往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。





ドイツの文豪・ゲーテのことば

ゲーテの肖像

 

人は誰でも理解できることしか聞こうとしない。

 

COMMENT:『ファウスト』などの作品で知られるドイツの文豪・ゲーテの名言集より。みんながみんなそうではないとしても、「自分にわかることしか理解しようとしない」姿勢が、コトバを受信する側のデフォルト(標準状態・初期設定)であるというゲーテのこの指摘は、たしかに間違ってはいません。でも、もしもコトバを発信する側の人間が、その標準状態をそのまま迎合し、より判りやすい情報発信に努めようとするだけなら、受信する側はますます受け身になって、いまの自分にわかる範囲だけの行動にとどまり、わかったつもりになる人間を量産するばかりでしょう。私見ですが、ゲーテは、ひとは「自分にわかることしか理解しようとしない」という初期設定を自覚すればこそ、わからないことにも自ら問いを発し、自らのわかる範囲を乗り越えていこうとする姿勢が大事なんだ、と言いたかったのではないでしょうか。

 

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松岡正剛『編集革命 創造的自己編集の技法』より(その7)

6/20に書いた(その6)の続きです。

●アンバランスな脳が言葉を生んだ

 

さて、このときにたいへん大事なことがおこります。古い脳と新しい脳とのバランスをとるための道具が生まれるのです。これが「言葉」なんです。つまり直立二歩行を急ぎすぎたために、新しい脳と古い脳をブリッジするための道具が必要になり、言葉をつくったということです。精神障害にはさまざまな種類がありますが、どんな障害もつきつめると、いつもこの古い脳と新しい脳の間にある言葉の問題に行きついてしまいます。

 

人間の脳には基本的な情報入力状態があると述べましたが、もともと生物には情報記憶状態はありませんでした。たとえばイヌは昨日のことをおぼえていません。いまおこったことに反応するだけで、昨日という概念はどうしてもわからない。昨日あるいは一昨年などというのは、たいていの生物にとってじゃ必要ではないのです。それでも生物にも「学習能力」というものがあり、いつも本能だけで動いているわけではありません。とくにイヌなどはかなりの学習をしますね。


ところがヒトは学習能力が非常に発達したために、過去というものを記憶の世界、記憶の劇場としてつくりあげてしまいました。その犁憶の劇場瓩紡个靴討錣譴錣譴論嫻い鮖たなければなりません。責任を持たないと自分の犁憶の劇場瓩らの指令が現実化してしまいます。われわれの中には常に奸淫の情というものがあるし、ぜいたくな物への欲望もあるし、相手を痛めつけたいというワニのような残忍な気持ちもあります。しかしそれはバランスの中でコントロールされていて、そのコントロールは往々にして、かなりの部分が言葉によってうまくなされているのです。自分の気持ちや行為、記憶をどう引っ張り出すかという編集は、次の行動や未来を切り開くために非常に重要なことです。言葉の問題と脳の問題というのがきわめて密接な関係になっていると思わざるをえません。


たとえば、歌を言葉に乗せることで自分たちの言葉を定着させ、揺るがないようにすることができます。世界中の古い歌はそのようにしてつくられました。われわれにも思いあたることがあります。たとえば、私は、「叱られて、叱られて」あるいは「かーらーす、なぜ泣くの」という歌い出しを聞くとある一定の感情が湧いてきます。私はすぐ泣いてしまいます(笑)。それは、自分たちの「かーらーす、なぜ泣くの」という言葉に託しているものと自分の古い脳から沸き上がる感情が一直線になっているからです。
しかし一直線になっていない言葉もたくさん潜んでいて、あるいは周辺にもいっぱい溢れていて、それにいま、闘いを挑まれているのです。それらに対して私たちも防衛していないとそのような言葉がどんどん入ってきます。


子どものときから私たちの脳の中には、無防備の状態のまま入った言葉がたくさんあります。汚濁のように入っているでしょう。その言葉を出さないとおもしろい編集などできません。それには言葉を充分コントロールできる狄靴燭幣霾麒埆厳狆讚瓩箸いΔ發里鮑胴獣曚垢詆要があります。(2日目の講義・了)

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松岡正剛『編集革命 創造的自己編集の技法』より(その6)

6/19に書いた(その5の続きです。

では、ここで簡単なエクササイズをしてみましょう。
みなさんの手元に都はるみの「北の宿から」の歌詞を配りました(笑)。

次に、この歌詞のいくつかの部分が空欄になっているペーパーを配ります。

これに自分で好きな歌詞をあてはめてみてください(図2)。

 

編集革命(図2)_北の宿から歌詞.jpg


できましたか。ついで、新しいペーパーに、今度は丸ごと歌詞をつくってみてください。メロディは「北の宿から」じゃなくてもかまわない。ただし、その場合も、歌ってもらいます(笑)。


どうですか。元の歌詞やメロディが新しい言葉をつくろうと思っても邪魔をしたのではないかと思います。新しい情報入力状態が歌詞を考えようとすると、情報記憶状態が邪魔をして、新しい言葉が浮かばなかったりしますね。

 

なぜこのような状況におかれたか。もっともっとさかのぼって考えていくとどうなるでしょうか。なんと「われわれにはワニとネズミの脳が棲んでいる」という事実につき当たるのです。

というのは脳の構造のことです。古脳と旧脳という脳を残したまま、新しいヒトとしての新皮質をつくってしまったわけです。ヒトがヒトであるためにはこの新皮質が必要です。新皮質は前頭葉と後頭葉などに分かれていて、前頭葉は未来を見たり計画性を描くという非常に大事なところです。しかし、古脳とか旧脳とかは、実はワニの段階であったり、ネズミである段階なのです(図3)。

 

編集革命(図3)_ヒトの脳の新旧.jpg


ワニやネズミの脳が充分に発達してから、ヒトが樹上から草原に降りれば、それらの脳がヒトにつくことはなくて済んだかもしれません。ところがなぜかわれわれの祖先たちはあせって急いでしまったんですね。おそらく天変地異があったのかもしれないし、気候が激変したのかもしれません。あるいは疫病がヒトザルの周辺に流行ったのかもしれません。縄文人はATLウィルスによって激減したのかもしれないとも言われています。ともかくヒトザルは草原に降りて立つようになるとセックス・シンボルが隠され、子宮が小さくなり、その代わりに産み落とされた子どもの脳が大きくなりました。さらにこの大脳皮質の肥大が起こりました。これによって文明がつくられたり、おもしろい人生が歩めたり、まあ、それなりにわれわれにとってプラスになることも多かった。


しかし急いだために、きわめて残忍なワニの脳と、そして狡猾なネズミの脳がわれわれの頭の中にはいまだにあるわけです。そのためつねに大脳の新皮質(理性脳)の方からワニとかネズミの古い脳をうまくコントロールしてやらなければならない。そうでないと私はここでいきなり服を脱ぎ始めたり、女性を抱いてしまったりするかもしれません(笑)。しかしふつうは、講演中におなかがすいてネズミのように食べたいという思いがあっても、まだ話している最中だから我慢しなければと必死で新皮質の方でコントロールしているわけです(笑)。

→続きは(その7)

 

 

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松岡正剛『編集革命 創造的自己編集の技法』より(その5)

6/18に書いた(その4の続きです。

●ヒトの脳は爬虫類の脳もかかえている

 

もう少し生物学的な見方を続けます。別な視点で眺めてみましょう。
動物を骨格のシステムから見ると、大きく内骨格の系列と外骨格の系列とに分かれます。内骨格系はわれわれ哺乳類が代表です。脊椎動物ですね。内骨格系というのは肉の中に骨があるということです。だから体を包んでいるのは柔らかい皮膚です。一方、外骨格系は昆虫が代表です。外骨格系は体の外側に骨があって、その硬いヨロイで体を包んでいる。そしてその内側に肉がついていて、その間をいろいろな神経系や内臓系が動いている。二つはまったく逆のつくりかたになっているわけです。それぞれ利点はあるけれど、矛盾もでてくる。外骨格系の昆虫は、口でいろいろなものをどんどん摂取していくと消化器が膨れてしまうんです。膨れると神経系を圧迫してしまう。だから昆虫というのは食べ過ぎると必ず胸焼けします(笑)。したがって絶対に大きくならない。大きくならないように外側が骨格になっているという生物の系譜なのです。
生物の体を骨が中にあるか外にあるかという骨のつき方で分けましたが、これでは犒措悪瓩諒類にしかなりません。もっと狷睛騰瓩琶けるにはどうするか。それには情報の編集システムというもので分かれていると考えた方がいい。生物はもともと情報を何とか編集しようとするシステムになっているからです。
たとえば、アリはアリとして必要な情報を自分に入れて、そしてその生態系で生きている。ウマはウマで情報を入手して生きている。アリにはウマの情報は必要ではなく、ウマはアリの情報は必要ではありません。外骨格系の連中はその入ってくる情報が非常に少なくて、しかも出す情報も少なくても充分生きていけるだけの体のサイズになっています。
ところがこうした体のサイズに合わない情報の編集システムを持った生物が出てきてしまったんですね。それが恐竜であり、爬虫類であり、哺乳類、ヒトなのです。恐竜から時代が下がるにつれて内骨格系の情報編集システムがだんだんつくられていきました。その過程を非常に簡単に言うとこうなります。
まずプラナリアみたいなものがいます。体内に何かが入って出ていく。体の中に最初の情報系が生まれるわけです。ミミズは光刺戟を受けて中に情報を受けている。ふつうは神経系が発達します。そして外部に出ている目や触角をつくっていきます。さらにはこの神経系が網目状になっていく。
これを哺乳類はだんだん発展させて、複雑な網目状のニューロン/ネットワーク(神経網)をつくり、てっぺんの脳にコントロール・センターを設置したわけです。
体内にはくまなく神経が入っていますから、私たちは触るとそれがわかる。たとえば足の裏などは非常によくできています。一粒の米でも踏むとそれがわかるようになっています。が、足の裏は地にいつもついていますから、刺戟は常に入ってくるので、それをそのまま感じていては大変です。歩くたびにいちいちハァハァと喘いだりしなくてはなりません(笑)。ふだんはそういうベタ面の情報が入ってもシャットアウトしていて、米粒などの異物が入ると今度は興奮するようになっているわけです。ですから足で歩いている人はいちいち喘いでいませんね(笑)。
ということは、情報の「意味」というものは、情報が入力される状態で、ある程度ちがってくるということです。足の裏から入ってくる情報は、米粒だとわかるけれども、絨毯の刺戟は全体としては感じないようにいつもカットしているのです。情報の入力状態というのをいつもコントロールするようになっているのです。
そして脳ができ上がったので、情報はだんだん脳にストックされるようになってきました。そこで情報は、情報の入力状態とは別に、情報の記憶状態という二つの形態を持つことになったわけです。私たちの情報編集の出発点は、この二つをうまく扱うことから始まります。

→続きは(その6
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松岡正剛『編集革命 創造的自己編集の技法』より(その4)

6/17に書いた(その3の続きです。

●情報ははたらきに変えられる

 

生物を成立させている4つの貢献の一つに交代がありました。私たちは編集する材料としての情報をエネルギーに変えます。これが大事なしくみなのです。つまり私たちが得ている知識や情報は、図書館のようにストックされるのではなく、いろいろエネルギーに変えられているのです。

編集というのは、情報が単に情報のままにとどまらずに、なにかのエネルギーに変わる手伝いをすることです。エネルギーという言葉がわかりにくければ「はたらき」というふうに考えてもらってもかまいません。

以上、見てきたように、日常的に私たちがやっている編集と生物がやっていることは非常によく似ています。これは考えてみれば当然のことです。われわれの体はいろいろな生物的メカニズムで埋まっているわけですが、その複雑精緻なメカニズムは、結局はわれわれが生きて行くための情報編集を支えているしくみです。われわれはその生物学的な編集のしくみ(エディトリアル・システム)にのっとりながら、その上でいろいろ言葉やイメージを扱っているのですから、編集のルーツが生物にあるのは当然なのです。私たちは編集は新聞社や出版社の仕事だと思いがちですが、それは生物がやっている編集の仕方のごく一部だけが強調されたにすぎないのです。

→続きは(その5

 

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松岡正剛『編集革命 創造的自己編集の技法』より(その3)

6/16に書いた(その2の続きです。

●細胞がやっている編集

 

生物の情報編集はどのようにされているのでしょうか。生物をつくる単位は細胞ですね。細胞は私たちの情報編集のデスクにあたります。編集の大もとはここから始まっています。
その編集デスクの引出しには書きこみ用のファイルがあります。これがDNAで、ここで情報を組みたて、コピーしています。細胞膜は電話やFAXのようなもので、いい情報を入れて悪い情報は排除する。おもしろい男には会うけれどもつまらない男には会わない。いい本は読むけれどもつまらない本は読まないという選択をミクロレベルでも細胞膜がやっているわけです。ミトコンドリアではエネルギーを準備しています。本を読みたいと思っても活力がないと読めません。読むためのエネルギーはここでつくられている。そしてリボゾームがDNAを動かす指令を司どっている、音頭とりです。
以上が最小単位の細胞で起きている編集の要素です。


その情報の素材は、水・タンパク質・核酸・炭水化物・無機塩類などです。細胞膜はこれらを実に過不足なく出入りさせ、おもしろい情報は取り、つまらない情報は切るという役目を持っています。ふだん私たちがやっている編集というのは、生物がやっていることと変わらないのです。
これが狂うと生物学的自己というのも狂ってきます。ミミズは生物史の失敗作だと言われています。本当は雨が降れば水を求めて地上に出てくるべきところを、乾いてくるとのこのこ出てくるという大変なミスを犯してしまう。ミミズは水という情報の選択透過性に対する判断力をミスプリントしているのです。


もうひとつ大事なことは、このシステムには情報のフィードバック・ループがあるということです。体の内部でいろいろと情報が動く。これをシステムとよびます。その情報システムにとって大事なものとして発達したのが、消化系や呼吸系、感覚系などのサブシステムです。情報の扱いには最低これだけのサブシステムが必要なのですが、そこにはいったん入ってきた情報を元のシステムに戻して、それによってシステムをつねに調整(編集)することが必要だということです。これがフィードバックです。
フィードバックとは、情報を元のシステムに戻して検討するということです。およそ生物とか機械などのシステムは、本体があり、そこから端末が出ているというしくみをとっている。われわれの体でいえば目や鼻は端末です。その端末から情報が入ってくるわけですが、それを本体に戻して検討したり解釈する必要がある。解釈するところは人間でいえば脳ですね。これがフィードバックです。このフィードバックが情報編集ではたいへん大事なしくみなのです。

 

 

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松岡正剛『編集革命 創造的自己編集の技法』より(その2)

6/15に書いた(その1)の続きです。

●生物学的編集

 

われわれは自分がどういう歴史で編集されているか知る必要があります。その歴史は生物史までさかのぼる。生物学的な全編集性というものから私たちは必ずしも逃れられていないのです。では生物学的な自己とは何かを考えてみましょう。


まず私たちは生き物です。生きているという状況を分けてみると4つの特徴に分類できます。
第1には、生物はそれぞれ「構造」が統一されているという特徴がある。チョウはチョウ、クモはクモ、ブタはブタ、ヒトはヒトになっています。その構造は一応、ヒトならヒトの上では一致し、統一されています。それぞれ構造はかわらないということです。


2番目は「交代」があるということです。構造は統一されていますが、物質は動いています。私たちの細胞はだいたい1週間から1ヶ月で全部交代します。すべてが一挙に代わるのではなく、いろいろな部分が少しずつズレを持ちながら交代しています。物質交代にともないエネルギーの交代もあります。さまざまな環境条件の中で同化作用と異化作用が起きて交代のエネルギーを作っています。


3番目には私たちは私たち自身を「再生」できるという特徴をもっている。つまり子どもが産めます。子孫につながることができる。これを「生命の連続性」といいます。一つの構造の再生産が生殖行為を行うことによってできるようになっています。しかも、生殖によって同じように目がつくられ、鼻や耳がつく。


4番目は「多様性」が維持されているということです。これは1番目の構造が統一されていることと矛盾するようですが、実は共存しています。種としては私たちは同じ構造をもっていますが、その中にはいろいろの多様性を許されているのです。不思議でしょう。同じ構造が維持されている人同士でなぜ顔が違うのか。多様性が維持されることにより、文化やコミュニケーションを起こせるようになっています。


この4つの生物学的な特徴をつなげ、維持し、さまざまに活性化させているのは何でしょうか。それは「情報」です。生物はこれらの特徴を情報を編集することによってつくりあげてきたのです。

続きは(その3)

 

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松岡正剛『編集革命 創造的自己編集の技法』より(その1)

編集革命_松岡正剛.jpg


自己を生命の進化から知る


今日は、いったいどのように自己というものが形成されてきたのかを見てみます。
私たちヒトは大昔から地球に存在したのではなく、どこかの時点でヒトザルから分かれてきました。なぜヒトはヒトザルや動物と違って家を作ったり、服を着たりするのでしょうか。動物が服を着たりしないのは、自己や自分というものにあまりとらわれていないからなのでしょうか。そうすると人間というものの発生を考えることで自己とは何かが探れるかもしれません。


大昔、地球にどろどろな原始の海とよばれるものがあり、ここに生命の大もとができて、そこに藻が生まれました。藻が酸素をつくり、その酸素が生命を進化させ、魚類の発生をもたらします。陸に上がった魚は手足をだしてトカゲに進化し、そのうちに環境が変化し、森が繁ったり、砂漠になったり、大洪水が襲ったりして危険に晒されるようになります。そのたびに進化の淘汰がおこり、トカゲは行きにくい乾燥したところから飛び出ようとして鳥に進化していきました。これらはすべてDNAの突然変異がからんでいます。


そして環境が地球に棲み分けをおこします。水中には魚、草原の多いところには昆虫、寒いところには皮の厚い動物が発達するなかで、大きな昼行性の動物に対して夜行性のオポッサムやキネズミという動物が出てくる。これが哺乳類の祖先です。こうして出てきた動物は乳をもらいながら育ち、それがヒトザルへと進化していくわけです。


樹上生活をしていた私たちの祖先は樹から降り、立ち上がりました。そしてヒトというものが誕生した。つまり私たちの自己の始まりの、より大きなきっかけであるヒトの誕生がここにあります。けれども、その誕生にあたってはいろいろ問題があったのです。
ヒトザルのときには他の動物たち同様、お互いにセックスシンボルを見せあって、たとえばお尻が赤ければ交尾していました。ところが人間は立ち上がってしまった。これが大問題だったのです。立つとセックスシンボルは隠されて見えなくなってしまいますね。そこで、見ようとするときには見たいのだということをちゃんと伝えなければならなくなったわけです。つまり面倒な手続きが増えてきた。みなさん思いあたりますよね(笑)。けれども、これがまわりまわってコミュニケーションを発達させる原因となります。


また立ち上がったために女性の子宮の入口は狭くなり、難産という問題をおこし、一方、子どもは虚弱児として出てきてしまうので、生後1年から2〜3年は親の保護が必要となります。こんな動物はほかにはいない。人類史は子育てという制約をいわば必然的につくったのです。


その子育ての時期に思春期(アドレッサンス)の問題が出てきてしまいました。ほかの動物たちならば自然のリズムとともに発情し、セックスしています。発情期(思春期)というものがはっきり決まっているわけです。ところがヒトは難産で、おまけに未熟児として生まれる。さらに、そのうち発情期も失ってしまいます。逆にいえばいつでも発情するようになってしまったわけです。これではヒトザル社会はうまくまとまらない。そこで、思春期にはセックスしてはならないという抑制がおこります。この抑制がしだいに家族や社会というものをつくっていったわけです。ヒトの歴史には、こういった最初期の矛盾や問題がはらまれているんです。

 

このような流れのなかに今日の自分を形成するもののいろんなテーマが潜んでいるのですね。



COMMENT:ニュースクール叢書は、平井雷太氏が主宰するセルフラーニング研究所(→現在はらくだメソッドと改称)で行われた100回を超える講座の内容をもとに生まれたブックレット・シリーズです。1989年に松岡正剛さんが行った編集塾(全10回)のうち約3回分にあたる内容を収録したこの『編集革命 創造的自己編集の技法』は10冊目にあたります。6/8付けの記事でご紹介したコムアイとのswitchインタビューで語られた話は概略だけでしたので、編集工学のルーツといわれる狎己学的編集瓩龍饌療内容を、何回かに分けてご紹介しようとおもいます。
 
編集革命 Amazon

ちなみに、この本は版元で絶版となっており、Amazonのページや古書店のページなどを見るとプレミアムがついていて入手困難なようですが、中村教室の「ショップ寺子屋」に在庫が数冊在ります。20年以上も前の本なので、状態がよくないものもあり、定価もしくは定価より安くお頒けすることができますので、ご希望の方はお早めに!
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福岡伸一『生物と無生物のあいだ』より

生物と無生物のあいだ

 

私は今、多摩川にほど近い場所に住んでいて、よく水辺を散策する。川面を吹き渡ってくる風を心地よく感じながら、陽光の反射をかわして水の中を覗き込むと、そこには実にさまざまな生命が息づいていることを知る。水面から突き出た小さな三角形の石に見えたものが亀の鼻先だったり、流れにたゆたう糸くずと思えたものが稚魚の群れだったり、あるいは水草に絡まった塵芥と映ったものが、トンボのヤゴであったりする。
そんなとき、私はふと大学に入りたての頃、生物学の時間に教師が問うた言葉を思い出す。人は瞬時に、生物と無生物を見分けるけれど、それは生物の何を見ているのでしょうか。そもそも、生命とは何か、皆さんは定義できますか?
私はかなりわくわくして続きに期待したが、結局、その講義では明確な答えは示されなかった。生命が持ついくつかの特徴——たとえば、細胞からなる、DNAを持つ、呼吸によってエネルギーを作る——、などを列挙するうちに夏休みが来て日程は終わってしまったのである。
なにかを定義するとき、属性を挙げて対象を記述することは比較的たやすい。しかし、対象の本質を明示的に記述することはまったくたやすいことではない。大学に入ってまず私が気づかされたのはそういうことだった。思えば、それ以来、生命とは何かという問題を考えながら、結局、明示的な、つまりストンと心に落ちるような答えをつかまえられないまま今日に至ってしまった気がする。それでも今の私は、20数年来の問いを次のようにあとづけることはできるだろう。

 

 

生命とは何か?  それは自己複製を行うシステムである。20世紀の生命科学が到達したひとつの答えがこれだった。1953年、科学専門誌『ネイチヤー』にわずか千語(1ページあまり)の論文が掲載された。そこには、DNAが、互いに逆方向に結びついた2本のリボンからなっているとのモデルが提出されていた。生命の神秘は二重ラセンをとっている。多くの人々が、この天啓を目の当たりにしたと同時にその正当性を信じた理由は、構造のゆるぎない美しさにあった。しかしさらに重要なことは、構造がその機能をも明示していたことだった。論文の若き共同執筆者ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックは最後にさりげなく述べていた。この対構造が直ちに自己複製機構を示唆することに私たちは気がついていないわけではない、と。
DNAの二重ラセンは、互いに他を写した対構造をしている。そして二重ラセンが解けるとちょうどポジとネガの関係となる。ボジを元に新しいネガが作られ、元のネガから新しいポジが作られると、そこには二組の新しいDNA二重ラセンが誕生する。ポジあるいはネガとしてラセン状のフィルムに書き込まれている暗号、これがとりもなおさず遺伝子情報である。これが生命の犲己複製瓮轡好謄爐任△蝓⊃靴燭弊弧燭誕生するとき、あるいは細胞が分裂するとき、情報が伝達される仕組みの根幹をなしている。
DNA構造の解明は、分子生物学時代の幕を切って落とした。DNAの暗号が、細胞内のミクロな部品の規格情報であること、それがどのように読み出されるのかが次々と解明されていった。1980年代に入ると、DNA自体をいわば極小の外科手術によって切り貼りして情報を書き換える方法、つまり遺伝子操作技術が誕生し分子生物学の黄金期が到来した。もともとは野原に昆虫を追い、水辺に魚を捕らえることに夢中で、ファーブルや今西錦司のようなナチュラリストを夢見ていた私も、時代の熱に逆らうことはできなかった。いやおうなく、いや、むしろ進んでミクロな分子の世界に突き進んでいった。そこにこそ生命の鍵があると。

 

分子生物学的な生命観に立つと、生命体とはミクロなパーツからなる精巧なプラモデル、すなわち分子機械に過ぎないといえる。デカルトが考えた機械的生命観の究極的な姿である。生命体が分子機械であるならば、それを巧みに操作することによって生命体を作り変え、牴良瓩垢襪海箸皺椎修世蹐Αたとえすぐにそこまでの応用に到達できなくとも、たとえば分子機械の部品をひとつだけ働かないようにして、そのとき生命体にどのような異常が起きるかを観察すれば、部品の役割をいい当てることができるだろう。つまり生命の仕組みを分子のレベルで解析することができるはずである。このような考え方に立って、遺伝子改変動物が作成されることになった。爛離奪アウト瓮泪Ε垢任△襦
私は膵臓のある部品に興味を持っていた。膵臓は消化酵素を作ったり、インシュリンを分泌して血糖値をコントロールしたりする重要な臓器である。この部品はおそらくその存在場所や存在量から考えて、重要な細胞プロセスに関わっているに違いない。そこで、私は遺伝子操作技術を駆使して、この部品の情報だけをDNAから切り取って、この部品が欠損したマウスを作った。ひとつの部品情報が叩き壊されている(ノックアウト)マウスである。このマウスを育ててどのような変化が起こっているのかを調べれば、部品の役割が判明する。マウスは消化酵素がうまく作れなくなって、栄養失調になるかもしれない。あるいはインシュリン分泌に異常が起こつて糖尿病を発症するかもしれない。


長い時間とたくさんの研究資金を投入して、私たちはこのようなマウスの受精卵を作り出した。それを仮母の子宮に入れて子どもが誕生するのを待った。母マウスは無事に出産した。赤ちやんマウスはこのあと一体どのような変化を来たすであろうか、私たちは固唾を呑んで観察を続けた。子マウスはすくすくと成長した。そしておとなのマウスになった。なにごとも起こらなかった。栄養失調にも糖尿病にもなっていない。血液が調べられ、顕徴鏡写真がとられ、ありとあらゆる精密検査が行われた。どこにもとりたてて異常も変化もない。私たちは困惑した。一体これはどういうことなのか。
実は、私たちと同じような期待をこめて全世界で、さまざまな部品のノックアウトマウス作成が試みられ、そして私たちと同じような困惑あるいは落胆に見舞われるケースは少なくない。予測と違って特別な異常が起きなければ研究発表もできないし、論文も書けないので正確な研究実例は顕在化しにくい。が、その数はかなり多いのではないだろうか。
私も最初は落胆した。もちろん今でも半ば落胆している。しかしもう半分の気持ちでは、実は、ここに生命の本質があるのではないか、そのようにも考えてみられるようになってきたのである。
遺伝子ノックアウト技術によって、パーツを一種類、ピースをひとつ、完全に取り除いても、何らかの方法でその欠落が埋められ、バックアップが働き、全体が組みあがってみると何ら機能不全がない。生命というあり方には、パーツが張り合わされて作られるプラモデルのようなアナロジーでは説明不可能な重要な特性が存在している。ここには何か別のダイナミズムが存在している。私たちがこの世界を見て、そこに生物と無生物とを識別できるのは、そのダイナミズムを感得しているからではないだろうか。では、その狷暗なもの瓩箸楼貘里覆鵑世蹐Δ。


私は一人のユダヤ人科学者を思い出す。彼は、DNA構造の発見を知ることなく、自ら命を絶ってこの世を去った。その名をルドルフ・シェーンハイマーという。彼は、生命が「動的な平衡状態」にあることを最初に示した科学者だった。私たちが食べた分子は、瞬く間に全身に散らばり、一時、緩くそこにとどまり、次の瞬間には身体から抜け出て行くことを証明した。つまり私たち生命体の身体はプラモデルのような静的なパーツから成り立っている分子機械ではなく、パーツ自体のダイナミックな流れの中に成り立っている。
私は先ごろ、シェーンハイマーの発見を手がかりに、私たちが食べ続けることの意味と生命のあり方を、狂牛病禍が問いかけた問題と対置しながら論考してみた(『もう牛を食べても安心か』文春新書、2004年)。この「動的平衡」論をもとに、生物を無生物から区別するものは何かを、私たちの生命観の変遷とともに考察したのが本書である。私の内部では、これが大学初年度に問われた問い、すなわち生命とはなにか、への接近でもある。

 

COMMENT:分子生物学者・福岡伸一さんが2007年に出版された『生物と無生物とのあいだ』から、本書全体の枠組みを提示しているプロローグを全文ご紹介。ノックアウトマウスの実験は、当初予測していた仮説を裏切る結果となり、一時は失敗とおもわれたものの、その失敗がヒントになってシェーンハイマーの「動的平衡」という概念を再発見するに至るプロセスが興味深いですね。
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吉本隆明『カール・マルクス』より

カール・マルクス_吉本隆明.jpg

 

・・・ただ、ここで重要なのは、マルクスが『経済と哲学にかんする手稿』でうちだしたかれ自身の<自然>哲学が、いかにエピクロスの<自然>哲学から影響をうけているか、ということである。これは予想外に深刻な意味をはらんでいる。わたしの知識の範囲では、デモクリトスの<自然>哲学はつぎの4つをもとにしてかんがえることができる。


⑴ すべての<要素>は<充てるもの>と<空なるもの>であり、そのうち充ちて堅いものは<有るもの>であり、空なるものは<有らぬもの>と呼ばれる。
⑵ もろもろの世界は、たくさんの物体が切りはなされて大きな空虚へ運ばれて渦巻きをつくり、相互に衝突し、回転しているうちに区別されて、軽いものは外方の空虚へゆき、残りはいっしょになって最初の球体をつくり、これらが物体を包んだ膜のようなものとして分離してゆく。
⑶ すべて事物はこのような渦流から必然的に生成する。
⑷ 認識には知覚によるものと、思惟によるものとがあり、知覚による認識は、<闇のもの>であり、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚がこれに属し、思惟によるものが、<真正のもの>で<闇のもの>から隔離される。(初期ギリシア哲学者断片集』山本光雄訳編参照)

 

マルクスが学位論文でもかんがえているように、エピクロスがデモクリトスからうけついだのは、<要素>が<有るもの>と<有らぬもののふたつとしてかんがえられるという点であり、有らぬものは存在しないという点であった。
エピクロスは、デモクリトスとちがって、思惟よりも感覚におもきをおき、「確証の期待されるものや不明なものごとを解釈しうる拠りどころをもつためには、すべてを、感覚にしたがってみるべきである」(『エピクロス』出・岩崎訳)としたのである。
したがって、世界はエピクロスによれば<物体と場所>であり、<物体>の有ることは感覚が立証しているとおりで疑うことができず、<場所>は、物体が運動するものとして感覚にあらわれるかぎり、<有らぬもの>ではなく、<有るもの>の存在を知覚的にしめしたものを意味している。
エピクロスによって、世界は感覚的対象とされているという点は、マルクスがヘーゲルの語彙をつかって的確に評価したところであった。そのためにデモクリトスとエピクロスが知覚と思惟の伝導体とかんがえたエイドーラ(剥離像)という概念は、物体と知覚や思惟のあいだでニュアンスがちがってくる。デモクリトスでは、物体からエイドーラが剥離し流れこんで人間感覚に到達するのだが、エピクロスでは、物体と感覚は相互概念としてあらわれる。マルクスは、一見するとデモクリトスの唯物的客観性にたいして、主観的・感覚的な観念性とみえるエピクロスの修正を、じつは相互規定性の概念をふまえたものとして評価したのである。


 引用したテキストは「カールマルクス—————マルクス紀行」の一部分で1964年に初出、単行本は1966年初版
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