往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。


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指導者としての関わり方について

6時51分起床 小雨 オグリ散歩:川越墓地まで
BGM:メシアン「アーメンの幻影」
    アルゲリッチ&ラビノヴィッチ(2台ピアノ)

GW前は肌寒かったので、
冬から春を通り越して、いきなり梅雨になったような昨今ですね。

先般、らくだ教材の話を2回に分けて書きましたが、
「寺子屋塾では何を教えているんですか?
どんな指導をしているんですか?」と聞かれるのが一番困りますね〜

たとえば、らくだ教材の場合、算数のプリントを使っていても、
算数の勉強を教えたいと思っているわけではないですし、
基本的に「教えない」スタイルをとってはいるものの、
だからといって教えたいことが全くないわけではありません。

また、指導というのは、先般も書いたように
本当に個別対応なので、人によって違うとしか言えないからです。

先般行った会社ゲームも重要な学習ツールの一つですが、
それを体験して気づくことや学べることは余りにも多すぎて、
簡単に一言では言い尽くすことができません。

そんなことで、上記のようなご質問を戴いたときにも、
それこそ、その人がどんな答を求めておられるかによって、
答え方を変えるしかないわけですが。。。

ただ、指導ということについて、
いくつか私が心がけていることはあります。

学習者は「自学自習、自問自答」が基本姿勢であり、
指導者は「押しつけない、強制しない、命令しない」という
スタンスが基本なのですが、放任ということとは違い、
何でも好き勝手にやらせておく、ということではありません。

それで、「問題が起こりやすい環境を用意しながら、
自分の課題を自覚し、解決方法を自分で見つけられるように、
指導者自身も鏡の役割に徹するようにして、モデルを示さない」
ということが必要になってきます。

日本語の「鏡」という言葉にはいくつか意味があって、
「お手本」という意味もあるのですが、この鏡は、
自分の姿を見るための、反射鏡の機能(反面教師)の方です。

とくに私などは八方美人的で基本的にイイ格好しいですから(笑)
人からは良い人だと思われたいし、
ついつい他人の良いお手本になろうとしてしまいます。

そこで、それをぐっとこらえ、私の言うなりにならないように、
ときには、できそうもないような無理難題を提案してみたり、
理解できないことを承知の上で、
膨大な情報を機関銃のように浴びせかけたりすることもあります。
(もちろん、誰に対してもそうするということではありません)

人間だれもが偏りを持っていますから、
その偏りや個人的な価値観を他人に押しつける様な教育では、
盲信者や追随者を生み出すだけですし、
教師と生徒の相互依存関係の中からは、
新しいものは何も生まれません。

自分のコピーを大量生産しても、仕方ないのです。

もちろん、教えることで上手く行っていた時代もありましたし、
そうすることが必要な時期もあったのですが、
いま時代は、旧来のシステムや価値観が崩れて
新しいシステムや価値観をつくって行かなければならない
タイミングに来ているので、そのやり方には限界があるのです。

一方的に何かを教える、伝えるというのではなく、
自分の中に「ゆらぎ」が起きるように関わる、といったら
わかりやすいでしょうか?

そもそも私は人様に向けて何かを説ける様な
立派な人間ではありませんから、
「この人のお陰で自分は立派な人間になれた」
などと生徒から思われてしまったら最悪だと
肝に銘じるようにしています。

学習者本人が本当にしたいことは何なのか、
自分の姿や自分の道を、心の深いところで、
自分自身で見つけられるように手助けしていくことしか
できないと思っています。

勉強ができるようになりたいと思っていない子どもは
この世の中に一人もいないし、
どんなに行き詰まっても、
それを乗りこえる力は、その子その人の中に、
元々備わっているのですから・・・

posted by 23:39comments(0)trackbacks(0)pookmark


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