往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。


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「エピクロスの空き地」展 フライヤーより

「エピクロスの空き地」展flyer.jpg

美術という雨が降り終えた。

地球に広く落ちた水は、

いくつかの種を流し、いくつかの種を芽吹かせる。


美術が降り終えた後/跡で、

まだ美術のただ中にいるかのように振る舞うことは、

甘美な「追憶」であるかもしれないが、

未来へつながる「反復」にはなりえないーキルケゴールが思い描いたような。


もし「反復」を志すならば、

それはもっともっと深く大胆な

「反復」でないといけないのかもしれない。

例えば、紀元前の地中海。
その周辺の島、半島、海峡。

偉大な陸の王国、

エジプト文明が恐ろしく長い黄昏を生きていたとき、

新しい朝を目指す人々はその辺境の地形を、
うろうろしていた。

真ん中ではなく周りにいること。

ふらりふらりとしていること。

小さな風に吹き寄せられるような、
軽い破片のような存在であること。

輝く黄金の壮麗な寺院ではなく、
薄暗い原っぱに立ちずさんでいること。


わたしたちは、この条件を、とても新鮮に感じている。

瓦礫を粉砕する作業は長く続き、
粒子は基盤を失ってただただ落下してゆく。
粒子をさらに砕こうとする手は、虚空を切る。
その身振りだけが残像となる。

 

むしろ、粒子を繋げる契機を探し出す。
乾いた砂を連ねてみる。

「反復」を超え、地中海を経由してまた舞い戻る。
「自分自身を脱ぎ捨てるということについて」。
ギリシアから離れ、それでもプラトンなどを引きながら、
森の近くである僧侶は考えていた。
「しかしわたしは、すべての愛にも増して離脱を称える。
 その理由の第一は、愛における最善のことが、
 神を愛するよう愛がわたしに強いることであるのに対して、
 離脱はわたしを愛するよう神に強いるからである。
 わたしがわたし自身を強いて神へと至らせるよりも、
 わたしが神を強いてわたしに来たらせることの方が
 何倍もすばらしいことである。」

「離脱」。そのとき、わたしに到来するもの。
落ちてくるもの。

美術を、黄金時代のデンマークを、紀元前の海辺を、
中世の教会をくぐり抜けたわたしたちには、
核兵器が、発電所からの飛来物が、白刃が、次から次へと落ちてきた。
この次はいったい何が落ちてくるのだろう。
わたしたちは、なにを落としてきたのだろう。
なにを落としに、空に上るだろう。

ここから未来を、
美術が降り終えた後の美術を構想する。
反復し、離脱し、
これから降り注ぐものを受けとめ、
また自ら降り注ぐ。
夜明けを告げる声は、何度か繰り返される。
その朝が美しいものかどうかは分からないけれど。

 

COMMENT:7/1に観てきた「エピクロスの空き地」展フライヤーのなかに記されていた詞です。
posted by Akinosuke Inoue 23:56comments(0)trackbacks(0)pookmark


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