往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。





野口晴哉『健康生活の原理 活元運動のすすめ』より(その2)

 


5/9に書いた記事の続きです


私の子どもが学校で保健体育の時間に赤痢の話を聞いて来て、「水を飲むのも、お菓子をつまむのも恐ろしくなってしまった」と言いますので、私が何気なく、「いままで水を飲んでも赤痢にならず、菓子をつまんでも無事でいたのは何故かな」と訊きますと、彼は真剣な顔をして考えていましたが、しばらくして、「大切なことを忘れていた。僕たちは生きているんだ。生きているから生きるのに必要な働きが起こるんだね。抵抗力とか、予防する力とか……その生きている力が弱ると赤痢になるんだね」と言うのです。生きていることを忘れていたのは彼だけではなく、現在の大部分の人がそうなのです。予防を知識として知って活用することは大切ですが、知識が過度になりすぎて病菌が恐ろしくなってしまうと、その生きる働きが萎縮してしまうのです。

人間が生きているということは、体があるからではない。食物があるからでもない。空気があるからでもない。他の何らかのもので生きているのであります。

けれど世の中には、体によって生きていたり、食物によって生かされていたり、空気があるから生きていると考えてしまっている人も少なくない。そういう人は、食物をよりどれば丈夫になると思う。新鮮な空気を吸っていれば丈夫になると思う。心を堅固にすれば丈夫になると思っている。しかし、それはみんな違うのです。生きているということは、そういう一つ一つの部分的なものを相手にして意気込んでいると、健康に生きるということとは違ったところへ行ってしまうのであります。(→その3に続く)
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啐啄同時(そったくどうじ)

 

最近、長い記事や引用が多いので、今日はさらっと短めに終えようとおもいます。

 


4/22の記事でご紹介した『アレクサンダー・テクニーク やりたいことを実現できる<自分>になる10のレッスン』著者・小野ひとみさんと鴻上尚史さんの対談の終わりの方に、結局、何事においても大事なのは、「方向」「バランス」「タイミング」という話が出てきます。


先般、この「タイミング」「バランス」「方向」の3つが大事だということを、たった1つの言葉で表している四字熟語があると気づきました。

それは、「啐啄同時(そったくどうじ)」で、禅に由来する仏教の言葉らしいんですが。

「啐(そつ)」は雛鳥が内側からたまごのからをつつくこと、また、「啄(たく)」親鳥が外側からからをつつくことを意味します。


つまり、雛鳥は自分のくちばしでたまごの殻を内側から外側に向かってつつき、生まれてくるわけですね。

 


雛鳥は力が弱いので、時間をかけてで自分の殻を少しずつ割っていくわけですが、親鳥はそれを助けるかのように雛鳥のペースに合わせて、外側から内側に殻をつついてやる。

 

雛鳥がまだつつこうとしていないのに、親鳥が先につついて殻を破ってしまってはいけないし、つつく場所を間違えて強くつついたりれば、それこそ雛鳥のイノチを奪ってしまいかねません。

 

つまり、親鳥と雛鳥の「タイミング」、力の「バランス」、そして両者の「方向」が合うことで、雛鳥がスムーズに生まれる(たまごから出てこられる)と解したんですが、いかがでしょうか。

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SWITCHインタビュー 達人達「坂本龍一×福岡伸一」より

坂本龍一&福岡伸一.jpg

福岡:音楽と生物学、芸術と科学というのは、非常に違う営みのように見えますけども、やっぱりこの世界の成り立ちがどうなっているのか、捉えたいということにおいては同じような営みで、どこかに重なるところがあるんじゃないかなぁというふうなことが、この対談の終わりぐらいに見えてきたらいいかなと。

坂本:ありがとうございます。福岡先生は科学者だからきちんと見通しがいつも設計されているのでスバラシイ。僕の方は自分の音楽に反映されてるかな、性格が。本当にランダムなんだな、思いつきであっちに行ったりこっちに行ったりで、とてもじゃないけど時間の流れの中に一直線に乗っかった美しい曲線などは描いてないわけなんですよね。

福岡:直線的に進んできたわけじゃないとおっしゃいましたけれども、今西錦司という生物学者がいて、彼は山がとても好きで、生涯に2000近い山を登ってきた。で、「なぜ山に登るのですか?」彼は聞かれたそうなんですね。山に登ると、その頂上から見えない景色があって、そこに次の山が見える。だからまたその山に登りたくなるんだということを繰り返しながら、直線的ではなくジグザグに進んできたって。

坂本:山のようにジグザグにあっち行ったりこっちいったり…

福岡:でも、この話の中で大事だなと思うことは、そこに行ってみないと見えない風景があるということですよね。今回の坂本さんの「async」というアルバム。ここまでの様々な営みの結果、見えてきた風景というか、情景なんじゃないかなと思いました。 

坂本:なるほど。実は去年アルバムを作っていて、まるで山に登ってるようだな、山登りしているようだなって実感したんですよ。

福岡:あぁ、そうですか。

坂本:僕の場合はね、地図のない登山なんですね。まさに登ってみないとその山自体も分からない、一歩踏み出してみないとどういう景色かも分からない。で、その1曲を作るって「async」の中のある曲をつくるということは、僕にとってはそういうことで、だから、作り出してみないと、どこがゴールか分かんないんです。で、ある日、あ、これがゴールだと実感した瞬間があった。そうしたら、今まで見えていなかった次の山が見えたんです。「あ、ここで終わりじゃないんだ、ここに行かなきゃいけないんだ」っていう。でも、登ってみないと向こうは見えない訳ですよね。それをね、とても強く実感したんです。
 
*** *** ***
 
ナレーション(六角精児):アルバム制作期間は8ヶ月。このプライベートスタジオでほぼ一人で行った。坂本自身が聴きたい音を集めたという。外で採取した街の喧騒や自然音はコンピュータに取り込んで織り交ぜた。自然が奏でる音は秩序だっていない。ズレている。だからasync 非同期と名づけた。ピアノもあえて普通の弾き方からはズラして演奏した。
 
坂本:こんな金属でガリガリこうやってやるもんだから…(ピアノの内部奏法を実演しながら)

福岡:これは何? 鉄箸ですか?

坂本:鉄箸ですね。これは。別に僕は、アジア人であることを強調してやってる訳ではなくて、単に音のためなんですけど。こういう…こういうね。これが・・・楽しい。これがこうなかなかコントロールできない。何ていうんですか…力点をどこに置くかにもよりますけど…毎回同じとは限らないんですね。当たる場所も違うし、強さも少しずつ変わってくる。だからこれが、コントロールできない良さっていう、予測不可能性がより広がるわけですね。弾くよりもはるかに予測不可能になる。それで使っているんですよ。

福岡:だから、音楽・音っていうのは一回性のものだっていうことですよね。

坂本:一回性は非常に大事だし、科学の…あの何ていうんですかね、価値観…

福岡:(科学は)再現性
 
坂本:反対ですよね? 何度繰り返しても同じ結果が得られることに信を置くのが科学。それと反対で(音楽は)一回しか起こらないから良い。一点しかないから良いとかね。そういうところにアウラがあるという…ベンヤミンに言わせればアウラという言葉…オーラですけどね。そこに価値がある。そうすると毎回同じことが必ず起こるとか、劣化しないとかたくさん同じものがある。複製技術時代ますますそれが高まっているわけですけど、その時に一回性の問題は今、真剣に考える必要のある問題だと思っているんですね。
 
福岡:印象的な一文があって、今回の「async」を作られた時に「誰にも聴かせたくない、自分だけで聴いていたい」という風に書かれているんですよ。これっていうのは、CDに焼いてみんなに共有してもらうというところで同一性というものにとらわれてしまうんで、そうならないままの…一回限りのものとして慈しんでいたいなぁという感じかな?と思ったんですが。どうですか?
 
坂本:鋭いですねえ。極端に言うと生まれて初めてそう感じたことなので自分でも不思議だなと思っていたし… 終わり方というのはとても大事だと作りながら思っていたんです。地図がないし、ゴールもないからどこで終わるかもわからないわけですね。だけどその瞬間というのがあるはずなんだよね。一番いい筆を置く瞬間がある。うっかりしていると自分でも気づかないで過ぎてしまう。…で余計なことを足していってしまうっていう。とてもそれを恐れていて今か今かと自分で作りながらもやめる瞬間を察知しながら作っていたというね、ちょっとかわった状態なんですけども。なるほど。それ一回性という問題に大きく関わるのかもしれないですね。う〜ん面白い。
 
*** *** ***
 
福岡:シグナルとノイズ サウンドとノイズの関係は、科学の世界でも同じような構造というか問題があって、本当は世界はノイズと名付けられる前のノイズだけの空間だった。夜空の星々みたいなものですよね。でも人間の脳はめぼしい点を結んで星座にする。別に星座って平面に張り付いている星の点じゃなくて、全然距離が違う、奥深さが違うものを「図形(星座)」としてみているだけだし、それは今そうして見えているだけで、その光だって何万光年も前から来ているものなんで、今はもうない光なのかもしれないし、そういったものをある種の図像、秩序として検出する。それがシグナルの抽出。シグナルを取り出すのが科学の営みな訳ですけど、ついついそういうことは忘れて、シグナルが本当のものだと思ってしまうわけですけれども、音楽の分野でもそういった考えというか、感じっていうのはありますか?
 
坂本:大いにありますね。音楽の場合には自然状態である「音」という素材を使って構築物を作っているので、すこし数学に似たところもある。ノイズは排除していって…ノイズは意味がないもの。地図って「地」と「図」の組み合わせということなんですが、これで言えば、「図」の方が意味のあるもので、「図」をいかに美しいものに仕上げていくか、排除されるのは「地」でありノイズである。そのように何百年も変化、進化というか発達してきたわけですけども、面白いことにちょうど僕が生まれる頃ですかね、20世紀後半に入った頃にアメリカの作曲家のジョン・ケージっていう大変素晴らしい人がですね、もう一回、その「地」の方に耳を傾けようと。図ばっかり取り出すのではなくて「地」を見てみよう。ノイズを聴いてみよう。と。多分そういう事だと思うんですが、そういうことに挑戦をした。これは本当に大事なことで、いまだに、あるいはもうますます今、大事だなと僕は感じていて。
 
*** *** ***
 
坂本:我々人間のね、脳の特性としか言いようがないんですけども、どうしても何かの意味ある情報を受け取ろうとする。見ようとする、聴き取ろうとする。止み難くありますね、人間にはね。
 
福岡:星座を取り出すというのは言葉の作用。人間の場合は特に、ロジックというかロゴスの作用ですよね。言葉による分ける力。文節の力っていうのはすごくて、そのことによって本来、ノイズだらけの世界から星座、シグナルが切り取られていくわけで、あまりにもロゴスの力によって切り取られすぎると、やっぱり本来の自然というものは非常に変形するというか、人工的なものになってしまってもともと物理学のフィジックス、あるいは生理学のphysiologyの最初のphysis フィシスっていうのが、(physisフィシス=自然・ありのまま)本来の自然という意味で、プラトンとかソクラテスが出る前までの、もっと前のヘラクレイトスの時代に、自然というのは混沌としてノイズからできている、けれども豊かなものだというビジョンがあったわけですれど、まあプラトンやソクラテスが、イデアみたいなものを言い出して、
 
坂本:まあ、ロゴスの人ですからね。
 
福岡:そうですね。なんというか、ロゴスの強力さに辟易することがありますよね。
 
坂本:ありますね。ありますね。だからどれほど星座に囲まれているかというのを、意識もできなほど、そういう網の目にとらわれている。
 
福岡:認識の牢屋ですよ。
 
坂本:そうなんですね。そのことにいつも考えさせられることが多くてですね。一度、思考実験として名詞を使うのをやめてみようと、1日努力したことがあるんです。これはほとんど不可能。生活できないというか、ほとんど話もできないし考えることすら難しい。
 
福岡:できない。ええ。
 
坂本:でもね、僕はこれ大事なことなんじゃないかと。やりながら。
 
(2人):名付けない。
 
福岡:名付けるということは、星座を抽出するっていうことですからね。
 
坂本:まさにそのとおりなんですね。
 
福岡:シグナルとしてとりだされたものじゃない…その本来のノイズとしてのフィシス(自然)の場所に下りていくためには、客観的な観察者であることを一旦止めて、フィシスのノイズの中に内部観察者として入っていかないと、そのノイズの中に入れない訳ですよね。
 
坂本:はい。まず、自分もノイズだと認識しないといけませんね。だから自分と外に、あるいはその観察対象、自然に何か差があるとかですね、自分がまるで自然の外にいて、観察しているかのような認識の枠組み自体が間違いですね。
 
福岡:そうなんですよね。
 
坂本:自分自身は木と同じ自然。自然なんです。
 
福岡:生命体、自然物ですよね。
 
坂本:ところが果たして、どれだけの人がそれに気がついているだろうか。僕らが扱っている楽器もそうです。もちろん。
 
福岡:そうですね。
 
坂本:この大きな図体のピアノなんていうものは、よく見ると木だし中は…
 
福岡:鉄だし。
 
坂本:鉄だし。もともとは自然の中にあったものを取り出してきて。図のように取り出してきてですね。
 
福岡:こう、構成した。
 
坂本:加工してですね、音階まで人工的に考えて。本当に人工に人工を重ねたもの。これを僕は元に戻してあげたい。
 
福岡:なるほど。
 
坂本:という欲望が最近強くてね。それで実はたたいたりしてるんです。こすったり。これはね、元のフィシス側の自然物としてモノが発している音を取り出してあげたい。という気持ちがとっても強いのね。
 
福岡:今の話で私がふと思ったのは、音楽の起源ということなんですねよね。音楽の起源ってどこにあったとお考えですか。
 
坂本:とても難しい問題ですね。楽器の起源ということを考えると、実は音楽の起源と、楽器の起源は非常に近い。あるいは、もしかしたら同じことなのかもしれませんが。まぁどの時点か分かりませんけども、そこに落っこっていた鹿の骨か何かを乾かしてみてそこで人口的に穴を開けようと。これはもう完全に自然の改変ですよね。穴をここに開けたほうが自分は好きだ。気持ちいい。洞窟に入って吹いてみるとよりいい感じだと。みんなでやってみようか。やりだすということは、まぁ容易に想像できるわけですね。なぜそうするか。そこがフィシスとロゴスの始まりでもあるのかもしれませんけど。なぜそういう欲動を持つのか。ここがもう僕にはわからないところなんですね。
 
福岡:もっとも大事な自然物は我々の生命だというのは、音楽の起源とどこか重なっているような気がするんですよね。生物学的には、音楽の起源って、例えば鳥の求愛行動みたいに、鳴くことによってコミュニケーションする。それが歌になり音楽になったっていうふうに、語られることは多いんですけども、私は必ずしもそうじゃないんじゃないかと思うんですよ。この自然物に囲まれている私たちの中で、絶えず音を発しているものがあるじゃないか。それは、我々の生命体ですよね。心臓は一定のリズムで打っているし呼吸も一定のリズムで吐いたり吸ったりしているし、脳波だって10ヘルツくらいで振動しているしまあその、セックスだって律動があるわけですよね。そういう、生命が生きていく家で絶え間なく音・音楽を発しているわけですよね。ロゴスによって切り取られたこの世界の中では、我々の生命体自身も生きていることを忘れがちになってしまう。だから外部に音楽を作って、内部の生命と共振するような、生きているということを思い出させる装置として音楽というものが、生み出されたんじゃないかなって思うんですよ。
 
坂本:非常にロマンティックですね。それはね。おもしろい発想ですね。仮にそうだとしても、それなのにやることは、やはりロゴス的なことしかできない。
 
福岡:そうなんですよね。
 
坂本:そっちの方に持っていってしまう。よりコントローラブルというか、コントロールしやすい…
 
福岡:で、楽譜に書くっていう。
 
坂本:秩序立って。オーガナイズされたものにしていく。正確にやりたいんでコンピューターを使ったりとかっていうふうに。どんどんそっちの方に行く。おもしろい発想です。

※NHK-Eテレにて2017.6.3放映されたSWITCHインタビュー 達人達「坂本龍一×福岡伸一」の前半部分より
COMMENT:坂本の新しいアルバムasyncについては、4/30に書いたこちらの記事、福岡伸一さんの著書『生物と無生物とのあいだ』については、6/14に書いたこちらの記事でまえがきの部分を紹介しました。この番組が放映されたのが6/3でしたが、録画を見たのは放映された1週間後ぐらいのタイミングでしたし、ちょうどこのblogで6/4から、この世界はどのようにしてできたか、イノチとは何かというテーマで連続的に書き始めていることがこの番組の内容とも不思議にシンクロナイズしていて驚きました。
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郡司ペギオ―幸夫『生きていることの科学』はじめに(その2)

郡司ペギオ 生きていることの科学

※8/6に書いた(その1)の続きです。

「生命とは何か」「意識とは何か」という問いは、通常の自然科学が扱う問題とは明らかに種類の異なる問題だと思います。それは、生命、意識がそれを問いただす私に直接関与する概念だからでしょう。だからこれらの問題は、より直接的に、「私の生命とは何か」「私の意識とは何か」という形で問いただしたほうが、むしろ、しっくりくるでしょう。ところが、わたしは、私という一人称を前面に押し出すことに面映ゆさ、ある種の恥ずかしさを感じます。私の、とつけたほうが、問いの本質が明らかになると思う一方、面映ゆいのです。どうしてでしょうか。むしろ確実だと思える意識は、この私の、この意識以外にありそうもなく、他人の意識は、しょせん私の意識からの類推に過ぎないのではないか。そう考えるほうがもっともらしいですよね。なのに、私――を持ちだすことに躊躇しなければならないのか。

この面映ゆさや、躊躇を伴わざるを得ないという様相が、生命や、意識という問題の核心を成している。私はそう思っています。それは表現とその外部の対立および媒介者を通した調停が、ここに認められるからです。対立図式は、私とその外部となります。もちろん、外部とは実在する、この、現実の世界のことですが、現実世界のリアリティは、その内実において語れない。つまり、面映ゆさや、躊躇こそ、区別と調停をつなげるリアルの影となるからです。

「私だけではない。他者は、世界は、実在する」このような感覚が、我がこととして血肉となること。他者、世界を実感すること。それは、通常、大人になること――と理解されることがらだと思います。誰でも、小学校・中学校の時分、もしかすると意識を自由に振る舞うのは、ここにいるこの私だけかもしれない、という感覚に襲われることがありますよね。夢の中で、登場人物が、すべて私の頭の中で設定されたキャラクターに過ぎないように。でも逆に、他人が私と同じように、意識を持ち、自由意志を持った存在であると証明することも、きわめて困難です。困難どころか、この問いは、はい・いいえのいずれかに決定できるような問題ではないでしょう。とすると、論証とは無関係に、他者や世界の存在を、いずれ納得するしかないということです。それが大人になるということになります。

論証と無関係に納得するしかない。このような形で、世界の実在を認める。それは、「実在というものは、私から見た自由にならなさ加減を経由して理解される」ことを示しているとも言えます。誕生して、自我を持つに至る私は、本来実在する世界、の全体などわかるはずもない。この私からしか出発できっこない。世界の内部にあって、局所の一点から出発するしかない。こうして成長するとき、わたしたちは、いずれ自分の思うようにはならない世界というものを実感することになります。自分とは無関係らしい、あらかじめここにあったような世界を実感することになります。

原理的に世界の中心にいることしかできず、その意味で特権的でありながら、同時に、自分の自由にならない世界内にあって、これを受け入れるしかない。意識は能動的でありながら、世界の内側に置かれてしまっているという受動性を併せ持つ。私の、という一人称が面映ゆいのは、あたかも、私の存在の引き受ける受動性を無視し、窺い知れない世界との接触に関するリアリティに、まったく言及していないように思えるからでしょう。いや、むしろ、リアリティというものを感じ、理解することの困難さに留意しない、感受性の欠如に、しっくりこない感じを抱くのかもしれません。

すると、この面映ゆさ、一人称を強調する気恥ずかしさの感覚は、世界内存在という存在形態を直観するもの、ではないでしょうか。世界・内・存在は、世界に対する私の能動性と、世界に生かされる受動的な私の齟齬と動的調停を示唆する意味で、生命や意識の核心を成します。面映ゆさが直観するものは、これなのです。

そのうえでのマテリアルなのです。このような描像――世界と私の相互作用として存在する私、といった描像は、下手をすると簡単に、ホンネと建て前的なダブルスタンダードに搦めとられる。いや、もっと言うと、搦めとられるどころか、世界と私との相互作用という言葉以上に展開されないような描像は、その実、単純な私と世界のダブルスタンダードに過ぎず、言っても仕方ない物語に過ぎない、のではないか。わたしはそう思います。野性の直観が失われつつあるとき、世界と私の相互作用という描像は、両者の関係を表現可能な一元論に回収するか、ダブルスタンダードに回収するかのいずれかに落ち着く。わたしはそう思います。それで、わたしたちは果たして、現実の世界の中で生きて行くということを、うまく理解できているのか。いや、生きていけるのか。

世界から受ける受動的な刺戟と、私が能動的に作り上げる表象。この二項対立は、モノと言葉、トークン(個物)とタイプ(類)、世界と観測者の対立です。ここにあるのは、もちろん、一方が他方の言葉で置き換えられるような単純な一元論ではないはずです。かといって、まったく無関係で通約不可能な二種類の概念装置が、対(つい)を成している、というだけでもない。これら二つの概念装置は、互いにうまい翻訳関係を持たないのに、なんらかの形で関与しあっている――とまぁ、多くの場合、話はここで終わる。それ以上でも以下でもない。

このような物語が、ホンネと建て前のダブルスタンダードに回収される理由は、モノそれ自体もしくは、マテリアル概念の不在にあると思います。現実世界なんてよくわからないのに、自分の自由にならなさ加減を簡単に世界の実在で説明づけようとする。こうした素朴な実在論を手にいれる。まさに通常、大人になることって、こう理解されているのではないでしょうか。しかし素朴実在論(認識されたモノは実在すると考えること)は、あまりに早急で、あまりに単純なモデルです。自由に振る舞おうとする私と、それを許さない外部=世界との微妙な関係、すなわち、互いに通約不可能であるのに、どうやって調停されるか、といった問題は、何も理解されないままです。二つが共立するということ、両者が場合によっては矛盾するにもかかわらず同時にそこにある、という様相が、決して理解されません。だから二つは、各時点でいずれか一方のみが存在し、使われることになる。都合に合わせて適宜使い分けられる。共立ではなく、使い分け、それがダブルスタンダードの本質です。なぜそうなるのか。まさに媒介するもの、マテリアルの欠如によるのです。

さて本書で、マテリアルとは何かという問題が、二人の人物の対話を通して論じられていきます。二人とはいっても、教師と生徒のような役まわりを持ったものでもなく、著者自身の自問自答のようなものです。まさにそのような二人によって通約不可能でありながら調停される関係にある媒介性=マテリアル、が生命と意識に関する議論から、彫り出されていきます。それは、石の中から彫像が彫り出される作業にも似た、読者にとっても根気のいる作業です。しかし最後にはマテリアルの形が、そこに見出せると思います。


郡司ペギオ―幸夫『生きていることの科学 生命・意識のマテリアル』(講談社現代新書・2006年)はじめに より

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郡司ペギオ―幸夫『生きていることの科学』はじめに(その1)

郡司ペギオ 生きていることの科学

 


生命・意識とは何であるか。これを解読するのに核心を成す概念は、マテリアル(物質)である。わたしは、本書でこう主張しようと思います。この主張に違和感を持つ方は多いでしょう。生命とは、生きている「こと」であり、生物は生命が成立する物質的基盤である。いわば、生物は生命の入れ物であって、入れ物をいくら調べても、中に成立する生命は理解できない。生命と生物という対立は、意識と脳という対立にも認められます。意識やこころは、モノである脳において成立するものではあるけれど、脳だけ調べても理解できない。神経細胞の機械的仕組みから類推し、どうやって意識やこころを理解するのか。そう思われる読者はたくさんいるでしょう。
そのような形で違和感を持つ読者にとって、マテリアルが核心であると主張するわたしは、モノ 対 こころ(生物 対 生命、脳 対 意識)の対立図式において、前者に与するガチガチの素朴な唯物論者にみえるかもしれません。


わたしが言っているマテリアルはそういうものではありません。もしもあなたが、前述のモノ 対 こころという図式で生命と生物を考えているなら、わたしの言うマテリアルを理解するのに、三つの段階を経る必要があるでしょう。


第一に、モノ 対 こころ図式では、モノはがんばれば認識できるもの、論理的な言葉に表せるものと想定されていますが、マテリアルはそのようなモノではない。むしろマテリアルは、認識という行為を通して、絶えず認識の外部に追いやられ、決して理念的概念として一般化されないモノそれ自体、と言っていいでしょう。

目の前の石つぶてを考えましょう。あなたはこれをモノとして、石と言う。また、さらに分析して安山岩の破片と言い、顕微鏡で調べてナトリウムやカルシウムの成分比を言い当てるとしましょう。物質として、石つぶては精確に記述されているようではある。しかし、それらモノとしての記述は、理念的言葉による表現であり、一般化であって、この目の前にある石の「そのもの性」は失われています。このように、認識によって、認識外部に排除される「そのもの性」、それをマテリアルの影と言うことができるでしょう。この構図は、モノとこころの関係と、一般化の表現とそのもの性(マテリアルの影)の関係には、ある種の強い対立関係が認められます。二つの対立概念があって、両者は徹底して通約不可能です。

第二に、徹底して通約不可能であるのに、モノとこころ両者の間に媒介者がいて調停可能である、という点を理解する必要があります。実際わたしたちは、そのようにして、世界を理解し、他人とのコミュニケーションを実現しているのではないでしょうか。つまり、言語での認識でない何かを認識しながら、同時にそれが何ものであるかを感じることができたり、他人の内実はわからないにもかかわらず、そのこころをおもんばかることができたりしている、ということです。

認識でないというだけの、徹底した否定形であるなら、それは単なる闇ですが、認識ではないある種の直観、感覚を通して、認識外部の何ものかが感得されている。むしろ、だからその外部に特別な名前がつけられると言っていいでしょう。他人の認識できない何かについた名が、他人のこころです。同じく、モノや世界における認識できない何かには、通常、リアリティという名がつけられることでしょう。わたしたちは、現実に、徹底して通約不可能な二つの概念を理解したうえで、両者を共に感得することができる。

さて、最も重要な論点、それはこの第三段階です。わたしは、現代のわたしたちにおいて、モノとこころを媒介する直観、認識から追いやられるリアリティに対する感覚が、ほとんど失われている、と思ったほうがいいんじゃないかと思うのです。むしろそのような媒介する直観は、失われた野性の感覚、だと思ったほうがいい。そのうえで、これを回復する方法を考える。それはいたずらに、自然を感じよ、野性に帰れ、直観を磨け、ということではありません。むしろそういった現実性それ自体の理論を立ち上げ、創ってやることではないか、と思うのです。それは、現実のコーヒーに対して、代替品としてのコーヒーらしさを創ることではなく、普遍的なモノ性それ自体のモデルを創ることになるのです。

モノそれ自体のモデルを立ち上げようと言うとき、モノとこころ、表現と現実といった二項対立は、モノとその外部、表現とその外部といった区別と理解されることになる。外部は決して、内実として理解することができない。にもかかわらず、感得される外部として外部を構成しよう。それがここでの論点となります。それは、認識とその外部を区別する操作が、勝手に区別を開始しながら、同時に自らを解体するという両義性を有することで構成されていきます。一方で認識とその外部との分離を可能とし、他方その区別を無効とするが故に両者を媒介できる。この二つが、マテリアルにおいてつながっている。わたしが示すマテリアルとは、そういった概念であり、そのような逆説を通して、マテリアルが構成されることになります。
 →(その2)につづく

 


郡司ペギオ―幸夫『生きていることの科学 生命・意識のマテリアル』(講談社現代新書・2006年)はじめに より

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吉本隆明『最後の親鸞』より

最後の親鸞

 

 


なによりも、こぞことし、老少男女おおくのひとびとのしにあいて候うらんことこそ、あわれにそうらえ。ただし、生死無常のことわり、くわしく如来のときおかせおわしましてそうろううえは、おどろきおぼしめすべからずそうろう。まず、善信が身には、臨終の善悪をばもうさず、信心決定のひとは、うたがいなければ、正定聚に住することにて候うなり。さればこそ、愚痴無智のひともおわりもめでたく候え。如来の御はからいにて往生するよし、ひとびともうされ候いける、すこしもたがわず候うなり。としごろ、おのおのにもうし候いしこと、たがわずこそ候え。かまえて、学生沙汰せさせたまい候わで、往生をとげさせたまい候うべし。故法然聖人は、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候いしことを、たしかにうけたまわり候いしうえに、ものもおぼえぬあさましき人々のまいりたるを御覧じては、往生必定すべしとてえませたまいしをみまいらせ候いき。ふみざたして、さかさかしきひとのまいりたるをば、往生はいかがあらんずらんと、たしかにうけたまわりき。いまにいたるまでおもいあわせられ候うなり。ひとびとにすかされさせたまわで、御信心たじろかせたまわずして、おのおの御往生候うべきなり。ただし、ひとにすかされたまい候わずとも、信心のさだまらぬひとは、正定聚に住したまわずして、うかれたまいたるひとなり。乗信房にかようにもうしそうろうようを、ひとびとにももうされ候うべし。あなかしこ、あなかしこ。(『末燈鈔』第六通)

 


親鸞は、「念仏を信ぜん人はたとい一代の法をよくゝ学すとも、 一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智の輩に同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。」(一枚起請文)という法然の垂訓を祖述しているだけかもしれない。けれど法然と親鸞とは紙一重で微妙にちがっている。法然では、「たとい一代の法をよくゝ学すとも、 一文不知の愚鈍の身になして」という言葉は、自力信心を排除する方便としてつかわれているふしがある。親鸞には、この課題そのものが信仰のほとんどすべてで、たんに知識をすてよ、愚になれ、知者ぶるなという程度の問題ではなかった。つきつめてゆけば、信心や宗派が解体してしまっても貫くべき本質的な課題であった。そして、これが言いようもなく難しいことをよく知っていた。

 


親鸞は、<知>の頂きを極めたところで、かぎりなく<非知>に近づいてゆく還相の<知>をしきりに説いているようにみえる。しかし<非知>は、どんなに「そのまま」寂かに着地しても<無知>と合一できない。<知>にとって<無知>と合一することは最後の課題だが、どうしても<非知>と<無智>とのあいだには紙一重の、だが深い淵が横たわっている。なぜならば<無智>を荷った人々は、宗教がかんがえるほど宗教的な存在ではない。かれは本願他力の思想にとって、それ自体で究極のところに立っているかもしれないが、宗教に無縁な存在でもありうる。そのとき<無智>を荷った人たちは、浄土教の形成する世界像の外へはみ出してしまう。そうならば宗教をはみ出した人々に肉迫するのに、念仏一宗もまたその思想を、宗教の外にまで解体させなければならない。最後の親鸞はその課題を強いられたようにおもわれる。

 


わたしたちが宗教を信じないのは、宗教的なもののなかに、相対的な存在にすぎないじぶんに目をつぶったまま絶対へ跳び超していくという自己欺瞞を見てしまうからである。わたしはわたしが欺瞞に躓くにちがいない瞬間の<痛み>に身を委ねることを拒否する。するとわたしには、あらゆる宗教的なものを拒否することしか残されていない。そこで二つの疑義に直面する。ひとつは世界をただ相対的なものに見立て、わたしはその内側にどこまでも留まるかということである。もうひとつは、すべて宗教的なものが持つ二重性、協同的なものと、個的なものとの二重性を、わたしはどう拒否するかということである。確かにわたしは相対的な世界にとどまりたい。その世界は自由でないかもしれないが、観念の恣意性だけは保証してくれる。飢えるかもしれないし、困窮するかもしれない。だがそれとても、日常の時間が流れてゆくにつれて、さほどの<痛み>もなく流れていく世界である。けれども相対的な世界にとどまりたいという<わたし>の意志の届かない、遠くの方から、事物が殺到してきたときには、為すすべもなく懸崖に追いつめられる。そしてときとして、絶対感情のようなものを求めないではいられなくなる。そのとき<わたし>は宗教的なものを欲するだろうか。理念を欲するだろうか。死を欲するだろうか。そしてやはり自己欺瞞にさらされるだろうか。そしてやはり、わたしはそれらのすべてを欲し、しかも自己欺瞞にさらされない世界を求めようとするだろう。そんな世界は、ありうるのか。

COMMENT:この本を読み始めたことについて昨年1/5の記事で書きました。また、親鸞については、歎異抄のことなどこちらの記事で書いています。語り始めるとキリが無くなりそうなのですが、いつか自分なりの親鸞像について書いてみたいとおもっています。
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『心的現象論序説』改版解説(三浦雅士)

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吉本隆明の『心的現象論序説』は1971年に北洋社から刊行された。雑誌『試行』への連載開始が1965年であることを思えば、すでに半世紀を経るといって過言ではない。角川文庫におさめられた1982年からでも30余年を数える。読み返して感慨を覚えないわけにはいかない。その間、ソ連が消滅し、欧州連合が成立し、中国が経済大国になった。世界の状況は大いに変化したわけである。むろん、吉本さん自身、2012年3月16日に亡くなられた。享年87歳。文学者に死は存在しないに等しいのでここでは触れないが、1970年代、編集者として足繁くお宅に伺った者として、感慨はいっそう深い。

『心的現象論序説』は、「はしがき」に示されているように、『言語にとって美とはなにか』を直接的に引き継ぐ著作である。『言語にとって美とはなにか』が『試行』に連載されたのは、1961年から1965年までで、間をおかずに『心的現象論』の連載が始められた。モチーフそのものが連続しているのである。

『言語にとって美とはなにか』の冒頭、第1章「言語の本質」に、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』の一節が引用されている。「言語とは人にとっても私自身にとっても存在するところの実践的な現実的な意識であり、また、意識と同じく、他人との交通の欲望及び必要から発生したものである」というものだが、この「捨てるには惜しい微妙ないいまわしをなげすて」た「通俗マルクス主義者たち」を批判したうえで、吉本隆明は、「かれ(マルクス)が<意識>とここでいうとき、じぶんに対象的になった人間的意識をもんだいにしており、<実践的>というとき、<外化>された意識を意味している」とのべている。

指摘するまでもなく、「じぶんに対象的になった人間的意識」の延長線上に「自己表出」という概念を、「<外化>された意識」の延長線上に「指示表出」という概念を構想し、それを軸に日本人の言語表現の歴史を描こうとしたのが、『言語にとって美とはなにか』にほかならないが、まったく同じ図式を念頭において、「じぶんに対象的になった人間的意識」(自己の自己への関係)の延長線上に人間的「時間」を想定し、「<外化>された意識」(自己の他者への、世界への関係)の延長線上に人間的「空間」を想定して――そのようにして捉えられた感情論、感覚論はきわめて興味深い――、その関係の度合い、関係の仕方の錯誤を、異常な心的現象、病的な心的現象として捉え、そこから逆に、人間の心的世界の構造を探ろうとしたのが『心的現象論序説』であったと言っていい。

ドイツ古典哲学に多少なりとも親しんだ者なら、ここにヘーゲルからマルクスにいたる思想の潮流を感じ取ることはたやすいだろう。『言語にとって美とはなにか』が、結果的に自己表出の強度、すなわち平易に言ってしまえば自己意識の強度を基軸に文学表現の史的展開を祖述しようとしたのに対して、『心的現象論序説』ははるかに含みの多い、言ってみれば、単線的な史的記述を排する流儀を採用しようとしているわけだが、それでもなお、そこに示された、物質から生命へ(原生的疎外)、生命から言語へ(純粋疎外)という人類史の根本的な把握は、かりにそれがあくまで構造的な理解を示す図式にすぎないとしても、古典哲学の影を色濃く帯びていると言わなければならない。

これはしかし吉本隆明の限界を示すものではまったくない。『心的現象論序説』には、フロイトをはじめ、多くの思想家の卓越した理解が披瀝され、そのいくつかはたとえばフロイトならフロイトについて深く考えようとする者をいまなお刺戟せずにはおかないが、それとは別に、ここにすくなくとも二つのきわめて現代的な問題を指摘することができるからである。ひとつは、『言語にとって美とはなにか』から『心的現象論序説』へといたる過程は、1960年代の世界的な思想的状況を鋭く反映しているということであり、それは1930年代に淵源するいわゆる新左翼の思想的営みのもっともすぐれた例のひとつであったということである。

知られているように、60年代は世界的な学生反乱の季節であったが、彼らの叫んでいた反米反ソの標語に明らかなように、それは資本主義を批判するよりもまず教条化し化石化したマルクス主義の刷新を意図するものであった。その意図は多くマルクスからヘーゲルへと、すなわち起源へと遡るかたちで具体化されたと言っていいが――たとえば初期マルクスの読み直し――、吉本隆明の仕事はその典型的な例になっているのである。大局的に見た場合、それは、アドルノをはじめとするフランクフルト学派、あるいはスターリンに屈服する以前のルカーチらの仕事と呼応するものである。吉本隆明の仕事はそれらと完全に重なるものではないが、与えられた思想的課題に答えるということにおいては、同じ立場に位置していたと言っていい。この呼応は、吉本隆明の仕事があくまでも文芸評論家の内的必然性から出発したことを思えば、ほとんど驚異的な事件であった。ひたすら西洋の模倣に終始してきた日本近代においてはまさに希有の例だったのである。

いまひとつは、その必然というほかないが、表現者としての吉本隆明の、言ってみれば人格構造を端的に示しているということである。角川文庫刊行時に寄せられた森山公夫の解説が引用している吉本自身の夢の記述をはじめ、相手に分かってもらえていないのではないかと不安になり、つい話がくどくなってしまうというエピソードなど、随所に吉本自身の心的構造が顕わになっているのだが、それだけではない。その一種の図式主義において――これはすぐれたものである――、疑いなく詩集『固有時との対話』を起点にしているということである。吉本隆明は同じ過程で『共同幻想論』を著述し、画期的というほかない「対幻想」論を展開するわけだが――その骨格は『心的現象論序説』にも及んでいる――、その「対幻想」論の出所も暗示されていると言っていい。

『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』『心的現象論序説』という、吉本隆明のひとつのピークを示す1960年代の仕事は、管見ではいまなお論じつくされてはいない。日本のアカデミズムの偏狭を嘆いてもはじまらないが、しかしいずれ二十世紀思想の流れのなかに吉本隆明の仕事を正当に位置づけるものが登場することになるだろう。

70年代半ばのことだが、吉本さんに、マルクスのどこに一番影響を受けたと思いますかと訊ねたことがある。抽象するということですね、と吉本さんが即座に答えられた。いまにして思えば、『言語にとって美とはなにか』をはじめとする三部作の、これほど見事な解説はなかったと思う。感慨は深まるばかりだ。
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ヴィクトール.E.フランクル『夜と霧』より

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われわれが人生から何を期待できるかが問題なのではなくて、
むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。

(中略)
 
われわれが人生の意味を問うのではなくて、
われわれ自身が問われたものとして体験されるのである。
 
人生はわれわれに毎日毎時間問いを提出し、
われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、
正しい行為によって応答しなければならないのである。
 
人生というのは結局、
人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、
日々の務めを行うことに対する責任を負うことに他ならないのである。

 
V.E.フランクル『夜と霧』(みすず書房)より

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アルフレッド・アドラー 名言 13選

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1.重要なことは人が何を持って生まれたかではなく、与えられたものをどう使いこなすかである。


2.子どもは感情でしか大人を支配できない。大人になってからも感情を使って人を動かそうとするのは、幼稚である。


3.「やる気がなくなった」のではない。「やる気をなくす」という決断を自分でしただけだ。「変われない」のではない。「変わらない」という決断を自分でしているだけだ。


4.できない自分を責めている限り、永遠に幸せにはなれないだろう。今の自分を認める勇気を持つ者だけが、本当に強い人間になれるのだ。


5.あなたが悩んでいる問題は本当にあなたの問題だろうか。その問題を放置した場合に困るのは誰か、冷静に考えてみることだ。


6.苦しみから抜け出す方法はたった1つ。他の人を喜ばせることだ。「自分に何ができるか」を考え、それを実行すればよい。


7.他人からの賞賛や 感謝など求める必要はない。自分は世の中に貢献している という自己満足で十分である。


8.人の心理は物理学と違う。問題の原因を指摘しても相手の勇気を奪うだけ。解決法と可能性だけに集中すべきだ。


9.人は過去に縛られているわけではない。あなたの描く未来があなたを規定しているのだ。過去の原因は「解説」になっても「解決」にはならないだろう。


10.楽観的でありなさい。過去を悔やむのではなく、未来を不安視するのでもなく、今現在だけを見なさい。

11.もっとも重要な問いは「どこから」ではなくて「どこへ」である。


12.健全な人は、相手を変えようとせず自分がかわる。不健全な人は、相手を操作し、変えようとする。


13.人生には3つの課題がある。1つ目は「仕事の課題」。2つ目は「交友の課題」。3つ目は「愛の課題」である。そして後の方になるほど解決は難しくなる。「愛の課題」とは、異性とのつきあいや夫婦関係のことである。人生で一番困難な課題であるがゆえに、解決できれば深いやすらぎが訪れるだろう。

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開かれた普遍性へ(吉本隆明さんの最後の講演会よりぁ

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7/31に書いた記事の続きです。


それから、漱石の場合には、僕が考えに入れたのは、要するに漱石の場合には『三四郎』っていう青春小説のことなんです。三四郎っていう青年学生たちの中心になるような、モデルになる人がいたって言われてますけど、そういう大学か大学予備校か、そういう先生がいるわけです。その先生を慕ってる学生さんが、その周りに集まって、ひとつの集まりを形成してるわけですけど、あるとき、三四郎が先生のところに訪ねて行くと、いつもの常連である、その生徒さんが来てないんです。たまたまひとりだけになって、先生とふたりになるわけですけど、そのときに、三四郎は、先生に「先生はどうして独身なんですか?」っていうふうに「だれか好きな人はいないのですか?」っていうふうに質問するわけです。普段なら言えないような失敬な質問なんだけど、ひとりだったからそういうふうに言うわけです。その主人公の先生は、「いや、好きな人はいたんだ」「だけど、いつの頃からか、ひとりでに会うことも間遠になってきて、いつの間にかそれが消滅したようになってしまった」それで、だから、機会を失してしまったんだ、と、結婚する機会も失してしまったんだ、と説明するわけです。

 

三四郎は、まだ追及して、「それならば、その人は、いまも生きてたら結婚しますか? その人がいまも生きてたら、消息がわかったら、結婚しますか?」っていうふうに、三四郎はなおも追及するわけです。先生は「そうすると思う」と。「別に嫌いになって、そして別れたというわけでもないから、そうすると思う」と言うわけで、「それじゃあ、どうしてその人の消息を探さないんですか?」なおも追及するわけです。そうすると、先生は、「いや、探さないというわけじゃないんだ」と。自分はあるとき、当時の文部大臣でモダンな文部大臣で、森有礼っていう人がいたわけですけど、「森有礼っていう人の葬式の列の中に、その女の人がいたんだ」って説明するわけです。葬列の中だから、あっと思う間もなく自分の前を通り過ぎて行ってしまうし、そこで、自分がのこのこ葬列のそばまで行って、その女の人に挨拶したり、いまどこにいるんだって尋ねたりすることも、できないうちにその葬列が立ち去ってしまう。それで、自分もどうすることもできないで、そのあと会う機会もなくなって探しても容易にわからないで、ということで、自分はその人と一緒になる、結婚するという機会を失してしまって、現在に至ってるわけだ、っていうふうに、三四郎に説明するわけです。

 

そのときに、僕の説明ではダメですけど、漱石の文体を見れば、とてもよくわかる。三四郎という、漱石の中でいちばん楽しい青春小説なんですけど、その中で、その箇所だけは、漱石の思い込みとか、関係妄想とか、いうものが、とてもよく出てる箇所なわけです。そこが、やっぱり、つまり、三四郎という小説のどこで縮小するかっていうと、そこで縮小しますと、漱石の文学作品の本質っていうものが非常によく見えてくるっていうことに、相当します。

 

つまり、何かって言いますと、漱石には留学時代の仲間からも、要するに、漱石はちょっと鬱状態で、ちょっとおかしいと言われてるとき、下宿してるところのおばさんからもそう言われてるというふうに、評判になるわけで、奥さんからもそういうふうに思われているっていうことで、そういうような評判になってるわけで、そういう実感といいますか、経験が漱石自体にあって、漱石はその経験を森有礼の葬列っていう中で、葬列を中で見てるっていうか、見送っているっていうか、見学してるっていうか、そういう場所に自分はいて、その葬列の中に自分の好きだと思ってた人が、偶然にもその葬列の中のひとりとして、その中にいたっていうそういう考え、そういうふうに思ったっていう、その思い方を漱石の文体でお読みになると、なんと言いますか、漱石が家族からとか、留学中の下宿先のおばさんからとか、あるいは留学仲間から、漱石は少し鬱状態でおかしくなってるっていう、漱石のどう言ったらいいんでしょう、ちょっと宿命的なと言っていいような、思いこみ、あるいは妄想、関係妄想って言いますか、なんですけど、非常によく出てきて、そこの関係妄想の場面にくると、漱石は、はっきりした印象で、はっきりしたことを語らずに、そこのところは朦朧とした表現になって描かれるという形にどうしてもなっていくわけです。

 

これは漱石も、他の小説でも、例えば『彼岸過迄』(ひがんすぎまで)っていう小説を読んでも、同じ場面がありますし、現実的にも、お茶の水の井上眼科っていう眼医者さんの…いまもありますけど…そこで眼の治療をしていたときに、そこでいつでも一緒にいる、ときどき目につく女の人がいるわけですけど、漱石はその人が家へ帰って、こういう女の人が訪ねてこなかったかって兄貴に尋ねるわけです。この人は、どう言ってきたかっていうと、漱石と結婚したいっていうふうに言ってこの人が訪ねてこなかったかって、いうふうにあにさんに聞くわけです。だけど、あにさんは、そんなバカな、そんなことは全然なかったというふうに言って、そのまんまになっちゃうわけです。

 

そのときの漱石の思い込みのしかたっていうのが、やっぱり病的なところに展開していくっていう、そういうことっていうのは、ありまして、現実的にもありますし、また小説の中でも、そういう形で、飄々としてわかり難い、判断し難いっていう形で、そういうことが描かれて、自分をモデルにしたわけじゃないんですけど、モデルの先生が、森有礼の葬列の中にその人がいたっていうふうに言うことになる、フィクション、つまり小説を書いてるから、ここまで、もってきて、漱石っていう人の宿命的な資質って言いますか、生来の育ちって言いますか、そういうのと、ひき比べていきますと、そうすると、やっぱり、漱石のどうしても、本質的なものの縮図っていいますか、それは、その中に表れていくっていうことが、とてもよくわかります。

 

これは、漱石にとって、漱石という文学者をとてもよく理解する上で、大切な重要なことなので、この問題はやっぱり、なんて言いますか、つまり精神構造、ある人間の精神構造と、その人の表現と、それから、表現の結果がどういうふうに表れてるかっていうこととの関係を、非常に直線的につなげて問題を収縮して考えると、そうすると、そういう一種のその人にとっては宿命的とも言える、なんか、生来のっていいますか、人間として生まれて以降の生来の存在のしかたっていうのは、よく表れてくることがありうると、つまり、言葉、言語というものは、そのように、つまりコミュニケーションじゃない部分と、コミュニケーションの部分も含めた結果と、その人の精神構造と、それを全部直線的に、大きな線でもってつなげて、自体の本質、漱石という作家自体、あるいは鷗外という作家自体の本質とつなげると、そういう問題が非常に明瞭に出てくるということがありますよっていうことです。


もし、言語、つまり人間の言葉っていうのコミュニケーションの部分だって考えたり、それに装置を加えた部分だっていうふうに考えたりした場合には、こういう考えは出てこない。つまり縮小もきかなければ、拡大もきかない、それから、言語と精神構造と、それから、その結果というものとの間の太い線につながった関係っていう、輪郭関係というものもはっきりしない。つまり、作家としての本質も、作品も、はっきりしないまんま、読みすごされてしまう。そうすると、文学というものは、なんと言いますか、偶然の機会に作者表現と、それからそのを読む人の関心とが、偶然一致しなければ、なんらの意味も呈さないし、何も意味のつけようがないという以外に言いようがなくなってしまう。

 

つまり、文学っていうのは、そういう意味合いで言えば、無意味なもんなんだっていう。無意味なもんであり、無価値なものなんだっていう、結論に到達せざる得ないじゃないかということが言えると思います。でも、いまのように、作品と、それから、その人のもって生まれた生来の精神構造と、その人の言葉に表れた表現、つまり芸術言語っていうものとを直線でつなげるほど、収縮して、凝縮して考えると、なんか、その人の、作家なら作家、その人の芸術言語なら芸術言語っていうような極めて明瞭に宿命を指さすっていうことに、なっていく。またそれを見つけ出して、あらわにすることは不可能でない。もし、文学に文芸批評という領域が創作の他にありうるとすれば、その文芸批評というのは、そこのところまで、作品と作家の関係、それから言語と作者の精神関係、それが強い糸で結ばれてるっていう、そこまで明瞭にできれば、文芸批評としての本来的役割っていうのは、そこまでいくんだっていうことになります。

 

これは、音楽で言えば、演奏家に該当します。演奏家っていうのは、例えば古典音楽の演奏家っていうような、よくショパンコンクールでなんか賞をもらったとか、顕彰の音楽会で、モーツァルト賞をもらったとかっていう、そういう演奏家って、ピアノの演奏家とか、バイオリンの演奏家っていうのは、日本でもときどきあらわれ出るわけですけど、その人の役割は、ちょうど文学で言う、あるいは言葉の芸術で言う、文芸批評に該当するわけです。つまり、モーツァルトの作品を、うまく巧みにモーツァルトに沿って、モーツァルトの本当の意味合いに沿って解釈することができててそれで演奏する人と、それから、ただモーツァルトの作曲した音符に沿って演奏する人とはまるでちがいます。これは、僕らのような素人が聴いても、つまり音痴が聴いてもまるでちがいます。

 

つまり、モーツァルトの本当のこの曲の本当の本質的に表現したかったことは、こういうことじゃないかって、知ってて演奏してる人の演奏は、ただ古典を繰り返して演奏してるとか、そういうことじゃなくて、その人の批評が同時に含まれていて、その人がどの程度、モーツァルトそのもの考え方っていうのを、どこまで曲について知っているか、解釈してるかっていう、その度合いも全部そこに直線的に出てくるっていうふうに、例えばモーツァルトでもショパンでもいいですけど、そのコンクールの優れた演奏家の演奏を聴くのと、まぁ、それの賞をもらったっていう程度の演奏で、ただそれをうまく弾いてるっていう、そういう人との演奏は、素人が聴いてもわかります。
 

なぜわかるかっていうのは、文芸批評家の人と、普通の読者が余暇にある文学作品を読んでるっていう読み方とは、どこが違うかっていうことと、同じことになって、それは演奏家の場合も、声楽家の場合もそうですけど、要するに、その人の考えてる音楽という、音でも作者でもなんでもない、そういう根源的な根となり幹となる、音楽の何かがあるわけで、その何かをよく心得ていて、そして、その作者がどれだけ、自分のあれを、音符に乗せることができてるかっていう、そういうことと、それから、それを演奏する人が、それだけ、それを、その両方を自分でもって解釈することができてるか、ということの違いになって表れてきます。
 

この問題が、文学を鑑賞する場合の最後の最後の問題になって出てきます。そして、それは同時に、あらゆる表現行為につきまとう同一問題に還元することができます。縮小する場合にはそうですし、分野として拡張するときには、ピアノの演奏家であろうと、バイオリンの演奏家であろうと、文学の批評家であろうと、同じことになりますし、また、作者にしてみれば、モーツァルトであろうと、ショパンであろうと、誰でもいいです、日本の鷗外であろうと、漱石であろうと、そういう人たちが、何を作品として、表現したかったかあるいはしてるかということについて、やっぱり同じ見解に、どうしても到達するだろうということは、これは明らかに言えることだというふうに思います。

 

そういう意味合いでは普遍的な意味合いを持つことになります。そこまでいけば、芸術言語と、僕なんかが芸術言語と言っているものは、ほんとは普遍的な芸術と言いますか、普遍的な芸術の言葉というふうに言い直してもいいことになると思います。邪魔っけっていうか、むずかしいのは、面倒なのは芸術という言葉であって、芸術言語という言葉であって、芸術言語って言う言葉は、必ずしも現実の何かの役に立つとか有効性があるとか、何かに利用できて、コミュニケーションに利用できるとか、そういうこととは関わりのないことです。関わりがないと言ってしまうと語弊がありますけど、次元が違うというわけなんです。

 

だから、そういうことじゃなくて、あらゆる芸術言語、あらゆる分野の芸術にまで拡大できる、いわゆる普遍芸術と言えるものまで、拡大できる。普遍芸術の中には、遺伝子考古学の問題も入ってくるし、また、さまざまな分野の違いっていうのも全部入ってくるし、場合によっては、政治とか社会の問題についての見解に対しても入ってくる。そういう意味合いも含めて普遍芸術っていうことに、芸術言語っていうのは、そういう拡張のしかたっていうのができると思います。
 

僕らが、何を自分たちの目標として考えてきたかっていうと、要するに普遍芸術なんです。つまり、民族学が言うこともあるし、それから遺伝子考古学が言うこともあるし、精神病理学が言うことも含めて、全部、全部がくくれるから、各分野の違いっていうもの、同一性っていうのも含めて、また縮小と拡大というのも含めて、ほとんど全部の問題に適応できる、ある開かれた普遍性っていうのが、もし可能だとすれば、ここのところに、ここのところの問題に、いちばん重要な点が凝縮されるっていうのが、僕のやってきたことのいちばん重要な問題になってます。


※吉本さんの講演会の音声やテキストデータはこちらのサイトをどうぞ

※夏目漱石『三四郎』は著作権が切れているので青空文庫にて読めます

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