往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。


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師を見ず、師が見ているものを見ようとすること

すこしまえのBLOG記事ですが、

東京大学大学院の中原淳さんが2013年7月16日に書かれた
 

・弟子は『師が見ているもの』を見なければならない!?

 〜仕事の価値軸をつくることの意味〜
 

を読みました。
 

「学ぶ」という言葉は、
「真似る→まねぶ→まなぶ」と変化したので、
「まねる」がもともとの語源だという説があります。
 
以前にはこちらの記事でも書いたように、
真似るということ・・・つまり、
自分以外の他者が言っていることやその人が今していることに注意を向け
それを知ろうとすることや、そのように行動しようとすることは、
「学ぶ」ことの基本といえますし、
それはそれで大事な姿勢であることはそのとおりなのです。
 
たとえば、お釈迦さまは立派な教えをたくさん遺されていて、
わたしなど足もとにも及ばないほどエライ人です。
 
でも、お釈迦さまが話された言葉や行動は、
あくまでお釈迦さまが悟りを開いた「結果」であって、
その「結果」に過ぎない言葉や行動を真似ることは、
あくまで学習の入口というかきっかけにすぎないので、
学ぶことには、まだまだその先があるようにおもうのです。
 
つまり、結果を真似るだけで原因にたどり着こうと努めることは、
たとえるなら、地震が原因で家が壊れたというときに、
家を壊せば地震が起きると考えるようなもので、
このことのオカシさにはすぐに気がつくのではないでしょうか。
 
お釈迦さまの言葉を理解して、その行動をどんなにうまく真似たところで、
大元の原因であるお釈迦さまのような人になれないのは、自明の理なのです。
 
世界四大宗教の開祖がみな著作を遺しておらず、
聖書にしろ仏典にしろ論語にしろ、すべて弟子がまとめた言行録であること、
そして、弟子からは師を超える人物が出ていないのはとても象徴的です。

 
なぜ、お釈迦さまはどのようにしてお釈迦さまになったのか、
そのプロセス自体に注意を払って、
お釈迦さまはいったい何を見ていたのか、何を大切にしてきたのか、
ということに猝笋き瓩浮かんでおもいが及ばない限りは
お釈迦さまの世界には近づいていけないでしょうし、
それが仏教を学ぶということではないかとおもうのです。
 
中原さんがこの記事で書かれている
 
師を見てはいけない。
師が見ているものを見なければならない

 
という言葉は、仕事に取り組む姿勢でも同じで
どんな仕事をするのか、その仕事の中身はあくまで手段にすぎず、
その仕事を通じて自分自身が大切にしたいことは何か、
その仕事で何を実現したいかが大事なのではないかと。
 
お釈迦様は、臨終に際して弟子のアーナンダに
 
この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、
法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
 
と語ったと伝えられていて、
いわゆる「自灯明、法灯明」と言われているメッセージです。
 
自分自身という人間をまず知って、自らを拠り所とすること・・・
 
中原さんが記事の終わりの方で触れられている「価値」「軸」「基準」は、
このような自問自答と実践を地道に繰り返すことで
形作られていくのではないかとおもいました。
 
真似るだけではなく次のステップ・・・いわゆる「守・破・離」については、
以前にマクロビオティックの桜沢如一のことに触れながら
こちらの記事にも書きましたので、併せて読んでいただければ幸いです。
posted by Akinosuke Inoue 23:31comments(0)trackbacks(0)pookmark


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