往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。


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自己決定とは自分だけで決めないこと

安心して絶望できる人生

向谷地生良さんが書かれた「安心して絶望出来る人生」(NHK生活新書)には、べてるの家の「当事者研究」について触れたところで、「自己決定とは、自分だけで決めないこと」というフレーズが出てきます。

この文章だけを読むと???な表現ですが、その前後をよく読めば、世間でよく言われる「自己決定」「自己責任」という言葉に感じる違和感も明確に表現されているので、その言葉が意味するところが理解できるのではないでしょうか。

たとえば、もし他者から一方的に決めさせられた自己決定までを「自己決定」と呼ぶのならば・・・つまり、「あんたが決めたんだから、責任もあんたがとりなさい」というような、自己決定のプロセスそのものに対等ではない人間関係が潜んでいるわけですから、自分で決めたかどうかということ以前に、そのことで浮き彫りにされる関係性こそを問題にすべきでしょう。


向谷地さんと初めて出会ったのは、わたしが寺子屋塾を始める少し前の1992年のことです。

よって、べてるの家の活動からは随分影響をうけましたし、寺子屋塾が開塾当初よりコンセプトとしてきた「セルフデザインスクール」は、べてるの家の「当事者研究」と重なる部分が大きいです。

「安心して絶望出来る人生」も寺子屋塾推薦図書としてとても重要な1冊で、ここには犁羔砲離侫.轡螢董璽轡腑鶚瓩箸任盡世┐覺悗錣衒が語られています。

まだお読みでない方は、ぜひ手にとってご覧になってみて下さい。

以下の文章は本書よりの引用です。
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・・・しかし、「当事者研究」とは、この活動によって専門家の関与が不要になったり、影響力を排除することを意図したものではありません。「自分自身で、ともに」の理念にある「共に」の中には、当然のように専門家との共働と連携が含まれます。けれど大切なのは、専門家の持っている知識や技術と、当事者自身が持っている経験や知恵は、基本的に対等であるということです。そこに優劣はありません。そのことを通じて、専門家も当事者も本来の役割を取り戻すことができるのです。
ここで、どうしても触れておかなくてはいけないのは「当事者研究」における「当事者」の意味についてです。精神障害者も含めて障害者は、長い間、「自分のことは、自分が決める」という基本的な権利を奪われてきた人たち(『当事者主権』中西正司・上野千鶴子著 岩波新書)であるといえると思います。俗にいうこの「自己決定」の視点は、今や、あらゆる福祉サービスやケアの大原則として広く普及しています。その自己決定論を背景として専門家が当事者とかわす言葉の中に、「あなたはどうしたいの……」という問いかけが、あらゆる場面で見受けられるようになりました。しかし、その問いを投げかけられた当事者の多くは、「自分が決めたのだから、その結果責任はあなた自身が背負うことになります」という背後にあるメッセージに緊張を覚え、恐怖を感じるといいます。
実は、浦河では全く正反対のことが、当時者性の原則として受け継がれてきました。それは「自分のことは、自分だけで決めない」ということです。それは、いくら「自己決定」といっても、人とのつながりを失い、孤立と孤独の中での「自己決定」は、危ういという経験則が生み出したものです。
それは、自分自身が最も力を発揮できるのは、自分の無力さを受け入れ、さまざまなこだわりやとらわれの気持ちから解放され、自分自身と人とのゆるやかな信頼を取り戻すことができたときだということを、知っているからです。
自己決定とは「自分だけでは決めない」という、人とのつながりの確かさがあってこそ、成り立つ態度ということもできます。その意味で「当事者」であるということは、単に医学的な病気や障害を抱えたことのみをもっていうのではなく、自分自身の「統治者」になろうとするプロセスであるということもできます。(向谷地生良・浦河べてるの家『安心して絶望できる人生』P.66〜68より)

posted by Akinosuke Inoue 23:38comments(0)trackbacks(0)pookmark


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