往来物手習い
むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。
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糸井:どうしても人は「善悪」を大きな判断基準にしてしまいがちですが、東日本大震災が起きて、多くの人が「実はそんな単純な話ではない」ということに気づき始めたんじゃないかと思います。でも、「じゃあ、一体どうすればいいの?」というところで戸惑い、立ち止まってしまっているんじゃないかという気もするんです。価値判断のよりどころを、見失ってしまったというか。 吉本:その点に関して、親鸞ははっきり言っています。「善悪の問題を、第一義のことと錯覚してはいけない」とね。何かをしたほうがいい、あるいはしないほうがいいといった判断を「善悪」に基いてしてしまうと、どうしても自己欺瞞に陥ってしまいます。そうではなく、「人には『契機』というものがあり、それによって、『おのずから』何かをしたいと思ったらすればいいし、したくないと思うならしなくていい。そう考えればいいんだ」と言っています。「自然法爾」という言葉が仏教用語にありますが、これはまさに、人為ではなく、あくまでも「おのずから」に任せる、つまりは他力という状態でものごとを考えるということで、親鸞の考え方の、ひとつの核となる部分だと思います。 糸井:いま仰った「契機」に関しては、『未来に生きる親鸞』で詳しく解説されていますし、『親鸞から見た未来』で言及なさっている「緊急の課題」と「永遠の課題」という喩えについても、今日のお話をふまえた上で読んでみると、また新たな発見がある気がしてきました。 吉本:親鸞の思想というのは、現代、そして未来にも通用する部分がたくさんあると思います。「契機」についてもそうですし、「死」というものをどう捉えていくか、という点についてもそうです。いまひとつだけ申しあげるとすると、親鸞は「死」というものを、「あの世」と「この世」の中間に移したと言えるでしょう。その場所がいわば「浄土」であり、そこに往って還ってくる視線が、とても大事になってくるわけです。そうすることによってはじめて、「親鸞がいまに生きていたらどう考えるだろう」ということを、実感として語れるようになっていくのだと思います。 糸井:中世に生きていた頃の親鸞が出した結論を、そのまま援用するのではなく、親鸞がいま生きていたと仮定して、そこから考えてみるということですね。
吉本:その通りです。かつての教えをいまに当てはめるのではなく、かつて用いたであろう思考法を、現代ならではの視点をふまえて、もう一度たどってみることが大切なんです。 糸井:だとすると、親鸞がなぜそのような思考にたどり着いたのかを見極めることが重要になってきて、それにはやはり、京都を出てからの親鸞について、思いをめぐらせてみる必要がありますね。
吉本:過酷な暮らしをしていたと思いますよ。新たな土地ばかりを歩いていますからね。僻地を歩いて自分で開拓をしたり、時にはふつうの農民と同じく畑仕事もしていますからね。 糸井:京都を離れて越後や常陸まで赴いた道のりや、その地で僧侶として果たしていた役割を改めて想像すると、非僧非俗という考え方も、妻帯や肉や魚を食べることも、不思議ではない気がします。 吉本:そうですね。僧侶が妻帯するという習慣は平安の頃から始まってましたが、親鸞は、独特の言い方で妻帯について語っています。たとえば、「自分は人に教えることが好きだった。それに女の人が好きだった」と公然と語り、「そのふたつの要素があったから、自分はふつうの人にはなれなかったし、それが自分の弱点だ」と言っています。ふつうの人というのは、土地を耕したり、工事をしたりする人ということですが、自分は人にお説教をすることが好きで、生涯やめられなかった。その一方で、戒律を設けて独身を守れなかった。行く場所場所で奥さんを見つけて、一緒に生活をしていた。そのふたつの点において、自分はふつうの人にもなれなかったし、本格的な坊さんにもなれなかった、と言っています。 ふつうの坊さんにとは考え方がまるで反対ですね。「駄目なんだ」と言っていますが、実はそこがすごいところなんですけどね。ふつうの坊さんは、どこかに座って寺に弟子を集めて、勢力を拡げようと考えていましたが、親鸞は逆で、「自分は『ふつうの人になりたい』とつとめてきたんだけど、女の人と、人にものを教えることが好きで、それをやめられなかったことにより、ふつうの人よりも堕落した人間なんだ」という独特の自己評価、つまり非僧非俗であると判断を下しているわけですから。 糸井:ふつうの坊さんなら隠そうとしますよね。でも親鸞は、それを一切隠さないで、あからさまにしているところがすごい。 吉本:そうなんです。そこからいけば、親鸞というのは、一見坊さんとしては変わり種ですが、ぼくは、問題にならないくらい偉い人だと思いますね。ふつうの坊さんよりも堕落していたという自己評価、そういう自覚を持っているというのが、すごいと思います。 ※『吉本隆明が語る親鸞』(東京糸井重里事務所・2012年初版)プロローグより
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