往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。


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学習活動の自立化と日常化

5時50分起床 雨 オグリ散歩お休み

「寺子屋塾の理念である“学習活動の自立化と日常化”って
いったいどんなことですか?」とある方から問われたのですが、
次のような話をしていました。

明治になって西洋から学校教育のシステムが輸入され
導入されて以来、私たちは、すっかり教えられることに
慣れてきてしまったように思うんですね。

義務教育によって誰もが小中学校へ行けるようになった一方で、
不登校やいじめなどの問題も生まれてきています。
現在、高校進学率は97%弱になっていますが、
一方で高校中退者は年間10万人を超えています。
つまり、教育環境が整備されればされるほど、
教育が破綻し、荒廃するという現象がもう一方で起きています。
だれもが教育を受ける権利を有しているということが、
いつの間にか、子ども(人間)は教えないと学ばないという風に
間違って受け取られているのではないでしょうか?

また、私は学校教育が整備されすぎてしまったことによって、
家庭や地域社会が本来持っている教育の機能が相対的に低下し、
その能力を発揮できないようになっているのではないか、
というような問題意識をもっているんですね。

それで、学校に行くことで、学習というものが、
先生から教えてもらうという受け身の姿勢になっていることや、
子どもたちの教育を学校や塾などに人任せにしてきた姿勢を
再考するということを「自立化」という言葉で表現した次第です。

「学校中心主義からの脱却」「教育者中心から学習者中心へ」
「受動的な学習から能動的な学習へ」「学び方の転観」
と言い換えればわかりやすいでしょうか?

それから、「日常化」についてですが、学ぶことは特別ではなく、
日常生活の当たり前のことと感じられるようにしていく、
ということです。

つまり、もし生活することが学習であり、
学習することがそのまま生きることとイコールであるという
価値観、人生観を多くの人が持てたのならば、
高邁な教育目標を立てることや、さまざまな教育改革の施策も、
それほど大きな必要性を感じないのです。

必ずしも学校は人間にとってなくてはならないものではない。
人間は、いつでもどこでも何歳からでも学べるし、
何からでも誰からでも学べるのですから・・・

また、教育はあくまで人と人との関係性の中での営みですから、
どんなに理想的な教師がいても、理想的な教育が行われても、
そのことで理想的な人間が育つという保証はありません。

たとえば、学びたい人から、学びたいことだけしか学べないのなら、
人間として偏りが生まれてしまう危険性があります。
学びたい人から学びたいことを学ぶ一方で、
学びたくない人からも、学びたくない人とともに、
学びたくないことも学ぶことが必要だという風に考えれば、
先生を選べないなどの理由で何かと批判が多い公立の小中学校も、
「違いと出逢う」という意味で、
最高の学習環境かもしれないと思うのです。

教室だけでなく、街中至る所が、生活の場全てが学校なのです。
学習の場というものを学校の教室という狭い場所だけに押し込めず
もっともっと広く考えていこうというのが
「(学習活動の)日常化」ということの意味です。

posted by 23:51comments(0)trackbacks(0)pookmark


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