往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。





あるがままを受け入れることと現状肯定の違い

為末大さんが2年まえの夏に書かれた「あるがままを受け入れることと、現状肯定の違い」というブログ記事があります。

 

この記事を読みながらまず最初におもいだしたのは、二村ヒトシさんが、『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』(文庫ぎんが堂)のなかで「自己受容」と「インチキ自己肯定」 と使い分けられていたことでした。

 

つまり、この「あるがままを受容する」という言葉はなかなか厄介で、「そのままの自分でイイんだ」という風に、現状をそのまま肯定することと誤解されやすいんですね。
 
「わからない、できない、考えない」をキャッチフレーズにしている寺子屋塾なので、わたしも「できない体験が大事」「できることを目的にしない」といった言葉をよく口にするんですが、「自己受容」ではなく、「そのままの自分でイイんだ」という風に解釈をされることもすくなくありません。

 

この「自己受容」とは、自分を肯定するのではなく、肯定も否定もしない・・・つまり、イイとか良くないとかいう自分の判断を手放すことで、自分の思考の枠組みから自由になることを言っていて、「現状肯定」とはまったく違うんですが、そのあたりのニュアンスはなかなか伝わりにくいなぁと。
 
人間生きていると日々いろんなことが起きます。

 

まわりの状況は常に揺れ動き変化していますし、そうしたおもいがけない出来事は、自分のあり方や生き方を考え直すきっかけというか、自分の良し悪しのモノサシの基準を問いなおすことにつながっているんですね。

 

でも、往々にしてひとは、いままで形作ってきた思考の枠組みに無自覚なまま日々を過ごしているため、目の前のできごとをそうした自分の思考の範疇でしか捉えられず、都合の良いように解釈してしまったり、自分の本心とちゃんと向き合うことなくやりすごしてしまったりすることがしばしばです。
 
そうです。大人も子どもも、だれもが例外なく、ほんとうは心の底では「できるようになりたい」とおもっているのです。ちがいますか?

 

まわりが自分をどう評価するかとかいうことと関係なく、いままでに無自覚のうちに形成されてきた価値観の刷り込みなどを排して「自分は本当はどうしたいのか?」と純粋に自身に問いかけたとき、「自分はできないままでいい」とおもうひとなどひとりもいません。

 

よって、「できない体験が大事」というのは、できないままでイイとおもっている故のコトバではなく、「できない体験」を、いままでもっていた、「できることがイイことで、できないのはよくないこと」といった判断のモノサシやおもいこみについて自分自身に問いかけ再考するきっかけとして欲しいんですが、ほとんどの人にそうした経験が過去にないようで、なかなか伝わりにくいんですね。
 
寺子屋塾の塾生のなかにも、できない体験をきっかけにさまざまな問いが浮かび、いままで自分の知らなかった側面を発見してどんどん変化していく人と、できないままでなかなか変化しない人とがいます。

そうした、できない状態のままでなかなか変化していかない人たちには、できない原因を「仕事が忙しい」「気分がすぐれない」など外的環境や条件のせいにして自分自身を観ようとしていなかったり、逆に、外的な環境条件を問うことなく目の前に起きている現象のネガティブな側面ばかりにフォーカスし過ぎて必要以上に自分を責め、やろうとする気力自体を失わせてしまっていたりという、いくつかの共通点があることもわかってきました。
 
結局、不条理なのは世の中の方ではなく、私たちの頭の中の思考であって、自分を苦しめているのは他でもない自分自身なんですね。

 

でも、このことがほんとうに腑に落ちると、為末さんが終わりのほうで書かれているように、「考えても仕方がないことは考えるのを止め、目の前のことをたんたんとやりつづける」という所へ行けるような気がするんですが、いかがでしょうか?

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柄谷行人『マルクスその可能性の中心』序章(その2)

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(その1)の続きです。

たとえば、モンテーニュのような思想家は反体系的な思想家の代表のようにみえる。われわれはモンテーニュのいうことをまとめてしまうことはできない。そこには、エピキュリアンもいれば、ストア学派もおり、パスカル的なキリスト教徒もいる。だが、それはけっして混乱した印象を与えない。注意深く読むならば、『エセー』のなかにはなにか原理的なものが、あるいは原理的にみようとする精神の動きがある。『エセー』がたえず新鮮なのは、それが非体系的で矛盾にみちているからではなく、どんな矛盾をも見ようとする新たな眼がそこにあるからだ。そして彼の思考の断片的形式は、むしろテクストをこえてあるような意味、透明な意味に対するたえまないプロテストと同じことなのである。

彼はこういっている。

わたしは低い輝きのない生活をお目にかける。かまうことはない。結局それは同じことになる。道徳哲学は、平民の私の生活の中からも、それよりずっと高貴な生活の中からも、全く同じように引き出される。人間はそれぞれ人間の本性を完全に身にそなえているのだ。世の著作者たちは、何かの特別な外的な特徴によって自分を人々に伝えている。わたしこそ初めて、わたしの全体によって、つまり文法家とか詩人とか法律家としてではなく、ミシェル・ド・モンテーニュとして、自分を伝えるのである。もし世の人たちが、わたしがあまり自分について語るといって嘆くならば、わたしは彼らが自分をさえ考えないことをうらみとする。

これは逆説であって、実は、モンテーニュはいわゆる自分のことなど書いてもいなければ考えてもいない。むしろ、世の人たちはあまりに自分のことばかり考えていると彼はいっているのである。

わたしこそ初めて、とモンテーニュがいうとき、彼は「自分」というものが主題となりうることを初めて見出した確信を語っているのだ。これまでの著作に対して、モンテーニュはいいえただろう。君たちは哲学者とか詩人として、人間について精神について語ったかもしれないが、まだ何も語ってないにひとしい。どんな説明も規定も解釈もうんざりだ。私は「自分」というありふれた、しかも奇怪なものについて語る。それに対してはどんな予断も躊躇も遠慮もしない、と。

モンテーニュが描き出したのは、「人間」に関する従来のさまざまな観念ではなく、いわばその内的な構造なのである。「人間」に関するどんな観念もモンテーニュの前ではこわれてしまう。しかし彼がそのことにすこしもおびえなかったのは、宗教や哲学がみいだす「人間」は「意味されるもの」にすぎず、その底には「自分」という奇怪な「意味するもの」がありそれがすべてだと考えていたからである。いいかえれば、主体でも自己意識でもなく、逆にそれらがそこから派生してくるような「自分」がある。それはいわゆる自分ではなく、彼が引用するテクストそのものである。

マルクスは『資本論』についてつぎのように書いている。

 
商品は、一見したところでは自明で平凡な物のようにみえる。が、分析してみると、それは、形而上学的な繊細さと神学的な意地悪さとにみちた、きわめて奇怪なものであることがわかる。

それまでの経済学者は、眼にうつるかぎりのカテゴリーを整理してすでに経済学の体系を組み立てていた。マルクスはその諸カテゴリーを継承しそれを批判的に再構成したといえるが、しかしもっとも単純で何の変哲もないただの商品に、「形而上学的な繊細さと神学的な意地悪さ」をみいだす眼は、もはや経済学者のものではない。どんな経済学者も、否むしろ経済学者の方こそ、こんなものを自明のものとして通りぬけるだろう。

貨幣が、シェークスピアが『アセンズのダイモン』で省察したように、なにとでもとってかわりうる怪物であり、さらに資本が「利子を生む資本」として自己増殖する怪物であることは、だれにでもわかる。だが、マルクスはまず商品からはじめる。「自明で平凡な物」からはじめるのである。それはたんに叙述の都合からではない。ヘーゲルの体系においては直接的なものは抽象的で空虚なものにすぎない。しかし、『資本論』において、この最も単純な商品の奇怪さは、叙述のどの段階にいても存続しいわば姿を変えてふくれあがっていくのであって、さきのことばこそ全体の鍵である。

『資本論』という作品が卓越しているのは、それが資本制生産の秘密を暴露しているからではなく、このありふれた商品の爐わめて奇怪な畧質に対するマルクスの驚きにある。商品は一見すれば、生産物でありさまざまな使用価値であるが、よくみるならば、それは人間の意志をこえて動きだし人間を拘束する一つの観念形態である。ここにすべてがふくまれている。既成の経済学体系は、ありふれた商品を奇怪なものとしてみる眼によって破られた。マルクスは、初めて商品あるいは価値形態を見出したのだ。


柄谷行人『マルクスその可能性の中心』(講談社学術文庫)より
COMMENT:表紙の写真は1990年に出た現行の学術文庫版ではなく1985年に出版された講談社文庫版を載せました。講談社文庫版には、学術文庫では除かれた、著者自身による16ページにおよぶ「文庫版へのあとがき」と笠井潔さんの15ページにおよぶ解説というガイドがあります。初めて柄谷さんの著書にチャレンジしてみようという向きには講談社文庫版をオススメしますが、Amazonで検索しても古本でも出てきませんので、入手するのが難しいかもしれません。
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柄谷行人『マルクスその可能性の中心』序章(その1)

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ひとりの思想家について論じるということは、その作品について論じることである。これは自明の事柄のように見えるが、必ずしもそうではない。たとえばマルクスを知るには『資本論』を熟読すればよい。しかし、ひとは、史的唯物論とか弁証法的唯物論といった外在的なイデオロギーを通して、ただそれを確認するために『資本論』を読む。それでは読んだことにはならない。“作品”の外にどんな哲学も作者の意図も前提しないで読むこと、それが私が作品を読むということの意味である。

 

『資本論ー経済学批判』は、経済学史においてはすでに古典である。それは二つのことを意味する。一つは、この書物はそれが表示する世界や知識が古びたということに応じて古びているということであり、もう一つは、エピクロスやスピノザを読む場合と同じように、犖電記瓩鯑匹爐箸いΔ海箸蓮△垢任砲修里茲Δ奮扱舛鯡技襪靴董△修硫椎柔の中心において読むことにほからないということである。

 
マルクスは次のようにいっている。

 

 

僕は病気のあいだに君の『ヘラクレイトス』を十分に研究して、散逸した体系を組み立て直す仕事がみごとにできていると思うし。また論争にみられる鋭い洞察にも感じいった。(中略)君がこの仕事で克服しなければならなかった困難は、僕も約18年前にもっとずっとやさしい哲学者エピクロスについて似たような仕事――つまり断片からの全体系の叙述をやったので、僕にはよくわかっている。ついでだが、この体系については、ヘラクレイトスの場合と同じように、体系はただそれ自体エピクロスの著作にあるだけで、意識的な体系化のなかに存在しなかった、と僕は確信している。その仕事に体系的な形を与えている哲学者たち、たとえばスピノザの場合でさえ彼の体系の本当の内部構造は、彼によって体系が意識的に叙述された形式とはまったくちがっている。(1858年5月31日ラッサール宛書簡)

 


マルクスの洞察は、ただたんに過去の思想家についてだけあてはまるのではない。彼が『資本論』でやった仕事は、まさに資本制社会の意識的な体系化(古典経済学)の批判であり、「資本社会の内的構造」を照明することだったからだ。とすれば、彼のこの牾凌瓩砲蓮△修譴泙任泙醒も想達しなかったようなある省察がひそんでいるといいうるのである。
 

だが、それについてはのちにのべるだろう。今いうべきことは、前の言葉がマルクスの作品についてもあてはまるということである。彼がいうように、ある思想家を、その外形が体系的であるか断片的であるかによって区別することは無意味である。どんな反体系的な思想家も、内的な意味で体系的であり、そうでなければ彼は思想家ではない。要するに、それは彼がものごとを根底的(ラディカル)に考えることをしなかったということを意味するだけだからだ。(→その2に続きます)

 


柄谷行人『マルクスその可能性の中心』(講談社学術文庫)より

COMMENT:のっけから「そもそも、ひとりの思想家の著作を読むとは、いったいどういうことなのか?」というような根源に迫る問いから始まる柄谷行人さんの評論文『マルクスその可能性の中心』の冒頭部分なんですが、かつてわたしが20代だった頃、この本を初めて手にしたときには、内容がまったく理解できなかったこの本も、その洞察の深さがハンパでないということが最近になってようやく感じ取れるようになってきました。
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『恋する春画 浮世絵入門』より

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本書は、書店での立ち読み断念、挙動不審で親バレ、レジにイケメンがいたので購入躊躇など、嬉しい悲鳴(?)が相次いだ『芸術新潮』7年ぶりとなる春画特集「恋する春画」(2010年12月号)を再編集したものです。これまで女性読者には敷居が高いと思われていたテーマである春画について、まずは手に取るところから始め、本来の魅力を知ってもらうために立てた企画でしたが、期せずして女性ばかりでなく、多くの読者にとって「目ウロコ」な特集となりました。


日本ではいまだに「春画」というと、ひと目を憚るもの、声を潜めて語らなければならないもの、罪深いもの、淫靡で卑猥な恥じるべきもの、という感覚が強く残っていますが、これは明治以降に西洋から持ち込まれた、キリスト教的道徳観に裏打ちされた見方。江戸時代までの日本人にとって、「性」は恥ずべきものでも隠すべきものでもありませんでした。本書ではそうした春画へのタブー意識を取り払い、「読む」「笑う」という、従来あまり注目されてこなかった、しかし江戸時代の庶民にとっての「リアルな春画」を理解する上で非常に重要な要素を、大きく採り上げています。そしてよくよく見てみれば、ナンパあり、不倫あり、コスプレあり、BL(ボーイズラブ)あり、コメディあり、悲劇あり、ファンタジーまである百花繚乱の大江戸春画ワールドは、現代とも地続き。「遠くのTVドラマより近くの春画」というわけで、下駄履きご近所感覚でお楽しみいただければ幸いです。(橋本麻里)

 


橋本麻里編 早川聞多 橋本治 赤間亮『恋する春画 浮世絵入門』(新潮社・とんぼの本)より 編者によるまえがき

 


COMMENT:3/8付けの記事「教えない性教育、実践のための参考本20」で紹介した1冊。江戸時代の春画は「笑い絵」と呼ばれ、男性だけのためのポルノグラフィーではなく、嫁入り前の娘も共白髪の夫婦も、老若男女問わず親しんでいたとのこと。編集者であり永青文庫副館長でもある橋本麻里さんが3人のエキスパートを案内人に迎え、成り立ちから「書入れ」の読み方まで、女子の視点で明るく読み解く春画入門書。

一昨年2015年暮れに永青文庫にて行われた「SHUNGA春画展」の入場者数が18万を超えたことを報じる記事に橋本さんへのインタビューがありましたので、こちらもご覧ください。
 

 

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おまけ:橋本麻里さんへのインタビュー映像(JAPAN HOUSE)
 

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世の中は心一つのおきどころ、楽も苦となり苦も楽となる

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昔々、南禅寺の門前に「泣き婆さん」と言われた婆さんがいました。雨が降れば泣き、天気が好ければ泣く、降っても照っても、いつも泣いているから、南禅寺の和尚さんが不審に思い、

 


「一体、お前はなぜそう泣くのか」

 


と、尋ねると、婆さんの言うことには、

 


「私には息子が二人います。一人の息子は、三条で駒下駄屋をやっています。今一人の息子は、五条大橋の側で雨傘屋をやっています。ところが、天気の好い日には傘屋の方はサッパリ商売になりませんから、誠に可哀そうでなりません。また雨天になると、駒下駄屋をやっている方は少しも店があたりませんので、息子がきっと困っているだろうと思いますと、はや泣くまいと思っても泣かずにはいられません」 といいます。

 


なるほど・・こんな風に考えたら、一生泣き通しているより仕方がない。そこで和尚さんが、

 


「なるほど、聞いてみれば一応は尤もなようだが、そう考えるのはお前が下手だ。わしが一つ、一生涯、嬉しく有難く暮らせるような方法を教えてあげよう」

 


とおっしゃると、その婆さん、

 


「そんな結構なことがあるなら、是非一つ聞かしてくだされ」

 


という。そこで和尚さんが言うことには、

 


「世の中の禍福は、糾(あざな)える縄のごとしというて、禍(わざわい)と福(さいわい)とは必ず相伴うものである。世の中は、幸福ばかり続くものでなければ、また不幸せばかりあるものでもない。お前は不幸せな方ばかり考えて、幸せの方を一向考えないから、そのように泣きどうしなのだ。天気の好い日は、今日は三条通りの駒下駄屋の店は千客万来で、目の回るほど繁昌すると思うがよい。雨の降る日には、今日は五条の傘屋の店は売れるは売れるは羽が生えて飛ぶように売れる。とても一人や二人の丁稚では忙しく
手が届かないというように思ったらよい。こう考えたら、天気は天気で嬉しかろう。降れば降ったで嬉しかろう」

 


と話したので、その泣き婆さん、それからは楽しく暮らしたということです。


世の中は心一つのおきどころ、楽も苦となり苦も楽となる。
 

※加藤咄堂『修養全集』(講談社)より

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野口晴哉『健康生活の原理 活元運動のすすめ』より(その3)



8/10に書いた記事(その2)の続きです


まだ他にもいろいろの問題があります。

たとえば、心臓を研究する人は心臓ばかりを研究する、胃袋を研究する人は胃袋ばかりを研究する。そしてそれらを集めたものが人間の体だと思いこむ。そこで、それぞれの知識をみんなで持ち寄れば人間が丈夫になるというように考えています。

けれども人間というものは、もともといろいろの部品が集まってできたものではない。胃袋と心臓と肺臓と……いわゆる五臓六腑、四肢五体が集まって出来あがったものが人間ではない。はじめは一箇の生殖細胞を創る以前のある働きであった。それが発展してほうぼうから必要な栄養物を摂取して育ってきたもので、胃袋も心臓もみんな一つのものなのです。元は一つのものとして考えなければならない。だから、この人の心臓は丈夫だとか、胃が弱いとか、どこが悪いとかいうのは言葉のテクニックであって、やはり体全体が一つの生命として生きているというところから入っていかないと、人間の健康問題を正しく理解することはできません。

私は医学的な考えというものも、あるいは体の解剖学的構造というものについて、何も学ばない十代のころから、大勢の人に愉気をし、また活元運動を誘導して健康を保つように指導してきました。痒いところを掻くと痒みが止まるようなものだったのでしょう。そのための体の構造も知らなければ、何を食べたらよいか、そういうことも知らないのに、相手を健康に導き得たのです。

何を基準に導いたか。強いていえば、人間はどうして生きているのか、生きている力を潑溂(はつらつ)とさせるにはどうしたらよいか、人間の勢いということ、気の集注分散の波、ただそれだけを見つめ、その勢いを使って、さらにかくれている勢いを誘い出す、それだけのことを目標にしておりました。これは今日でも変わりありません。長いあいだ、いろいろなことをやっても結局生きられないような人も見てきました。何もしないのに丈夫に生きている人も見てきました。その理由をいつまでも考えました。だから私の知識は五十何年、一つ所へ坐りこんで、来る人の体を丁寧に観察し、その裡(うち)にある勢いと、その勢いのもたらす体の変化だけを一人一人、調べ考えてきただけなのです。

丁度、独楽(こま)を回すと立っているのと同じです。独楽の構造をいくら調べても、静止の状態で立っておれるはずがない。けれども回転していると立っている。なぜ立つのか判らないが、勢いが弱ってくるとふらついて倒れてしまう。それゆえ、立っている姿によって、その力がどう働いて立っているのかが判る。その回っている力、つまり勢いを加減して角度を変えることによってだけ、体を丈夫にし得るということを会得したのであります。私の知っているのはただそれだけなのです。

ですから、わたしの言う日常生活の常識というものは、勉強して作った日常生活の常識とは、かなり違いがありはしないかと思うのです。もしあるとすれば、私の知識が人間の外側から追いかけたのではなく、裡にある働き、見えないものから出発しているからであります。


野口晴哉『健康生活の原理 活元運動のすすめ』(全生社) 健康生活の原理より

 

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野口晴哉『健康生活の原理 活元運動のすすめ』より(その2)

 


5/9に書いた記事の続きです


私の子どもが学校で保健体育の時間に赤痢の話を聞いて来て、「水を飲むのも、お菓子をつまむのも恐ろしくなってしまった」と言いますので、私が何気なく、「いままで水を飲んでも赤痢にならず、菓子をつまんでも無事でいたのは何故かな」と訊きますと、彼は真剣な顔をして考えていましたが、しばらくして、「大切なことを忘れていた。僕たちは生きているんだ。生きているから生きるのに必要な働きが起こるんだね。抵抗力とか、予防する力とか……その生きている力が弱ると赤痢になるんだね」と言うのです。生きていることを忘れていたのは彼だけではなく、現在の大部分の人がそうなのです。予防を知識として知って活用することは大切ですが、知識が過度になりすぎて病菌が恐ろしくなってしまうと、その生きる働きが萎縮してしまうのです。

人間が生きているということは、体があるからではない。食物があるからでもない。空気があるからでもない。他の何らかのもので生きているのであります。

けれど世の中には、体によって生きていたり、食物によって生かされていたり、空気があるから生きていると考えてしまっている人も少なくない。そういう人は、食物をよりどれば丈夫になると思う。新鮮な空気を吸っていれば丈夫になると思う。心を堅固にすれば丈夫になると思っている。しかし、それはみんな違うのです。生きているということは、そういう一つ一つの部分的なものを相手にして意気込んでいると、健康に生きるということとは違ったところへ行ってしまうのであります。(→その3に続く)
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SWITCHインタビュー 達人達「坂本龍一×福岡伸一」より

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福岡:音楽と生物学、芸術と科学というのは、非常に違う営みのように見えますけども、やっぱりこの世界の成り立ちがどうなっているのか、捉えたいということにおいては同じような営みで、どこかに重なるところがあるんじゃないかなぁというふうなことが、この対談の終わりぐらいに見えてきたらいいかなと。

坂本:ありがとうございます。福岡先生は科学者だからきちんと見通しがいつも設計されているのでスバラシイ。僕の方は自分の音楽に反映されてるかな、性格が。本当にランダムなんだな、思いつきであっちに行ったりこっちに行ったりで、とてもじゃないけど時間の流れの中に一直線に乗っかった美しい曲線などは描いてないわけなんですよね。

福岡:直線的に進んできたわけじゃないとおっしゃいましたけれども、今西錦司という生物学者がいて、彼は山がとても好きで、生涯に2000近い山を登ってきた。で、「なぜ山に登るのですか?」彼は聞かれたそうなんですね。山に登ると、その頂上から見えない景色があって、そこに次の山が見える。だからまたその山に登りたくなるんだということを繰り返しながら、直線的ではなくジグザグに進んできたって。

坂本:山のようにジグザグにあっち行ったりこっちいったり…

福岡:でも、この話の中で大事だなと思うことは、そこに行ってみないと見えない風景があるということですよね。今回の坂本さんの「async」というアルバム。ここまでの様々な営みの結果、見えてきた風景というか、情景なんじゃないかなと思いました。 

坂本:なるほど。実は去年アルバムを作っていて、まるで山に登ってるようだな、山登りしているようだなって実感したんですよ。

福岡:あぁ、そうですか。

坂本:僕の場合はね、地図のない登山なんですね。まさに登ってみないとその山自体も分からない、一歩踏み出してみないとどういう景色かも分からない。で、その1曲を作るって「async」の中のある曲をつくるということは、僕にとってはそういうことで、だから、作り出してみないと、どこがゴールか分かんないんです。で、ある日、あ、これがゴールだと実感した瞬間があった。そうしたら、今まで見えていなかった次の山が見えたんです。「あ、ここで終わりじゃないんだ、ここに行かなきゃいけないんだ」っていう。でも、登ってみないと向こうは見えない訳ですよね。それをね、とても強く実感したんです。
 
*** *** ***
 
ナレーション(六角精児):アルバム制作期間は8ヶ月。このプライベートスタジオでほぼ一人で行った。坂本自身が聴きたい音を集めたという。外で採取した街の喧騒や自然音はコンピュータに取り込んで織り交ぜた。自然が奏でる音は秩序だっていない。ズレている。だからasync 非同期と名づけた。ピアノもあえて普通の弾き方からはズラして演奏した。
 
坂本:こんな金属でガリガリこうやってやるもんだから…(ピアノの内部奏法を実演しながら)

福岡:これは何? 鉄箸ですか?

坂本:鉄箸ですね。これは。別に僕は、アジア人であることを強調してやってる訳ではなくて、単に音のためなんですけど。こういう…こういうね。これが・・・楽しい。これがこうなかなかコントロールできない。何ていうんですか…力点をどこに置くかにもよりますけど…毎回同じとは限らないんですね。当たる場所も違うし、強さも少しずつ変わってくる。だからこれが、コントロールできない良さっていう、予測不可能性がより広がるわけですね。弾くよりもはるかに予測不可能になる。それで使っているんですよ。

福岡:だから、音楽・音っていうのは一回性のものだっていうことですよね。

坂本:一回性は非常に大事だし、科学の…あの何ていうんですかね、価値観…

福岡:(科学は)再現性
 
坂本:反対ですよね? 何度繰り返しても同じ結果が得られることに信を置くのが科学。それと反対で(音楽は)一回しか起こらないから良い。一点しかないから良いとかね。そういうところにアウラがあるという…ベンヤミンに言わせればアウラという言葉…オーラですけどね。そこに価値がある。そうすると毎回同じことが必ず起こるとか、劣化しないとかたくさん同じものがある。複製技術時代ますますそれが高まっているわけですけど、その時に一回性の問題は今、真剣に考える必要のある問題だと思っているんですね。
 
福岡:印象的な一文があって、今回の「async」を作られた時に「誰にも聴かせたくない、自分だけで聴いていたい」という風に書かれているんですよ。これっていうのは、CDに焼いてみんなに共有してもらうというところで同一性というものにとらわれてしまうんで、そうならないままの…一回限りのものとして慈しんでいたいなぁという感じかな?と思ったんですが。どうですか?
 
坂本:鋭いですねえ。極端に言うと生まれて初めてそう感じたことなので自分でも不思議だなと思っていたし… 終わり方というのはとても大事だと作りながら思っていたんです。地図がないし、ゴールもないからどこで終わるかもわからないわけですね。だけどその瞬間というのがあるはずなんだよね。一番いい筆を置く瞬間がある。うっかりしていると自分でも気づかないで過ぎてしまう。…で余計なことを足していってしまうっていう。とてもそれを恐れていて今か今かと自分で作りながらもやめる瞬間を察知しながら作っていたというね、ちょっとかわった状態なんですけども。なるほど。それ一回性という問題に大きく関わるのかもしれないですね。う〜ん面白い。
 
*** *** ***
 
福岡:シグナルとノイズ サウンドとノイズの関係は、科学の世界でも同じような構造というか問題があって、本当は世界はノイズと名付けられる前のノイズだけの空間だった。夜空の星々みたいなものですよね。でも人間の脳はめぼしい点を結んで星座にする。別に星座って平面に張り付いている星の点じゃなくて、全然距離が違う、奥深さが違うものを「図形(星座)」としてみているだけだし、それは今そうして見えているだけで、その光だって何万光年も前から来ているものなんで、今はもうない光なのかもしれないし、そういったものをある種の図像、秩序として検出する。それがシグナルの抽出。シグナルを取り出すのが科学の営みな訳ですけど、ついついそういうことは忘れて、シグナルが本当のものだと思ってしまうわけですけれども、音楽の分野でもそういった考えというか、感じっていうのはありますか?
 
坂本:大いにありますね。音楽の場合には自然状態である「音」という素材を使って構築物を作っているので、すこし数学に似たところもある。ノイズは排除していって…ノイズは意味がないもの。地図って「地」と「図」の組み合わせということなんですが、これで言えば、「図」の方が意味のあるもので、「図」をいかに美しいものに仕上げていくか、排除されるのは「地」でありノイズである。そのように何百年も変化、進化というか発達してきたわけですけども、面白いことにちょうど僕が生まれる頃ですかね、20世紀後半に入った頃にアメリカの作曲家のジョン・ケージっていう大変素晴らしい人がですね、もう一回、その「地」の方に耳を傾けようと。図ばっかり取り出すのではなくて「地」を見てみよう。ノイズを聴いてみよう。と。多分そういう事だと思うんですが、そういうことに挑戦をした。これは本当に大事なことで、いまだに、あるいはもうますます今、大事だなと僕は感じていて。
 
*** *** ***
 
坂本:我々人間のね、脳の特性としか言いようがないんですけども、どうしても何かの意味ある情報を受け取ろうとする。見ようとする、聴き取ろうとする。止み難くありますね、人間にはね。
 
福岡:星座を取り出すというのは言葉の作用。人間の場合は特に、ロジックというかロゴスの作用ですよね。言葉による分ける力。文節の力っていうのはすごくて、そのことによって本来、ノイズだらけの世界から星座、シグナルが切り取られていくわけで、あまりにもロゴスの力によって切り取られすぎると、やっぱり本来の自然というものは非常に変形するというか、人工的なものになってしまってもともと物理学のフィジックス、あるいは生理学のphysiologyの最初のphysis フィシスっていうのが、(physisフィシス=自然・ありのまま)本来の自然という意味で、プラトンとかソクラテスが出る前までの、もっと前のヘラクレイトスの時代に、自然というのは混沌としてノイズからできている、けれども豊かなものだというビジョンがあったわけですれど、まあプラトンやソクラテスが、イデアみたいなものを言い出して、
 
坂本:まあ、ロゴスの人ですからね。
 
福岡:そうですね。なんというか、ロゴスの強力さに辟易することがありますよね。
 
坂本:ありますね。ありますね。だからどれほど星座に囲まれているかというのを、意識もできなほど、そういう網の目にとらわれている。
 
福岡:認識の牢屋ですよ。
 
坂本:そうなんですね。そのことにいつも考えさせられることが多くてですね。一度、思考実験として名詞を使うのをやめてみようと、1日努力したことがあるんです。これはほとんど不可能。生活できないというか、ほとんど話もできないし考えることすら難しい。
 
福岡:できない。ええ。
 
坂本:でもね、僕はこれ大事なことなんじゃないかと。やりながら。
 
(2人):名付けない。
 
福岡:名付けるということは、星座を抽出するっていうことですからね。
 
坂本:まさにそのとおりなんですね。
 
福岡:シグナルとしてとりだされたものじゃない…その本来のノイズとしてのフィシス(自然)の場所に下りていくためには、客観的な観察者であることを一旦止めて、フィシスのノイズの中に内部観察者として入っていかないと、そのノイズの中に入れない訳ですよね。
 
坂本:はい。まず、自分もノイズだと認識しないといけませんね。だから自分と外に、あるいはその観察対象、自然に何か差があるとかですね、自分がまるで自然の外にいて、観察しているかのような認識の枠組み自体が間違いですね。
 
福岡:そうなんですよね。
 
坂本:自分自身は木と同じ自然。自然なんです。
 
福岡:生命体、自然物ですよね。
 
坂本:ところが果たして、どれだけの人がそれに気がついているだろうか。僕らが扱っている楽器もそうです。もちろん。
 
福岡:そうですね。
 
坂本:この大きな図体のピアノなんていうものは、よく見ると木だし中は…
 
福岡:鉄だし。
 
坂本:鉄だし。もともとは自然の中にあったものを取り出してきて。図のように取り出してきてですね。
 
福岡:こう、構成した。
 
坂本:加工してですね、音階まで人工的に考えて。本当に人工に人工を重ねたもの。これを僕は元に戻してあげたい。
 
福岡:なるほど。
 
坂本:という欲望が最近強くてね。それで実はたたいたりしてるんです。こすったり。これはね、元のフィシス側の自然物としてモノが発している音を取り出してあげたい。という気持ちがとっても強いのね。
 
福岡:今の話で私がふと思ったのは、音楽の起源ということなんですねよね。音楽の起源ってどこにあったとお考えですか。
 
坂本:とても難しい問題ですね。楽器の起源ということを考えると、実は音楽の起源と、楽器の起源は非常に近い。あるいは、もしかしたら同じことなのかもしれませんが。まぁどの時点か分かりませんけども、そこに落っこっていた鹿の骨か何かを乾かしてみてそこで人口的に穴を開けようと。これはもう完全に自然の改変ですよね。穴をここに開けたほうが自分は好きだ。気持ちいい。洞窟に入って吹いてみるとよりいい感じだと。みんなでやってみようか。やりだすということは、まぁ容易に想像できるわけですね。なぜそうするか。そこがフィシスとロゴスの始まりでもあるのかもしれませんけど。なぜそういう欲動を持つのか。ここがもう僕にはわからないところなんですね。
 
福岡:もっとも大事な自然物は我々の生命だというのは、音楽の起源とどこか重なっているような気がするんですよね。生物学的には、音楽の起源って、例えば鳥の求愛行動みたいに、鳴くことによってコミュニケーションする。それが歌になり音楽になったっていうふうに、語られることは多いんですけども、私は必ずしもそうじゃないんじゃないかと思うんですよ。この自然物に囲まれている私たちの中で、絶えず音を発しているものがあるじゃないか。それは、我々の生命体ですよね。心臓は一定のリズムで打っているし呼吸も一定のリズムで吐いたり吸ったりしているし、脳波だって10ヘルツくらいで振動しているしまあその、セックスだって律動があるわけですよね。そういう、生命が生きていく家で絶え間なく音・音楽を発しているわけですよね。ロゴスによって切り取られたこの世界の中では、我々の生命体自身も生きていることを忘れがちになってしまう。だから外部に音楽を作って、内部の生命と共振するような、生きているということを思い出させる装置として音楽というものが、生み出されたんじゃないかなって思うんですよ。
 
坂本:非常にロマンティックですね。それはね。おもしろい発想ですね。仮にそうだとしても、それなのにやることは、やはりロゴス的なことしかできない。
 
福岡:そうなんですよね。
 
坂本:そっちの方に持っていってしまう。よりコントローラブルというか、コントロールしやすい…
 
福岡:で、楽譜に書くっていう。
 
坂本:秩序立って。オーガナイズされたものにしていく。正確にやりたいんでコンピューターを使ったりとかっていうふうに。どんどんそっちの方に行く。おもしろい発想です。

※NHK-Eテレにて2017.6.3放映されたSWITCHインタビュー 達人達「坂本龍一×福岡伸一」の前半部分より
COMMENT:坂本の新しいアルバムasyncについては、4/30に書いたこちらの記事、福岡伸一さんの著書『生物と無生物とのあいだ』については、6/14に書いたこちらの記事でまえがきの部分を紹介しました。この番組が放映されたのが6/3でしたが、録画を見たのは放映された1週間後ぐらいのタイミングでしたし、ちょうどこのblogで6/4から、この世界はどのようにしてできたか、イノチとは何かというテーマで連続的に書き始めていることがこの番組の内容とも不思議にシンクロナイズしていて驚きました。
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郡司ペギオ―幸夫『生きていることの科学』はじめに(その2)

郡司ペギオ 生きていることの科学

※8/6に書いた(その1)の続きです。

「生命とは何か」「意識とは何か」という問いは、通常の自然科学が扱う問題とは明らかに種類の異なる問題だと思います。それは、生命、意識がそれを問いただす私に直接関与する概念だからでしょう。だからこれらの問題は、より直接的に、「私の生命とは何か」「私の意識とは何か」という形で問いただしたほうが、むしろ、しっくりくるでしょう。ところが、わたしは、私という一人称を前面に押し出すことに面映ゆさ、ある種の恥ずかしさを感じます。私の、とつけたほうが、問いの本質が明らかになると思う一方、面映ゆいのです。どうしてでしょうか。むしろ確実だと思える意識は、この私の、この意識以外にありそうもなく、他人の意識は、しょせん私の意識からの類推に過ぎないのではないか。そう考えるほうがもっともらしいですよね。なのに、私――を持ちだすことに躊躇しなければならないのか。

この面映ゆさや、躊躇を伴わざるを得ないという様相が、生命や、意識という問題の核心を成している。私はそう思っています。それは表現とその外部の対立および媒介者を通した調停が、ここに認められるからです。対立図式は、私とその外部となります。もちろん、外部とは実在する、この、現実の世界のことですが、現実世界のリアリティは、その内実において語れない。つまり、面映ゆさや、躊躇こそ、区別と調停をつなげるリアルの影となるからです。

「私だけではない。他者は、世界は、実在する」このような感覚が、我がこととして血肉となること。他者、世界を実感すること。それは、通常、大人になること――と理解されることがらだと思います。誰でも、小学校・中学校の時分、もしかすると意識を自由に振る舞うのは、ここにいるこの私だけかもしれない、という感覚に襲われることがありますよね。夢の中で、登場人物が、すべて私の頭の中で設定されたキャラクターに過ぎないように。でも逆に、他人が私と同じように、意識を持ち、自由意志を持った存在であると証明することも、きわめて困難です。困難どころか、この問いは、はい・いいえのいずれかに決定できるような問題ではないでしょう。とすると、論証とは無関係に、他者や世界の存在を、いずれ納得するしかないということです。それが大人になるということになります。

論証と無関係に納得するしかない。このような形で、世界の実在を認める。それは、「実在というものは、私から見た自由にならなさ加減を経由して理解される」ことを示しているとも言えます。誕生して、自我を持つに至る私は、本来実在する世界、の全体などわかるはずもない。この私からしか出発できっこない。世界の内部にあって、局所の一点から出発するしかない。こうして成長するとき、わたしたちは、いずれ自分の思うようにはならない世界というものを実感することになります。自分とは無関係らしい、あらかじめここにあったような世界を実感することになります。

原理的に世界の中心にいることしかできず、その意味で特権的でありながら、同時に、自分の自由にならない世界内にあって、これを受け入れるしかない。意識は能動的でありながら、世界の内側に置かれてしまっているという受動性を併せ持つ。私の、という一人称が面映ゆいのは、あたかも、私の存在の引き受ける受動性を無視し、窺い知れない世界との接触に関するリアリティに、まったく言及していないように思えるからでしょう。いや、むしろ、リアリティというものを感じ、理解することの困難さに留意しない、感受性の欠如に、しっくりこない感じを抱くのかもしれません。

すると、この面映ゆさ、一人称を強調する気恥ずかしさの感覚は、世界内存在という存在形態を直観するもの、ではないでしょうか。世界・内・存在は、世界に対する私の能動性と、世界に生かされる受動的な私の齟齬と動的調停を示唆する意味で、生命や意識の核心を成します。面映ゆさが直観するものは、これなのです。

そのうえでのマテリアルなのです。このような描像――世界と私の相互作用として存在する私、といった描像は、下手をすると簡単に、ホンネと建て前的なダブルスタンダードに搦めとられる。いや、もっと言うと、搦めとられるどころか、世界と私との相互作用という言葉以上に展開されないような描像は、その実、単純な私と世界のダブルスタンダードに過ぎず、言っても仕方ない物語に過ぎない、のではないか。わたしはそう思います。野性の直観が失われつつあるとき、世界と私の相互作用という描像は、両者の関係を表現可能な一元論に回収するか、ダブルスタンダードに回収するかのいずれかに落ち着く。わたしはそう思います。それで、わたしたちは果たして、現実の世界の中で生きて行くということを、うまく理解できているのか。いや、生きていけるのか。

世界から受ける受動的な刺戟と、私が能動的に作り上げる表象。この二項対立は、モノと言葉、トークン(個物)とタイプ(類)、世界と観測者の対立です。ここにあるのは、もちろん、一方が他方の言葉で置き換えられるような単純な一元論ではないはずです。かといって、まったく無関係で通約不可能な二種類の概念装置が、対(つい)を成している、というだけでもない。これら二つの概念装置は、互いにうまい翻訳関係を持たないのに、なんらかの形で関与しあっている――とまぁ、多くの場合、話はここで終わる。それ以上でも以下でもない。

このような物語が、ホンネと建て前のダブルスタンダードに回収される理由は、モノそれ自体もしくは、マテリアル概念の不在にあると思います。現実世界なんてよくわからないのに、自分の自由にならなさ加減を簡単に世界の実在で説明づけようとする。こうした素朴な実在論を手にいれる。まさに通常、大人になることって、こう理解されているのではないでしょうか。しかし素朴実在論(認識されたモノは実在すると考えること)は、あまりに早急で、あまりに単純なモデルです。自由に振る舞おうとする私と、それを許さない外部=世界との微妙な関係、すなわち、互いに通約不可能であるのに、どうやって調停されるか、といった問題は、何も理解されないままです。二つが共立するということ、両者が場合によっては矛盾するにもかかわらず同時にそこにある、という様相が、決して理解されません。だから二つは、各時点でいずれか一方のみが存在し、使われることになる。都合に合わせて適宜使い分けられる。共立ではなく、使い分け、それがダブルスタンダードの本質です。なぜそうなるのか。まさに媒介するもの、マテリアルの欠如によるのです。

さて本書で、マテリアルとは何かという問題が、二人の人物の対話を通して論じられていきます。二人とはいっても、教師と生徒のような役まわりを持ったものでもなく、著者自身の自問自答のようなものです。まさにそのような二人によって通約不可能でありながら調停される関係にある媒介性=マテリアル、が生命と意識に関する議論から、彫り出されていきます。それは、石の中から彫像が彫り出される作業にも似た、読者にとっても根気のいる作業です。しかし最後にはマテリアルの形が、そこに見出せると思います。


郡司ペギオ―幸夫『生きていることの科学 生命・意識のマテリアル』(講談社現代新書・2006年)はじめに より

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郡司ペギオ―幸夫『生きていることの科学』はじめに(その1)

郡司ペギオ 生きていることの科学

 


生命・意識とは何であるか。これを解読するのに核心を成す概念は、マテリアル(物質)である。わたしは、本書でこう主張しようと思います。この主張に違和感を持つ方は多いでしょう。生命とは、生きている「こと」であり、生物は生命が成立する物質的基盤である。いわば、生物は生命の入れ物であって、入れ物をいくら調べても、中に成立する生命は理解できない。生命と生物という対立は、意識と脳という対立にも認められます。意識やこころは、モノである脳において成立するものではあるけれど、脳だけ調べても理解できない。神経細胞の機械的仕組みから類推し、どうやって意識やこころを理解するのか。そう思われる読者はたくさんいるでしょう。
そのような形で違和感を持つ読者にとって、マテリアルが核心であると主張するわたしは、モノ 対 こころ(生物 対 生命、脳 対 意識)の対立図式において、前者に与するガチガチの素朴な唯物論者にみえるかもしれません。


わたしが言っているマテリアルはそういうものではありません。もしもあなたが、前述のモノ 対 こころという図式で生命と生物を考えているなら、わたしの言うマテリアルを理解するのに、三つの段階を経る必要があるでしょう。


第一に、モノ 対 こころ図式では、モノはがんばれば認識できるもの、論理的な言葉に表せるものと想定されていますが、マテリアルはそのようなモノではない。むしろマテリアルは、認識という行為を通して、絶えず認識の外部に追いやられ、決して理念的概念として一般化されないモノそれ自体、と言っていいでしょう。

目の前の石つぶてを考えましょう。あなたはこれをモノとして、石と言う。また、さらに分析して安山岩の破片と言い、顕微鏡で調べてナトリウムやカルシウムの成分比を言い当てるとしましょう。物質として、石つぶては精確に記述されているようではある。しかし、それらモノとしての記述は、理念的言葉による表現であり、一般化であって、この目の前にある石の「そのもの性」は失われています。このように、認識によって、認識外部に排除される「そのもの性」、それをマテリアルの影と言うことができるでしょう。この構図は、モノとこころの関係と、一般化の表現とそのもの性(マテリアルの影)の関係には、ある種の強い対立関係が認められます。二つの対立概念があって、両者は徹底して通約不可能です。

第二に、徹底して通約不可能であるのに、モノとこころ両者の間に媒介者がいて調停可能である、という点を理解する必要があります。実際わたしたちは、そのようにして、世界を理解し、他人とのコミュニケーションを実現しているのではないでしょうか。つまり、言語での認識でない何かを認識しながら、同時にそれが何ものであるかを感じることができたり、他人の内実はわからないにもかかわらず、そのこころをおもんばかることができたりしている、ということです。

認識でないというだけの、徹底した否定形であるなら、それは単なる闇ですが、認識ではないある種の直観、感覚を通して、認識外部の何ものかが感得されている。むしろ、だからその外部に特別な名前がつけられると言っていいでしょう。他人の認識できない何かについた名が、他人のこころです。同じく、モノや世界における認識できない何かには、通常、リアリティという名がつけられることでしょう。わたしたちは、現実に、徹底して通約不可能な二つの概念を理解したうえで、両者を共に感得することができる。

さて、最も重要な論点、それはこの第三段階です。わたしは、現代のわたしたちにおいて、モノとこころを媒介する直観、認識から追いやられるリアリティに対する感覚が、ほとんど失われている、と思ったほうがいいんじゃないかと思うのです。むしろそのような媒介する直観は、失われた野性の感覚、だと思ったほうがいい。そのうえで、これを回復する方法を考える。それはいたずらに、自然を感じよ、野性に帰れ、直観を磨け、ということではありません。むしろそういった現実性それ自体の理論を立ち上げ、創ってやることではないか、と思うのです。それは、現実のコーヒーに対して、代替品としてのコーヒーらしさを創ることではなく、普遍的なモノ性それ自体のモデルを創ることになるのです。

モノそれ自体のモデルを立ち上げようと言うとき、モノとこころ、表現と現実といった二項対立は、モノとその外部、表現とその外部といった区別と理解されることになる。外部は決して、内実として理解することができない。にもかかわらず、感得される外部として外部を構成しよう。それがここでの論点となります。それは、認識とその外部を区別する操作が、勝手に区別を開始しながら、同時に自らを解体するという両義性を有することで構成されていきます。一方で認識とその外部との分離を可能とし、他方その区別を無効とするが故に両者を媒介できる。この二つが、マテリアルにおいてつながっている。わたしが示すマテリアルとは、そういった概念であり、そのような逆説を通して、マテリアルが構成されることになります。
 →(その2)につづく

 


郡司ペギオ―幸夫『生きていることの科学 生命・意識のマテリアル』(講談社現代新書・2006年)はじめに より

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