往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。





塾生が書いたblog記事から

10/5から寺子屋塾で学習している塾生が書いているblogを紹介しているんですが、今日は拓の○△□な雑記帳です。


昨年の2月かららくだメソッドで学習している拓ちゃんがこのblogを書き始めたのは今年の6月でした。

現時点で最新のエントリー10/2の記事を以下にご紹介します。

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今日も仕事のトラブルが続き、いつものように打ちひしがれていたんですが、寺子屋へ行ったら、元気が出ました。寺子屋のあの空間には、目には見えない何らかの力(何か知らんけど)があるようです。普段の生活の中では、あのような空間はなかなか味わえないんじゃないかな。
 

元気が出たといっても、不自然に明るくなったり、急にテンションが上がったり、無邪気にはしゃいだりはしてないです。この場合の「元気」は、「気が元に戻る」という感じかな。悶々とした濁った感情がリセットされたような感じ。

 

らくだメソッドをしばらくやらなかったり、本も読まなくなったり、今まで築き上げてきたことが全てどうでもよくなって心に壁ができたような感覚だったのに、何だろう?

新一年生のようにまた初々しい気持ちで取り組みたくなりました。

でも、家に戻るとやっぱり仕事が気になって、撃沈。明日も仕事か……。

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塾生が書いたblog記事から

10/5からこのblogでは、寺子屋塾で学習している塾生が書いているblogを紹介しています。
 

7人目の今日は、昨年10月かららくだメソッドの学習を開始し、まわりから狢析困舛磴鶚瓩琉称で親しまれている塩坂太郎さんの
Sonomanma Taro no Blog から、7/27に書いていた記事を。
 
太郎ちゃんのblog記事は、いままでにも「なるべく1度で約分しなさい」などをこのblogで紹介したことがあるんですが、らくだメソッドの学習についてなどは、blogのカテゴリーに「教えない教育」をつくって書いていますので、参照してみてください。
 
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「どんな場でもプリントができる“自分”」「どんな自分でもプリントができる“場”」

(小5-20 問題数:50問 ・ 目安の時間:12分)
 

昨日は、家のリビングにて24:30に問題を解いた。
結果は時間14:08のミス5問であった。
正直プリントを解き終わった後に、
このプリントは果たして合格できるのだろうか?
という気持ちになった。
 
今日は、週一の通塾の日であったため、
中村教室にて小5-20のプリントをやった。
 
結果は13:08のミス1問であった。
昨日の結果と比べてみると、
時間は−1分、ミスの数は−4問で、
昨日と比べて大幅に結果が良くなった。
 
まだ、目安の時間内には解けていないけれど、
昨日とは違って、もう少しで合格できそう。
 という気持ちになった。
 
** ** ** **
 
昨日と今日を振り返ってみて、
昨日から今日、結果が良くなっているわけだけれど、
何が自分をできるようにしてくれたのか?という問いが浮かんだ。
 
その時1番に感じたことは、
「自分の頭ができるようになった」ということではないことだ。
 
昨日に比べて、自分の頭の回転が、
 つまり自分の計算力が、
−1分とミスの数−4問という結果につながった。と言い切ることはできない。と思った。
 
もちろん、その要因もあると思うのだけれど、
「それだけが要因だ。」と言い切ることはできないように思う。
 
この−1分、ミスの数は−4問はどこから生まれてきたのか?
それを見つめてみると、
自分を知ること、つまり、自分の現状を把握すること、
自分のできること、できないことを認識することは、
自分の持っている能力(自分が身につけている計算力)を認識することのように思っていたのだけれど、
結果として現れてくる「自分の現状」というのは、
「 自分の今現在持っている能力」と
「自分の能力の発揮力」の2つが絡み合っているものだと感じた。
 
** ** ** **
 
いくら計算力が高くても、
その能力を発揮できなければ、
「できない」という結果が生まれることもある。
 
逆に、あまり計算力が高くなくても、
その能力を最大限に発揮することができれば、
「できる」という結果になる時だってある。
 
「できる」「できない」は、
そういう計算力のような身についている能力と、
その能力を発揮する力によって生まれる。
 
そういう点で、昨日と今日を振り返った時、
「発揮力」に関わる要因にかなり差があるように思った。
 
今日は中村教室でプリントを解いたけれど、
「能力を発揮する」という面において、
家よりも「場」としての力が、かなり自分に働きかけてくれているように思う。
 
そうやって、「できない自分」という
結果として現れてきた今の自分を、
いつも解体して見つめていきたい。
 
「できない」という現実を、
ただ「自分にはまだ力がないから」としてしまうことは、意外と簡単なのかもしれない。
でも、本当に「できない自分」を解体してみると、
「能力を発揮できていない」ということだってあるのかもしれない。
 
1日1枚のプリントを通して、
 「どんな場でもプリントができる“自分”」という点で
自分と向き合うことが多く、その中での気づきがこれまで多かった。
 
けれどこの「能力の発揮」ということを考えると、
 「どんな自分でもプリントができる“場”」という点でも、
自分自身と向き合っていきたいと思った。
 
そういう点で、このプリントと向き合っていくと
また、たくさんの気づきや発見が生まれそうだ。
 
このプリントは、「場づくり」という点においても
人を成長させていく教材なのかもしれないと思いました♩
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塾生が書いたblog記事から

10/5からこのblogでは、寺子屋塾で学習している塾生が書いているblogを紹介しています。
今日は一昨年12月から小学生のお子さんと一緒に通われているお母さんのblog創造ノートです。
今年の5/28にらくだメソッドの学習について書かれていた記事を以下にご紹介。
 
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2017年 05月 28日

習慣を変えてみる

算数プリント、一日一枚。

一昨年の冬から三男と始め、
なかなか続かない日々を経て、
最近は習慣化されてきて、169日目。

ずっと夜の8時〜9時台にやっていたのですが、
朝型に変えたほうがいいかなと、思いながらも、
なかなか変えることができなかったのですが、
ここ一週間、朝8時15分にプリントをしています。
 
記録表↓
f0339555_08495403.jpg



















左から
〇日にち
〇開始時間
〇教材のNo
〇かかった時間
〇ミス
〇連続日数
 
22日からAM8:15に取り組み時間を変えたのがわかるでしょうか。

朝型に変えて得たことは、
・夜やるとミスが多いのが、朝だと減る。
・夜はぼーっとしていたいので、朝にプリントをしておいた方が気が楽。
 
辛いところとしては、
・仕事に行く前にしているので、
それまでの家事等の段取りがちょっと大変。
・夜はぼーっとしていたいけど、ぼーっとしすぎて、
遠くに意識が行ってしまいがちになる。

現実に戻ってくるときに、算数プリントの存在はありがたかった。
 
かかる時間は約15分。
たった15分でも、
習慣を変えたり、新しく取り入れたりするのは難しい。
 
ただし、変わってしまうと、
それも習慣になって、なーんだ、ということが多い。
まずはとにかく一歩を踏み出すことが大切だな。
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塾生が書いたblog記事から

今日は、安永太地くんのらくだメソッド徒然日記@静岡県袋井市です。

太地くんは2016年3月かららくだメソッドで学んでいるので、らくだ歴は1年半ちょっとなんですが、1年前の今ぐらいに書いていた詞を以下にご紹介します。
らくだメソッド以外の仕事のことや生活全般などについてのblogは、安永太地の足るを知る暮らし方をご覧ください。
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ここ最近のらくだ。no.122

計算プリントを解いたのは昼ごろ。

今は夜。

時間が空いたので

「らくだ」について振り返ってみようと思う。

 

あえてもう一度らくだとはなんだろう?問いてみる。

ゆるやかに

自分を見つめる

ゆるやかに

自分が見えてくる。

ゆるやかに

生きている。

 

そんなことに気づき

少しの変化に気づき

自分がどう変わっているのか

自分がどう変わってきたのか

自分はいまどこにいるのか

自分はいまここにいるのか

 

世界は自分であり

自分は世界であり

いまここにある。

 

未来はまだ来ない。

過去はすでに終わったこと。

いまこの瞬間が全てである。

 

何かに悩み

何かに捉われ

何かに苦しむ。

 

そんな心や思考にストップをかけ

見つめる。

ただ見つめる。

 

そしたら

見つめた先に何か面白いことがある。

その何かが醍醐味で

その何かは分からない。

そしてその何かはきっとある。

けどないかもしれない。

でもやってみないとわからない。

 

そんなスリリングな体験ができるのがらくだだ。笑

おしまい。

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塾生が書いたblog記事から

10/5から寺子屋塾の塾生が書いているblogを紹介しています。

 

今日はにんげん図書館を主宰する山本茜さんの個人blog「世界は1冊の本」

 

昨年6月に女児を出産し、最近は育児日記のような感じになっているんですが、今年1月ににんげん図書館の活動について書いていた記事を。

 

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身の丈に徹するからこそ見える世界観

起業支援ネットさんに、にんげん図書館のことを相談に行きました。

これからどうするか?と、どっちに行こうか?と考えるときに必ず相談に行く。

 

昨年卒業した起業の学校の卒業証書には、

「身の丈に徹するからこそ見える世界観を丁寧に育み、本と人をつなぐ事業を通して、小さなところに宿る『にんげん』の根源的な美しさを世に問い続けることを強く期待し、ここに第11回起業の学校後期課程全課程を修了したことを証します。」と書いてある。生徒、一人ずつに、その人を表現するような言葉を書いてくださる。

 

 修了証書に書いてあるくらいなんだから、私にとって、「身の丈」であるということはとても大切なことなんだなーと思う。自分がやれない、やりたくない身の丈ではないことを掲げても、後から辛くなるし、きっとやりたくなくなる。

 

「身の丈」って挑戦せずに、無理せず、頑張らずにやる・・・みたいな印象もあるけど、それとも違う。

自分のやりたいことや、自分のやれなさや、自分の弱さから逃げないのが身の丈。

 

何かをやり続けるということは面倒なこと、やりたくないけど、自分の中でちょっと頑張ることの連続なのだと思う。やりたいけど、やりたくない、面倒くさい、怖いっていう気持ちもいつも同時にある。

 

起業支援ネットさんに行って、久野さんや鈴木さんの前では、嘘はつけないと思うし、身の丈以上、虚勢を張るようなことは言えないと思う。

 

やりたいけど、面倒くさい、やりたくないっていう気持ちから逃げないために、面談しに行って、自分の中でちょっと頑張る、腹をくくるために、相談に行く。

 

そして、相談に行くと自分の目の前に既に存在していた階段が見えてくるんだな〜と、相談の帰り道で思いました。

 

 

※茜さんが主宰するにんげん図書館のwebsiteはこちら、blogはこちらです

 また、10〜12月には3回シリーズで、にんげん図書館企画「多職種連携ファシリテーション研修」の案内役をつとめます。

 こちらのfacebookイベントページをご覧のうえお申し込みください。
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塾生が書いたblog記事から

一昨日から、このblogでは、寺子屋塾で学習している塾生が書いているblogを紹介しています。

今日は昨日紹介したmisa_39のブログを書いている塾生より1ヶ月ほど前に入塾したmasatoさんのblogmasato日記で6月下旬に書いていた記事を以下に紹介します。

 

 

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らくだメソッドで割り算再入門した

「らくだメソッド」

「らくだメソッド」を2月から始めて、4か月目になりました。
これは、平井雷太さんが開発された学習法です。その中でぼくがやっているのは算数のプリントです。
問題は、かつて小学校でやったことと基本としては同じ(だとおもう)。
らくだメソッドでは、「できた」「できてない」をきわめて客観的に評価します。
基準は、1)目安の時間内にできたこと、2)ミスが3個以下であること、のふたつ。
はっきりしているから、自分で評価できます。
自分でおもいたって実行し(プリントをやる)、結果が見えて(採点)、評価(反省)する。
基準が人間の感情みたいにふらふら揺れることなくいつも同じなので、納得して評価を受け入れられます。
このことによって自主的な取り組みができるようになっていると感じます。

割り算っておとなならできるんじゃないの?

2桁とか3桁の割り算ですけど、大人ならできて当然みたいにおもっていました。
というか、できたからこそ小学校を卒業して高校に行ったりして、いま大人になってるわけで。っていう前提。
実は、割り算できてなかったかもしれないってことを隠ぺいしているわけです。
それで大人といわれる年齢(今年で32)になったいま、再び小学生がやる割り算に取り組む。

で、できない。
うすうす予感していましたが、現実に直面。
それでできなかったから、できるようになりたくて練習するようになりました。
するとできるようになっていった。
こういうすごくシンプルに段階を踏んで、「できない」状態から「できる」状態へ移行できた。
重要なのは、先生やら親やらの評価目線を気にせずに、ピュアな学習意欲でやっているということです。
これは自分がやりたいからやっていて、それで充実感をもてているということではないでしょうか。

算数って生活で使わないのでは?

と、おもったこともありました。
けど、算数が少しできるようになると、日常生活がなにかとスムーズに運ぶことが多いようなのです。
なんで?っていうところは、また考えてみたいとおもいます。
今日はここまで。

masatoさんが寺子屋塾で学習を開始されて3ヶ月経った頃に、「masatoさんが入塾されたこの3ヶ月ほどをふりかえって、この寺子屋塾で学習を始められる前の段階で、この教室ではこんなふうに学習できることを想定されてましたか?」と聞いたことがあるんですが、「いや、まったく想像できませんでした。いい意味で期待を裏切られたとおもっています」と話して下さいました。
また、算数の計算を主体としたプリント学習の部分については、今回ご紹介したblog記事に書かれたような感じなんですが、教室で他の塾生やわたしと面談するときの話題など、算数の学習以外の部分については、自分の期待云々以前で、言語化すること自体が難しいと言われました。
もちろんこのことは、masatoさんに限ったことでなく他の塾生もいつも話していることなんですが・・・(^^;)
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塾生が書いたblog記事から

寺子屋塾に最近入塾した人たちがたまたまなのかもしれないんですが、塾生でblogを書く人が増えてきました。

教室で提供しているメニューはいわゆる狢慮崖惱瓩任垢ら、自分が体験したことをふりかえるプロセスがあるかどうかで、その学習の効果が格段に違ってくることということは明らかだとおもいます。


でも、そのことがわかっているのにもかかわらず、blogなどのメディアを使ってふりかえりの文章を書くことを、わたしが塾生全員に義務づけようとはしない理由のひとつは、ひとそれぞれに成長していく段階が違っていて一律ではないのが当然だという考え方があるからです。


しなければならないこととして他律的に決められたことに従ってやることと、してもしなくてもどちらでもいいという条件のなかで、自分の意志でやると決めてやり続けることとは根本的に異なることで、寺子屋塾としては後者の姿勢を大事にしたいんですね。


さて、今日も昨日に続いて、塾生が書いているblog記事をご紹介。blogに実名も年齢も公開されていないので匿名としますが、寺子屋塾で今年4月から学んでいる女性が、塾のことについて8/4に書いていた記事です。
 

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寺子屋塾(らくだメソッド)

今日は通塾日。
 

あの場が楽なのってなんでだろう。
 

ある程度本音で話し合えるから。自然体でいられるから。
 

年齢も職種も様々で特に共通点があるわけでもないのに、それぞれの違いをそれぞれが受け入れ合っていて、オープンな状態で話が出来る。それも甘えたり依存するでもなく、かといって突き放されるでもなく適度な…いや、絶妙な距離感を保ちながら。実社会がこんな感じだったらどれだけ良いだろうと思う。


何気ない話、普段から気になっていたことから、自分が本当に悩んでいることまで、様々な話をしたり聞いたりすることが出来る場。そして更に建設的な方向に向かうことが出来る場。私の場合は特に精神的に“疲れてるな、しんどいな”と思う時ほど行った方がいい。行く前と行った後では表情が変化している。


やっぱり社外の人たちと接する機会は定期的にあった方がいい。

 

仕事だけになってそれが全てになってしまうと、どうしても凝り固まってしまう。考え方が偏ってしまう。

 

それが利害関係のない人たちだと尚良いと思う。


友達とも違う、仲間たち(と言葉にするとなんだかこそばい!笑)の存在って、自分を客観的にみるきっかけになって良いなと思う。そして何より心強い。人はそもそも評価の対象ではないから。


これがアドラーのいう『縦ではなく横のつながり、併走者(の存在)』ってことなのかな。

 

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塾生が書いたblog記事から

2017年9月の学習記録表_廣安祐文.jpg
昨年8月から寺子屋塾で学んでいる廣安祐文くんが、10/2のblog記事に算数教材(幼児〜小学校課程)の学習を終えた気づきを書いていましたのでご紹介します。写真は彼の9月の学習記録表です。
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2017.10.02 【560日連続投稿】
2016年8月からはじめたらくだプリントが昨日で幼児〜小学校課程を一通り終えました。らくだプリントをはじめて1年と2ヶ月が経ち、数えきれないほどの気付きがあるのですが、今日だからこそ自分から発せられる言葉を残したいと思い、ここに綴ります。
本日、普通に寺子屋塾に足を運びました。いつも通り今日のプリントを解こうとしていると、一名の来客者が来られました。その方はどうもネットで「寺子屋」と検索したら、この場所がヒットしたので興味があって来ましたという方でした。
その方がいらっしゃったから、今日の寺子屋はいつも以上に賑やかに話が弾んでいました。
私はその方から「らくだをされて何か変わりましたか?」という質問を受けて、少し間をあけて答えたことが自分にとってかなり大切なことだったのではないかと口にした後に思いました。
「たくさんのことを気づいたり学んだりしてきていると思いますが、あえて今思っていることを言うなら、どんな環境でも自分なりに楽しめたりやっていける力がつく」
と私は答えました。
らくだプリントは原則1日1枚やります。
強制されてはじめるのではなく、自分で決めたり提案に乗ってはじめます。
セルフラーニング(別名:自学自習)は、自分で進めることができ自分でどんどん先に行くということだけではなく、自分が学んだこと気づいたことを他者との対話の中で深めて行くことも欠かせない要素なんだろう。
私は、気づいたこと感じたことを言葉にするのが正直苦手です。いや、言葉にするというか具体的に言葉にすることが苦手なのだと思います。そんな時、拙い言葉でも誰かが聞いてくれて自分にない言葉が返ってきて「それそれ!!」と思うことが多々ありました。
だから、セルフラーニングは自分一人ではできない学習なんですね。
僕がらくだプリントを続けようと思うのも、ブログを続けようと思っているのも、誰かの存在無くしてはあり得ないものをこれまで以上に感じます。
多分、いや絶対、僕の生き方も誰かがいるから成り立っている。
「誰かの存在のお陰で」
働こうと思ったり、
キャンプしたいと思ったり、
シェアハウスに住みたいと思ったり、
女性と付き合いたいと思ったり、
生きるって悲しいことや苦しいことがあってもいいもんだと思えたり、、、
逆にらくだプリントのお陰で、繋がれている人もいるわけで、
自分を深めて行くことで他人とより一層繋がれることがあるわけで、
面白いですね。
どんな環境でも楽しめるってころは、その場に多少なりとも好きであったり、興味があったりするんだと思います。
とりあえず良し悪しを考えず、目の前のことをやっている人はどんな環境でも楽しめる可能性があると思う。
はじめからこれはこういうものだ。年を取るごとに何かをやる前に経験から予想ができるからそうなると、以前聞いたことがあります。
でも歳なんて関係ないと思う。一度やったことがある、小学校の算数プリントでも毎日やることで発見があるのだから、歳のせいなんてことはない。
誰でも、楽しめる力って持っていると思う。そんなことを思いました。

 

さて、今日から中学生課程に入っていますが、1枚1枚のプリントをしっかり味わいたいと思いました。

 

おわり。

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ファシリテーションにとても近い意味の単語は?

ファシリテーション概論講義フリップ集.jpg


一昨日書いたblog記事は、存在感が大事って話でしたが、

どんな場合でもそうかというと、必ずしもそうではありません。


場合によっては、存在感が邪魔になって

かえってマイナスに働くこともあるからです。


2年前の今頃にもファシリテーションを学ぶ講座を行った後で、
「自分の存在を消す」なんて記事を書いたことがあるんですが、

ファシリテーションという言葉に対するよくある誤解のひとつに

 

「まとまらない話し合いをまとめるリーダーシップの在り方のことを

 ファシリテーションと呼ぶ」

 

ということがあります。
 

 

もちろん、それも100%マチガイというわけではないけれど、

それは沢山ある場への関わり方の一つの在り方にすぎないので、

とっても一面的な理解なんですね。
 

よって、その一面だけをファシリテーションのすべてだと

誤解されないように敢えて、

「うまくまとめることがファシリテーションではありません。」

と言うようにしているわけで。

 

それで、いつもファシリテーションのワークショップを行う前に

行っているミニレクチャーの冒頭に登場する

私の授業では定番のクイズがあるんですが、

それは
 

「爛侫.轡螢董璽轡腑鶚瓩箸いγ姥譴箸垢瓦意味の近い単語を

 皆さんは中学時代に習っているんですが、それはいったい何でしょう?」

 

というものです。
 

9/28愛知淑徳大学での第1回ガイダンスでも

その日の受講生、長久手25名、星ヶ丘44名にも

このクイズをやったんですが、「アルファベット4文字」というヒントを出しても、

残念ながら正解にたどり着けた学生はひとりもいませんでした。
 

次の写真は、小川芳夫編『ハンディ語源英和辞典』のP.206なんですが、
facilitateという単語がeasyを意味するラテン語facileという語に
起因することがわかりますね。
 
2017-09-29 12.56.28 のコピー.jpg

 


さて、明日は愛知淑徳大での恐麑椶亮業で、

最も重要なプログラム、インタビューゲームを行う予定です。
 

インタビューゲームの部分とふり返りを切り放して

1週間を置いて行うのはわたしにとっても初めてなんですが、

さてさてどんな展開になりますか・・・

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早川義夫『いやらしさは美しさ』

いやらしさは美しさ

・僕は今、歌を歌おうとしている。才能はない。技術もない。なおかつ、あがり症だ。その僕がどうして人前で歌おうとしているのか、自分でもよくわからない。日常で言いそびれたことを、非日常の世界で吐き出したいのかも知れない。「弱さが正しいのだ」ということを証明したいのかもしれない。「この世で一番キレイなもの」が何なのか知りたいのだ。

 
・恋をした。僕は再び歌を作るようになった。ブランクとか技術とか才能は関係ない。下手だっていい。伝えたいこと、伝えたい人がいれば、歌は生まれて来るのだ。
・もしも、歌いたいことがなければ、歌わないことが、歌っていることなのだ。僕は「歌わなかった二十数年間、実は歌っていたんだね」と思われるように、歌を歌いたかった。

・淋しいから歌うのだ。悲しいから歌うのだ。何かが欠けているから歌うのだ。精神が普通であれば、ちっともおかしくなければ、叫ぶ必要も心をあらわにする必要も楽器を震わせる必要もない。歌わざるをえないから歌うのだ。

・では何を歌うべきか。自分の心です。自分にしか言えない言葉、自分にしか出せない音です。日常で喋れるなら歌は必要はありません。言葉にできない本当の気持ちを歌に出来たらいいなと思っています。

・美しいものは、どこかにあるのではなく、心の中に眠っているものなのだ。歌を歌うのが歌だとは限らない。感動する心が音楽なんだ。

・性格が滲み出てしまう顔つきが大切なのだと思う。人との接し方、ものの言い方、声にも性格は出る。優しい人は優しい口調だ。かっこつけている人はかっこ悪い。人のことは言えないが、見栄と自惚れがもろに表れると醜い。
・自分の意見は正しいと思ってもいいけれど、もしかしたら、間違っているかも知れないという謙虚さは持ち合わせている方がいい。勝とうとしている人は劣等感丸出しだ。

・昔つきあっていた彼女は、「どこに出してもいい」と言ってくれた。「やり逃げしてもいい」とさえ言われた。今思うと、愛そのものだった。「他の女の子を好きになったらどうする」と訊ねたら、「我慢する。悲しいけど」と笑っていた。彼女とはよく、「心はいったいどこにあるのだろうね」と話しあった。僕が「あそこ」かなと言うと、彼女は、「細胞のひとつひとつの裏側にひとつひとつ付いているんじゃない」と答えた。

・いい恋には発見がある。きっと人間としても成長する。僕はバカだから、彼女を都合よく愛していたのだろう、最後は、思いっきり振られてしまった。振られてから、あーもっと大切にすればよかったと、随分長く、悲しみ苦しんだ。どんなに時が過ぎても、恋はもう二度と出来ないだろうなと思うほどに。

・思い起こせば僕は数々の失敗を重ねてきた。あの時もああすればよかったこうすればよかったと悔やむことが多い。しかし、その時その時、自分なりに最善を尽くしてきたはずなのだから、それで良かったのだ。
・今の僕があるのは、愚かだったことも含めすべて過去のおかげだ。可能性は非常に薄いけれど、なおかつ、はたから見れば滑稽に映るだろいうけれど、これからも「女の子」に恋をしよう。それしか生きがいはないではないか。

・いい人がいい音を出し、嫌な人は嫌な音を出すはずだと思いたいのだ。心が歪んでいれば歪んだ歌しか作れないし、キレイな気持ちになれなければキレイな音は出せないのではないか。
・音を発する、言葉を発するということは、テクニックとは関係なく、隠しようもなく、本性が表れてしまうものだと思うのだ。

・僕に才能はない。技術もない。ステージ度胸もない。昔も今も音楽で生活できたことは一度もない。これからもない。それは自慢でも皮肉でもない。ではどうして、人前で歌おうとしているのかと言えば、歌を中途半端でやめてしまった気持ち悪さと悔しさみたいなものがあったからだ。そして、歌わなければ、誰かとつながりを持っていなければ、自分は犯罪者になってしまいそうだからである。

・説明などしなくても分かりあえるというのが理想だ。カメラや電化製品も説明書を読まずして、直感的に操作でき、手になじむのがいい道具だ。人間関係においてもそうだ。いちいち説明をしなければ、誤解を生むような間柄では、さびしい。犬や猫は愛という言葉を知らないのに、愛情だけで寄り添って生きている。そんな関係でいられたらと思う。

・いい音は呼吸をしているから生きている。身体の中を通って来るから濡れている。いい音楽は、自分は何者なのか、何のために生まれて来たのか、どう生きて行ったらよいのかを映し出す。歌を歌うということは声を出すことではない。楽器を奏でるということは音を鳴らすことではない。内臓を見せるのだ。悲しくて色っぽくなきゃ音楽じゃない。

・歌を作って歌うということはプロポーズと同じである。うまいへたは関係ない。自分の言葉と自分の音で表わさない限り、説得力はない。
・一回だけ、やりませんか。一回だけ、僕とやりませんか。一回だけ。もしも、お互いに気に行ったら。もう一回。もう一回、一回だけ。

・人間は弱い。特に男は弱い。女よりも弱い。たぶん頭も弱い。感受性も鈍い。いいところなしだ。ゆえに寂しい。偉そうなふりをするだけである。強そうなふりをするだけである。

・わかっているふりをするだけである。劣等感を持っている人ほど優越感を持ちたがる。かっこ悪い人ほどかっこつけたがる。この世はすべて逆だと思えばだいたい当たっている。

 

早川義夫『いやらしさは美しさ』(アイノア)より

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