往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。





吉本隆明『カール・マルクス』より

カール・マルクス_吉本隆明.jpg

 

・・・ただ、ここで重要なのは、マルクスが『経済と哲学にかんする手稿』でうちだしたかれ自身の<自然>哲学が、いかにエピクロスの<自然>哲学から影響をうけているか、ということである。これは予想外に深刻な意味をはらんでいる。わたしの知識の範囲では、デモクリトスの<自然>哲学はつぎの4つをもとにしてかんがえることができる。


⑴ すべての<要素>は<充てるもの>と<空なるもの>であり、そのうち充ちて堅いものは<有るもの>であり、空なるものは<有らぬもの>と呼ばれる。
⑵ もろもろの世界は、たくさんの物体が切りはなされて大きな空虚へ運ばれて渦巻きをつくり、相互に衝突し、回転しているうちに区別されて、軽いものは外方の空虚へゆき、残りはいっしょになって最初の球体をつくり、これらが物体を包んだ膜のようなものとして分離してゆく。
⑶ すべて事物はこのような渦流から必然的に生成する。
⑷ 認識には知覚によるものと、思惟によるものとがあり、知覚による認識は、<闇のもの>であり、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚がこれに属し、思惟によるものが、<真正のもの>で<闇のもの>から隔離される。(初期ギリシア哲学者断片集』山本光雄訳編参照)

 

マルクスが学位論文でもかんがえているように、エピクロスがデモクリトスからうけついだのは、<要素>が<有るもの>と<有らぬもののふたつとしてかんがえられるという点であり、有らぬものは存在しないという点であった。
エピクロスは、デモクリトスとちがって、思惟よりも感覚におもきをおき、「確証の期待されるものや不明なものごとを解釈しうる拠りどころをもつためには、すべてを、感覚にしたがってみるべきである」(『エピクロス』出・岩崎訳)としたのである。
したがって、世界はエピクロスによれば<物体と場所>であり、<物体>の有ることは感覚が立証しているとおりで疑うことができず、<場所>は、物体が運動するものとして感覚にあらわれるかぎり、<有らぬもの>ではなく、<有るもの>の存在を知覚的にしめしたものを意味している。
エピクロスによって、世界は感覚的対象とされているという点は、マルクスがヘーゲルの語彙をつかって的確に評価したところであった。そのためにデモクリトスとエピクロスが知覚と思惟の伝導体とかんがえたエイドーラ(剥離像)という概念は、物体と知覚や思惟のあいだでニュアンスがちがってくる。デモクリトスでは、物体からエイドーラが剥離し流れこんで人間感覚に到達するのだが、エピクロスでは、物体と感覚は相互概念としてあらわれる。マルクスは、一見するとデモクリトスの唯物的客観性にたいして、主観的・感覚的な観念性とみえるエピクロスの修正を、じつは相互規定性の概念をふまえたものとして評価したのである。


 引用したテキストは「カールマルクス—————マルクス紀行」の一部分で1964年に初出、単行本は1966年初版
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アーサー・ケストラー『ホロン革命』

ホロン革命_アーサー・ケストラー.jpg


一見単純な問いからはじめよう。「部分」とか「全体」というありきたりの言葉は、正確にはいったい何を意味するのか。「部分」は「それだけでは自律的存在とは言えない断片的で不完全なもの」を暗示する。一方「全体」は「それ自体完全でそれ以上説明を要さないもの」と考えられる。しかし深く根をおろしたこうした思考習慣に反し、絶対的な意味での「部分」や「全体」は生物の領域にも、社会組織にも、あるいは宇宙全体にも、まったく存在しない。


生物は要素の集合体ではない。また生物の行動を「行動の原子」に還元することもできない。体という側面を見れば、生物は循環器系、消化器系などの<亜全体>(sub-whole)で構成される全体であり、その亜全体は器官や組織などより低次の亜全体に分岐し、さらにそれは個々の細胞に、その細胞は細胞内の小器官に……とつぎつぎ分岐していく。言いかえれば、有機体の構造や挙動は、物理化学上の基本的プロセスで説明することも、それに還元することもできないのだ。有機体は亜全体が層をなすマルチレベルのヒエラルキーなのである。このヒエラルキーを図にすれば、ピラミッド、ないしは倒立した樹木のようになる。その場合亜全体は節を、分岐線は伝達と制御の経路を表している。→有機的ヒエラルキーの模式図(末尾に引用)参照


ここで強調すべき点は、このヒエラルキーの構成メンバーのひとつひとつがどのレベルにおいても亜全体、すなわち<ホロン>であることだ。これは自己規制機構とかなり程度の高い「自律性」(あるいは自治性)を備えた、安定した統合構造である。たとえば細胞、筋肉、神経、器官などすべてがそれ自身に特有の活動のリズムとパターンをもち、それらはしばしば外部からの刺激なしに自然発生的に表にあらわれる。つまり細胞も筋肉も神経も、ヒエラルキーの上位のセンターに対し「部分」として従属しているが、同時に準自律的な「全体」としても機能する。まさに二面神ヤヌスである。上位のレベルに向けた顔は隷属的な「部分の顔」、下位の構成要素に向けた顔はきわめて独立心に富んだ「全体」の顔だ。


心臓はそれ自身のペースメーカーを数個もっており、それらは必要に応じ、たがいに交替して機能する。同様に他の主要な器官はみな、さまざまなタイプの調整機構やフィードバック制御機構を備えている。こうした自律性は臓器移植手術ではっきり証明されている。今世紀初頭アレクシス・カレルは、孵化する前のニワトリの心臓から切り取った一片の組織が、培養液のなかで何年も脈を打ちつづけることを示した。以来どんな器官も、体外に取り出されたあと「試験管」に保存されるか他の生体に移植されれば、準自律的「全体」として機能することが明らかにされてきた。電子顕微鏡をとおして観察できるギリギリのレベルまでヒエラルキーの階段を下れば、亜細胞(細胞内小器官)に行き当たる。しかしそれは「単純」でも「基本的」でもない。そこには圧倒されるほど複雑なシステムがある。こうした細胞内のとるに足らぬほど小さな部分部分が、明らかにそれ自体に備わった「規律」に従いながら、れっきとした自治的全体として機能している。あるタイプの細胞内小器官は細胞の増殖を、べつの細胞内小器官はエネルギー供給、生殖、情報伝達などを担っている。たとえば細胞質内のミトコンドリア(糸粒体)はいわば発電所で、50もの異なった一連の化学反応により、滋養物からエネルギーを取りだしている。しかも単一の細胞にこうした発電所が5000もある。たしかにミトコンドリアの活動は、上位レベルの制御により始動したり停止したりする。しかし何かのきっかけでひとたび活動を開始すれば、あとはそれ自身の規律に従う。ミトコンドリアは細胞を正常に保つためにべつの細胞内小器官と協調もするが、その一方ではどのミトコンドリアも自分のおもいどおりに活動する。たとえまわりの細胞が死にかけていようと、自分の個体性を主張する自律的単体なのである。(P.54〜58)

アーサー・ケストラー『ホロン革命』(工作舎・1983年初版:原題JANUS瓠
第1章 ホロンがつくる開かれたシステム
3——<ホロン>が層をなす有機体のヒエラルキー より

 

有機的ヒエラルキーの模式図.jpg

 

◆読んで参考になった記事◆

 

COMMENT:昨日6/11の記事で書いた山下先生の「根元的イノチとは?」(その3)の文中に出てくるニューサイエンスの「ホロン」という造語について、提唱者ケストラーの著書からメインテーマに関わる部分を抜き書きしてみました。「全体」も「部分」も、わたしたちはよく使う言葉なんですが、何をもって「全体」と言えるのか?あるいは「部分」と言えるのか?そしてその性質は?と問うと、実はとても曖昧ではっきりしないんですね。つまり、ほとんどの物が全体性と部分性の両方を持ち合わせているとしか言いようがなく、イノチをとらえようとする上で欠かせない視点だとおもいました。

 

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根元的イノチとは?(その3)

※昨日6/10に書いた根元的イノチとは?(その2の続きです。

 

◆西洋と東洋の科学の差
宇宙、自然のなかの自己を、矛盾と共にどう受け入れるか、そして、私たち人間同士、人間と動物・植物・山や川、そんななにもかもと、どうつながりをもっているのかに思い至るのがコスモロジーの形成です。これはおのれの人格を高めること、自己実現をしてゆくといったことと同一であると考えられます。そのようなコスモロジーは、ですからイデオロギー的世界にみられるような、理論的な、構築的な整合性はもちあわせていません。論理をつくりあげられることがない、どういうわけか一種のイメージによって理解されるものですし、それが大宇宙のありようなのです。これが東洋の科学、医学の基本的な考えかたとつながってくるのです。西洋科学、現代科学と呼ばれているものは、I understand の科学、東洋の科学は I see の科学とでもいえそうです。山を知るのに、一方は生えている植物の種類、住んでいる動物の分布を調べ、山裾から穴を掘って、土や岩の性質、大きさ、水分量などなども調査してデータとし、山の全体像に迫ろうとするのに対して、もう一方は、山の頂にあがって、山はもちろん、周辺の湖、平野、村や町を俯瞰して、山のありようを把握する科学といった特性をもっています。

西洋の科学は数字的な具体性に富んでいます。医学においても、機械論的展開を得意としています。
私たちは、肉体という物質をもっていますから、このような医学からもたいそう恩恵を受けてきました。一方東洋の科学は、潜象、暗在系までを含めた全体像の把握にはすぐれていますが、具体性となると、観察する個人の感性にゆだねてしまうしかないあいまいな性格をもっています。陰と陽、木・火・土・金・水の五行で表される状態も、相対的であり、流動的であって、絶対値、数量などで表現することはできません。これも、どちらが正しい、良いといった問題ではなく、いまだに私たちはその判断ができるほどには宇宙について解明してはいませんから、それらが究極的に真理と合致するかどうかは、後世の判断に任せるしかありませんが、東洋の科学の差は、それぞれが成り立っている文化基盤が異なっているだけなのです。
とはいえ、大自然は私たちがどのような方法論でもって探求しようとも、やっぱり大自然であったとする答えに戻ってくるように思われます。どのようなイデオロギーも、最後にはコスモロジーに包含されてしまうのです。
たとえば進化論では、海から発生した単細胞生物が、それぞれ環境に適応して進化を重ね、いま地球上で存在する全植物、動物となり、ついにはヒトの誕生に至るのですから、すべての生命体の源はひとつということになり、創造論から端を発した現代科学が証明した結果は、皮肉にも山川草木悉皆成仏という東洋思想の世界であったことは、面白いことではありませんか。

 

◆心身一如の世界
「心身一如」という言葉があります。これは心と肉体が分けへだてられないという両者の間柄を表しているのですが、本当はそれだけに留まらず、宇宙のように、無限・永遠の世界と、有限のこの世との関係をも表しているのだと思います。それは潜象と現象の関係でもあり、東洋医学でいうところの人間小宇宙であり、同じことをニューサイエンスの世界では、アーサー・ケストラーというジャーナリストが、ホロン(全体性を意味する「ホロス」と部分性を示す接尾語「オン」をつなげた造語)といった考え方で説明しています。
私たちが住む世界を中心に考えると、このようにいわざるをえないのですが、心と身体は決して分離できないし、本来は一つのものだという、直感の理性(知慧)でしょうが、これらも本当は分けられるものではなく、表裏をなしているだけです。
どうも、この宇宙には、何らかの法則性があって、それに従って森羅万象が働いているのではないでしょうか。

では宇宙の法則性とはどのようなものでしょうか。私のような田舎医者に解けるほど易しい問題ではありません。それでも、私たちの目の前に展開する現象の数々を無心に眺めていると、それら現象に共通の事柄が浮き出てきます。私なりに観察しえた一部の法則性——私としてはすべてなのですが——を述べてみたいと思います。全体像が把握できないままでの観察結果ですから、少々突拍子もない話と感じられるかもしれませんが、そのような側面もあるのかと、寛大な気持ちでうけとめてください。

 

◆うつり、かわり
陰と陽とは対極にありますが、「陰極まれば陽」と反対のものに移ってゆくためには、その経過で陰陽はさまざまに変化しつづけます。生を受けたあらゆる生きものの生命は死で終わりを迎えます。そのあいだに成長、老化の変化があります。文明の先進国は滅亡の先進国となりますし、もてる人も、いつしかもたざる人になってゆきます。その反対もあります。喜びは哀しみに変化してゆくためにありますし、失敗の悲しみは、成功の喜びのためにあります。生気あふれて張り切った娘さんも、枯れてしわの多い老婆に変わってゆきます。寒い冬から暖かい春、暑い夏に変わってゆき、また秋がきて冬へと移ってゆきます。移り変わりには「動き」が働きます。また動いて、移って、変化してゆくなかで、変化の様相により差が生じます。私たち一人ひとり違っています。世のなかに同じものは一つとしてありません。

 

◆むすび
磁石の陽極と陰極は引き合います。私たちの生命活動をコントロールする神経系には、交感神経と副交感神経があり、相反する働きをしながら一つの生命の営みを構成します。拮抗する二つのホルモンの働きが生命のバランスを保ちます。相反する性質、作用が合わさって結ばれ一つになります。おむすびも両手の相対する方向への動きがバランスされてはじめて手のなかに誕生します。男と女も相引き合って結ばれ、性の交わりに我を忘れ、宇宙の気と一体になって新しい生命を宿し、また男と女に帰ってゆきます。このような変化は、必ず変わってゆくという絶対のうちにあります。

うつり、かわり、むすびのありようのように、私たちも、日々刻々に移り変わっていて、止まっているものは何一つありません。
身体を構成する細胞も、新陳代謝を行っていて、ある期間を経ると、以前にあった細胞は一個もなく、新しい細胞に入れ換っています。その細胞に取りいれられ、排出されるあらゆるエネルギーは、もっと短い周期で変化してゆきます。一秒たりとも同じ状態はありません。
子どもは成長という変化を続けますし、年老いて身体は縮んでゆくのに、爪も髪も伸び続けます。そのように変化しながら、私たちは存在しているのです。
たとえば学校のようなものです。校舎は毎年どこともなく破れたり、修理が施されたりして、少しずつ変わってゆきます。新しく体育館が建てられたり、プールができたり、一方物置小屋がこわされたり、校庭の草木も、大きさや、数や、種類までも変化してゆきます。そしてもっと変わるのが、その学校に通ってくる子どもたちです。毎年春になると新入生がはいってきます。その1年生も、勉強して知識も増え、身長も伸び、6年生となって卒業してゆきます。その間に校長も教師も変わったりします。でも通ってくる子どもたちがいるかぎり学校は続いてゆき、通ってくる子どもたちのエネルギーが切れると、学校は廃校となり、無くなってしまいます。世の中の現象はすべて私たちの生命現象と同じ経過を流れてゆきます。

 

◆根元的イノチ
学校は通学する子どもたちというエネルギーに働かされますが、生きものの生命エネルギーは何によって働かされるのでしょうか。それは魂です。魂は潜象と現象の橋渡し的位置にいます。その魂を働かせるものを、私はカミの心、宇宙意識と呼ばれているものだと考えていますが、天然・自然に存在して、移り変わり、結ばれるなど、自在に変化してゆくすべての生命の最小機能単位です。根元的イノチは生きものの生命だけではなく、あらゆるもの、石、土、金属などなど無生物と呼ばれるもの、量子とか素粒子にも内在しています。金属のような無生物も根元的イノチを持つ生きものと考えることにびっくりされるかもしれませんが、金属の元素も自から動いていることは電子顕微鏡の発達で確認されていることです。
宇宙の万物、空間でさえこの「根元的イノチ」によって充満していると考えられますが、ではその「根元的イノチ」とは、いったいどのようなものなのだと問われても、答える術はありません。
しかし、あらゆる出来事を無心に眺めていると、ある種の傾向が認められます。私たちの身体も「根元的イノチ」で形成されていますし、身体を動かすエネルギーも「根元的イノチ」の力によっています。
この根元的イノチのエネルギーには、拡散・膨張の性質(陰性)と凝縮の性質(陽性)があり、そしてこの両性質には、それぞれ、そのエネルギーに抵抗する性質のエネルギー(ブレーキシステム)を内在しています。この互いの抵抗性があるからこそ、私たちは現象としての形態を保っていられるのです。世の中のすべてのものが、存続する力をもちあわせているのも、この抵抗性のお陰なのです。移りが極まると還元の力が働くのも、この抵抗性があるからです。陰極まれば陽になるのです。喜び極まれば悲しみに、怒りが極まれば笑いになるのです。根元的イノチをカミの心と呼びたいといいましたが、このような働きは、心そのものだと考えられます。そして生命は、この根元的イノチ(心)の受け渡しが常に行われてゆく構成を有しているものと言えるでしょう。
このように簡単にいいきってしまえるとは思っていませんが、とりあえず、イノチ・心=身体・精神をこのように受けとめて眺めてゆくと、何かしら見えてくるものがあるのではないでしょうか。

 

 

COMMENT:

3回にわたり山下剛さんの著書から引用して紹介してきた記事の最終回なんですが、根元的イノチをめぐる牘宙の法則性瓩侶誅世箸蓮◆岾隼兇垢襯┘優襯ーと凝縮するエネルギー、そしてそれぞれのブレーキシステムである」というものです。でも、このようにあまりにシンプルで明快なので、山下先生も書かれているとおり、皆さんはこれだけを読まれても、単なる突拍子もない話のようにおもえるかもしれませんね。わたしがこれを最初に知ったのは23歳の頃のことで、そういう視点で世の中で起きているさまざまな現象を観察していくことで、表面的には多様で複雑に見えても、その背後にどういう仕組みがあってどのように機能しているのかがすこしずつ感じられようになったのでした。ただ、そのことが日々の生活のなかで心底納得のいくものとして自分の腑に落ちるまでに10年、そして、いろんな問いや謎に対しても自分なりの答が出せるようになるまでには、さらに10年以上の時間が必要だったようにおもいます。

 

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根元的イノチとは?(その2)

※昨日6/9に書いた根元的イノチとは?(その1)の続きです。
 

◆神女になるイザイホー
沖縄には12年に一度のイザイホーというお祭りがあります。このお祭りには村中の人びとの参加があるのですが、なかでも30歳から41歳までの女性が祭りの主役であり、彼女たちは祭のなかで5日間をかけて神女になる儀式です。イザイホーは、自然・カミ・人の関わりを、神事を通して確認するお祭りです。人のありよう、社会秩序の本来の在りかたをあらためて確かめるわけです。地域のコスモロジーの再確認とも言えます。イザイホー神事のビデオを観たとき、私は祭祀の前と後では、参加した女性の顔に違いが生じ、幅と深みと優しさが増して、ある種の大きさを感じさせる顔に変わってゆくのに、たいそう感動を覚えました。
自然もカミも人も、仲間として繋がりあっているのです。ですから、たとえば「アジア的社会」「前近代社会」と呼ばれる社会では、病は社会全体のものであり、病人ひとりだけのものではないと考えられ、病気を治すにあたって、悪魔祓い的行事が行われることもしばしばです。悪魔祓いは病人に憑依したエゴ、病人のまわりの社会の人たちのエゴを、自然もカミも人も一緒になって追い払うことによって、コスモロジーの確認をする儀式でしょうし、コスモロジーが生きているからこそ、効果を見せる儀式ともいえます。
話は少しそれたかもしれませんが、以上のような自然観・カミ・人関係のありようから東西の文化、科学、ひいては医療のありかたが大きく分かれていったのだと考えられます。

 

◆閉鎖系のエントロピー論
いつのことでしたか、近くに住むカソリックの神父さんが出演した教育TVのビデオをみせていただいたことがありました。神父さんですから、当然のごとく天地創造の話をされたのですが、たとえば腕時計に衝撃を与えたとすると、腕時計は破壊されてしまいます。これと反対に腕時計の部品一式を箱にいれて、いくら揺さぶり続けても、時計がきちんと組み立てられる確率はほとんどありません。そのように自然はコスモス(秩序)からカオス(無秩序)に進むことはあっても、その逆はない。つまり自然はカミが計算して造られたものであるから、決して自然に生ってできたものではない。もし自然に生ってきたと考えれば、人間は元々から人間であったとする根本がなくなり、浮草になってしまい、他の生物となんら変わるところがなくなり、人間としての尊厳さえもち得ない、といった主旨の話をされておりました。
確かに物質は秩序のある状態から、無秩序の方向に進行して壊れてゆく。このように物の無秩序の度合を表わす量を「エントロピー」といっていますが、時間と共にエントロピーが増大するという、
熱力学第二法則は、あらゆる自然現象に当てはまり、宇宙全体も、秩序性から無秩序性に向って一方向的に変化してゆくとする世界観は、創造論的神・人関係のなかでは、容易に認められる論法でありましょう。
なるほど、カミの下僕の神父さんは上手に話をすすめるものだ、と感心したすぐその後から、この考えかたは、私たちが学生時代に行った実験を思いださせました。実験とは、結果に余計な条件が混入しないように、単一で特殊な状況を設定して行い、そこで得た結果から、物事の因果関係を明かにしようと試みるものなのです。
例を挙げると、高血圧症に対する治療薬品の効果判定の実験には、高血圧にしたネズミを用いるのが常識になっています。高血圧ネズミとは、高血圧をおこしたネズミ同士を何代にもわたって交配してゆくことによって造られた、生来高血圧をきたしているネズミのことで、これらに血圧降下剤を与えて、どれほど、どのような効き目があるかを実験し、この薬品は高血圧に対して非常に有効であるとか、それほどでもない、ほとんど効果がないなどと判断しているのです。
そのような実験は、閉鎖系のなかでだけ通用するものです。エントロピーの法則は、生命体でない、外界との間にエネルギーの交換も情報の交換もしない、閉鎖系の中でのみ適応する法則なのです。創造論も閉鎖系での考えかたとよく似ています。

 

◆閉鎖系の生命
一方私たちは、高血圧ネズミのように、ある目的に向かって改良された生き物ではありませんし、無機物質でもありません。種の条件、外界、環境とのあいだに、エネルギーの出し入れやら、情報の交換やらをおこない、お互いに影響しあって生きている生命なのです。
生命体とは、さまざまの形でエネルギーを摂り入れ、体外にも排出しながら、細胞から組織、組織から器官へと、順次複雑な構造を形成してゆきます。
しかも環境との間にも影響を及ぼしあいながら、微妙にゆれながらバランスをとり生命を維持しています。その上、その生命体一個で生きているのではなくて、たとえば私たちも、自身の身体を構成している細胞の二倍くらいの数が存在すると考えられている腸内細菌の動きを得て、消化、吸収、排泄などを行っています。生命体ではエントロピーの減少も行っているのです。このような秩序の形成のありようは、開放系の特徴でありましょう。
開放系の生命体である人間には、閉鎖系の実験を基にした理論が、必ずしもあてはまるものでないのは当然なのです。
最近では、宇宙物理学者、スティーブン・ホーキング博士が、
「宇宙創造にあったって、神は必ずしも必要でない」
「宇宙に存在するあらゆるものは、素粒子よりももっと細いパイプでつながっている」
などと発言しています。
また、ライアル・ワトスンは彼の著書
『スーパー・ネイチュアー』のなかで、
「科学の最高峰はすべてぼやけた縁をもっている——いまもなお茫然としていて、まったく説明不可能な領域へと間断なく続いて境界と、その縁にわれわれが正常な現象として理解する事柄と、まったく異常で説明できない事柄との間に、一群の準正常な現象が存在している。自然と超自然的現象の間には、私が超自然として記述しようと決めている多数の出来事がある」
と述べていますが、自然と超自然現象との間にスーパー・ネイチュアーと呼ぶべき、事柄、空間の存在を認めざるを得なくなっているのです。なんとなく「なる」創造神話的な考えかたではありませんか。


◆イデオロギーからコスモロジーへ
このようにニュー・サイエンスでは、閉鎖系から開放系への変換が起きているのです。
それはいい換えれば、イデオロギーからコスモロジーへの変換なのです。イデオロギーでは、ある事実が正しいとするとき、それ以外は誤りであると考えます。そこでは極めて明確な主張が可能になり、多くの人びとをひきつけ、納得させることが容易です。現在までに、私たちが学んできた科学もそのような性質をもっています。ですが、人間存在とか、宇宙とか、自然とかいった存在は、もともと矛盾をはらんでいるものなのです。それを矛盾と感じ、矛盾と表現することは、人間の浅はかな知識による判断なのであって、カミ、自然、真理がどういっているのかは私たちにはなかなか理解できません。けれども、宇宙、地球、自然のなかに生かされている私たちの存在は、その矛盾を超えて厳然と在るのです。それはコスモロジー的な存在です。コスモロジーでは矛盾をも含めて、できるかぎり内に包含する世界ですが、反対にイデオロギーは物事を切り捨てることに関して大きな力をもっています。イデオロギーはイデオロギー自身の判断によって、悪とか邪とか誤ちとかを切り捨て、完全に整理整頓された世界の再構築を目指すのです。医療の世界では、病を臓器主体の診断をたてて、病原菌を殺し、悪い臓器組織を切り取り、臓器の交換をし、ついには新しい人間まで造ろうと決心しているようです。またそれほどまでの決心をしなければ、人間を病から脱出させることはできません。人が人間を作ること、それが完成しなければ、人は病をもつ人間を治せません。イデオロギーの科学を根っこにもつ現代医学の行き着く先はそうならざるを得ません。しかも科学は量り知れないほどの努力を積み重ねているにもかかわらず、生命体をつくるのに未だなんの光明も見出してはいません。何か自然の存在に反した、見当違いの方向に歩んできたようです。


◆生のなかにある死
病、その結果としてくる死は、突然にあるのではなく、生からのゆっくりとした退却の結果にあるもので、生はそのなかに死を含んでいます。赤ん坊が生まれた瞬間から、もうその変化は始まっています。私たちが生き物を冷静に眺めていれば、自ずから判ることです。
最近の子どもたちは成長が著しく早くなりました。世の中が良くなったせいだと喜ぶ人たちもいますが、見方を変えれば、老化が早くなったともいえるのです。たとえば、朝鮮戦争で亡くなったアメリカ兵の平均年齢は、20歳そこそこだったのですが、その70%に動脈硬化が認められました。歴史のうえでも、文明の先進国は滅亡の先進国でもあったのです。
イデオロギーからみれば、生や善は正しく、死や悪は正しくないものとしなければなりません。ですが、いずれは死んでゆく人生においての、自分の意味を求めるなら、自分というものを深く知ろうとするなら、生に対する死、善に対する悪のように、自己にとって受け入れ難い反面が、私たちのなかに存在することを認めなければなりません。そのような自己を含めた世界をどう観るか、となるとイデオロギーでは、なんとも説明がつかなくなってくるのです。

 

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根元的イノチとは?(その1)

病になる、病が治るということ_山下剛.jpg

 


◆地域各々の医療
世界各地にはさまざまな医療が存在します。
オーソドックス・メディスンと呼ばれている西洋医学をはじめとして、中国を中心として発達した東洋医学、インドのアーユル・ヴェーダ、アラビアのユナニ医学等々のほか、民間医療としての悪魔祓いを行っている地方もあります。どうも医療は地域地域の特色をもっているように見られます。
私たちはこれまで、あたかも西洋医学が、進歩した医学、医学そのもの、医学のすべてであり、いずれ医学についてあらゆる回答を出してくれるものと信じてきました。たしかに、西洋医学はめざましく進歩し、予防医学も発達し、おかげで伝染病も著しく減少し、医療内容も高度になってきたと考えられるのに、反面、その高度に進んだはずの西洋医学でも、解決のつかない病がたくさんあり、エイズに代表されるような新しい病まで出現してきました。しかもこれまでの経過からみて、それらは今後ますます増えていきそうです。
オーソドックス・メディスンが治療の方法論をもたない病気にたいし、西洋医学からは外縁的治療と呼ばれている民間療法や、その外縁的治療の範疇にさえはいらない悪魔祓いなどが良い結果をもたらしているという事実があります。
未開の国の人たちを、病から救おうとアフリカのランバレーネに診療所を開き、献身的な活動を行ったシュワイツァーのことを誰しも知っているでしょう。彼が、風土、習慣、思想など、いわば土地の文化を無視し、西洋文明・医療を持ち込んだがために生じた病気と自ら格闘する破目に陥った事実にも、私たちは目を向けねばなりません。
現時点では、世界共通の医療のようなものは存在しないようです。それは、医療とはその地域の文化のありかたと密接な関係をもっていて、文化のありかたが、医療のありかたを決定しているからだと解釈するのが正当ではないでしょうか。
文化の根底には、その地域の環境、自然、神と人との関係などが、大いに関わりをもっていますから、それらについて探ってゆくと、生と死を問題とする医療のありかたについても判ってくるはずです。生と死を問題とする以上、当然宗教とも因縁は深く、そのことについて理解を深めることは、医療者が自らの立つ基盤をどこにおくのかを判断するうえで、重要なポイントとなるでしょう。

どの民族においてもそれぞれ創世神話が存在します。創世神話の基本語を探してみると、「つくる」「うむ」「なる」の三語にしぼることができそうです。まずこの三語について考えてみましょう。
 

◆「つくる」
つくった「カミ」に対しては、つくられたもの・人といった関係を想起させます。この場合のカミ・人関係は一方的であるという特性をもち、不可逆的関係であり、この関係のなかでは、カミと人との融和は考えられません。ですからこのこの関係のなかで、カミと人とをつなぐものは、カミから与えられる「救済」なのです。前にも触れたように元来カミは潜象界に出現して。私たち人が認識し得るようになるのです。ですから、カミから与えられる「啓示」も「救済」も潜象界での見通しを含んでおり、現象界しか理解できない人にとっては、たとえば親の意見が理解できない子どものように納得しかねたり、現象界で無理にあてはめようとするような矛盾が生じます。その矛盾が二元論と呼ばれている、精神と物質といった、本来一つのものを二つに分離させてしまうような考え方を生んだのでしょう。
よくこの二元論の祖として、デカルトの名が挙げられますが、デカルトは二元をそれぞれ「思惟するもの」「延長したもの」といっているようです。「思惟するもの」とは精神界のこと、「延長したもの」とは精神界の延長線上に現象として存在するようになったもの=私たちが物質としてとらえているもの、と考えていたと理解できます。ただ、話をすすめてゆくうえのこととして、当面二つに分けてみて、そのうえで、その起源について考えてゆこうとしたもののようですが、そのデカルトの「延長したもの」=物質界をニュートン力学が強力に後押しして発展してできたのが、西洋科学だともいえます。
つまり「カミ」=潜象、暗在系について頬かむりをしたうえで、現象、明在系、物質界の解明を進めてきたのが、科学であるといえます。
しかしそこには、物質界を解明しようとする動機そのものが、カミに対し人の感情や、知識の優位性を占めそうとする精神性から起こっているという矛盾があります。現象界、物質界にこだわってきたその根底は、人の精神界での働きにあるという矛盾をもっているのです。
ですから、その矛盾そのものが、精神界、物質界と二つに分けて考える二元論そのものを、分解させようとするエネルギーを含んでいるともいえます。
「つくる」カミのもとでは、カミの意に反して、現象界、明在系の拡大、つまり物質界での大きな発達をとげてきました。そして、その結果は、文明が自然を荒らし、人が働くことが、人がカミを祭ることよりも優先され、人の考え(意識)が、自然の声(無意識)を追い払ってしまうことになりました。これはいいかえれば、イデオロギー(主義主張)が、コスモロジー(宇宙観)を追放したといってもよいでしょう。
そのような文化背景のもとでは、生と死について、生は明るい、非常に理解しやすい世界であり、死は生の側から見透かすことができないものと考えられてきます。そして、このお互いに相容れることがない、異質の二つの領域が、お互いに対抗し合いながらも、生(現象)は死(潜象)の領域をせばめてゆき、いずれは生(現象)が死(潜象)の領域を追い払ってしまうべきものであると考えるようになるのです。そのような考えかたにあっては、死は生の領域に迷いこんで存在する「落とし穴」のようなもので、たまたま誤って陥ってしまっただけ、本人の責任では全くないという考えが生まれてきます。このような現代科学的神話――あるいは迷信というべきか――に支えられて、人間の死・病は医療、技術としての医療の対象となってきました。
この世界には生と死がどうしようもなく存在します。生と死の関係は1枚の布における生地と模様の関係のようなものです。模様をどんどん布1枚に拡大してゆくならば、そこには模様は存在しなくなってしまいます。そのように、生(現象)が死(潜象)を覆いつくすことなどあり得ないことなのです。

 

◆「うむ」
「うむ」は「つくる」と「なる」の中間にあり、記紀のイザナギ、イザナミの国生み神話はその象徴的な話だと考えられます。とくに『古事記』では「八神は御刀によりて生れる神」にみられるように生むは生る(ある)、生る(なる)といった自然経過をあらわす言葉として書かれています。

 

◆「なる」
この「なる」という言葉の意味は、植物などがいつの間にか土から芽を出し、成長して葉をつけ、花を咲かせ、実を結ぶように、自然に存在する力が宇宙そのものをあらしめたとする考えかたです。創世に関わったのは、カミの力だけでなく、具現されたものの力も加わっていて、そこには共同性があり、カミと人とは連続的関係にあります。

このような自然観では、生と死は共存しているのです。生と死はお互いに共存しているからこそ生は生であり得ますし、同じように死も死であり得るのです。しかもこの両方の世界は、ある一線ではっきりときり分けられるものではなく、境のはっきりとしない、幅をもった帯で分けられており、生(現象)も死(潜象)もこの帯のなかに出入りしています。ですから、この分離帯は生と死を分けていると同時に、生と死を継ぐ役目ももっているのです。生でもなければ死でもない、非常にあいまいな分離帯なのです。

私たちの指向のなかにも多少残っていると思われますが、古代日本人の意識には、カミと人との連続的関係の代表として「まれびと」のような存在がありました。「まれびと」は、「とこよから時を定めて来り訪ふことがある」(折口信夫『国文学の発生』)とあるように、人が足を踏み入れるころのできない未知の空間、生の出発点でもあれば、生の終点でもある「とこよ(常世)」からやってくる、非常にカミに近い存在、時にはカミとして認識されることもありました。『古事記』にある田島間守(たじまもり)の話では、彼が垂仁天皇の命をお祓いするために非時香果(ときじくのかぐのこのみ)を求めて「とこよ」に渡り、そこから帰ってくるのですが、これは人であっても条件さえととのえば、この世と「とこよ」の間を往来することが可能だとする考え方です。この話は神道では人はカミの子であるけれども、生命を経過してゆく間に穢れを生じるから、禊(みそぎ)、祓(はらい)が必要なのだとする考え方を裏付ける話でもあります。ではすべての人たちが「まれびと」を歓迎したかといえば、そうではありません。この世の秩序はとりあえず保たれていますから、その秩序を乱すかもしれない「まれびと」に対して、拒絶する反応もあるのです。それを端的に表しているのが『常陸国風土記』のなかにある、「富士と筑波」の話です。この話は、「昔、高貴な祖先神が、富士山の麓に到り着いて、一夜の宿を請うたところ、断わられ、恨み呪った。さらに筑波山に登って宿を請うたら快く承諾してもらった」という筋書きです。序に以下は「福滋(ふじ)の岳(やま)は、常に雪ふりて登臨(のぼ)ることを得ず。其の筑波の岳は、往(ゆき)集(つど)いて歌(うた)ひ舞(ま)ひ飲(さけの)み、喫(ものうら)ふこと、今に至るまで絶えざるなり」と続きます。
また、人の営為は時としてカミの意志(自然のありよう)とぶつかって、わざわいを起こすことがありますが、人が自分の意志を行動に移すときに、カミの意見を聴いて、自然との調和を心掛ければ、わざわいは起こらぬと考えていたことを示す物語も風土記のなかに探し出すことができます。
生(現象)と死(潜象)の境は、明確でない、幅のある、どちらにも属さない部分であり、両界を分けると同時に継ぐ役目をもつといいましたが、神社も同じ役目をもっております。ここは、カミにももちろん人にも属さない場所であり、カミに降りてきていただいて、人と会合する場所といえます。ですからカミを祀ることは、自然界の生命活動をカミと人との調和融合のもとに活性化させることだともいえます。 →
根元的イノチとは?(その2)に続く

 

山下剛『病になる、病が治るということ』(草風館・初版1992年)第1章 宇宙世界と医療より
 

COMMENT:「イノチとは何か?」という問いに対し、福岡伸一さんなどの科学者が「動的平衡にある流れである」といった見方を提示する様になったのは、21世紀に入ってからのことですが、25年前に書かれた山下先生のこの本を紐解いてみると、そうした発想の手がかりとなるような知見が既に示されていて、まったく古さを感じません。『病になる、病が治るということ』の第1章は、「根源的イノチとは?」という問いへの基本的な枠組みが示されていて、その結論は非常にシンプルなんですが、あまりにもシンプルすぎるので、それだけを切り取って書いたところで、読んでもおそらくはよくわからないようにおもいましたので、なぜそう言えるのかというところも含め、今日から3回にわたってご紹介するつもりです。
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switchインタビュー達人達「松岡正剛&コムアイ」より

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エディティング(編集)とは、もともと生命が持っていたやり方ですよね。

生命は遺伝情報を後代に伝えるために複写をした。

だったらひとつのものがずっと続いたはずなのに、プリントミスや誤植、ジャンクDNAが出てきたり、突然変異といいますか、生命の多様性が生まれた。

ということは、間違った組み合わせが変化したり、バージョンが増えることが生命の本質であり、編集の起源だと思ってます。

コピーミスが許される世界と、それを生かして美や官能に切り替えられる人為的な能力を一緒にした編集工学を作りたい。

これがスタートです。

 


※2017.4.15にNHK-Eテレで放映されたswitchインタビュー達人達「松岡正剛&コムアイ」より、「編集工学とは?」の問いにこたえた松岡さんの話より)
 

 

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安冨歩『合理的な神秘主義 生きるための思想史』より エピクロス

合理的な神秘主義

7.エピクロス

エピクロスはいわゆる「原子論的唯物論」の哲学者である。不可分で不変の原子を根本物質と考え、無数の原子が無限の虚空を運動しており、一切の事物はその原子の合成として成立している、と考えるデモクリトスらを代表とする学派に属すると見做される。しかしマルクスがその博士論文で指摘したように、エピクロスは特異な原子論者である。デモクリトスが一切の事物の運動を徹頭徹尾必然的だ、と考えたのに対して、エピクロスは原子の必然的運動がわずかに方向が偏る、という性質を持つ、という説を唱えた。この運動の偏りから原子の複雑な多重衝突が生じて、そこからさまざまの事物が生じる、と考えた。こうしてエピクロスは、必然性と偶然性とを統一的に捉える世界観を提出したのである。これは上田士エドワード・ローレンツらによる、決定論カオスの発見に先行し、必然性と偶然性とを峻別する世界観を打破する、極めて重要な思想であった。
エピクロスはここから、心身二元論を批判し、必然を受け入れて死を畏れず、しかも宿命論を批判する独自の倫理体系を構築した。この思想はスピノザの思想の一つの源流になったと考えられる。
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自然について 〜エピクロスのおしえ〜(その2)

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これは、1974年にかいた、こどものための合唱曲だ。

よくある、こども用の音楽をつくるつもりはなかった。おとながかんがえる、けがれのないこどもの世界や、その反対に、一歩ずつおしえみちびかなければならない未開の状態であるこども時代を、こどもにおしつけるのが、教育用の音楽だとおもわれている。教育は、こどもが知るのには「早すぎる」こと、「ふさわしくない」こと、「必要のない」ことをかくし、おとなのおもいどおりに行動するおとなしいドレイをつくるためにある。それは、自然にうまれてくる現実への関心をゆがめ、学習とあそびのくみあわせとしての行動パターンを抑圧してしまう。

集団の音楽は、学習過程であると同時にあそびなのだから、ことばとむすびつけて、現実への関心をかきたてることができれば、体の運動と一体になった思考のスタイルをつくりあげることができるだろう。この統一的なスタイルは、社会とその教育の抑圧装置のなかで、成長するとともにうしなわれていくものなのだ。

エピクロス(ルクレティウス)のテクストは、問題提議のためにえらばれた。世界の構造についてのこたえをあたえるためではない。なぜエピクロスなのか。

 
それは古代の終わり、動乱の時代の哲学だった。キリスト教的中世によって弾圧され、記憶はおおくうしなわれた。近代のおわり、動乱の時代にそれをふりかえるのは、充分意味のあることだ。

それは快楽を最高原理とするために快楽主義とおもわれ、心の平静をおもんじ、現実から逃避する非政治的な哲学とうけとられてきた。いまのこっている文書から、その真の姿を推測するのは、たしかにやさしくはない。

わかいマルクスは、エピクロスの原子論を原子の直線的落下、その偏り、結果としての反発という三段階に整理し、ヘーゲル的な三段階の図式にあてはめて、原子の偏りが自立した個であり、反撥が社会的関係であることを類推する。すると、快楽とは苦痛からの偏りであり、心の平静とは混乱からの偏りを意味する実践的な原則であることがわかる。

あらゆることが必然の原因・結果の鎖のなかでしか起こらないという宿命論に対して、偶然としかかんがえられないような原子の自発的な運動を主張し、星のかすかな変化さえ、原因結果の鎖のなかでわれわれの生活を大きく支配することになるという神学に対しては、知覚を満足させるなら、天体の運動については何通りもの説明ができるという、客観的な実在の多面性と、そこからの選択の戦術性を主張したことは、哲学が認識でなく、実践であるのでなければ、ありえないことだったろう。原子の運動の必然論を主張したデモクリトスの「ニセの」唯物論は、ヘーゲルの用語を転用しながら、マルクスによってバクロされる。しかし、マルクス主義以前のこの段階では、実践の核心はまだ暗示されているにすぎない。

エピクロスの哲学が、女やドレイやこどもにも友情によってひらかれた、集団的実践だったことの正当な評価は、延安以後の動乱の時代の哲学の出現によって、はじめて可能となった。友情は、人間の関係の自己管理であり、哲学は集団の自律的な生活と思考のスタイルだから、女やドレイやこどものように抑圧された者たちの間でこそ、生存のためになくてはならない知恵になるのだ。


高橋悠治『きっかけの音楽』(みすず書房)より
 
COMMENT:6/4にテキストをご紹介した高橋悠治さんのこどものための合唱作品『自然について=エピクロスのおしえ』についての解説文より。冒頭に置いたエピクロスのクリナメン(偏り)の画像は、こちらのページから拝借しました。
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高橋悠治『きっかけの音楽』より

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1960年代には草月アートセンターの小冊子「SAC]ジャーナルに書いていた。その頃の前衛的な立場で、音楽から距離をとり、問いかけ、批判するためにことばを使っていた。

1970年代、
雑誌「トランソニック」を編集していた頃から、古代日本語を使った曲を書き、批判することばの意味だけでなく、響とリズムに関心がひろがった。

音はすぎゆくものだから、それを書きとめれば記憶となり、死んだひとたちを忘れないための音楽にもなる。ことばも響きあいの不規則なリズムが身体に共鳴し、さまざまな意味となって散っていく。問いかけには、一つの答えがない。問いはまた問いを生み、すこしずつことばの風景は変わる。

1980年代には
「水牛楽団」でたくさんのプロテストソングの訳詞をし、「水牛通信」に毎月のように書いていた。いまもインターネット上の「水牛」に毎月書いている。それらのことばが集められて本になるときは、それを編集した人の観たことばの空間がひらく。

この本の場合は、小川純子の選んだことばがあり、二系列にわけてそれぞれ年代順に並べられている。「 作曲ノートから」は音楽論、「 ふたたびどこへ」は追憶と別れのことば、最後に、失われていた1970年代の二つの論文がくる。

一つはエピクロスの自然哲学による児童合唱曲について書いた文章、偶然のかすかな偏り(クリナメン)からの創造は、いまなお指針でありつづける。

もう一つはドビュッシーの作品の底流となっている水の女のメロディについての音楽的分析。分析方法はあの時代の影響と限界のなかにあるだろうが、作品の表面に見えるものではなく、身体の沈黙の声を聴きながら、音楽の、そして音楽からの解放にいたる道は、いつでもひらかれている。

本のタイトルとなった「きっかけの音楽」は、シューベルトのMoments Musicauxから。いまふつうに「楽興の時」と訳されるが、もともとmomentは動き出す瞬発力を指すことば。クリナメン(偏り)ともどこか通いあう。


高橋悠治『きっかけの音楽』(みすず書房)あとがき

COMMENT:現在版元のみすず書房で品切れ状態ですが、目次や内容、著者プロフィールなど詳細が記されているので、関心ある方はぜひこちらのページを併せてご覧下さい。とくに、小沼純一さんが書かれた「『きっかけの音楽』に寄せて」がとっても読み応えあり、わたしも20代の頃、当時は本に未収録のままだった高橋さんの「ドビュッシー序論」の元原稿を探しに、東京文化会館の音楽資料室まで出向き、雑誌「あんさんぶる」をコピーしたことをおもいだしました。
 
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自然について 〜エピクロスのおしえ〜

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1) かんがえるためのきそく
    エピクロスはいう
    かんがえるとき ことばから
    もののかたちが うかびあがる
    かんがえるとき ことばから
    もののかたちが うかびあがる
    それをしっかり つかまえるならば
    きりのないせつめいは もういらない
    そのときそこで かんじるままに
    みるものは いつもただしい

 

 

2) うちゅう
    うちゅう
    ないものからは なにもうまれない
    ないものからは なにもうまれない
    ないものからは なにもうまれない
    それでなければ なんでもが
    なにからでも かってにうまれて
    たねもいらない ことになる
    なにかが みえなくなったとき
    それがきえて しまったとすれば
    せかいじゅうのものは とっくに
    なくなっているだろう
    うちゅうぜんたいは いまあるとおり
    いつもあった
    これからもきっと このとおり
    あるだろう

 

 

3) ものとすきま
    ものとすきま
    もののなかには すきまがある
    もののなかには すきまがある
    それはどうしても さわれないばしょ
    どうしても さわれないばしょ
    かたいいわにも みずはしみこむ
    こえは かべをつきぬけ
    はげしいさむさは ほねにしみる
    すきまがなければ もののあるばしょはなく
    それがうごけるところもない
    みずのすきまをみつけて さかなはすすむ
    さかなはすすむ さかなはすすむ

 

 

4) げんしのあめ
    げんしのあめ ふかい くうかんを
    げんしのあめは まっすぐおちてゆく
    もしもどこかで あるときあるものが
    かすかに かたよらなかったら
    どこにもなんにも おこらなかったろう
    「げんしは おちる あるものはまがり
    あるものはぶつかりあい からみあい
    あるものははねかえり とおくとびちる」
    こうして ふるいせかいはくだけ
    あたらしいちからが わきあがる

 

 

5) かぞえきれないせかい

    かぞえきれないせかい
    かぞえきれない たくさんのせかいがある
    ちきゅうに にたせかい
    にてないせかい
    かぞえきれないげんしが
    うちゅうをとびまわり
    つかいきれない くみあわせが
    とおくはなれた たくさんのせかいを
    うごかしている
    せかいは かわりつづける
    いつまでも

 

COMMENT:高橋悠治さんが1974年に作曲された児童合唱作品『自然について 〜エピクロスのおしえ』で用いられたテキスト。エピクロス自身のものではなく、ローマ時代の詩人ルクレティウスがエピクロスの哲学を忠実に韻文化したものを高橋さんが訳した。高橋さんは、この作品について「エピクロスをえらんだのは、かれが古代世界の終わり近く戦乱の間に生きながら、科学的に世界を理解することで心の平和をみつけようとした哲学者であり、また哲学を自分の庭の学校で女やドレイにも開放し、友情にもとづいて生きることをおしえたからである」とコメントしている。

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初出は雑誌『エピステーメー』1976年8+9月号:特集「音・音楽」(朝日出版社)

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