社会がますます機能化と能率化を高度に推し進めていくとき、言葉は言葉の本質の内部では、ますます現実から背き、現実から遠く疎遠になるという面を持つものであり、言語は機械化に向かえば向かうほど、言語本質の内部での疎遠な面を無声化し、沈黙に似た重さをその背後に背負おうとする。つまりコミュニケーションの機能であることを拒否しようとする。
−−−吉本隆明『自立の思想的拠点』(徳間書店)より
昔読んだので記憶があいまいだが、ジョージ・オーウェルの近未来SF小説『1984年』に、全体主義社会では、住民たちは、ニュー・スピークと呼ばれる簡易言語を話すようになるエピソードがあったと思う。語彙の少ない簡単な表現ですべてコミュニケーションが成り立ってしまうのである。
この未来予測は、少なくとも日本にかんする限り、見事に当たった。「ムカつく」「感動した」「泣ける」「KY(空気読めない)」etc.。まさにニュースピークそのものである。それどころか、ニュースピークの首相まで現れ、マスコミでもニュースピーク派が多数派を占めるという状況が生まれてきている。全体主義社会ではないにもかかわらず、である。
では、なにゆえに、高度資本主義の社会で、このようなニュースピーク化現象が起きるのかと考えているときに、最初の言葉に出合った。
すなわち、社会が機能化と能率化を追求していくと、当然、言語もそれに伴って機能化・能率化する(つまりニュースピーク化する)わけだが、その一方で個々の言葉は、現実から遠ざかるという指摘である。ソシュール理論のシニフィアン・シニフィエでいうと、シニフィアン(音声・文字記号)によって喚起されるシニフィエ(概念)の中で、その概念抽出のもとになる「現実」とのつながりが失われてしまっているということだ。吉本の言語理論なら、指示表出ばかりが前面に出て、自己表出が稀薄になることだ。
しかし、では、こうした現実から離れ、薄っぺらになったニュースピーク(機能化言語)を用いている人は、それによって、コミュニケーションがより円滑になっているのかといえば、そんなことはない。むしろ、逆であって、ニュースピークでは掬いきれずに残る感情と心理の余剰部分(自己表出部分)は、澱(おり)となって心の底に沈み、無声の言語、すなわち沈黙でしか表現できないものと化す。
その象徴が、という筋書きに当てはめて考える。すなわち、昨今のわが国で、殺人や傷害致死などの重大犯罪を犯して逮捕された少年・少女たちの口から洩れてくるあきれるような言葉の数々である。犯罪の動機というには、あまりにも幼稚で単純な言語!
「なぜ殺したのか?」
「ムカついたから!」
「なぜムカついたのか?」
「無視されたから」
「どのようなところで無視されたと感じたのか?」
「わからない」
これはつまり、「言葉のコミュニケーション機能の拒否」である。
彼ら少年・少女(ときには中年・中女)はニュースピークを用いているからといって、感情や心の襞がないわけではないし、それを表出したいという願望がないわけではない(ニュースピークによるブログの繁盛を見よ)。ただ、困ったことに、ニュースピークでは、最も本質的な部分、つまり、一番言いたいことが、沈黙という言語でしか語りえない構造になってしまっているのである。なんというパラドックス!
機能化・能率化を目指した社会は、機能化・能率化言語としてのニュースピークを生んだが、そのニュースピークは逆にコミュニケーション機能の喪失をもたらし、いわゆる語り得ない「心の闇」を大量発生させる結果となったのである。
ところで、マルクスの指摘をまつまでもなく、言語のような上部構造は、経済という下部構造を、ある種、歪んだかたちで反映しているという。ならば、効率化・能率化を追い求めたあげくに自爆した経済を、これからの経済はどのようなかたちで反映することになるのだろうか?
ニュースピークの解体だろうか、それともさらなるニュースピーク化の加速だろうか? こちらも予断を許さない状況になってきているようである。