往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。


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学校はおしえすぎる・・・梅棹忠夫著『知的生産の技術』より

知的生産の技術

ある芸ごとの名人の言だということだが、つぎのようなことばをきいたことがある。「芸ごとのコツというものは、師匠からおしえてもらうものではない。ぬすむものだ」というのである。おしえる側よりもならう側に、それだけの積極的意欲がなくては、なにごとも上達するものではない、という意味であろう。

芸ごとと学問とでは、事情のちがうところもあるが、まなぶ側の積極的意欲が根本だという点では、まったくおなじだと、わたしはかんがえている。うけ身では学問はできない。学問は自分がするものであって、だれかにおしえてもらうものではない。

そういうことをかんがえると、いまの学校という制度は、学問や芸ごとをまなぶには、かならずしも適当な施設とはいいにくい。今日、学校においては、先生がおしえすぎるのである。親切に、あまりにも親切に、なんでもかでも、おしえてしまうのである。そこで学生は、おしえてもらうことになれて、みずからまなぶことをしらない、ということになってしまう。


もし学校において、教師はできるだけおしえまいとし、学生はなんとかして教師から知恵をうばいとってやろうとつとめる、そういうきびしい対立と抗争の関係が成立するならば、学校というものの教育的効果は、いまの何層倍かにものぼるのではないかと、わたしは想像している。いまの学校のやりかたが、まったく無意味だともおもわないが、学問や芸術などの創造的な活動力をやしなうには、たしかにあまりできのいい制度とはおもわれない。

この本で、わたしがかこうとしていることは、要するに、いかによみ、いかにかき、いかにかんがえるか、というようなことである。それは、一種の「勉強のしかた」に類することかもしれない。じっさい、この本の題名をきめるときにも、「勉強法」という語をいれてはどうかという案を、いくども検討してみたくらいである。しかし、「勉強」というと、やっぱり学校との関係においてかんがえるのがふつうだろう。「勉強法」というと、学校でいい成績をとるためのテクニックだ、というふうにうけとられるおそれがある。今日の学校において、いい成績をとるためには、ひじょうに特殊なテクニックを必要とする。この本は、はじめから、そういうことをかくのを目的にしていないので、誤解をさけるために、「勉強法」という語を敬遠したのである。
(梅棹忠夫著『知的生産の技術』岩波新書・「はじめに」の冒頭部分)



posted by Akinosuke Inoue 23:53comments(0)trackbacks(0)pookmark


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