往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。


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『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』より(2)

村上春樹、河合隼雄に会いに行く_新潮文庫版.jpg

夫婦と他人
 

河合 実際、実生活でも、急に奥さんが、あるいは、夫の方がフッと見えなくなるんですよね。

 

村上 見えなくなる……?


河合 「理解しよう」と考えると、まったく理解できないことがわかったりする。いままで、いっしょに住んでいてわかっていると思っていたんだけど、急にハッとわからなくなったりするでしょう?


村上 そうですね。

 

河合 そこから出発して、わかろうということを始めたら大変なことで、たいがいの場合は相手を非難することになるのです。わからんやつだとか、男なんてやつは大したことがないとか。

 

村上 ぼくはアメリカ人の夫婦を見てほんとうに思うのは、いっしょにいるあいだはすごく仲がよくてベタベタしているんですよね。どこかに行くときは、ちゃんと手をつないで行くとか、そのくせ別れるときにはパッと別れる。日本みたいに好きじゃないけどいっしょにいるとか、子どもがいるからとか、そういうことはほとんどないですね。

 

河合 それと、アメリカ人の場合は、自分達の関係がどこかで本物ではないという意識があるんだと思いますね。

 

村上 ということは?

 

河合 だから、いつも意識的にベタベタせざるをえないんですよ。意識のところでいつも、愛し合っていますよ、と確かめないと、もう不安でしかたない。確かめそこなったら、パッと別れるのですね。

 日本の場合は、よい言い方をすると、確かめないまま、それこそさっきも話に出たずるい哲学で、なんとなくちゃんと同調しているのです。ぼくは、夫婦というのはそういうほうがおもしろいんじゃないかと思っているんですが。

 

村上 関係のなかにいろいろな側面がある?


河合 そうです。西洋の場合は、どうしてもロマンチック・ラブというのを下敷きにしていますね。ロマンチック・ラブというのは長続きしないんです。もしロマンチック・ラブを永続させようと思ったら、性的関係を持ってはならないんです。性的関係を持ちながらロマンチック・ラブの考えを永続させようというのは、不可能なんだとぼくは思うんです。もし夫婦の関係を続けていこうと思ったら、違う次元に入っていかないといかないとダメですね。

 

村上 ただ、その性的な関係にも一種の治癒作用はあるのですね。ところが、それはある時点から別のかたちの治癒作用に変わっていかなくちゃいけない……そこには井戸掘りが必要なのですか。

 

河合 そうです。若い間は性的な関係はすごく大事だし、治癒作用を持っているけれど、それだけではもういけないですね。

 

村上 その時点で井戸掘りに移行できない人は、別の性的治癒に走るのですか?

 

河合 そうそう、どこかで探して、別の性的関係を結ぶとか、日本だったら家庭内離婚というやつになるのですね、心の中では離婚しているけれど、いちおう同じ家に住んでいるという。

 もうひとつあるのは、日本人の場合は、異性を通じて自分の世界を広めるということを、もうすっかりやめてしまうということもあるんですね。細かいことを調べて学者になっているとかね。エロスが違う方を向いているのです。エロスを女性に向けるというのは、相手は生きているからこれはなかなか大変ですけれども、エロスを、たとえば、古文書に向けてもいいわけです。ここのところ虫が食っているなとか、なんていう字だろうなんて考えることにすごい情熱を燃やすでしょう、それは危険性が少ないですね。

 

村上 あるいは会社で一所懸命働くとか。

 

河合 そうそう。生きた人間でないものにエロスを向けている人はすごく多いですよ。

 

村上 でも、いちがいにどっちがいいとは言えない。

 

河合 言えないです。結局、自分がどういう生き方をしていくかということだと思うんです。夫婦ということをすごく大事にする生き方というのは、少数の人にしかできないものかもしれません。ぼくはすごくおもしろいと思いますけれども。こんなおもしろいことないんじゃないかと思うんです。そして、日本人にとっては、夫婦ってのは、おそらく宗教ということがわかる入り口になることが多いのじゃないかと思います。

 

村上 ぼくは、自分では格闘しているような気持ちでいる。

 

河合 そうですか。結局は完全な答えというのはわからないし、自分のコントロールを越える存在、心の動きというものがあるのに気がつくし、だから、宗教性ということを実感する入り口のひとつは、夫婦の関係ではないかと思うのです。まあ、そういうことも別にしなくてもいいわけですけれどね。

 

村上 古文書を調べていて。それが楽しければいいのですね。

 

河合 しかし、下手すると、男のほうは古文書を見て楽しもうとしても、奥さんのほうが夫婦のあり方というのを大事にしだしたりすると、悲劇が起こるんですよ。奥さんも、「夫婦のあり方」なんて放っておいて、子どものことに一所懸命になるとか、漬け物を漬けるのに必死になるとかなれば、なんとなく安定していっているのですがね。

 ですから、いろいろなバラエティがあって、どれがいいということはもう言えないと思っているのです。ただし、自分のやっていることはせめて自覚してほしい。近所迷惑ということもありますからね。

 

村上 近所迷惑って言いますと?

 

河合 たとえば、夫が古文書でがんばっていても、奥さんがものすごく困っていることがあるでしょう。主人のほうは古文書やって、奥さんは子どもの世話して喜んでいたら、これは安定しますよね。

 ところが、奥さんのほうが夫婦の関係を求めているとすると、旦那のやっていることは、奥さんにすごい危害を加えていることになるのですね。だから、自分のしていることがだれに害を加えているかということは、つねに考えるべきだと思うのですよ。それは西洋流かもしれないけれど、個人の責任の問題ですね。


『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』(新潮文庫・1998年)より

posted by Akinosuke Inoue 23:05comments(0)trackbacks(0)pookmark


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