往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。


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自然について 〜エピクロスのおしえ〜(その2)

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これは、1974年にかいた、こどものための合唱曲だ。

よくある、こども用の音楽をつくるつもりはなかった。おとながかんがえる、けがれのないこどもの世界や、その反対に、一歩ずつおしえみちびかなければならない未開の状態であるこども時代を、こどもにおしつけるのが、教育用の音楽だとおもわれている。教育は、こどもが知るのには「早すぎる」こと、「ふさわしくない」こと、「必要のない」ことをかくし、おとなのおもいどおりに行動するおとなしいドレイをつくるためにある。それは、自然にうまれてくる現実への関心をゆがめ、学習とあそびのくみあわせとしての行動パターンを抑圧してしまう。

集団の音楽は、学習過程であると同時にあそびなのだから、ことばとむすびつけて、現実への関心をかきたてることができれば、体の運動と一体になった思考のスタイルをつくりあげることができるだろう。この統一的なスタイルは、社会とその教育の抑圧装置のなかで、成長するとともにうしなわれていくものなのだ。

エピクロス(ルクレティウス)のテクストは、問題提議のためにえらばれた。世界の構造についてのこたえをあたえるためではない。なぜエピクロスなのか。

 
それは古代の終わり、動乱の時代の哲学だった。キリスト教的中世によって弾圧され、記憶はおおくうしなわれた。近代のおわり、動乱の時代にそれをふりかえるのは、充分意味のあることだ。

それは快楽を最高原理とするために快楽主義とおもわれ、心の平静をおもんじ、現実から逃避する非政治的な哲学とうけとられてきた。いまのこっている文書から、その真の姿を推測するのは、たしかにやさしくはない。

わかいマルクスは、エピクロスの原子論を原子の直線的落下、その偏り、結果としての反発という三段階に整理し、ヘーゲル的な三段階の図式にあてはめて、原子の偏りが自立した個であり、反撥が社会的関係であることを類推する。すると、快楽とは苦痛からの偏りであり、心の平静とは混乱からの偏りを意味する実践的な原則であることがわかる。

あらゆることが必然の原因・結果の鎖のなかでしか起こらないという宿命論に対して、偶然としかかんがえられないような原子の自発的な運動を主張し、星のかすかな変化さえ、原因結果の鎖のなかでわれわれの生活を大きく支配することになるという神学に対しては、知覚を満足させるなら、天体の運動については何通りもの説明ができるという、客観的な実在の多面性と、そこからの選択の戦術性を主張したことは、哲学が認識でなく、実践であるのでなければ、ありえないことだったろう。原子の運動の必然論を主張したデモクリトスの「ニセの」唯物論は、ヘーゲルの用語を転用しながら、マルクスによってバクロされる。しかし、マルクス主義以前のこの段階では、実践の核心はまだ暗示されているにすぎない。

エピクロスの哲学が、女やドレイやこどもにも友情によってひらかれた、集団的実践だったことの正当な評価は、延安以後の動乱の時代の哲学の出現によって、はじめて可能となった。友情は、人間の関係の自己管理であり、哲学は集団の自律的な生活と思考のスタイルだから、女やドレイやこどものように抑圧された者たちの間でこそ、生存のためになくてはならない知恵になるのだ。

1) かんがえるためのきそく
    エピクロスはいう
    かんがえるとき ことばから
    もののかたちが うかびあがる
    かんがえるとき ことばから
    もののかたちが うかびあがる
    それをしっかり つかまえるならば
    きりのないせつめいは もういらない
    そのときそこで かんじるままに
    みるものは いつもただしい
 

*高橋註:具体的なイメージをともなうことばは、民衆のことばで、知識人のことばではない。このことばをつかう哲学は、認識におわることはない。直接的な知覚は、現実をとらえることができる。

 

2) うちゅう
    うちゅう
    ないものからは なにもうまれない
    ないものからは なにもうまれない
    ないものからは なにもうまれない
    それでなければ なんでもが
    なにからでも かってにうまれて
    たねもいらない ことになる
    なにかが みえなくなったとき
    それがきえて しまったとすれば
    せかいじゅうのものは とっくに
    なくなっているだろう
    うちゅうぜんたいは いまあるとおり
    いつもあった
    これからもきっと このとおり
    あるだろう
 

*高橋註:無からの創造を否定するだけではない。全体がつづいていくためには、外からの力を仮定しなくても、種の自律的な成長や変化だけでたりる。内部の変化が、全体の変化をささえている。
 

3) ものとすきま
    ものとすきま
    もののなかには すきまがある
    もののなかには すきまがある
    それはどうしても さわれないばしょ
    どうしても さわれないばしょ
    かたいいわにも みずはしみこむ
    こえは かべをつきぬけ
    はげしいさむさは ほねにしみる
    すきまがなければ もののあるばしょはなく
    それがうごけるところもない
    みずのすきまをみつけて さかなはすすむ
    さかなはすすむ さかなはすすむ
 

*高橋註:有と無の矛盾の三重の相互関係。空間は物質の位置であり、その運動を可能西、しかも物質の内部にも存在する。

 

4) げんしのあめ
    げんしのあめ ふかい くうかんを
    げんしのあめは まっすぐおちてゆく
    もしもどこかで あるときあるものが
    かすかに かたよらなかったら
    どこにもなんにも おこらなかったろう
    「げんしは おちる あるものはまがり
    あるものはぶつかりあい からみあい
    あるものははねかえり とおくとびちる」
    こうして ふるいせかいはくだけ
    あたらしいちからが わきあがる
 

*高橋註:静的な秩序の抑圧的な力に対して、偏りがつくりだす運動の破壊的な力がたえずはたらいている。

 

5) かぞえきれないせかい

    かぞえきれないせかい
    かぞえきれない たくさんのせかいがある
    ちきゅうに にたせかい
    にてないせかい
    かぞえきれないげんしが
    うちゅうをとびまわり
    つかいきれない くみあわせが
    とおくはなれた たくさんのせかいを
    うごかしている
    せかいは かわりつづける
    いつまでも

 

*高橋註:これについては説明する必要はないだろう。これら五つのテキストは、エピクロスの自然哲学の要約であり、正統的な解釈ではなく、現在こどもたちが世界について考えるときの手がかりを提供する。テキストについての討論から、音楽の練習がはじめられるのがのぞましい。

高橋悠治『きっかけの音楽』(みすず書房)より

COMMENT:6/4にテキストのみご紹介した高橋悠治さんのこどものための合唱作品『自然について=エピクロスのおしえ』についての解説文です。また、悠治さんのコメントをつけてテキストを再度引用しました。昨日6/5の記事は、この文章が収められた著書のあとがきで、今日の記事を読んだあとに再度読み直すことで書かれていることへの理解がふかまるとおもいます。
冒頭に置いたエピクロスのクリナメン(偏り)の画像は、こちらのページから拝借しました。
posted by Akinosuke Inoue 22:01comments(0)trackbacks(0)pookmark


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