往来物手習い
むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。
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・・・だから親鸞はそうじゃなくって、もっと個っていうものに還元して考えようとした。
それまでの宗教の広く広くとる考え方とはまるで反対の考えかたで、もっともっと小さく縮こまって個々の問題を考えることで、人間の存在っていうものの原型に近いところまでたどりつく考え方っていうのを、親鸞は欲しかったんじゃないか。 そうすれば、本当に実感をともなうところまで持っていけるんじゃないかって。 人間の存在のしかたっていうのは、その人が本筋をどこでつかまえてきてるかってことに関係してくるわけですよね。つかまえかたがちがえば、個人の考えといえどもちがってくる。 それこど、外房と内房でもちがうし、漁師さんと商売人でもちがうし、おなじような信仰を持ってる人間の間でもちがってきちゃうっていう。 そういう中で親鸞は、個人の個性でもないし、もっと奥にある人間の原型みたいなものにたどりつきたくて、最後には人間の肉体、生理的な在りかたの問題にまで突入していく。 人間の個的精神の一番根底に還るっていうのが、親鸞の考えだったとおもいます。 うず潮は、そういう親鸞が最後にたどりついた場所でした。 外房と内房とでは、海流の水の水位がかなりちがう。それでふたつの海流がまじりあうと、うず潮という現象が起きる。そういうことは、昭和になって調査してわかったことで、親鸞の時代にはまだわからなかった。つまり親鸞は、ふたつの海流が出会うとどうなるのか、その場所に行くまではまだ知らなかった、見たことがなかったんじゃないでしょうか。 また外房と内房では、生息している生き物も、獲れる魚もちがうし、住んでいる人間の気質も、信仰の立てかたもやっぱり少しずつちがっていました。境界というものを大事に考えた親鸞ですから、異なるふたつが接する場所にはきっとものすごく関心があったはずです。 ぼくの考えでは、それを確かめたくって親鸞は関東の果ての果て、房総半島の先端に向かったんじゃないか。 (中略)
そのためにそれまでの全部を捨てて、たったひとりで、とにかくそこに行ってみようとおもって行ってみたら、たどりついたその場所ではふたつの海流がせめぎあって、うずを巻いて、うず潮になっていた。 異なるふたつのものがあわさって、まじりあうってことはこういうことなのか。
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