往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。


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望月正弘『12歳の性 スケベでエッチなホンネを育てる』より


・・・ここでわたしが当面していたもっと難しい問題、

それは「性」と「愛」について、子どもたちと学びあうことであった。

未来に生きる明るい展望をもちながら、いかにそれを授業として組んでいくか。

たまたまわたしが、つぎに赴任していった学校が

「性教育研究校」という歴史を持った学校であったにもかかわらず、

あの「男女仲よくものがたり」のクラスの卒業から7年がたち、

「性教育」に手をつけないまま、6年生を2回、送り出していた。

その間、わたしの中で「性教育にとりくもう」という気持ちが熟してこないのは、

何であったのだろう。
 

 

それは、学校にあるカリキュラムが

たてまえとしては人間教育というようなことをとなえているけれども、

実際は、「生理」とか「精通」といったものだけを
内容としているからではないのか。

そこには、これから思春期のまっただなかで生きてゆこうという子どもたちの

「心」の問題がすっぽり落ちているのではないか。

「心」が落ちているから「セックス」が落ちているのである。

わたしの性教育のテーマを「思春期をどう生きるか」というところへしぼっていったとき、

わたしの授業へのイメージがはっきりし、わたしの気持ちが熟してきたのであった。


どんな授業でももちろんそうであろうけれども、

とくに性教育においては、

教師そのひとの存在、生き方が大事であろう。
 

わたし自身について言えば、わたし自身が暗やみの性教育のなかで育ち、

いわば、暗がりのなかでこそこそと語りつがれる性環境のなかで、

みずからの性のエネルギーと戦いながら自分を作ってきた大人のひとりなのである。

わたしのなかには、当然のように暗やみの性教育のぼろきれが、

いっぱいつまっているのである。
 

 

たとえばわたしは、子どもたちが日常使っている性器をあらわす用語をすらすら言えるであろうか。

どうしても何か羞恥心のようなものがわたしの心のなかに芽生えてしまう。

性器を、たとえば、指や耳と同じように、

体の一つの器官としてあたりまえに考えたり、

きちんとみつめたりすることができないのである。
 

 

それは性教育をたてまえとして認めても、

どこかで性はいやらしいこと、

秘密めかしくしたいこと(大人たちが独占しておきたいこと)、

はずかしく、人まえでは口にしてはいけないこと……という本音の部分が、

深く深くわたしのうちにあるのではないか。

性のことに真剣にとりくもうという教師は、

日々、このみずからの性意識とたたかわねばならないのである。


このことは、授業を受ける子どもたちも同じであった。

わたしの授業は

「あけすけで、えろい(子どもたちはエッチなことをこう言う)話をいっぱいさせて、

 それを180度転回して、いのちのふしぎさ、尊さに導こう」

というものであったけれど、授業はそうはうまくはいかないのである。
 

 

いつもの暮らしのなかでは、

あけすけで言いたいことをいくらでも言うクラスの子どもたちが、

「性の授業」の入口では口を閉ざし、

かたくなになってしまうのがしばしばであった。

 

貝殻のようにかたくなった彼らのなかにも、

わたしと同じような性意識があるのだ。

そうであるなら、

知識の量ばかりが多い教師が知識の少ない子どもに教える、

というだけの姿勢では、

子どもたちの心はひらかないであろう。

 

おなじ時代を生き、

おなじように暗やみからの性意識をひきずるものどうしが、

自分のからだをみつめなおし、
発見のよろこびをわかち合うことでなければ、

真の性教育とは言えないだろう。
 

 

ことばばかりの多いわたしの授業は、

わたしの願いからすればこころもとないかぎりだが、

授業のなかで生まれた子どもたちの声はみずみずしく、

授業の方向はまちがって居ないことを示していると思う。


性教育とは、教師の性意識の変革なしには成り立たないのではあるまいか。

いま、性教育の必要性は、若者たちの性にたいする意識の変化、

非行の問題、エイズの問題などから叫ばれているが、

それが「性情報から子どもを守る」といった対症療法的な指導になっていったとき、

やがて私たちは若者たちから強烈なしっぺ返しを受けるのではないだろうか。
 

 

「未来にどう生きるか」という展望のなかでの性教育ではなく、

大人社会の常識を押しつけるだけの授業では、

性の問題は、若者のエネルギーとともに暗やみに沈んでいくばかりではないだろうか。
 

 

望月正弘『12歳の性 スケベでエッチなホンネを育てる』(太郎次郎社)
 エピローグ・子どもたちのエネルギーに答えるために より引用

 

posted by Akinosuke Inoue 23:24comments(2)trackbacks(0)pookmark


この記事に対するコメント











失礼します。
この本の著者の望月正弘です。出版してから、30年にもなるぼくの著書をとりあげていただき、ありがとうございます。一時性教育が見直されるかに見えましたが、21世紀になってからは、あいかわらず「暗闇の性教育」で、その暗闇は深くなっているようにも考えています。
                       望月正弘
Mochizuki Masahiro | 2017/11/20 9:08 PM


望月さま はじめまして!

まさか本を書かれたご本人から記事に対してじかにコメントを頂けるとはおもっておらず、とても嬉しく拝見しています。インターネットも普及して20年経ち、そのメリットデメリットがいろいろ叫ばれていますが、こうしたやりとりができるところは良いところですね。

わたしは先生のご著書を初版が出された30年前、1987年のタイミングで読ませて頂きました。当時27歳だったわたしは、小中学生対象の進学塾で教え始めて2年ほど経った頃だったんですが、もし自分が小学生の頃に戻れるものなら、望月先生の授業を受けたかったなぁとおもったものです。

学校教育現場で行われている性教育の取り組みについて触れた書籍いろいろ出されているようですが、望月先生の書かれた実践記録にわたしが一番感銘を受けたのは、子どもたちを子ども扱いせず、上意下達に知識を教えようとするのでなく、性という問題を通じて、自分自身もまた性に悩める一人の人間として対等に向き合おうとされているところでした。

性教育の実践というテーマで社会全体を見渡してみたとき、先生の仰るとおり、暗闇はより深くなっている感が否めませんが、学校外、家庭外という立場で、自分にできることを微力ながらこれからも模索し実践していくつもりでおります。

貴重なコメントを有り難うございました。<(_ _)>
Akinosuke | 2017/11/28 1:45 PM


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