往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。


<< 吉本隆明「スケベの発生源」 | main | 吉本隆明『フランシス子へ』 >>



一昨日の卦「天地否」について

天地否五変爻

一日一卦を続けています。

一昨日4/26(水)は天地否の卦が立ち、今年2回目でした。
易の卦は8×8=64通りですから、
確率的にいえば、一つの卦が出る確率は1/64です。

1年は365日ですから、平均すれば1年でだいたい5〜6回というところですね。
一昨日は今年になってから116日目でしたから、
2回目というのは確率の面からすれば概ね順当なところです。

各々の卦の出た回数が、どのぐらいのばらつきがあるのかも
1年間全体で調べてみると面白いかもしれませんね。


天地否

さて、「否」という漢字から、
また、上記の塞がった感じの図象をみるだけでも、
この卦は吉凶の判断でいえば、
「凶」または「大凶」だろうとおおかた予想がつくとおもいます。

正直、あまり出て欲しくない卦ですが、
人生上においては必ずそういうときも訪れるわけですし、
受け取り方によっては、なかなか味わい深い卦でもあり、
人はこういう不遇のときこそ、そこにどう対処するかで
真価が試されるということなんでしょう。


次の図は、本卦と変爻を施した之卦を表しています。
天地否の五変爻

サイコロ「5」の目が変爻を表しているので、
下から5番目の爻が陰陽反転(陰→陽、あるいは陽→陰)となり、
之卦は「火地晉」となります。

火地晉


河村真光さんの『易経読本 入門と実践』に書かれている
「天地否」についての文章が素晴らしい内容でしたので、
以下にご紹介します。 

----------------------------------------------
12.天地否の五爻変、火地晉に之く
 
【卦辞とその読み下し文】
否。之匪人。不利君子貞。大往小来。
 

否(ひ)の人(ひと)にあらざる。君子(くんし)の貞(てい)に利(り)あらず。大(だい)往(ゆ)き小(しょう)来(きた)る。
 
【爻辞とその読み下し文】
休否。大人吉。基亡基亡。繋于苞桑。
 
否(ひ)を休(きゅう)す。大人(たいじん)は吉(きち)。其(そ)れ亡(ほろ)びなん、其(そ)れ亡(ほろ)びなん、苞桑(ほうそう)に繫(つな)がる。
 
【キーワード】
・天地否:停滞
・火地晉:進歩
 
【表面に表れたヒント】
・リズムが変調し、歯車が噛み合わない。何をするにも気力が湧かない。
・迷い悩み、行き詰まる。しかし、閉塞状況は生きている限り誰の上にも等しく起こることである。
・腰を据えて時の来るのをひたすら待つ。そして次の飛躍に備えること。
 
【ヒントを解釈する指針】
・行き詰まりもいつか解決する。挽回も近い。しかし、そういう時は油断しやすいので気をつけること。
 
【背後に隠された機微】
・リズムが正常に戻り、気力が満ちてくる。見えなかったものが見えるようになる。功績をあげ厚遇を受ける。
・自然の摂理に従うこと。



ここまでは、毎日facebookに投稿している内容なんですが、
これは高島易断を解説したこちらのサイト
「易経で粒焼」のサイトを借用させていただいています。

易経で粒焼のトップページには、
サイコロ3つ(8面サイコロ2+6面サイコロ1)をお持ちでなくても
ワンクリックで易を立てられるようになっています。

サイコロを振っている時間がなかったときなど、
このページにお世話になったことが何度かありました。

天地否の6種類の変爻についてのガイド文はこちらをどうぞ



【卦辞・象徴】
天地否の否は<塞がる>、<とじる>、つまり否定である。天(乾)の陽気は上昇し、地(坤)の陰気は下降するので、それぞれ互いに離れ離れとなり、いつまでも交わることはない。否は前の地天泰の天地を逆転した象である。泰はわが世の春を謳歌したが、否は今や八方ふさがりの閉塞状況にある。落ち込むだけ落ち込み、抜け出す気すら起きず、今や打つ手なしという有様である。

否は内に陰が成長し、陽が外に駆逐されようとしている象でもある、互いに排斥し合うので、これではなにも生まれない。それは人道からも外れているので、否は「人にあらざる」となる。続いて、「君子の貞に利あらず」、この状態なら、いかに君子が正道を踏み、正しく実を慎んでも、所詮どうにもならない。厳しいがそれは、「大征き(陽が去り)、小来る(陰がもどる)」からである。だがこれではまったく身も蓋もない。

天地否の卦は、対応する直前の地天泰と併せてよむとわかりやすい。この場合、明らかに陰は悪であり、陽は善である。しかし、この世は一瞬も遅滞なく循環している、これが易の基本である。万物はことごとく流転し、有為転変こそが常態であるから、きのうまで有ったのも1日経てばなくなり変幻自在である。つまりはすべてが循環して止まぬからである。

地天泰も天地否も、時に浮上しまた消え去る。それ自体まことに自然であり、多くは自覚することなく刻々経過している。自然界は陰と陽が常に絶妙のバランスを保ちながら、偏ることなく活発自在に交流しているから、そこでは、泰も否もよどんだまま停滞することはない。しかし人間界は少し違う、と易の作者は考えたのかもしれない。

というのも、この宇宙にはみえざる不思議なエネルギーが満ちあふれていて、あらゆる生命はそれを摂取し、それを滋養とする機能を備えているが、人間だけは、しばしば機能障害を起こし、この「気」をスムーズに採り入れることができなくなる。こうなると否の停滞現象が起きる。<塞がる>が常態となり、そこから容易に抜け出せなくなる。即ち天地否は生命のリズムに乱れが生じ、宇宙にみなぎる「気」をスムーズに取り込むことができなくなる状態である。

私たちの周囲を見渡せば、否が不自然によどんで停滞しているケースはなにも珍しくはない。理由もなく、なぜか気が晴れない、気が重い、気が塞がるといった憂鬱な症状が生じ、何をしても当然うまく運ばない。だがそれも致し方ない。そうなれば腹をくくって、後は時を待つしかない。陰極まれば、次は陽に転ずるのが天地の変わらざる理法だからである。


【事例・要約】
天地否という言葉から受ける印象は、天地の大法則を否定しているような、いかにも何か不自然なものがあるが、ともかく天地否は、右も左も真っ暗闇の閉塞状態であり、まさしく異常事態であり暗黒時代である。

たしかに苦しいが、しかし切り抜けるには、ひたすら否を甘んじて受け入れることである。少なくとも、過敏に考えるのは百害あって一利なしで、天地否は、要するに何をしてもうまくいかない、やることなすこと失敗する、前向きの気力が湧かない、そうした不調を表すものであるが、そうした「時」があるということは、人は周りと比較して思うのではない。逆に何をしても好調という時期が、本人にこれまであったせいである。

記憶の上では、それはすでに消えているかもしれない。しかし潜在的な意識は決して忘れてはいない。いざ思い出そうとしても、それは記憶の中からすぐには取り出せない、いわば隠された楽しい思い出というものもある。

物事すべてが順調に運んでいると、最初のうちはともかく、次第に順調であること自体、不思議でも何でもなくなり、しまいにはこれが当然と思えるようになる。そうした「時」は、まず記憶に残らない。しかし、潜在的な意識は覚えていて、深層からそれは生涯消えることはない。あたかも胎内で過ごした期間のように、あくまで顕在意識としては覚えていない。ただそれだけのことである。

そうした安らかな「時」を、人は必ず体験しているので、逆に否もまた認識することができるのである。第一易では、天地否の錯卦・綜卦はいずれも地天泰である。このことは、否はいずれは泰に移行することを示すが、同時に泰を体験した者だけが否もまた味わうことになる。

易が全巻を通じて首尾一貫奏でる基調旋律は、変わるということと変わらぬということ、「変易」と「不易」、この二つの対立する概念である。宇宙は刻々と変化し、人間世界も移り変わる。昨日は再び帰らず、今この一瞬は、もはや二度と再現しない。だがこうした動きにも、不易なるもの、つまり絶対に変わらぬものがある。年々歳々花相似たり、だが同じく歳々年々人同じからず。このように万象は変わるものと変わらぬものとで成り立っている。

つまり私たちの周りで何事が起きようともそれは決してでたらめで気まぐれのものではなく、あくまで厳然たる法則性のものに展開している。情けないことに多くは私たちにはただ見えないだけである。

これを一言で言えば、一寸先は闇であり、同じくまた光明でもある。昼あればこそ夜もある。夜あればこそ昼もあるので、夜に昼を望んだところで無い物ねだりにすぎない。よって、否をいたずらに畏れ、落ち込む必要はなく、意味のない不毛とみなす姿勢も誤りであろう。

 

易経読本
 
posted by Akinosuke Inoue 23:58comments(0)trackbacks(0)pookmark


この記事に対するコメント











この記事のトラックバックURL
http://ouraimono.terakoyapro.net/trackback/1400311