往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。





わかっていてもできないこと

このところずっと体調がすぐれない状態がつづいていたのですが、先週の日曜日ごろからいよいよウツ症状が表れてきて、目の前のことをやるだけで精一杯になり、日記を書き続ける気力も日に日に失せてきました。

休みらしい休みがほとんど無く、休日も部屋の片付けや引っ越しの荷物運びなどに追われる毎日がずっと続いていたことも原因の一つだと思うのですが、一番の原因は、1ヶ月以上にわたり、寝ている間に電磁波を浴び続けたことにまず間違いないと思います。

一昨年秋に青森のとよおかクリニックで治療を受けるようになって以後、寝室に物を置かないことの重要さに気づき、そのことに日々努めてきたことについてはこの日記でも何度か書いてきました。

私は、20代の前半でマクロビオティックと出会って、高校時代に得た病を日常の食事を見直す事で治した経験があるのですが、それ以後そのことにとらわれてしまっていて、食べもの以外の環境にあまりに無頓着だったのです。

2007.6.30 まゆつば物語より

2007.7.9 いま私が毎日こころがけていること

2007.7.17 寝室に物を置くとどうなるか

2007.7.19 凝りや痛みは良くなってきました

しかし、この4月下旬〜5月上旬に自宅のリフォームをすることになり、その途中でやむを得ずリビングルームに置いてあったさまざまなものを、どうしても寝室に運び込まざるを得ない状況になったのです。

この2年ほど随分良い状態に回復していたので、短期間ですこしぐらいならば大丈夫だろうと高をくくったのが良くありませんでした。

私の心身の健康は、衣食住の生活習慣に対して日々さまざまな配慮を続けていることで辛うじて成り立っているものであって、少し油断をすれば、すぐに元の木阿弥になってしまうぐらいの危うい状態だったということを、体調を崩してからやっと自覚するという有様で、我ながら情けないことです。


「寝室に物を置かない」という一番重要なことを守らずして、漢方薬、お灸、食べ物など他の様々な努力を講じても、ほとんど効果が上がらないということを、豊岡先生はこのコラムこのコラムなど今までに何度も書かれているのですが、そのことの意味がまだまだわかっていなかったようです。

また、自分ひとりだけで分かっていても、家族で共同生活を送っている以上は、そのことに対してのまわりの理解や協力もないと、自分一人だけ努力しても限界があるということも痛感しています。

昨年の暮れぐらいからずっと忙しい日々が続いていて、家の中の電磁波対策(寝るときにケータイの電源を切る、夜中に充電はしない、無線LANの電源は夜中は落とす、Wiiやプレステのゲームコントローラーは使わないときはアルミのアタッシュケースに入れる、電気機器には電磁波防止シールを貼る等々・・・)がそれ以前に比較するとだいぶいいかげんになってきていたからです。

たとえば、2007.5.7のblogに書いたように、自宅にある家電製品に電磁波防止シールを貼ったのは昨年のゴールデンウィークのことで、半年間の有効期限が切れる昨年の暮れ頃には張り替え作業をしなければいけなかったのですが、1年以上すぎた今なおやれていないのです。

わかっていても実践できなければ結局わかっていないのと変わりませんよね。
まだまだ懲りていないということでしょう。

ウツ状態の時にはマイナス思考に陥りがちなのですが、そのことに思い至って、さすがに今回はずいぶん落ち込みました。

30年かけて分かった事を人に伝えるというのはたしかに大変なことなのですが、自分自身が日々実践していなければ伝わるわけがないですし。

たぶん心底懲りるまでは、もっともっと痛い目に遭わなければわからないのでしょうが、こうして前進、後退を繰り返しながら、ちょっとずつ前に進んでいけるのかもしれません。

一昨日から大あわてで寝室の片付けに着手し、昨晩ようやく何もない状態の部屋で寝る事ができたので、たぶんこれからは快方へ向かうと思います。

今日明日は、出かける予定だった2050年担い手塾の石徹白での合宿をキャンセルし、自宅でゆっくりすることにしました。

posted by 15:47comments(0)trackbacks(0)pookmark





やっぱり片付けでした

GWも昨日で終わりましたね。如何お過ごしですか?

5/1の日記で予想した通り4連休は片付けだけで終わりましたが、家のリフォームに伴う片付けものと教室の移転に伴う片付けものとが重なり、自分の部屋の片付けまで手が回りませんでした。

もうひとつ手が回らなかった理由は、妻がずっと使っていたノートパソコンを買い換えることになり、そのための調整作業を平行してすすめていたことです。

妻は2001年に発売されたホワイトのiBookを使っていたのですが、スペックが古く、CDも焼けずDVDも見えないので実用に耐えられないようになってきました。

そこで、それを中2の長男に譲り、私が昨年秋購入したMacBookを妻に、私は新しくMacBookを購入することになり、そのためのデータ移動や調整作業はまとまった時間が必要で、このGWのタイミングでなければ絶対に無理と判断し、片付けものの傍らで平行しながらやっていたからです。

パソコンの作業は、ソフトのインストールやデータのコピー中など、手が空く時間があるので、その間に部屋の片付けをやるという離れ業(笑)をやったので、身も心もヘトヘトでした。

この間このmixiの日記も再びストップしてしまったので、また体調を崩したのかと心配して下さった方もあったようですが、そうではありません。

パソコン3台を調整していたので、その作業の最中にインターネットに接続し、mixiの日記を書き込むことはたしかに大変なことですが、できないことではなかったのです。

でも、いつも日記を書き込んでいる日付が変わる時間のあたりは、その気力がまったく残っていませんでした。

それならば、朝起きたときにやればヨカッタわけですが・・・

引っ越しや片付け(+パソコンの調整)はとてもエネルギーを消耗し、文を書くということはある程度のエネルギーがないと出来ないという事を改めて思いました。

posted by 21:38comments(0)trackbacks(0)pookmark





子どもたちの服薬でのらくだ的対応

寺子屋塾では、単に勉強が出来るだけでなく、「勉強しなさい!」と言わなくても、自分から進んで勉強するボランタリーな人間が育つように、と考えています。

らくだメソッドを採用しているのは、この教材が、そうした指導をする上で非常に有効だと考えているからですが、なぜ、「勉強しなさい」と言わなくても、進んで勉強するようになるような指導が可能かといえば、昨日のインタビュー記事にもありますが、その秘密は、学習記録表の存在にあります。

学習した結果を記録表に記入していくことで、自分の学習状況や、現在のポジションが見えやすくなるからです。その情報をもとに、これからどうするか、ということを相談するため、私が「勉強しなさい」と命令しなくても、自分の課題に対してこれからどうすればいいかということが、学習していくプロセスで、だんだん自分で判断出来るようになっていくからです。

このことは、いろんなことに応用が可能です。

たとえば、昨年12月にとよおかクリニックへ家族ででかけて以後は、家族全員が毎日漢方薬を服用しているのですが、食前に2種類、食後に1種類というふうに、飲む漢方薬の種類、分量が多く、子どもたちは、薬をのんだかどうかを確認しないとなかなかのみません。

でも、だからといって、ずっと「薬飲んだ?」って確認し続けるのは大変ですし、良くないところを治そうという風に自分自身が自覚していないと、治りも遅くなります。

それで、まわりの大人が確認しなくても、子どもたちが自分から進んで薬を飲むようになるにはどうしたらよいか、ということで考えついたのが、写真1の記録表です。

とりあえず、10月いっぱいは、まわりの大人が薬を飲んだかどうかを確認するのを止め、飲んだらこの表に丸印を書き入れるということで、様子を見ようと提案しました。

11月になったときに、どれだけこの表に丸印がついているか確認し、その後どうするかについては、その時点で相談しようと思っています。

posted by 23:29comments(0)trackbacks(0)pookmark





直接会って話すことって大事ですね〜

今日は午前中に、私が昨年度から評議員を務めている(・・・といっても、名ばかりなので、それらしき役割をたまには果たさねばと思いもあり・・・)愛知県犬山市にあるNPO中間支援団体のしみんていを訪ね、専務理事の川島典之さんと懇談しました。

昨年度から講師を務めさせてもらっているNPO・ボランティア団体リーダー養成セミナー(初級編、中上級編の2コースあり)のことや、審査委員を務めさせてもらっている犬山市市民活動助成金のことだけでなく、私の方からも、しみんていや犬山市に向けて、幾つかの提案をさせて貰いました。その中味については、もし今後それが具体的になるようなことがあれば、この日記で触れることになると思うので、楽しみにしていて下さい。

午後からは、上記で紹介しているセミナーの中上級編にあたる「集団創造化セミナー」を受講して下さった中西由美さんが代表を務めるNPOまみーぽけっとの「ふらっとルーム」を覗いてきました。

まみーぽけっとのある丹羽郡大口町は犬山市の南西隣にある小さな町です。4人のメンバーの方々とあれこれとりとめのない話をしていたのですが、2時間ほどアッと言う間にすぎてしまい、楽しいひとときでした。

それにしても、そこに書いてあるのですが、「天命」とか「文明法則史学」といった、どちらかといえばマニアックな話(笑)が、子連れのお母さんたちの集まりの中でできるとは夢にも思いませんでした。「オーラの泉」が、ゴールデンタイムで放映されるような世の中なのですから、時代は変わっているのかもしれません。

その後は、名鉄扶桑駅まで車で送って頂き、上小田井駅で地下鉄鶴舞線に乗りかえ上前津まで。地域の未来・志援センターの事務所を訪れ、6〜7日に名古屋で行った講座のふり返り、精算、今後のことについての相談をしました。

また、先般公募が始まった、モリコロ基金に応募する事業についても相談し、事務所を後にしたのが夜の8時半頃、家へ到着したのが10時半でした。

朝8時に家を出て、沢山の人とお会いして話し、夜遅く帰宅した1日でしたが、不思議とほとんど疲れを感じず、却って皆さんからエネルギーを戴けたような気がしました。

会って直接話す事の大事さ、ということを実感した1日でした。

posted by 23:57comments(0)trackbacks(0)pookmark





次男の運動会でした

3連休初日の今日は、次男の通う小学校で運動会がありました。

昨年までは兄弟が出場していた運動会も、長男がこの春に中学校へ進学して小学4年生の次男一人になりました。

長男はお昼まで部活があり、午後からの参加。

また、いつも一緒に参加している父母も、今日は旅行中で、妻と二人だけの運動会参観となりました。

また、今日は天気が良かったのですが、午前中のプログラムの途中で15分休憩時間を設け、生徒全員が一度教室に入って、涼しい風に当たるという、今までになかったことがありました。

気温が高かったからか、熱中症対策ということなのでしょう。

次男の参加競技のうち、短距離(80メートル)走は、昨年トップだったのですが、今年は5位。

もう少し体重を落としたほうがよさそうです・・・

posted by 23:53comments(0)trackbacks(0)pookmark





集団創造化セミナー第4回 無事終了!

この連続講座もそろそろクライマックスを迎えるわけですが、6月23日と26日の日記に書いたように、第4回の今日はマーケティングゲームをやりました。

このゲームは、初回にやったインタビューゲームの応用形の一つなんですが、やってみると、このツールはナカナカのスグレモノだということが解ると思います。

インタビューゲームの20分間ひたすら聞き続けるという体験も、参加されたほとんどの方が経験されたことがなかったと思うのですが、今回のように、同じテーマの質問を4人に聞いてみるという体験も日常生活の中ではまず無く、そこで大きな気づきが生まれます。

初回にインタビューゲームを体験されていた方がほとんどでしたので、導入は比較的スムーズに行きました。また、できるだけ多くの人に、自分の設定したテーマについて話を聞くという体験をして頂きたかったので、1人7分という時間でやりました。

7分なら何とか4クール(4人の人に聞くことが)できるからです。7分はちょっと短かすぎるかなとも思ったのですが、杞憂に終わりました。

1回目は短すぎて上手く聞き出せなかったような方も、繰り返すうちに、自分の聞きたいことを短い時間で相手から引き出すコツのようなものがだんだん解ってくることも多かったようです。

そういう意味で、繰り返しやってみることは、学習の上でとても大きな要素ですね。

それから、今回は、1回目のインタビューゲームでは敢えてやらなかった、90度のポジショニング(相手と90度の角度で座る、室内の机の角度をランダムにバラバラにする)という試みをやってみたのですが、非常に話しやすかったようで、バッチリ効果的に働いたようです。

4人の方へのインタビューが終わった後は、集めた情報を、簡易情報集約法というやり方で整理・編集するわけですが、これも殆どの方が体験されたことがなかったようで、「こんなやり方があるのか!」「これは使える!」と思って下さった方が多かったようです。

以下、参加された皆さんの感想文です。

---------------------------------------------------------------------
      第4回をふり返っての感想、気づきなど
---------------------------------------------------------------------
●マーケティングゲームは難しいと思って取り組みましたが、説明をして頂いたことで少し理解ができ、話ができました。データ集約も記入でき、全体が形作れました。コミュニケーション力が身につきつつあることを実感しています。

●自分の今持っている悩みの一部をマーケティングゲームで解消方法のヒントとしてもらうことができました。良かったです。

●少ない体験でも、少しずつ進歩しているような気がする。話の聞き方、話し方、話の理解の仕方、会議の理解・・・まだまだわからないことも多いが、少しずつ前に行っているので、体験をつみかさね、理解していきたい。グループの人が毎回変わるのも、いろいろな人の意見が聞けて助かります。

●初めての参加でありましたが、前回までの内容を更に発展させたような内容で、ついていく事だけで精一杯でした。ただ、一度目の参加でも身についたスキルは大きく、初回から参加できなかった事が悔やまれます。もし、来年度も開講して頂きますと、初回より参加したいと思いますので、その時はよろしくお願いします。

●インタビューなのに、自分の方が聞き手より多く話していました。自分の中にしか答はないのでしょうか(というか、納得できる答を探してしまっているのではないかが心配です)。今、学校で、保険に入る、家を買う、などの実社会体験を学ばせるプログラムが行われているようですが、そんなことより(小さな大人を作るより)こんな風に、他人とコミュニケーションをとる、自分の内面を見つめるといったプログラムを味わわせてあげたいと思います。

●何をどうするかわからなかったけれど、4回目にして何か見えてきた気がします。もっと具体的に、実践に活かせるように勉強したいです。

●「マーケティング」・・・想像以上にいっぱいの視点、切り口をいただけました。そして、それを「いいモノだ」って流さないで、「素材」として活かす → 設計するというところがすごいし、これならやれるって型になってるな〜って思いました。

●7分間で相手から情報を聞くことがとっても難しかったです。情報を素材データに書くことによって、問題点が明確になりました。先生の言われることも1つずつ納得というか、気づかされます。せっかく先生にお知り合いになれたので、この出会いを大切にしていきたいと思います。これからもよろしくお願い致します。

●聞くことの大切さを思いました。マーケティングの心象図やデータのまとめ方が難しかったです。

●今日、マーケティングをして、いろいろ気づいた点が有りました。一つは、最初の質問者に聞いたときには、自分でもどんなことが聞きたいのかちょっと曖昧だと思いながら質問していたのですが、相手が変わっていくたびに、自分がどんなことを聞きたいのか、ということがハッキリしてきて、それがとっても面白かったです。
 また、実際に人と話すことで、改めて会話というのは難しいなと思いました。あれだけ話者が言っていることと、聴者がきいていることがズレるということを言われていても、実際に会話をすると、見事にズレているなと思うことがありました。それを上手に修正していったり(とくにそんなに親しくない方と)する練習ができたなと思います。
 会話中にもっと違ったことが聞きたいと思っても、話がズレていると思っても、無理に会話を修正しようとせずに、会話を楽しむことが大切だなと思いました。

●マーケティングでは思っていた以上にいろいろな視点からの意見を聞くことができて良かったです。自分もマーケティングをするということで、相手に答える時にも真剣に考えることができたように思います。お互いに聞き合うという形式がゆえだと思います。

●複数の方から、情報収集することで、貴重な意見が伺えました。さらにワークシートでまとめてみると、具体的に取り組んでみたいことが明確になり、自分ひとりでデザインするよりも、手ごたえのある企画が実現できそうです。有難うございました。

●これからの仕事の助けや心の助けになる話が聞けてよかったです。次回のまとめで自分がどこまで身についたか再確認できるのが楽しみです。まとめ方のコツが話してもらえなかったのが少し残念でした。

●素材データの書き出し、ランク分け、集類は、効率的に企画を立てるためにはどうすればいいかを考えて何気に取り組んでいた作業だったので、今回のワークを通じて実感を持つことができました。
 多くの方に意見を聞くと、思いもしなかった意見がでるので、会議(グループ討議)を上手く進める手法や、ファシリテーションの必要性を感じました。今回はあまりつかれませんでした。楽しく行えました。

●集団創造化とマーケティングのつながり方難しいですね。しかし、マーケティングで自分の求めていることが纏められることを学んだ。大変役立つと思うので有り難い。

以上

posted by 23:48comments(0)trackbacks(0)pookmark





「まゆつば物語」より

まゆつば物語

とよおかクリニック豊岡先生の東京の相談会が、先生の事情で、6月で終わったとの事です。
http://www.9393.co.jp/toyooka/kako_toyooka/2007/07_0627_toyooka.html

※現在豊岡先生は青森の病院を閉院し東京で相談会を続けて居られます(2008.7.27追記)

このコラムを読んでみて、

1.寝室を片づける
2.衣服のタグ、洗濯表示を切り取る


ということが大事だと書かれているのですが、半信半疑な姿勢ではダメで、やっぱり徹底してやらないといけないんだということを改めて思いました。

前にも書いたのですが、寝室を片づけるというのが大事だという話は、昨年の8月に先生のコラムを読んで知っていたのですが、私自身が本気でそれを実践したのは、今年のGWになってからのことでしたから、何と8ヶ月以上もかかっているのです。

GWに寝室にあった柱時計と天井の蛍光灯をはずして以後は、それ以前に比べて格段に体調が良くなって、それまで全体的には良くなってきている実感はあっても一進一退だったのが、この2ヶ月間は本当に安定し、体調を崩したり、落ち込んだりすることが全くなくなったのですから。

こればかりはやってみた人にしか分からないでしょうね。

朝起きたときに「体調がよくないな〜」と思う人は、まず寝室、そして家の中の電磁波対策を実行してみるといいですよ! 面倒くさいことではあるけれど、お金はほとんどかからないので。

豊岡先生唯一の著作である「まゆつば物語」も、もう多分5〜6回は読んだと思うのですが、それでもまだ読むたびに発見があります。また読み直して、気づいたことを実行していこうと思います。

以下、「まゆつば物語」から引用です。

 ある患者さん、小脳の異常で歩行がぎこちない。ヘルペスウィルスの感染があるのです。そのヘルペスの感染を葛根黄連黄今湯などで取ってしまいました。歩行はがぜんよくなったのです。ところが、ある時どうもまたぎこちなくなっているのです。調べてみると小脳に異常はないのですが。
 ところが、ご主人のがみがみ怒ることが大嫌いで、言い返すことができないため、いらいらがものすごくつのるのです。その日も、納得のいかないことで、がみがみ怒られて、私の所に来ました。小脳のO-リングテストをしてみると異常なし。そこで、ご主人のことを思い出すと、頭のどのあたりがおかしくなるかと聞きました。小脳を含めた後頭部全体なのです。そこで、ご主人のことを思い出してもらうと、いままでO-リングテストが閉じていた小脳も途端にぱかっと開いてしまうのです。思い出すことを止めると、途端にまた閉じる。思い出すとまた開く。何度やっても同じです。ご主人のことを思い出すと身体が金縛りにあったように動かなくなると言います。まったく一致するのです。そこで、ご主人のことを思い出してもらい、O-リングが開いた状態で、どの薬が効くかを調べました。それは、柴胡桂枝乾姜湯でした。
 どうですか。みなさん。こういうこともあるのです。おもしろいですね。気のせいで悪くなるのでなく、本当に悪くなるのです。いやだなと思う身体に変化を来して悪くなるのです。がみがみ言うご主人、口うるさい奥さん、そういう人も病気の原因になる。心の負担が、身体の病気をつくる。いろいろなトラブルが、いろいろな病気をつくる。息、食、動、想、環境。この5つが自然の法則に反した時、病気が生まれてくるし、これを守っていれば、病気はひとりでに退散です。何もしないのではなく、この5つを、気取らず、気張らず、守るとよくなるように人はなっているのです。
 いやそうじゃない、と思う人、手紙をよこして。待ってるよ。



講演録「教えない教育、治さない医療」で、山下剛先生が、「病気にはプロモーターさんがいる」という話をされていて、のことともつながるんですが、「ご主人の事を思い出すとOリングが開いてしまう」という所を読んで、思わず大笑いしてしまいました。

プロモーターといえども、けっしてそのご主人ばかりが悪いわけではなく、奥さんがもともと持っていた病気の素因をたまたまご主人がきっかけとなり、増幅して引き出しただけのことです。人間関係というのは、そうした互いの存在が鏡になって、そのことで双方が何かを学んでいくように仕組まれているというか、仏教でいう「因縁」という言葉に近いようにも思います。

息、食、動、想、環境の5つを「気取らず」「気張らず」守るというのが大きなポイントのようです。気張らずというのは、自然の身振りとして、淡々と、日常的に、ということで、これは私が今まで大事にしてきた考え方と全く一致しますし、寺子屋塾で実践している教育方針そのものでもあります。

問題解決のカギは日常の中に潜んでいるのです。

でも、そうした日常の一つ一つを疎かにせず大事にするというのは、あまりにあたり前すぎるというか。平凡でインパクトがないんでしょうかね〜。だからこそ、伝え方を工夫しないといけないということなのでしょう。

posted by 20:51comments(0)trackbacks(0)pookmark





高橋悠治さんから学んだこと


6時13分起床 雨 オグリ散歩はお休み

昨日の日記の最後に紹介したのは、
高橋悠治さんが1976年にポリドールに録音した
"YUJI PLAYS BACH"のCDでしたが(ジャケットの写真が若い!)
そのアルバムには、ライナーノートとして
「編曲について」と題された悠治さんの文章が収められています。

昨日の日記で紹介した私の文章の元ネタをばらすようですが、
その悠治さんの文章から一部分を抜粋して再構成し、
以下に紹介します。

-------------------------------------------------------------------------------
 音楽はいま、ここにひびくものであり、死人がのこしたインクのしみではない。だから、他人の作品を自分用につくりかえるのは、他人の音楽を引用記号でかこむことで、これは演奏の根本的な態度であり、編曲はそのための一つのやり方と言える。また、編曲やかきなおしは音楽をならうためのいちばんたしかな方法でもある。梨の味は食べてみなければわからない。あるがままの音楽をみるだけでは、音楽のことはわからない。
 演奏家ときき手の結びつきも忘れてはならない。演奏家がそれぞれの音と感じ方をもつ人格であり、演奏技術が機械でもまにあうようなできあいの手つづきでないとすれば、きき手も闇の中で耳をそばだてる顔のない動物ではなく、同じ音楽の光の輪の中にいる友人たちなのだ。
 バッハはすぐれた編曲者だった。当時の作曲家の作品をかきうつすことからはじめ、ヴィヴァルディを鍵盤用にかきなおすことなどによって音楽をならったのだろう。自分の作品も機会に応じて何回もかたちを変える。「マタイ受難曲」の半分は前にかいたもののかきなおしだといわれる。その中心をなすコラールは、レオ・ハスラーのかいたものをかえてつかったのだ。それらのかきなおしは、ある曲をちがう楽器にうつすだけではなかった。その楽器をうけもつ演奏家のひとりひとりを予想し、それをきくひとたちのこともかんがえあわせて、ディテールがきめられる。フレーズのくぎりも、強弱もかきこまれていない楽譜は実際には大変精密であり、しかも最終的なかたちではない。それはやがてだれかの手がくわえられ、ふたたび姿をかえて生きのびることをもとめている。
 作曲とは、すでにあるひびきを一般化し、違うものにかえてゆく工作ではないだろうか。編曲はこの手つづきを何倍にもふやす。編曲されることを予想する作曲は、できるだけ簡単なかたちでかきとめなければならない。作曲家がすべてのデティールをうずめて編曲のたのしみをうばうことはゆるされない。余白の部分にいちばんうつくしいディテールがだれかの手でつけたされる。音楽はそれをつかうみんなのものだ。(1976年7月)
--------------------------------------------------------------------------------

私は、18歳という、いわばもっとも多感な時期に
高橋悠治さんという人と出会えたことで、
「今の時代をどう生きるべきか」ということについて、
どんなに多くのヒントや指針を頂いたかわかりません。

たとえば、次のようなことなどがそうです。

人間は社会のさまざまな制度の中で押しつぶされている。
そこには2つの生き方があり、
それは体制に「順応する」生き方と、「外れていく」生き方である。

「順応する」生き方は、この世的には恵まれて
最初は良いかもしれないけれど、
そのうち順応に疲れ、だんだん苦しくなって、
「気がついてみればリストラされていた」ということもありえる。

一方の「外れていく」生き方は、
この世的にはさほど恵まれないが、生き方としては自然で楽である。

ただし、世の中の中心から周辺の方に押しやられる運命にあって、
あまり外れすぎると「使いものにならない人」として、
本当にスポイルされてしまう。

だから、「順応する」のでもなく、
かと言って「外れすぎる」のでもなく、
その周辺でバランスを取りながら生きていくのが、
いまの社会に対する一つの抵抗のあり方である。

・・・というようなことを私は彼から学んだと思っています。

また、今の私は音楽が本業ではないのですが、
それでも私が今やっていることは、
悠治さんが音楽を通じてされていることを、
別のフィールドでやっているようなところがあるのではないかと。

30年前に悠治さんが書いた文章をこうしてタイプしてみて、
そんなことを思いました。

posted by 23:19comments(0)trackbacks(0)pookmark





学習活動の自立化と日常化

5時50分起床 雨 オグリ散歩お休み

「寺子屋塾の理念である“学習活動の自立化と日常化”って
いったいどんなことですか?」とある方から問われたのですが、
次のような話をしていました。

明治になって西洋から学校教育のシステムが輸入され
導入されて以来、私たちは、すっかり教えられることに
慣れてきてしまったように思うんですね。

義務教育によって誰もが小中学校へ行けるようになった一方で、
不登校やいじめなどの問題も生まれてきています。
現在、高校進学率は97%弱になっていますが、
一方で高校中退者は年間10万人を超えています。
つまり、教育環境が整備されればされるほど、
教育が破綻し、荒廃するという現象がもう一方で起きています。
だれもが教育を受ける権利を有しているということが、
いつの間にか、子ども(人間)は教えないと学ばないという風に
間違って受け取られているのではないでしょうか?

また、私は学校教育が整備されすぎてしまったことによって、
家庭や地域社会が本来持っている教育の機能が相対的に低下し、
その能力を発揮できないようになっているのではないか、
というような問題意識をもっているんですね。

それで、学校に行くことで、学習というものが、
先生から教えてもらうという受け身の姿勢になっていることや、
子どもたちの教育を学校や塾などに人任せにしてきた姿勢を
再考するということを「自立化」という言葉で表現した次第です。

「学校中心主義からの脱却」「教育者中心から学習者中心へ」
「受動的な学習から能動的な学習へ」「学び方の転観」
と言い換えればわかりやすいでしょうか?

それから、「日常化」についてですが、学ぶことは特別ではなく、
日常生活の当たり前のことと感じられるようにしていく、
ということです。

つまり、もし生活することが学習であり、
学習することがそのまま生きることとイコールであるという
価値観、人生観を多くの人が持てたのならば、
高邁な教育目標を立てることや、さまざまな教育改革の施策も、
それほど大きな必要性を感じないのです。

必ずしも学校は人間にとってなくてはならないものではない。
人間は、いつでもどこでも何歳からでも学べるし、
何からでも誰からでも学べるのですから・・・

また、教育はあくまで人と人との関係性の中での営みですから、
どんなに理想的な教師がいても、理想的な教育が行われても、
そのことで理想的な人間が育つという保証はありません。

たとえば、学びたい人から、学びたいことだけしか学べないのなら、
人間として偏りが生まれてしまう危険性があります。
学びたい人から学びたいことを学ぶ一方で、
学びたくない人からも、学びたくない人とともに、
学びたくないことも学ぶことが必要だという風に考えれば、
先生を選べないなどの理由で何かと批判が多い公立の小中学校も、
「違いと出逢う」という意味で、
最高の学習環境かもしれないと思うのです。

教室だけでなく、街中至る所が、生活の場全てが学校なのです。
学習の場というものを学校の教室という狭い場所だけに押し込めず
もっともっと広く考えていこうというのが
「(学習活動の)日常化」ということの意味です。

posted by 23:51comments(0)trackbacks(0)pookmark





指導者としての関わり方について

6時51分起床 小雨 オグリ散歩:川越墓地まで
BGM:メシアン「アーメンの幻影」
    アルゲリッチ&ラビノヴィッチ(2台ピアノ)

GW前は肌寒かったので、
冬から春を通り越して、いきなり梅雨になったような昨今ですね。

先般、らくだ教材の話を2回に分けて書きましたが、
「寺子屋塾では何を教えているんですか?
どんな指導をしているんですか?」と聞かれるのが一番困りますね〜

たとえば、らくだ教材の場合、算数のプリントを使っていても、
算数の勉強を教えたいと思っているわけではないですし、
基本的に「教えない」スタイルをとってはいるものの、
だからといって教えたいことが全くないわけではありません。

また、指導というのは、先般も書いたように
本当に個別対応なので、人によって違うとしか言えないからです。

先般行った会社ゲームも重要な学習ツールの一つですが、
それを体験して気づくことや学べることは余りにも多すぎて、
簡単に一言では言い尽くすことができません。

そんなことで、上記のようなご質問を戴いたときにも、
それこそ、その人がどんな答を求めておられるかによって、
答え方を変えるしかないわけですが。。。

ただ、指導ということについて、
いくつか私が心がけていることはあります。

学習者は「自学自習、自問自答」が基本姿勢であり、
指導者は「押しつけない、強制しない、命令しない」という
スタンスが基本なのですが、放任ということとは違い、
何でも好き勝手にやらせておく、ということではありません。

それで、「問題が起こりやすい環境を用意しながら、
自分の課題を自覚し、解決方法を自分で見つけられるように、
指導者自身も鏡の役割に徹するようにして、モデルを示さない」
ということが必要になってきます。

日本語の「鏡」という言葉にはいくつか意味があって、
「お手本」という意味もあるのですが、この鏡は、
自分の姿を見るための、反射鏡の機能(反面教師)の方です。

とくに私などは八方美人的で基本的にイイ格好しいですから(笑)
人からは良い人だと思われたいし、
ついつい他人の良いお手本になろうとしてしまいます。

そこで、それをぐっとこらえ、私の言うなりにならないように、
ときには、できそうもないような無理難題を提案してみたり、
理解できないことを承知の上で、
膨大な情報を機関銃のように浴びせかけたりすることもあります。
(もちろん、誰に対してもそうするということではありません)

人間だれもが偏りを持っていますから、
その偏りや個人的な価値観を他人に押しつける様な教育では、
盲信者や追随者を生み出すだけですし、
教師と生徒の相互依存関係の中からは、
新しいものは何も生まれません。

自分のコピーを大量生産しても、仕方ないのです。

もちろん、教えることで上手く行っていた時代もありましたし、
そうすることが必要な時期もあったのですが、
いま時代は、旧来のシステムや価値観が崩れて
新しいシステムや価値観をつくって行かなければならない
タイミングに来ているので、そのやり方には限界があるのです。

一方的に何かを教える、伝えるというのではなく、
自分の中に「ゆらぎ」が起きるように関わる、といったら
わかりやすいでしょうか?

そもそも私は人様に向けて何かを説ける様な
立派な人間ではありませんから、
「この人のお陰で自分は立派な人間になれた」
などと生徒から思われてしまったら最悪だと
肝に銘じるようにしています。

学習者本人が本当にしたいことは何なのか、
自分の姿や自分の道を、心の深いところで、
自分自身で見つけられるように手助けしていくことしか
できないと思っています。

勉強ができるようになりたいと思っていない子どもは
この世の中に一人もいないし、
どんなに行き詰まっても、
それを乗りこえる力は、その子その人の中に、
元々備わっているのですから・・・

posted by 23:39comments(0)trackbacks(0)pookmark