往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。


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借り物の言葉を語ること、人真似をする生き方を憚る事なかれ

先日ある大学生が「引用じゃなく自分の言葉で」と書いていた文を読みました。

わたしはどちらかといえば、若い人たちに対して常々そうした考え方と逆のこと・・・つまり、「自分の言葉であるかどうかにとらわれず、もっといろんな人の考え方を引用、参照、実践したほうがいいんじゃないか」とおもうことが多いので、今日はそのことについて書いてみようとおもいます。


このblogでもいろいろな人の言葉を紹介していますね。

たとえば、わたしがAさんの言葉を引用するとしましょう。

わたしはAさん
とは同じ人間ではないので、「Aさんが使っている意味や理解」と「わたしが使っている意味や理解」とは、ずれていて普通というかあたりまえです。

そのように、Aさんと自分とは同じではなく所詮借りものにすぎないと認識したうえでAさんの言葉を引用する行為は、何ら問題がないばかりか、Aさんから学ぶということは、そこからしか始められないのではないかとおもうのです。

Aさんの言葉をそのまま引用したり、まずAさんの書かれているとおりにやってみる実践を経ずして、具体的にどうやってAさんから学ぶのですか? と
逆に聞きたいのですが・・・


そもそも、「学ぶ」という言葉の語源をたどると、「真似る」→「まねぶ」→「まなぶ」であって、「真似(まね)る」ことは「学ぶ」のはじまりでありモトだとおもうんですね。

学習のプロセスを表現する言葉としてよく言われる「守破離」の「守」の段階です。

たとえば、赤ん坊は、
耳から入ってくる親の言葉をそのまま真似ることから始めて言語を獲得していくものですし、小さな子どもが、それまでに聴いたことがないような言葉を、いきなり自分から語り始めることなんてほとんど起こり得ません。

つまり、「模倣」は「学び」の第一歩で、必ず通過す
べきプロセスともいえます。

自分の身近な人や自分が素晴らしいとおもう人の生き方を「
真似る」ことや「盗む」ことなくして、いきなりオリジナルものなど生まれようはずもないのではないかと。

最近の若い人たちを見ていてフシギにおもっていることは・・・こういう十把一絡げな言い方は好きではないし、たまたまわたしの身の回りがそうなのかもしれませんが、若い人ほど多く見られる傾向は明らかであるように感じているので敢えて書くんですが・・・なぜ身近な人、自分が素晴らしいとおもう人をみつけて、その人の生き方を、まずそのとおりに真似てみようとしないんだろう?ということです。

「真似る」ことをしないために、本来であればしなくてもいい回り道をイッパイしているように感じるのですが・・・まあ、「真似てみよう」とおもうような、モデルにしたくなるような大人が身近にいないということもあるのかもしれませんね。

でも、じつは、真似るべきモデルなんていうのはそもそも存在せず、極論のようにおもえるかもしれないのですが、真似るモトというのは、それこそ誰であってもいいんじゃないかと。

皆さんおそらく夏目漱石の小説『こころ』を高校時代に現代国語の教科書で読んだとおもいます。

『こころ』はわたしが高校時代にもあったんですが、そのストーリーとは、どんな人なのかよくわからない人とある日であい、その人のことをいつしか「先生」と呼ぶようになっていく。

でも、その「先生」は、結局遺書をのこしてひとりで死んでしまう・・・こんな不思議な話なのに、いまでも変わらず高校の教科書に収められているのはなぜなのかというのは、考えてみる価値があるのではないかとおもうんです。

このあたりは、こんど2/18に予定している第3回つんどくらぶで採り上げる内田樹さんの『先生はえらい』に詳しいので、気になる方は読んでみて下さい。


・・・いえ、「借り物の言葉でなく、自分の言葉で語る」姿勢が大事という考え方を否定したいのではありません。そのこと自体は何ら間違いないのです。

でも、本当に「
自分の言葉」といえる言葉って、どれだけあるのでしょう?

たとえば、自分がこうして使っている言葉も、きっとすでに誰かが過去に使ったことでしょうし、真にオリジナルと言えるものなんて、実はほとんどなく、「自分の言葉」とか「個性」というところに必要以上にこだわってしまうと、逆に何も語れなくなるのではないかとおもうのです。



まえに、こちらの記事で、高橋悠治さんの書いたバッハの編曲についての文章を紹介したことがありました。

バッハの音楽は、わたしの中でも数ある音楽のなかで別格扱いに値するほどの存在で、クラシック音楽の中でもオリジナリティが高い素晴らしい音楽だと認識しています。

でも、その中身はといえば、多くがバッハではない過去の作品の引用だったり、バッハ自身が過去に書いた音楽の書き直しだったりするのです。

このことは、無からの創造が真のオリジナリティではなく、無からの創造などということは、現実にはほとんどないということを示しているのではないかと。



ところで、いつの頃からか、「〜さんにあこがれる」「〜みたいになりたい」という言葉がほとんど聞かれなくなりました。

「みんなちが
って、みんないい」と書いた金子みすず氏の考え方は、たしかに素晴らしいとおもいます。

でも、いまの日本の社会が、「みんながちがっている」ということが大前提として受け入れられ、そうした原理に基づいて成り立っている社会かと問えば、残念ながらそうではないのでは?とおもうのです。

最近では、どうも「人はみな生まれながらにして個性をもつ」とい
う話が無条件に信じられているように感じるのですが、「個性」って本当にそういうものなんだろうか?と。

他人の言葉を引用したり、人真似をしたりすることがダ
サくて、良くないこととされてしまう風潮はいかがなものでしょう。

よって、わたしは、

「借り物の言葉を語ること、人真似をする生き方を憚ることなかれ!」と言いたいのです。


どんなにうまく真似たところで、その人にはなれないし、真似ることによってその人と自分との
間にどんなズレや違いがかが必ず見えてくるはずです。

言い換えれば、真似ようとしないことには、学ぼうとしていることの価値もズレもわからないのではないかと。

もちろん、「個性」や
「オリジナリティ」というものは、各々にもともと備わっているものです。

でも、自分の個性なんて
そんなに簡単にはわからないし、いろいろやっていくことでだんだんとオリジナリティが発揮されていくものだとおもうんですね。

どんなに真似ようとしても真似られない
もの、個々のズレを確認し、それをちゃんと見つめた先にこそ、にじみ出てくるものではないでしょうか。

『声に出して読みたい日本語』の著者、齋藤孝氏は、<子どもに伝えたい三つの力>として、.灰瓮鵐販蓮瞥很麥蓮質問力) 段取り力 まねる盗む力 の3つを挙げているんですが、「まさにそのとおり!」とおもうのです。

「わたしはこの人のよ
うになりたい」というあこがれの人、自分にとってのロールモデルをもつことを、今の時代もっともっと重視されていいのではとおもうのですが、いかがでしょうか。

posted by Akinosuke Inoue 23:48comments(0)trackbacks(0)pookmark


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