往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。


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あるがままを受け入れることと現状肯定の違い

為末大さんが2年まえの夏に書かれた「あるがままを受け入れることと、現状肯定の違い」というブログ記事があります。

 

この記事を読みながらまず最初におもいだしたのは、二村ヒトシさんが、『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』(文庫ぎんが堂)のなかで「自己受容」と「インチキ自己肯定」 と使い分けられていたことでした。

 

つまり、この「あるがままを受容する」という言葉はなかなか厄介で、「そのままの自分でイイんだ」という風に、現状をそのまま肯定することと誤解されやすいんですね。
 
「わからない、できない、考えない」をキャッチフレーズにしている寺子屋塾なので、わたしも「できない体験が大事」「できることを目的にしない」といった言葉をよく口にするんですが、「自己受容」ではなく、「そのままの自分でイイんだ」という風に解釈をされることもすくなくありません。

 

この「自己受容」とは、自分を肯定するのではなく、肯定も否定もしない・・・つまり、イイとか良くないとかいう自分の判断を手放すことで、自分の思考の枠組みから自由になることを言っていて、「現状肯定」とはまったく違うんですが、そのあたりのニュアンスはなかなか伝わりにくいなぁと。
 
人間生きていると日々いろんなことが起きます。

 

まわりの状況は常に揺れ動き変化していますし、そうしたおもいがけない出来事は、自分のあり方や生き方を考え直すきっかけというか、自分の良し悪しのモノサシの基準を問いなおすことにつながっているんですね。

 

でも、往々にしてひとは、いままで形作ってきた思考の枠組みに無自覚なまま日々を過ごしているため、目の前のできごとをそうした自分の思考の範疇でしか捉えられず、都合の良いように解釈してしまったり、自分の本心とちゃんと向き合うことなくやりすごしてしまったりすることがしばしばです。
 
そうです。大人も子どもも、だれもが例外なく、ほんとうは心の底では「できるようになりたい」とおもっているのです。ちがいますか?

 

まわりが自分をどう評価するかとかいうことと関係なく、いままでに無自覚のうちに形成されてきた価値観の刷り込みなどを排して「自分は本当はどうしたいのか?」と純粋に自身に問いかけたとき、「自分はできないままでいい」とおもうひとなどひとりもいません。

 

よって、「できない体験が大事」というのは、できないままでイイとおもっている故のコトバではなく、「できない体験」を、いままでもっていた、「できることがイイことで、できないのはよくないこと」といった判断のモノサシやおもいこみについて自分自身に問いかけ再考するきっかけとして欲しいんですが、ほとんどの人にそうした経験が過去にないようで、なかなか伝わりにくいんですね。
 
寺子屋塾の塾生のなかにも、できない体験をきっかけにさまざまな問いが浮かび、いままで自分の知らなかった側面を発見してどんどん変化していく人と、できないままでなかなか変化しない人とがいます。

そうした、できない状態のままでなかなか変化していかない人たちには、できない原因を「仕事が忙しい」「気分がすぐれない」など外的環境や条件のせいにして自分自身を観ようとしていなかったり、逆に、外的な環境条件を問うことなく目の前に起きている現象のネガティブな側面ばかりにフォーカスし過ぎて必要以上に自分を責め、やろうとする気力自体を失わせてしまっていたりという、いくつかの共通点があることもわかってきました。
 
結局、不条理なのは世の中の方ではなく、私たちの頭の中の思考であって、自分を苦しめているのは他でもない自分自身なんですね。

 

でも、このことがほんとうに腑に落ちると、為末さんが終わりのほうで書かれているように、「考えても仕方がないことは考えるのを止め、目の前のことをたんたんとやりつづける」という所へ行けるような気がするんですが、いかがでしょうか?

posted by Akinosuke Inoue 22:04comments(0)trackbacks(0)pookmark


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