往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。


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村瀬学『次の時代のための吉本隆明の読み方』より

次の時代のための吉本隆明の読み方

地図とはいったい何なのだろう、という問いかけを考えていたときに、ふと思いがけない形で「吉本隆明」が見えてきた。それは「見えてきたぞ!」というようなちょっと不思議な体験であった。

「吉本隆明を論じる」というのは、批評家にとってはさまざまなことを意味している。彼の数え切れない著作と、意味の定まりにくい用語群のはざまで、そういうものを読みこなすことが「吉本隆明を論じる」批評になる次元から、彼と論戦し、罵詈雑言の応酬のはてに、彼の存在の1から10までを否定しつくすことが「吉本隆明を論じる」ことになる次元まで、「吉本隆明を論じる」スタイルはじつにさまざまであった。

後から来たものは、そういう先人の「戦いぶり」が、すこぶる興味深かったし、そこから学ぶものはたくさんあった。でも、そこから自分が「吉本隆明を論じる」ということには、なぜか至らなかった。自分が論じる「動機」が、そういう批評史や論戦史のなかには、なかなか見いだせなかったからだ。

ところが「地図」について考えることになってから、急にというか、一気に「吉本隆明」という在り方がリアリティをおびるようになっていった。
わたしがそのとき考えたのは、こういうことだった。たとえば、人は、青年期に「哲学」の本を読んだりするのは、人生を生きるための「地図」を得たいと思ってのことではなかったか。社会に出ると、今度は社会情勢や政治情勢を読み解くための「地図」を手に入れたいと思うようになる……。

「吉本隆明」という存在は、そういう意味では、日本のある時代の「地図」として読まれていたことがあった。でも、それが「地図」にならないと「見切り」をつけられる時期も後に出てきていた。彼がもしあるときに「地図」であったときがあるなら、そういうことは起こり得ただろう。世界や時代は動き変化しているのだから、あるときに使えた地図をいつまでも使えることはあり得ないのだから……。

しかし、わたしが今述べた言い回しには、決定的に問わなくてならない問いが一つ欠けている。では、そもそも「地図」とはいったい何なのか、という問いかけである。おそらく哲学の根本の問いも、じつはこの「地図とは何か」という問いに関係している。人生の指針・地図としての哲学、そして、その思考地図としての哲学史……。

そういう「地図」への問いを自覚したときに、急に「吉本隆明」が見えてきたのである。それはまるで気球に乗った人が感じる視界の開けのような体験だった。

詳しいことは、本文を読んでいただくしかないが、もしこの「気球に乗って見えてくる……」という言い回しの「見え」がこのあとの本文の光景として見えてきたなら、わたしがそれを比喩として言っているわけではないことが、わかっていただけるに違いない。


村瀬学『次の時代のための吉本隆明の読み方』(洋泉社・2003年初版)まえがき全文

 
COMMENT:村瀬学さんは、1949年生まれの児童文化研究者、心理学者。わたしが昨年のお正月明けに宇田亮一さんの『吉本隆明 こころから読み解く思想』を読んだときに感じたことも、まさにここに書かれているような「まるで気球に乗った人が感じる視界の開け」体験だったので、ここで紹介したまえがきに記された「地図」という言葉とその問いは、読み解く上での重要なキーワードだと感じています。吉本さんを論評した書物は数多ありますが、この本のように次の時代に活かそうとする視点を明確にうたったものはそれほど多くはなく、吉本隆明ビギナー向け入門書としてオススメの1冊。現在では洋泉社版は絶版で古書でしか入手できませんが、2012年に言視舎から増補版が出ました。
posted by Akinosuke Inoue 22:33comments(0)trackbacks(0)pookmark


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