往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。


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吉本隆明『ひとり 15歳の寺子屋』より

ひとり 15歳の寺子屋

だから、みなさんも「自分には特別な才能がないかもしれない」なんて悩むことはないんです。なんだっていいから、やってみりゃぁいい。
そうすると、自分でも思ってもいなかったところがだんだん底光りしてくる。
やってるうちに自分の姿が自分なりに見えてきて、鋭いのは鋭いなりに、鈍いのは鈍いなりに、なんともいえないその人だけの値打ちが出てくるものなんです。それこそがその人の<才能>であり、その人の<宿命>と呼べるものなんですよ。
みなさんはまだ若いから、<宿命>なんていわれてもピンと来なくて、「よしてくれよ。ただ好きでやってるだけだよ」って思うかもしれない。それでいいと思うし、若い頃はそれくらいしか自分を決めていく方法はないだろうなというふうに思います。
好き嫌いだけで大いにけっこう。
まちがったっていいから、やってみることです。
若い時のよさって、それですからね。好きでやってるんだから大まちがいだっていいじゃないですか。まずはそこから始まるわけで、いつか底光りが出てくるぞって思ってやってりゃいいんです。
実をいうと、僕もそれを頼みにしてやってきたんだけど、ちっとも出てこないんだ、この底光りってヤツが。人生も残り少なくなってきたし、こりゃもうダメかなって思うけど、でも「じゃあやめるか」っていわれたら、やめることだけはなんとなくできない。なんでかっていえば、もう手がいうこときかねえよってことがあります。ほかのことやれっていわれても、この手でほかのことができるかよってくらいになっちゃってる。ずっと手を動かすっていうのは、つまりそういうことでもある。
手を動かしてみな。手があなたのダメなところも値打ちも全部ちゃんと知ってるよ。
才能があるかどうかなんてことはわからなくっていい。ただ、ひたすらに手を動かしてさえいれば、自分のなんともいえない性格とか、なんともいえない主義とか、なんともいえない自分なりの失敗とかがんばり方とか、そういうものがひとりでに決めていくものがある。そうして決めていった挙げ句のものが、<才能>であり<宿命>なんだと僕は思います。
逆のいい方をすると、自分の生涯の終着点みたいなものは、あらかじめ決めない方がいいですよ。決めたところでその通りにはならないし、運命があたえてくれるものが戦争であったり、平和であったり、それぞれの時代にそれぞれのものがやってくるだろうけど、それは受け取るだけ受け取った方がいい。
受け取ったあとで、どういうふうにそれと向き合うかっていうのが、それぞれの人の「生きる」ってことなんだと思います。


※吉本隆明『ひとり 15歳の寺子屋』(講談社)より
 
posted by Akinosuke Inoue 23:48comments(0)trackbacks(0)pookmark


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