往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。


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「明確なできない状況」と出会う

算数_小4-22の一部.jpg

昨日書いた記事の続きです。
 
太郎ちゃんがblogに昨日ご紹介した記事の続編のような
記事「『明確なできない状況』と出会う」を書いていましたので、
まずは以下に全文ご紹介します。

 
なぜこのらくだメソッドだと、
「できない」ということに出会い、
その「できない」という自覚が生まれるのか?ということが
とっても不思議だなと思っています。
 
今までの経験でも、
「できない」ということには、たくさん出会ってきたわけだけど、
その「できない」ということからなぜか目を背けたくなったり、
できるふりをしてきました。
 
そして、「できない」ということが原動力になったとしても、
そこには必ず自分以外の誰かの存在があり、
あいつには負けないように、、、とか、
誰かに褒めてもらったり、
あるいは怒られないように、、、など、
 そんな形でしか「できない」を原動力にできずにいました。
 
だけど、 この1日1枚の計算プリントで、
 「できない」ということに出会えること、
そして、その体験からの気づきや発見を通して、
「できない」ということとの向き合い方が少しずつ変わってきたように思います。
 
でもなぜ、このプリントだと、
「できない」ということに出会い、
その「できない」という自覚が生まれ、
「できない」と向き合うことができるのか?
という問いがいつも生まれてきます。
 
*** *** ***
 
学校の勉強で「できない」ということに直面したことは、幾度となくありました。
そんな「わからない=できない」体験を振り返ってみると、
さまざまな「わからない」という状況があるように思います。
 
たとえば、ある問題が解けず、
なにが「わからないか?」と聞かれた時に、
自分が「わからない」と思っていることも、
そのことを理解するために、
分かっていないといけないことが、
 「わかっていない」ことだってあるし、
自分では、どこが分からないのか「わからない」ということだってあります。
 
そんな時、まわりの先生だって、親だって、本人がどこでつまづいているのかがわからない。。。。
 
「わからない」という体験を振り返ってみると、
「わからない」状況がかなり曖昧な状況にあったように思います。
 
一体自分はどこで、何につまづいているのか、、、と。
「できない」体験って、意外と曖昧だったのかも!と思います。。。
 
この点から考えてみると、
 らくだメソッドでは、
 自分がどこでつまづいているのか?
どこに自分がいるのか?
目の前の学習者が、どこでつまづいているのか、
どこから分かっていないのか?
ということがとてもわかりやすくできているのです。
 
プリントを通して出会う「できない」という状況は、
かなり「明確なできない状況」のように思います。
 
「できない」が明確であるからこそ、
「できる」ことも明確になってくるのだと思います。
 
*** *** ***
 
明確な「できない」状況を作るために。
 
この明確な「できない」という状況はどのようにしたら作ることができるのか?
このプリントを初めてやったとき、
かなりスモールステップで、ゆっくり進んでいくなと思いました。
 
1枚のプリントの中で、おさえなければいけないポイントは
ほぼ1つにまとめられていると思います。
 
初めてやったときにそのような実感があったのだけれど、
この実感こそ、明確に「できない」状況を作ってくれているのだと思います。
 
それは、このプリントが、
1つの領域を(たとえば約分とか)を徹底的に分解して、
1つ1つの要素を、丁寧に順序よくまとめてあるからだと思います。
 
そして、学習者がどんな状況にあり、どんなところでつまづくのか?
ということをみっちり考えられて作られていると思います。…ヒントの出し方が絶妙だったりします。
(平井さんは息子さんのためにこの教材を作られたというエピソードがありますが、
 まさに学習者が我が息子であったからこそ、ここまで考えられたのでは!と思っています。)
 
その点から考えても、
明確な「できない」状況を作るためには、
物事をあらゆる角度から見つめ、考えること。
 
物事を分解するということは、
身のまわりに起きている、「小さなこと」を大切にしていくということにも繋がるように思います。
 
明確な「できない」状況に出会えることができれば、
「できない」という自覚が芽生え、
明確な「できる」自分と出会える。
 
だからこそ、明確な「できない」状況はどのようにして生まれるのか、
ということを問い続けたいと思いました。
 
※引用ここまで

 
プロセスが丁寧に書かれていて、とってもわかりやすいですよね?
 
ひとつのポイントは、太郎ちゃんが今までのことをふりかえって、
 
「わからない」という体験を振り返ってみると、
「わからない」状況がかなり曖昧な状況にあったように思います。
 
一体自分はどこで、何につまづいているのか、、、と。
「できない」体験って、意外と曖昧だったのかも!と思います。。。

と書いているとおり、
わたしたちは、明確な定義もないのに
「できない」「わからない」とおもいこみがちで、
この逆パターン・・・つまり、「できる」「わかっている」というのも何ら根拠がなく、
勝手なおもいこみにすぎなかったりすることも往々にしてあります。
 
それで、太郎ちゃんは、らくだメソッドについて、
 
自分がどこでつまづいているのか?
どこに自分がいるのか?
目の前の学習者が、どこでつまづいているのか、
どこから分かっていないのか?
ということがとてもわかりやすくできているのです。
 
と書いているんですが、
太郎ちゃんのこの表現には若干正確さを欠く部分もあるので、
以下、このことについてちょっとだけ補足しておきます。

 
らくだメソッドを開発された平井さんは、
らくだメソッドを開発する前に、
「さえら塾」という個人塾を開いて、
分数のわり算は、
なぜ分母と分子を反対にして掛け算すればいいのかとか、
円の面積はなぜ「半径×半径×π」なのか、ということなど、
おもしろい授業、わかりやすい授業をおこなって
子どもたちに理解させようとしていた時代が3年ほどありました。

平井さんは、勉強に興味の持てない子どもたちでも、
内容が理解でき、楽しく学べるようにさえなれば、
勉強ができるようになって、
成績も上がるんじゃないかと考えたわけです。
 
でも、そうなったのはごく一部の限られた子どもだけで、
実際には多くの子どもたちがそうはならず、
「楽しい授業をしないと学ばない」というように
塾に対して依存的になっていく子どもまでが現れたことに
愕然としてしまうんですね。

また、学校ではテストということが日常的に行われていますが、
そのテストが、子どもたち自身にとって、
自分が学んだ内容をほんとうに「わかっているかどうか」について
客観的、総合的に確認する手段になり得ているかどうか疑問がありますし、
テストによって評価されるのは、子どもたちだけではなく、
指導する側の人間の指導力でもあるのではないかと。

でも、たとえば、分数の約分の単元でいうなら、
子どもがどういう状態になったら
「分数の約分がわかっている」といえるのかを
一律に定義づけしようとすること自体
そもそも無理な相談ではないかとおもうのです。
 
つまり、「わかる」というプロセスには、
一人ひとり異なる個別固有の内面的な部分を含んでいて、
そうした多様性や曖昧な要素をすべて排除したうえで、
客観的な指標を設け、機械的に確認しようとすること自体が、
不可能なアプローチだと言ってもいいでしょう。
 
平井さんは、このような体験から、
わかっているかどうかを外部の人間が数値的に評価したり、
「わかる」ことと「できる」こととを
因果関係で結びつけようとすること自体に無理があることに気づいて、
子どもを「わからせようとする」行為を無条件に良しとする
教育のあり方自体にも疑問を持つようになります。
 
そして、「わかっているかどうか」については定義できなくても、

「できているかどうか」については、明確に定義できると気づいて、
「わからせようとする」行為に対して必要以上に重きを置かず

「ミスが3つ以内で、めやす時間台にできる」

というように、
「できているかどうか」に着目して生まれた教材が
爐蕕だメソッド瓩箸いΔ錣韻任后

 

つまり、言い換えれば、できているかどうかの定義づけが

1枚1枚のプリントに明確に設定されているということが、

このらくだメソッドの、他の教材にはない際だった特徴といえ、

そのことによって、

セルフラーニング(自分ができているかどうかを自分で判断でき、

自分で学習をすすめていけること)

という学習スタイルを可能にしているんですね。

この「わかるーできる」の関係を含めた周辺テーマについては、
林修さんがテレビで「数学ができない人はものを教えるべきではない」と発言したことに触れて
2014年の夏頃にfacebook上で記事を書き、
その記事をめぐって3人の方とかなりディープなやりとりをしたことがあるんですが、
2015年の暮れに書いた
らくだメソッドでなぜ算数(数学)が重要なのかという記事に

そのプロセスの全てをまとめてありますので、

さらに深く考えてみたい方は、併せてご覧下さい。


また、太郎ちゃんが書いている、
 

でもなぜ、このプリントだと、
「できない」ということに出会い、
その「できない」という自覚が生まれ、
「できない」と向き合うことができるのか?
 
という問いについては、これからも太郎ちゃんに引き続き
問い続けていってほしいとおもいますが、
それについて、わたしの考えをひとつだけ書いてみようとおもいます。


なぜ、らくだメソッドの場合、
「できない自覚」が生まれ
「できない自分」と向き合うことができるのかは、
「できない」ということに対して評価を下すのではなく
そのまま受けとめられる場があること、
つまり、わたしという評価しない指導者がいることはもちろんなんですが、
わたし一人の力にはおのずと限界があり、
わたしだけでなく、多様な人がごちゃまぜにいる場の在り方自体が
とても大事だと考えています。

そして、さらに言うなら、
わたしがこのことの大切さについて一番学んだのは、
べてるの家という存在からで、
わたしがこの寺子屋塾を始める前の1992年の時点で
べてるの家の人々と出会っていたことは、
とても大きなことだったと改めて気づかされたのでした。



・・・ということで、4/22はこちらのイベントページにあるように、
太郎ちゃんが企画している
べてるの家のドキュメンタリー映画
「ベリーオーディナリーピープル」連続上映会の三回目を予定しています。

べてるの家については、
太郎ちゃんのこちらのblog記事でも紹介されているように、
今回は予告編4「安心してサボれる会社づくり」を観るんですが、
1/28に行った前回につづいて今回も満員御礼となり有り難いことです。
 
4/22の上映会は満席になってしまったので、
参加のお申し込みをお受けできないんですが、
べてるの家のビデオ上映会は今後も続けていく予定なので、
関心ある方は塩坂太郎さんまたは井上までメッセージ等にてお知らせ下さい。
posted by Akinosuke Inoue 19:37comments(0)trackbacks(0)pookmark


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