往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。


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五木寛之『愛について 人間についての12章』

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マニュアルをほしがる風潮はなにもセックスに関することだけに限りません。生身の人間を扱う医療や教育の現場でもその傾向が強く、しばしば大きな混乱をおこしています。最近の小学校の出来事です。生徒からきわめて無邪気に何の悪意もなく、「先生、どうして人を殺してはいけないんですか」という質問が寄せられて、先生たちはその都度立ち往生してきた。そこで、教育関係者たちの集まりで、そういう質問に対する模範解答を作ってほしい、対処の方法について具体的なガイドラインを設定してほしいという意見が数多く寄せられたというのです。

その話を漏れ聞いて、非常にびっくりしました。そのような質問に先生たちが答えられないのは当然です。そこで、「ほんとにどうして殺しちゃいけないんだろう。戦争だと殺さなきゃいけないのにな」と一緒に頭を抱えてもいいでしょう。絶句して、立ちすくんでもいいでしょう。「なに言ってるんだ。そんなこと当たり前じゃないか」と、信念を持って一喝する手もあるでしょう。教師がそれぞれの心の声にしたがえば、さまざまな答えが生まれて当然です。そのときの率直な、正直な対応の仕方こそ、子どもに対する大切な教育なのではないでしょうか。

画一的にひとつのスタイル、ひとつのノウハウ、ひとつのガイドラインというものを設定して、そのマニュアルにしたがって生徒に答えを与える、そうなってしまったら、それこそ人間性は殺されてしまっているといっていい。

 

そのような(マニュアル的な)機械的な教育が横行しがちな中で、一人の人間的な教師の話を聞いて、とても感動しました。それは、伝統ある私立小学校の性教育の時間のことです。男女共学のその学校では、4年生のときに、男女別々に、理科の先生からセックスについての話を聞くのが慣わしでした。最近のませた小学生は10歳になるかならないかでも、すでに、セックスとはどんなことをするのかという知識は持っているそうです。そして、腕白坊主の何人かは、独身の理科の教師が答えにくいことを聞いて困らせてやろうと手ぐすね引いて待っていました。教師がひとしきり、人体図を見せながら男性の性というものを科学的に説明し終わると、一人の子どもが手をあげて、質問したそうです。
「先生はどんなときに、おちんちんが大きくなるんですか?」
独身の先生はその質問にちょっとたじろいだものの、こう答えました。「好きな人と一緒にいるとき」。その素直で率直で自然な答えに、いたずら坊主たちは息を呑んで静まったといいます。彼等は一瞬ひるんだ態勢をすぐに立て直して、重ねて聞いてきたそうです。
「女の人とセックスすると、気持ちがいいんですか」先生は答えました。「好きな人を大切に思いながらすると、気持ちがいいし、そうでもない人と、遊び半分にすると、あんまり楽しくないんじゃないかな」と。

自分たちの質問の意図を承知しながら、それを真正面から受け止めて、人生の大切なことを教えてくれた先生の率直な心は生徒達にストレートに伝わりました。もうだれもからかったり、嬌声をあげて騒いだりしなかったそうです。深い温かい感動がクラス全体に静かに流れて行ったそうです。子どもたちの良心は目覚め、確かになにかをつかんだのではないでしょうか。


マニュアルなしで、ガイドラインを持たずに、ひとりで生徒たち向かい合った先生の自然さ、率直さの中には、学ぶべき点がたくさんあるように思います。このような自然な気持ちで、自分たちの性をもう一度見直すことは、とても大事であると感じているのです。繰り返し言いますが、人間には百人百様の生き方があります。こういう生き方が望ましい、こういう生き方でなければならないという決まりはどこにもないはずです。それと同時に、百組の恋人同士には、百の愛の形、ラブスタイルがあるのだと私は思うのです。
 

五木寛之『愛について 人間についての12章』(角川書店・2003年) 第12章 新しい愛の形 より

posted by Akinosuke Inoue 23:24comments(0)trackbacks(0)pookmark


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