者もいるが、私の場合は、権威主義まる出しの場より、このようないかがわしい(光文社の方すみません)場の方が、より深層の真理に近づけると思ったのである。

この本を書かないかと言ってきた光文社の編集スタッフは、当初、かなりストレートに生物としてのヒト論をやってほしいとのことであった。しかし、私は、人間の動物性は80%、人間の人間性(?)は20%と強調し、この本の7章に示したポランニー兄妹の「層の理論」で押し切らせてもらうことにした。

しかし、人間の80%の動物性については、私はいつもテニスコートでスマッシュミスのたびに確認している。あれは、人間がかつて樹上生活をやめて、地上に降りてきたため、頭上の視空間がゆがんでしまってむずかしいのであると、本シリーズの
『テニスの科学』が教えてくれているわけだ。

この本ができあがるまでには、それなりの激論と喧嘩があったが、お互い20%の人間性に基づいてサル的引っ掻き合いにならず、書き合い(?)程度でおさまったことは、人間にもまだ未来があると信ぜしめるに十分であった。

 

 

COMMENT:栗本さんはマイケル・ポランニーの研究家で、この本はポランニーの考え方をわかりやすく紹介したものでもあります。この本を読んだとき、わたしは20代前半で、大きなインパクトを受け、その後も栗本さんの発言には注目してきました。彼の主張が正しいかどうかはわかりませんが、「人間とは何か?」という問いを考える場合においては、学問上の分野の区別とか、専門性ということに囚われず、広い視野から見ていかなければいけないという姿勢はまちがっていないようにおもいます。
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梅棹忠夫『情報の文明学』より

情報の文明学

・・・人類の産業の展開史は、農業の時代、工業の時代、精神産業の時代という三段階をへてすすんだものとみることができる。現在は、第二段階の工業の時代にあって、いまなお世界の工業化は進行中であるが、すでに一部には第三段階の精神産業の時代のきざしがみえつつある、そういう時代なのである。

この三段階説は、一見さきにのべた第一次、第二次、第三次という、産業の三分類に対応するようにもみえるが、そうではない。第三次産業に属する商業や運輸業やサービス業のかなりの部分は、じつは第二段階の工業の時代の生産物たる、大量の商品を処理するための、付帯的、補助的な産業にすぎないのであって、情報産業のような精神産業とは原理的にことなるものである。

わたしはいま、人類の産業史の三段階を、農業の時代、工業の時代、精神産業の時代と名づけたが、さらにすすんで、この三つの時代の、生物学的意味をかんがえてみよう。それぞれの時代は、有機体としての人間の機能の段階的な発展ともかんがえることができるのである。まず、農業の時代にあっては、生産されるものは食料である。その時代にあっては、人間はくうことにおわれている。くうということは、動物としての人間において、いわば消化器官系の機能にかかわることである。もし、発生学的概念をこれに適用するとすれば、この時代は、消化器官系を中心とする内胚葉諸器官充足の時代であり、これを内胚葉産業の時代とよんでもよいであろう。

つぎに、第二の工業の時代を特徴づけるものは、各種の生活物資とエネルギーの生産である。それは、いわば人間の手足の労働の代行であり、より一般的にいえば、筋肉を中心とする中胚葉諸器官の機能の拡充である。その意味で、この時代を中胚葉産業の時代とよぶことができる。

そして、最後にくるものは、いうまでもなく外胚葉産業の時代である。外胚葉諸器官のうち、もっともいちじるしいものは、当然、脳神経系であり、あるいは感覚器官である。脳あるいは感覚器官の機能の拡充こそが、その時代を特徴づける中心的課題である。

こうして系列化してみるとき、人類の産業史は、いわば有機体としての人間の諸機能の段階的拡充の歴史であり、生命の自己実現の過程であるということがわかる。この、いわば人類の産業進化史のながれのうえにたつとき、わたしたちは、現代の情報産業の展開を、きたるべき外胚葉産業時代の夜あけ現象として評価することができるのである。


梅棹忠夫『情報の文明学』所収「情報産業論」P.42〜43より


COMMENT:情報産業社会の到来をいち早く予告し、その可能性を人類文明の巨大な視野のもとに考察した梅棹忠夫さんの論文「情報産業論」より骨子の部分を引用しました。梅棹さんは、インタビューゲームで使用しているB6判の情報カード(京大式カード)を考案した人でもあり、このblogでは少し前に『知的生産の技術』(岩波新書)を紹介しています。未来学者アルビン・トフラーが『第三の波』を書いてミリオンセラーになったのは1980年で、この情報産業論が書かれたのは1962年ですから、トフラーより20年近く先んじていることになります。その頃の日本は池田勇人による所得倍増計画が始まって3C(クーラー・カラーテレビ・カー)が普及し始めた時期・・・そんな時代になぜ梅棹さんは情報化社会の到来を予言できたのでしょうか? わたしが梅棹さんの本をはじめて読んだのは20代後半のことでしたから、もうかれこれ30年近く前になるんですが、そうした問いをヒントに考えを深めていくといろんなことが見えてきて面白いですよ。
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サン・テグジュペリ『星の王子さま』より

星の王子さま


さっきの秘密をいおうかね。
なに、なんでもないことだよ。
心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。
かんじんなことは、目に見えないんだよ…

人間っていうものは、
このたいせつなことをわすれているんだよ。
だけど、あんたは、このことを忘れちゃいけない。

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『幸福に死ぬための哲学 池田晶子の言葉』より

池田晶子の言葉


●しょせんは言葉、現実じゃないよ、という言い方をする大人を、
 決して信用しちゃいけません。
 そういう人は、言葉よりも先に現実というものがある、
 そして、現実とは目に見える物のことである、とただ思い込んで、
 言葉こそが現実を作っているという本当のことを知らない人です。
 「犬」という言葉がなければ、犬はいないし、
 「美しい」という言葉がなければ、美しい物なんかない。
 言葉がなければ、どうして現実なんかあるものだろうか?
 目に見えるものだけが現実だと思い込んで一生を終えるなんて、
 あんまり空しい人生だと思わないか。
(『14歳からの哲学』より)
 

●生まれて死ぬ限り、必ず人は問うはずだ、「何のために生きるのだろう」。
 数千年前から人類は、人生にとって最も大事なこの問いについて、
 考えてきた。考え抜いてきたんだ。
 賢い人々が考え抜いてきたその知識は、新聞にもネットにも書いてない。
 さあ、それはどこに書いてあると思う?
 古典だ。古典という書物だ。いにしえの人々が書き記した言葉の中だ。
 何千年移り変わってきた時代を通して、
 まったく変わることなく残ってきたその言葉は、
 そのことだけで、人生にとって最も大事なことは
 決して変わるものではないということを告げている。
 それらの言葉は宝石のように輝く。
 言葉は、それ自体が、価値なんだ。
 だから、言葉を大事に生きることが、
 人生を大事に生きることに他ならないんだ。
(『14歳からの哲学』より)


●なるほど、ある意味では、言葉を語るとは、すべて嘘を語ることである。
 言葉により語られなければ何事でもないことを、
 何事かであるかのように語るのが、言葉というものの機能だからである。
 語るとは騙(かた)ることである。
 ゆえに、言葉のこの嘘をつく機能を自覚しつつ、
 いかにして本当を語るかというところに、
 その人の本当があることになる。
 自分で自分の言葉に酔払っているような政治家が、本物であるわけがない。
 そのような政治家の語る言葉に、
 同じく酔払ってゆく大衆の側も然り。
(『勝っても負けても』より)


『幸福に死ぬための哲学 池田晶子の言葉』(講談社)より
COMMENT:すこし前にはヴィトゲンシュタインの言葉を紹介したこともありましたが、今年はお正月明け吉本隆明さんの『言語にとって美とはなにか』を読み進めていることもあり、言語の本質というものをいろんな角度から捉え直しています。たとえば、「人間だけがなぜ言葉を使うのか?」という問いにはさまざまな答え方が可能でしょうし、おそらく一つだけの正解に収束することはないかもしれません。そんなところから、一昨年に出版された哲学者・池田晶子さんの箴言集から、犖斥姚瓩亡悗垢襦峺斥奸廚鬘海珍んでみたんですが、言葉に依拠しつつも過信しない姿勢、嘘を騙るという機能を自覚しつつ、いかに真実に迫っていくかが大切なんだと改めておもいました。
posted by Akinosuke Inoue 23:29comments(0)trackbacks(0)pookmark