往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。


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吉本隆明「情況とはなにか 」より

自立の思想的拠点

・・・現在にいたるまで、知識人あるいはその政治的集団である前衛によって大衆の名が語られるとき、それは倫理的かあるいは現実的な拠りどころとして語られている。大衆はそのとき現に存在しているもの自体ではなく、かくあらねばならぬという当為か、かくなりうるはずだという可能性としての水準にすべりこむ。大衆は平和を愛好するはずだ、大衆は戦争に反対しているはずだ、大衆は未来の担い手であるはずだ、大衆は権力に抵抗するはずだ、そして最後に爐呂梱瓩任△訛臀阿蓮△泙誠燭乏仞辰鬚靴瓩靴討い覆ぢ減澆任△襪箸いΔ海箸砲覆襪里澄もちろん、こういう発想はまったく無意味である。「否」の構造をとって、大衆は平和を好まないはずだ、大衆は戦争に反対しないはずだ、大衆は未来の担い手ではないはずだ、大衆は権力に抗しないはずだ、といっても同じだからである。あらゆる啓蒙的な思考法の動と反動は、この爐呂梱瓩任△訛減澆鯡こ仞辰両態とむすびつけることによって成立する。

しかし、わたしが大衆という名について語るときには、倫理的なあるいは政治的な拠りどころとして語っているのでもなければ、啓蒙的な思考法によって語っているのでもない。あるがままに現に存在する大衆を、あるがままとしてとらえるために、幻想として大衆の名を語るのである。

わたしたちが、情況について語るときには、社会的に語ろうとも政治的に語ろうとも、情況に関わることが、現にわたしたちが存在することにとって不可欠なものであるという前提の下にたっている。たとえ社会の情況がどうあろうとも、政治的な情況がどうであろうとも、さしあたって『わたし』が現に生活し、明日も生活するということだけが重要なので、情況が直接にあるいは間接に『わたし』の生活に影響をおよぼしていようといまいと、それを考える必要もないし、かんがえたとてどうなるものでもないという前提にたてば、情況について語ること自体が意味がないのである。これが、かんがえられるかぎり大衆が存在しているあるがままの原像である。


この大衆のあるがままの存在の原像は、わたしたちが多少でも知的な存在であろうとするとき思想が離陸してゆくべき最初の対象となる。そして離陸にさいしては、反動として砂塵をまきあげざるをえないように、大衆は政治的に啓蒙さるべき存在にみえ、知識をそそぎこまねばならない無智な存在にみえ、自己の生活にしがみつき、自己利益を追求するだけの亡者にみえてくる。これが現在、知識人とその政治的な集団である前衛の発想のカテゴリーにある知的なあるいは政治的な啓蒙思想のたどる必然的な経路である。しかし、大衆の存在する本質的な様式はなんであろうか?
 
大衆は社会の構成を生活の水準によってしかとらえず、けっしてそこを離陸しようとしない理由で、きわめて強固な巨大な基盤のうえにたっている。それとともに、情況に着目しようとしないために、情況にたいしてはきわめて現象的な存在である。もっとも強固な巨大な生活基盤と、もっとも微小な幻想のなかに存在するという矛盾が大衆のもっている本質的な存在様式である。
 
知識人あるいは、知識人の政治的な集団としての前衛は、幻想として情況の世界水準にどこまでも上昇してゆくことができる存在である。たとえ未明の後進社会にあっても、知識人あるいは前衛は世界認識としては現存する世界のもっとも高度な水準にまで必然的に到達する宿命を、いいかえれば必然的な自然過程をもっている。それとともに、後進社会であればあるほど社会の構成を生活の水準によってとらえるという基盤を喪失するという宿命を、いいかえれば必然的な自然過程をもっている。このような矛盾が、知識人あるいは政治的な前衛がもっている本質的な存在様式である。わたしのかんがえでは、これが大衆と知識人あるいはその政治的集団である前衛にあたえうるゆいつの普遍的な存在規定である。

吉本隆明『自立の思想的拠点』(徳間書店・1966年)所収 「情況とはなにか機|亮運佑搬臀亜P.101〜103より
COMMENT:吉本隆明さんの「情況とはなにか」と題された評論文集より、知識人と大衆との関係について触れた部分です。吉本思想を読み解く重要なキーワードのひとつに狢臀阿慮響瓩あります。この言葉についてもさまざまな議論があったようですし、まだまだわたしも吉本さんの全体像を把握できていないんですが、端的に書くとするならたとえば、こういうことでしょうか・・・つまり、思想というものは、どんなに気をつけていても必ず権力性や党派性を帯びてしまう宿命にあり、思想を無思想よりも絶対に上位に置かないというタガを自らに課し、マルクスのような1000年にひとりしか現れない人物といえども、市井の無名の人とまったく同価値と断じた吉本さんの姿勢がこの言葉を生み出したことにつながっていると感じています。ひとは知識をもつと「良い考えを普及、拡大、啓蒙していくことが良い社会づくりにつながっていく」という幻想につい囚われてしまいがちで、つねに自戒していたい考え方だとおもいました。
posted by Akinosuke Inoue 21:25comments(0)trackbacks(0)pookmark


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