往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。


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らくだメソッドでなぜ算数(数学)が重要なのか

昨年の夏頃のことなんですが、「いつやるか?」「今でしょ」でお馴染みの林修さんが、テレビ番組での発言が、「数学のできない人は、ものを教えるべきではない」と誤解されて、ネットなどで批判が集中したということがありました。

林さんとしては、こちらのblog記事にあるように、「学校(特に高校以上)の勉強を教えるにあたっては、数学ができなかった、それだけならまだしも、少なくとも数学の論理的な思考の世界を楽しいと思えなかった人が、高校生などに教えるのはいかがなものか」という主旨のことを言いたかったらしいのです。

わたしはそのTV番組を見ていたわけではないのですが、前後の発言抜きに切り取られて放映されたようで、林さんの本意を無視したネット論壇でのバッシングの不毛さを指摘しつつ、林さんの発言の正当性について考察したこちらの記事を読んでこのことを知った次第です。

この記事にはわたしも共感するところが多く、寺子屋塾でメイン教材として採用しているらくだメソッドが「なぜ、算数/数学を主要教科として重視しているのか?」という問いともつなげながら、支持するコメントを追記してfacebookでシェアしました。

それで、そうした形でこの記事やわたしの書いたコメントがきっかけとなり、3名と長くディープなやり取りをさせてもらったんですが、そのやりとりの中味がfacebookのタイムラインに流れて行ってしまうのはもったないほどの充実したものでしたので、blog記事という形で再録することをおもい立った次第です。

シェアした記事に書いたわたしのコメントは次のとおり。

●寺子屋塾でメイン教材として採用しているらくだメソッドは、爛札襯侫蕁璽縫鵐悪瓩箸いΤ惱スタイルをとっています。自学自習という言い方をせず、敢えて 造語である爛札襯侫蕁璽縫鵐悪瓩噺世Δ海箸琉嫐を伝えるのは簡単でないのですが、誤解を恐れずにひとことで表現するなら、「先生と生徒の一人二役をやる 学び方」ということです。
この学習に於いては、自問自答・・・つまり自分自身との対話(→先生としての自分と生徒としての自分の対話)が重要ポイントの1つなのですが、もう一つの重要ポイントが、「算数・数学が主軸教科」であることです。
林修氏の「数学(の論理的思考の世界)を楽しかったと思えなかった人は教えるべきではない」という言葉が、「数学が出来ない人が教えるべきではない」という風に誤解されてしまい、ネットなどで批判が集中しているようですが、わたしも林先生の言わんとされたことはある意味正しい!と考える人間のひとりで、 「なぜらくだメソッドの主軸教科が算数・数学なのか?」という問いともつながるように感じながら読んだ次第です。
コンテキストを踏まえた上でコンテンツがはじめて理解できること(コンテキストを無視することが誤解を生む要因のひとつ)など、ファシリテーション講座などで常々話題にしていることなども含まれ、オススメ記事です。


以下、コメント欄でのやりとりです。コメントを下さった方にこうした形で再録することについて了解を得ていないので、Bさん、Cさん、Dさんとさせて頂きました。

Bさん:私は数学は全然得意じゃなかったんですが。。。(笑)
でも、数学の論理的な美しさを好ましく思う人は、人に伝える(教える)言葉でも、わかりやすい言葉を使える人なんじゃないかなと思います。
あることを人に伝えるのに、相手にとって、そして 伝える内容に対して「必要十分」な言葉を選択できるというのは、頭の中が”カオス”では難しいですよね。
「カオスの中から必要な事を拾い上げられる」というのと、「文章全体の意味を考慮しつつ、そこで使われている言葉の意味を、的確に理解する」というのは、伝える側と受け取る側の違いこそあれ、近い能力だなあと思いました。

井上(以下A):学生時代の数学の成績と、論理的思考力に美を感じるかどうかは必ずしも一致しないようですね笑
ハンガリーのマイケル・ポランニーが『人格的な知』という本で「科学は観察の拡張であり、技術は制作の拡張であり、数学は理解を拡張したものである」と書いているんですが、これはまさに数学の本質を突いた指摘ですよね。Bさんが書かれているとおり、「抽象←→具体」という表現の往復が自在にできるためには、土台となる理解力が必要だとおもいます。

Bさん:おもしろいですね。そのたとえを借りると、「教える」ということは、広く言えば、「自分自身の理解(土台となる理解力)」ということがベースに在って、「相手を観察し」、「伝える言葉を選ぶ(制作)」の組み合わせとも言えるような気がします。
まさに 数学+科学+技術 ですね。(笑)

話がずれていきますが、私はイベントに参加するときにそのイベントのチラシの比重ってかなり大きいのです。
そのチラシやパンフレット見ると、そのイベントの主催者の人の、そのイベントにかける意気込みや、参加者への配慮の度合いや、狙いの絞り込みの程度などいろんなことが伝わってきます。(別にチラシの評論するつもりはないのですが、自然に体に感覚として伝わってくるのです)
要旨が三行しか書いてないチラシでも、その三行の言葉の選び方がドンピシャだったりすることもあります。そういうのはチラシの細部まで読まなくても、わたしにとって、まずハズレがないです。
そのイベントでしたいことを三行までに絞り込んである論理性というか、詰め具合がすごいなあと思えて、チラシ見るだけでも結構感動しちゃいます(笑)

A:「教える」ことを支えている要素として、「数学+科学+技術」というものがあるという見方は面白いですね。
マイケル・ポランニーは、一時期はノーベル賞候補になった人なので、学者として優秀だったことはほぼ間違いないのでしょうが、教育者としてのマイケルについて触れた記述について、あまり見かけたことが無いのでよくわかりません。
ただ、教えることと伝えることは、深く関係していると言えますね。チラシ1枚をみて、その作り手がどういうプロセスで何を考え、何を伝えたいのかまで垣間見えることがあるというのは、そのとおりだなぁと。見る人がみれば、何もかもわかってしまう、ということがあるので、伝える側に立つ人は、そういうことを常に意識している必要があるのでしょうし、教えるということについても、同じことが言えるような気がします。

Bさん:井上さんが書かれていること、おっしゃる通りだと思いますが、私にとっては面白いのは、どちらかというと「意識の外」のことです。伝える側に立つご本人が意識していようとしても補いきれないこと。ご本人が意識できること以外で伝わってしまうこと。そういうことがチラシとかを通じて伝わってくるのが楽しいですね。
その人の今までの経験の幅だとか、またその経験値からくる人への思いやりの度合いだとか、目指しているところだとか、どちらかというと、ご本人がチラシに書こうとは思ってないこと、チラシに書いたつもりのないことに惹かれて、「このイベントに行ってみよう!」と思うことの方が自分としては多い気がします。
チラシを読んで、「まだ煮詰め方が足りないんじゃないかな」という印象を持つときは、参加してもそれに近い印象を持つことが多いです。
ほんとチラシって侮れません(笑) ほとんどチラシの部分でそこそこ満腹してますね(笑)

A:Bさんが、面白いのはどちらかというと「意識の外」のこととおもわれたところ、何となくですが、わかるような気がしました。寺子屋塾の学びで大事にしたいこともまさにそこで、スキルとかノウハウとか知識とか、意識できる範囲のものを身につけようとする人が多く、もちろんそれはそれで大事なんですが、実はそれよりもその「意識外」にあるものをどう培うかということが大切なんだよなぁ・・・と改めておもってしまったからです。 (^^;)

Bさん:日本人としての情操の基礎としては、科目は国語になるんでしょうけれど、数学は、世界の共通語的なベースですね。
数学が得意な人は、要約力のある人だと思います。必要十分以上に言葉を付け足していけるのは、国語力ですねw

A:ファシリテーターの役割を果たす人のなかに、デザイン系の仕事を得意とする人や建築などの設計士さんなど、理系の人が比較的多いというのも、論理的思考に美を感じられる人という点でうなずけるようにおもいます。
方向としては数学はグローバリズムというか、横へ拡がって行く方向でデジタル的性格であるのに対し、国語はローカリズムで縦に掘っていく方向でアナログ的性格をもつものなのかなと。そういう意味で数学と国語は対照的と言えますが、表現力というのはその両方のバランスが大事ですね。
あと、Bさんとやりとりしていて思い出したんですが、「教師は五者であれ」という言葉があるそうです。こちらの記事などにあるように、五者とは、「学者」「医者」「易者」「役者」 「芸者」という意味らしく、ひとつひとつ奥が深いので、このすべてをうまくやろうとなると実践が難しいのですが、ひとりの教師がこのスベテを担おうとする必要は無く、教師集団というか教師チームというか、コミュニティを単位に発想していくことが大事なんだと、内田樹さんが本のどこかに書いてました。

Cさん:「仮説」の構成を無視して、一部分だけに反応する、というのは多いですね。
私は、自分が過剰に反応しないようにと考えるのは、「安心してサボれる会社づくり」「弱さを絆に」などなど、べてるの家のキャッチフレーズです。
これらは、理念であるとともに、仮説でもあると思っていますが、あまりに短いので、そこに至るまでのことを理解しようとしないとわかりませんね。
以前、学会で発表をしていた時期がありますが、質問というより、欠点探しや、引きずり落としのようなのもたくさんありました。数学ができる人が論理的とは限らず、必ずしも教えるのには適してはいないという考え方があると思います。
林先生の言葉尻に反応する人は、ネットにもいるし、仮説を仮説として捉えられない人、数学コンプレックスを持っている人、いろんな人がいるんでしょうね。
ネット、テレビでの放送、一方通行的な仕組みでは、どうしようもないのでしょうが、林先生の言いたかったことはわかります。

A:Cさん、部分だけを断片的に語られた情報からは、全体像を類推することしかできないので、本当のことはわからないはずだし判断できないものですよね。 「わかった」と「わからない」の境目はどこにあって、どこまで情報をあつめれば「わかった」と言えるのかというのも、実にあやふやな感覚依存的なものですし。そういう状態で、論理的整合性であるとか、正しいか間違っているかというようなことを議論してもはじまらないとおもいます。文脈、背景(コンテキスト)や、結論に至るまでのプロセスは見えにくいので、すっとばしてしまいがちですが、そうした見えないところに大切なものがたくさん詰まっていますね。

Bさん:あげあし取りをするほどのつもりはなくても、自分のフィルターで、勝手に相手の言ってることを捻じ曲げて受け取ってしまっているときってありますね。本当に自分は相手の言わんとすることをうけとって、それに対しての意見を述べているのかどうかは振り返りが必要ですね(^−^;) 時折自分を振り返って冷や汗かくときがありますw

A:Bさん、普段のコミュニケーションにおいては、「あなたの言いたいことは〜ですよね?」と相手に確認するプロセスが本当に少ないですね。わたしも振り返りの必要性ということを日々痛感しています。

Bさん:そうですね。確認っていうのはほんとに大切なプロセスだと思います。
はたから見て「あの人はそうはいってないんじゃない?」っていうことがかなり明らかな場合でも、自分だけ「あの人はこういってる」って思ってる時ってありますね。
井上さんが書かれてるように、相手に確認すればそれが思い込みだとわかるけど、確認せずに無意識に「こうだ!」って決めつけてしまってるときありますね(冷や汗)w

Dさん:「教える」の対になるのは「できる!」だと思ってます。相手が自分の力でできるようになって初めて教えたと言えると。
逆にできてないうちは、教えたとは言えないと思うのです。
同じ様に、「伝える」の対になるのは「わかる!」だと思うので、相手がわかってないうちは伝えたことにはならないと思います。話しただけで伝わったと思うのも、伝えただけで教えたと思うのも、どちらも勘違いかなぁと…
たとえば、僕が全くわからないポルトガル語や北京語で話をされても内容が全くはわからないんですよね。何かを話してたのはわかっても、内容は理解していないσ(^_^;
でも、相手は話したんだから伝わってると思っている…( ̄。 ̄;)
同じ事が「教える」でもあって、伝わったら教えたと思ってる人や、それこそ一方的に話して、教えた思ってる人が多いなぁと_| ̄|○
教えられたかどうかを判断するのは、相手が自分でできるようになってるかどうかで、できてないうちはやっぱり教えるところまで至っていないんだろうなと思います。

A:Bさん、自分のコミュニケーションについてふりかえるほど、決めつけや思い込みがいかに多いことかと、ホント冷や汗もんですよね。だからといって、消えてなくなりはしないので、決めつけや思い込みが多いということを常に自覚するよう心がけるしかないかなぁと。(^^;)

A:Dさんが書かれたこと、すべてそのとおりですね。
伝えたつもり、教えたつもり、分からないのは子どもたちのせいだと・・・進学塾講師時代には、わたしもこんなことばかりやってたなぁと、いまおもうと本当に冷や汗もんです。(^^;)
子どもができてないうちは、教えるところまで至っていないというのは、ほんとうにそうだとおもいます。いま学校で問題だなぁとおもっているのは、できたかどうかを確認するために行われているテスト(試験)で、先生の教え方や指導力もそこで問われているはずなのに、子どもたちの能力や学習態度ばかりが問題視され、一方的な評価として決めつけられがち(子どもたちに固定能力観を植え付けてしまう危険性大)なところですね。もちろん、そうでない先生方もみえるんですが、全体としては少ないように感じられます。
それで、寺子屋塾で使っているらくだメソッドでは、わかることよりもできることを大事にしていて、しかも、「めやす時間内にできてミスが3個以内」というように、できているかどうかの基準を明確に設けて、先生に評価してもらわなくても、学習者が自分で判断できるように工夫しているんです。

Bさん:「できた」「できていない」の境界線が明確であるというのは、学習者にとって、わかりやすくていいですね。
基準が明確でないと、「自分ができているかできていないか」の区別を他者の判断や評価にゆだねざるを得なくなる事が増えてしまう気がします。
「なにをもって”わかった”というのか」「何をもってして”できた”というのか」
基準が明確化できる場合なら、その線引きって大事なことだなと思います。
一口に「教える」と言っても、その内容は幅広いですから、基準が明確化できる場合の話ですが。。。

A:「わかるーわからない」の場合は、たとえば、わかるを100、わからないを0としたとき、その間のグラデーションは無限に近くあって、どのラインを境界線とすればいいかという判断そのものが困難になるわけですが、「できるーできない」の場合は非常に明確に、物理的に設定することが可能なんですね。
教えることが中心になっている学校教育の場合は、相手が無知な人間であることを前提にして、先生が教える(分からせる)→生徒が理解する→生徒ができるようになる、というプロセスでことが進んでいくわけなので、「わかること(わからせること)」に重きを置いたアプローチなわけですね。
これに対してらくだメソッドの場合は、この前提をひっくりかえして、「先ずやってみる→できなくても否定しない(評価しない)→できるまでくりかえす→できるようになっていく→だんだんわかるようになっていく」というプロセスなので、「できること(できるようになること)」に重きを置いたアプローチと言えるとおもいます。
もちろん、どちらが正しいということでなく、必要に応じて使い分ければいいと考えていますが、前者学校教育のやり方は結局、もともと理解力のある上位1〜2割の子どもたちに合わせたやり方とも言え、後者のやり方を必要としている子どもたちは少なくないとおもっています。
そういう視点からすると、犇気┐覆ざ軌薛瓩鮗膽瓦肪屬い討い震声0歐靴茲蠢阿瞭本の教育のあり方(寺子屋、芸事の教育、職人ワザの伝承など)は、おそらく世界レベルにあったんじゃないか、学校教育という制度を導入したことにより、進歩したどころかむしろ後退したんではないかってついおもってしまいますね。(^^;)

Bさん:井上さんの「教えない教育」の私の理解が的確かどうか自信がありませんが、書かれている通り、確かに学び手側の「できるーできない」の線引きは、どこにその線を引くかというのは別として、明確に設定することはできますね。
逆に教える側は、有形無形含めて、自分が何を教えようとしているのかというのを明確にしにくい場合は結構多いのかなあと思いました。
「教えない教育」の中で、教える側が教えてないことを学習者が学び取ったり、教える側の教えたいことと違うことを学習者が読み取って自分の学びとしたり、、
そんなことをイメージすると、「教えない教育」の中では、「わかるーわからない」も「できるーできない」もその境界線はあいまいになるのでしょうね。
もしかしたら「教えたー教えてない(伝えたー伝えてない)」も。

A:Bさんが書かれた「逆に教える側は、有形無形含めて自分が何を教えようとしているのかというのを明確にしにくい場合は結構多い」という点には同感です。
「教える教育」であっても、そういう傾向にあるのであれば、「教えない教育」であれば、なおのことそうなので、「自分が何を教えたいのかが無い人には犇気┐覆ざ軌薛瓩呂任ない」し、「教えない教育」の指導者は、自分が何を教えたいのか常に明確に意識している必要がある、とらくだメソッドを開発した平井雷太氏は言われていました。
でも、内田樹さんの「先生はえらい」(ちくまプリマ―新書)という本に詳しいのですが、先生と生徒の関係というのは、単に先生が伝えたい技術や情報を生徒に伝えるということだけで成り立っているわけでなく、生徒は先生が教えてないことを学び取ったり、教える側の教えたいこととは違うことを学習者が読み取って自分の学びとする、勘違いや誤解が起こったりすることこそが大事なことのようです。
その考え方を是とするのであれば、「わかるーわからない」も「できるーできない」も、明確に線引きすることばかりが大事だとは言えず、その境界線付近にこそ大事なモノが潜んでいるのかもしれませんね。(^^;)

Bさん:そうですね。私も「わかるーわからない」「できるーできない」の線引きをすることが必ずしも大事だとは思いません。線引きが明確にできる場合もあるでしょうし、その方が学習者にとって、自分の理解度がはかりやすくモチベーション的にメリットがある場合もあるでしょうけれど、”進歩”というのは そう簡単には測れないものだと思います。
私は自分の進歩を人から評価されることにほとんど興味が湧きません。
自分にとっての進歩は、自分自身の実感の中にしかない気がするからでしょうね。だから、修了証書とか免状みたいなものは、ほんとにもらうのが苦手です(笑)
人からどう見えようと、何日研修に参加して、既定の課程を修めようと、自分として、それはただ単に「参加しただけ」であって、全く進歩してなかったり、時としてその学びの入り口にすらまだ立ててないと感じる時もありますから。そういう時に「修了証」とかそういうものをいただくのはほんとに気恥ずかしくってその場から逃げかえりたくなるのです。

A:わたしも自分にとっての進歩は、自分自身の実感の中にしかないと考えているので、自分の進歩を人から評価されることにはほとんど興味が湧きません。
らくだメソッドの場合、先生から評価されることに依存しないですむように、学習者が自分でできたかどうかを自分で判断できるように、その基準が明確に設定されているのですが、「基準」という言葉を敢えて使わず「めやす」と表現し、また、その対応も個別に変えるなどかなり柔軟に運用しているんですね。よって私自身も、客観的に合格基準を満たしていることよりも、生徒自身ができているという実感がもてているかどうかを観ることを大切にするようにこころがけています。

Bさん:らくだメソッドの場合、学習者が「できている」という実感を持ちやすい目安が設定しやすいのでしょうね。「学ぶ」ということは本当に幅の広いことだと思いますが、その中で、自分が進歩しているかどうかを図るスケールがあるというのは、学びに対してモチベーションが高まる一つの要素でもあるんだろうなと思います。
そういうスケールが設定しにくい学びの場合は、「教えた」も「できた」も「わかった」というのも、当事者の思い方ひとつですね。

posted by Akinosuke Inoue 20:01comments(0)trackbacks(0)pookmark


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