往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。


<< 四則演算には日常の思考や発想の基本となるエッセンスが詰まっている | main | 吉本隆明「情況とはなにか 」より >>



栗本慎一郎『パンツをはいたサル』

パンツをはいたサル


学問というものは、大きく二つに分けられている。自然科学と社会科学だ。哲学や歴史学を人文科学として、社会科学を分立させることもあるが、ふつうは、数量で測れない人間の諸活動の研究として、自然科学に対立する側に入れられている。

けれども最先端の学者達にとっては、このような区別は、いまや根本的に無意味になりつつあるようだ。宇宙や物性を研究していても、行き着く先は、やはり人間とは何かに戻って考えざるを得ないし、人間の社会的活動を研究しているつもりが、いつのまにか人体内の筋肉における電流の強弱だとか、天体の運行と精神のリズムの係わりについても考えなければならないことになってきている。

それでも、あいもかわらず、タコツボのような古い学問体系の枠にこだわっている学者もいる。しかし、そんなことでは学問が成り立っていけない時代の趨勢は、はっきりしている。ただ、日本の学界というものは、一度教授の地位を占めたら、女子学生と教室でセックスしたことを週刊誌にすっぱ抜かれないかぎり、クビにはならないし、学問研究に自ら見切りをつけた科学者としての無能力者にかぎって、内外に対して虚勢を張り、ボスたろうと努力するものだから、外から偉そうにみえる学者ばかりを見ていると、その実態がわからないだけの話である。

物理学だ、法学だ、生物学だ、経済学だといった枠にこだわらず、現代の科学や社会が抱えている悩みや難問に答えようとすると、もはや学際的といった犂鼎き疉集修離譽戰襪任呂さまりきらないという強い決意が必要だが、考えてみると、アインシュタインなどは昔からそうした試みをしていたわけだ。つまり、現代の人間の諸問題に答えうる科学とは、近代の大学が教授をたくさん作るために、やたら分解してしまったナントカ学の数を減らして、人間の問題を包括的に考えるものでなければならないのである。

 

というと、すぐに、「総合科学部」だの「人間科学部」だのという名称だけ作って、なんとか学問のセクショナリズムはそのままにして、やはり三流教授の数を増やすことにしかならないのも困ったことだ。部分の総和は決して全体にはならない。個別のナントカ学の寄せ集めでは、現代の人間の諸問題、かつ地球上の諸問題に説明をなしうる学問などできるわけはない。

私が、この本で自ら学界の道化役を買って出て、少なくとも、生物学、物理学、法学、経済学、宗教学、精神分析学をゴタゴタにしたうえ、勝手にまとめてしまったのは、そろそろだれかアホが突撃して、大衆の目前で敵弾に当たって倒れる役も必要だろうと思ったことによる。これだけ杜撰な議論なら、あとから進む人も屍を乗り越えやすかろうという配慮までしておいた。

1973年、コンラート・ローレンツが生物学でノーベル賞をとって以来、世界には動物行動学ブームが起こり、一部では人間の行動は、すべて生物学的に理解、分析できるとの幻想も生まれた。人間は、「裸のサル」であるというデスモンド・モリスの諸説は、部分的にはたいへんおもしろいが、人間における根本的なエロティシズムの存在や、道徳の堅持とその侵犯というおかしげな「行動」については、ふれることもできなかった。それに、人間はサルが裸になっただけでなく、パンツをはいて、それを脱いだり、脱ぐ素振りでオスを誘ったり、おかしげな行動をシステマティックにとっているではないか。

私流に言わせてもらえば、これらの行動は、人間にとって根本的な特徴であり、その他の生物からよく似た行動をさがして、対比してみせてくれる生物学者の説明は、いずれももうひとつ説得性がなく思えていた。人間はサルが裸になったものではなく、サルがパンツをはいたものだとして説明することにした。そうしたら、法律や経済だけでなく、人間の人間たる所以の理性的だったり、馬鹿げていたりする、あらゆる行動がきちんと説明できたのである。

もちろん、私は動物行動学者ではなかったから、イヌだの鳥だのを使ってデータをとったことはない。それらはすべて、動物行動学者の報告を基にしている。しかし、ときどき、彼らの解釈に反対の解釈を与えているため、依拠した文献などは繁雑になるので挙げなかった。多くの勝手に使われた動物学者の皆さんには、まことに申し訳なく思っている。しかし、私の場合は、生物としてのヒトのデータには事欠いていなかったので、ヒトを対象とした新種の動物行動学者として認めていただいて、ノーベル賞戦線の一角にも加えていただければ幸甚である。

そして、その結果、この本は先にも挙げた諸分野をみんなとりこむことになってしまった。こういうかたちの本を書くと、なかには学説の方を変えて、大衆に迎合するかのような学者もいるが、私の場合は、権威主義まる出しの場より、このようないかがわしい(光文社の方すみません)場の方が、より深層の真理に近づけると思ったのである。

この本を書かないかと言ってきた光文社の編集スタッフは、当初、かなりストレートに生物としてのヒト論をやってほしいとのことであった。しかし、私は、人間の動物性は80%、人間の人間性(?)は20%と強調し、この本の7章に示したポランニー兄妹の「層の理論」で押し切らせてもらうことにした。

しかし、人間の80%の動物性については、私はいつもテニスコートでスマッシュミスのたびに確認している。あれは、人間がかつて樹上生活をやめて、地上に降りてきたため、頭上の視空間がゆがんでしまってむずかしいのであると、本シリーズの
『テニスの科学』が教えてくれているわけだ。

この本ができあがるまでには、それなりの激論と喧嘩があったが、お互い20%の人間性に基づいてサル的引っ掻き合いにならず、書き合い(?)程度でおさまったことは、人間にもまだ未来があると信ぜしめるに十分であった。

 

 

COMMENT:栗本さんはマイケル・ポランニーの研究家で、この本はポランニーの考え方をわかりやすく紹介したものでもあります。この本を読んだとき、わたしは20代前半で、大きなインパクトを受け、その後も栗本さんの発言には注目してきました。彼の主張が正しいかどうかはわかりませんが、「人間とは何か?」という問いを考える場合においては、学問上の分野の区別とか、専門性ということに囚われず、広い視野から見ていかなければいけないという姿勢はまちがっていないようにおもいます。
posted by Akinosuke Inoue 23:57comments(0)trackbacks(0)pookmark


この記事に対するコメント











この記事のトラックバックURL
http://ouraimono.terakoyapro.net/trackback/1400300