往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。


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高橋悠治『きっかけの音楽』より

きっかけの音楽_高橋悠治.jpg
 
1960年代には草月アートセンターの小冊子「SAC]ジャーナルに書いていた。その頃の前衛的な立場で、音楽から距離をとり、問いかけ、批判するためにことばを使っていた。

1970年代、
雑誌「トランソニック」を編集していた頃から、古代日本語を使った曲を書き、批判することばの意味だけでなく、響とリズムに関心がひろがった。

音はすぎゆくものだから、それを書きとめれば記憶となり、死んだひとたちを忘れないための音楽にもなる。ことばも響きあいの不規則なリズムが身体に共鳴し、さまざまな意味となって散っていく。問いかけには、一つの答えがない。問いはまた問いを生み、すこしずつことばの風景は変わる。

1980年代には
「水牛楽団」でたくさんのプロテストソングの訳詞をし、「水牛通信」に毎月のように書いていた。いまもインターネット上の「水牛」に毎月書いている。それらのことばが集められて本になるときは、それを編集した人の観たことばの空間がひらく。

この本の場合は、小川純子の選んだことばがあり、二系列にわけてそれぞれ年代順に並べられている。「 作曲ノートから」は音楽論、「 ふたたびどこへ」は追憶と別れのことば、最後に、失われていた1970年代の二つの論文がくる。

一つはエピクロスの自然哲学による児童合唱曲について書いた文章、偶然のかすかな偏り(クリナメン)からの創造は、いまなお指針でありつづける。

もう一つはドビュッシーの作品の底流となっている水の女のメロディについての音楽的分析。分析方法はあの時代の影響と限界のなかにあるだろうが、作品の表面に見えるものではなく、身体の沈黙の声を聴きながら、音楽の、そして音楽からの解放にいたる道は、いつでもひらかれている。

本のタイトルとなった「きっかけの音楽」は、シューベルトのMoments Musicauxから。いまふつうに「楽興の時」と訳されるが、もともとmomentは動き出す瞬発力を指すことば。クリナメン(偏り)ともどこか通いあう。


高橋悠治『きっかけの音楽』(みすず書房)あとがき

COMMENT:現在版元のみすず書房で品切れ状態ですが、目次や内容、著者プロフィールなど詳細が記されているので、関心ある方はぜひこちらのページを併せてご覧下さい。とくに、小沼純一さんが書かれた「『きっかけの音楽』に寄せて」がとっても読み応えあり、わたしも20代の頃、当時は本に未収録のままだった高橋さんの「ドビュッシー序論」の元原稿を探しに、東京文化会館の音楽資料室まで出向き、雑誌「あんさんぶる」をコピーしたことをおもいだしました。
 
posted by Akinosuke Inoue 22:37comments(0)trackbacks(0)pookmark


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