往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。





短編集『闇鍋』より 会話劇(その2)「ABC作文(H〜M)」

【会話劇】ABC作文(H〜M)

 


「ねえ、そういえば知っている? 愛の前にはエッチがあるのよ?」


「藪から棒に何を言ってるんですか!? ABCの歌を口ずさみながら英和辞典を引いているかと思えば」

「だから、Iの前にはHがあるのよ。アルファベットの並び順、わかる?」

「そりゃ知ってますよ、もちろん。ついさっきまでABCの歌を聴いていたくらいです」

「なら、愛の前にエッチがあるのは分かるわね」

「あの、先輩。その『どう、上手いでしょ?』みたいな顔やめて下さい」

「なに? ワタシの才能に嫉妬?」

「先輩の言動に辟易してるんですよ。それに結構有名なネタですよ、それ」

「いつにも増して生意気ね。じゃあ、I(愛)の次はなんだか分かるのかしら?」

「Jですよね?」

「そのJにはどういう意味があるのかを訊いてるのよ」

「わかりませんし、普通そんなくだらない事は考えません」

「だからアナタは無能なのよ。でも、それならワタシの才能に嫉妬して生意気な態度を取ってしまうのも納得だわ」

「たかだか同じ部活の先輩というだけの人に、どうしてここまで理不尽な物言いをされなきゃならないんですか……なら敢えて聞きますけど、H(エッチ)I(愛)ときてJは何なんですか」

「自衛よ」

「自衛!? 愛を得た2人の間に何があったんですか!?」

「愛が重すぎたのね」

「自衛行動を必要とされるほど重い愛って……」

「かわいそうに。相手は俗に言うヤンデレだったのね。でも安心なさい? J(自衛)の次は、Kよ」

「Kだから警察とかですか?」

「K察? アナタはゴミを木に変える能力者の義理の母親なのかしら?」

「その漫画は好きでしたけど、そんな小ネタまで覚えてませんよ!」

「やっぱりアナタは無能なのね。ほら、ファンキーな神様が中学時代の義母に会った時の話にあったじゃない」

「そんな話はあった気がしますけど、そんなとこまで覚えてませんて。普通は」

「無能」

「三度目!? どこまで無能呼ばわりしたいんですか!?」

「二度じゃ足りないと思って。というか“普通”という言葉は便利よね。自分を多勢の側に付けつつ、相手を『お前はこの多勢から外れた場違いな存在なのだ』と見下せるもの。しかも、それを倒置法で強調するあたり、本当にアナタの卑しさが滲み出ているわ。大衆の意見に同調する事がそんなに偉いのかしら? そこが日本人のダメなところなのよ」

「ボク、何か怒らせるような事しましたっけ? そんなことより先輩。話が逸れてますよ」

「…………チッ……まあいいわ。下劣な思考回路を持った後輩の言う通り、少し話が逸れていたわね。 どこまで話したかしら」

「小さく打った舌打ちも、やたら突っかかってくる態度も、話が進まないのでこの際ツッコまないことにします。Kは警察じゃないって話からですよ。結局Kは何なんです?」

「刑よ。ヤンデレは国家権力に裁かれたの」

「いきなりの急展開ですね。愛し合っていたのに……」

「その程度の愛だったというだけの事よ。愛し合ったと言っても、愛の重さは人それぞれなのだから。まあ、最初はお遊びのエッチから始まった恋愛だもの。妥当な最後じゃない?」

「あの、さっきから思ってたんですけど、花の女子高生がエッチだとかお遊びだとか言わないでください」

「別にいいじゃないの。減る物でもないのだし」

「好感度って増減するんですよ?」

「それなら寧ろ増えるでしょ? 先刻から言っているエッチだのお遊びだのという、ふしだらな単語も、無能呼ばわりしているのも、実は全部好感度アップ狙いだったり。こういうのが嬉しいんでしょ? 本当に変態ね!」

「変態じゃないやい!」

「あら、意外。放送禁止ギリギリの顔してるから、てっきり……」

「人の中身を顔で決めつけるな! あと、そんなに酷い顔なんですか!?」

「安心なさい。人間のおよそ七割が自分の容姿を平均かそれ以上だと考えている、という話を聞いたこともあるし。それに、モザイクのおかげで随分マシよ?」

「え、なに? ボクの顔にはモザイクが掛かっているんですか?」

「さて、閑話休題。話を戻すけれど、Hから始まった物語には続きがあるの」

「強引に話を戻しましたね。モザイク云々の件も精神衛生上非常に聞いておきたいですけど、まずは物語の結末を聞きましょうか。気になりますし。で、H(エッチ)からI(愛)し合い、J(自衛)やK(刑)ときて、次はどうなるんですか?」

「ヤンデレ化してしまった相手を求刑し、無事平穏な日常に戻った主人公は今回の一件から、あるものをL(得る)のよ」

「なにをですか?」

「文字通り、M。マゾ属性よ」

「ひでぇオチだな、オイ」

「アナタの顔ほど酷くはないわよ」


・・・・END・・・・
 

※エルバッキーさんの短編集『闇鍋』より転載しました。

 
COMMENT:昨日分で投稿した、上から目線のセンパイ女子高生といじられキャラの後輩男子高生の対話劇「卑猥な漢字」が好評でしたので、同じスタイルで書かれた作品をもうひとつ。いわゆるアルファベットから端を発するダジャレなんですが、ボケとツッコミの掛け合い漫才風でテンポ良く会話ははずみ、最後のオチまで笑わせてくれる佳品。他の作品も読んでみたいとおもいました。
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短編集『闇鍋』より 会話劇「卑猥な漢字」

【会話劇】卑猥な漢字

「ねえ、“凹凸”って、とても卑猥な漢字だと思わない?」

「藪から棒に何言ってんですか先輩。女子高生なんですから、そういう下ネタは控えてくださいよ」

「女子高生は下ネタが大好きなのよ」

「男の夢を壊さないでください」

「夢と現(うつつ)は違うのよ。夢を見たけりゃ寝なさいな。どうせ生きてても後悔するだけよ」

「永眠しろと!?」

「で、社会的にはもう死んでいる変態な後輩に、専門的な意見を聞きたいのだけれど。変態として“凹凸”という漢字から、ゲスなアナタはどんな妄想をするのかしら?」

「社会的に死んでないし、変態でもないですよ。さらに言えば“凹凸”という漢字からゲスな妄想なんて、普通はしません」

「あらあら、照れちゃって。童貞君には“凹凸”はストレート過ぎたかしら」

「『ストレート過ぎた』って何ですか。漢字にストレートも変化球もありませんよ。……というか、さっきから漢字辞典を真剣に読んでいると思ったら、こんなくだらない事を考えてたんですか」

「なによ、その蔑むような視線は! 憐れむような口調は!美少女女子高生には下ネタを語りたい時だってあるのよ!」

「さりげなく自分で美少女とか言わないでください」

「ワタシが美少女なのは紛れもない現実なのだから、別に良いじゃないの。アナタが紛うことなき変態ブサイク童貞なのと同じ、現実なのよ」

「一言多いです。一言余計です」

「ふふ、眉間にシワを寄せちゃって。可愛い。さて、閑話休題するけれど、世の中には卑猥な漢字が多く存在しているのよ」

「あー……“嬲”とか“姦”とかですか?」

「うわぁ…………普段アナタがどんな劣情を抱いているかが垣間見えるわね。気持ち悪っ……」

「ドン引きしないでくださいよ! 普通はその辺りの漢字を想像しますって!」

「顔を真っ赤にして普通普通と五月蝿いわね」

「じゃあ、これ以外にどんな漢字が卑猥だって言うんですか」

「そうね“抜”なんてどうかしら。手で自分の友をヌく。卑猥じゃない?」

「たしかに、卑猥ですね」

「アナタの場合、友はムスコなのでしょうけれど」

「いつにも増して下ネタ全開ですね……」

「これが女子高生よ。他にも“包括”なんて生々しくて卑猥だと思うわ。手と舌で包むんですもの」

「ナニを、とは聞きませんよ?それにしても、よくもまあそんな発想が出ますね」

「美少女だからよ」

「意味が分かりませんね」

「そんなアナタにピッタリな漢字は“液”ね」

「夜の水、ですか?」

「そうよ。毎朝毎晩、年がら年中孤独エッチしているアナタには最適でしょ?だから水のように薄いのよ」

「ボクのライフスタイルを勝手に決めつけないでください。そんな頻繁じゃないですって。あと、孤独エッチって何ですか。そんなに独り身を強調したいんですか」

「ぼっちエッチの方が良かった?でも、ぼっちとエッチだと韻を踏んでしまうから、これだと無駄にかっこよくなっちゃうのよね……語感も良いし……」

「知りませんし、それほど語感も良くありませんよ。第一、そんなくだらないことで真剣に悩まないでください」

「ほら、ワタシって妥協を許さないストイックな性格だから」

「それは他で活かすべきだと思います」

「……そうよね。ごめんなさい。才能がなくて妥協するという選択しか出来ない童貞も、悲しいことに存在するのよね……」

「こっちを見ながら言わないでください」

「才能ではなく梅干しの種を与えられたアナタのところへ全裸の天使が現れることを祈っているわ」

「わざとらしく涙を拭わないでください」

「それもそうね。アナタ如きのために演技するのも馬鹿らしいわ。そうそう。“如”で思い出したのだけれど、“突如”も中々卑猥よね?」

「……その話題、まだ続けるんですか」

「ほら、ストレートなモノだと話題を反らそうとする。変化球の方が好きとか、とんだ変態さんね」

「先輩はボクを変態と罵りたいだけですよね?」

「アナタが韻を踏んでもかっこよくないわよ?そうね変化球なら……“拙子(せっし)”なんてどうかしら。アナタにピッタ――」

「ピッタリじゃねえよ!先に言っておきますけど、ボクは全然ロリコンなんかじゃないですからね」

「なら“下拙(げせつ)”ね。卑しいという意味もあるし」

「下ネタに手を出す先輩の方がピッタリじゃないですか」

「残念ながら、“下拙”は男が使う一人称よ。“僕”だの“下拙”だのと男は自分を貶め過ぎよね」

「一人称にケチつけないでください」

「はぁ、この変態は文句しか言えないのかしら……じゃあ、“挊”なんてどう?」

「何ですか、その漢字……」

「見たままよ。手を上下に動かす、正にアナタの人生にピッタリな漢字じゃないの。孤独エッチしてたら死んでました、みたいな? テクノブレイクみたいな?」

「『みたいな?』じゃねえよ!」

「怒鳴らないでよ。童貞が感染(うつ)る。それにしても、“挊”なんて誰が考えたのかしらね」

「いや、そもそも“挊”なんて初めて見ましたし……」

「“挊”は“弄”の俗字よ。変態失格ね」

「失格の方が嬉しいですよ」

「『非変態は、アレを固く握りながら笑えるものでは無いのである。変態だ。変態の笑顔だ。ただ、アレが醜い皮に包まれているだけなのである』」

「太宰治に謝れ!あと改変するにせよ、もっと上手く弄れ!」

「アナタ以上に上手く挊れるはずないじゃないの。あ、ちなみに“挊”には自慰の意味もあるんですって」

「知らねえよ」

「本家の“弄”は、玉を両手で持って遊ぶ様子を表した文字なのだけれど、竿よりも玉の方が気持ち良いのかしら」

「知らねえよッ!」

「知っておきなさいな。アナタも将来、新しい漢字を生み出すのだから」

「そんな形で歴史に刻まれたくないです。…………って先輩、なんで自分だけ帰り支度してるんですか」

「下校時刻だからよ。こんな変態養成所なんて一刻も早く帰りたいもの」

「学校は変態養成所じゃないです」

「“学校”よ? 木との交わり方を学ぶ施設じゃないの」

・・・・END・・・・

 

※エルバッキーさんの短編集『闇鍋』より転載しました。

 
COMMENT:3/4から教えない性教育の記事を連投していますが、昨日の参考図書紹介記事がみうらじゅんでしたので、どんどん脱線して道草を食って行こうとおもいますww
たまたまネットで見つけた対話劇が下ネタを扱っているんですが、かといって下品すぎず、笑いや教養が感じられる内容でしたので、今日はそれを皆さんにご紹介したくなりました。漢字一つだけでこれだけ妄想が膨らませられる人間ってすごいな〜っておもいます。笑
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みうらじゅん『正しい保健体育』より

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さぁ、これから始める授業は「義務教育」ではありません。

学校では決して学ぶことのない本音の「保健体育」です。

だから先生も自らの経験をフルに生かし、身を切ってもいい覚悟で臨みます。


皆さんは、「大人になったらわかるから」というセリフを耳にしたことがあるでしょう。
でも、言っている大人すらわかっていないことがこの世の中にはいっぱいあるのです。


特に男子は、自分という存在は何なのか? どうしてムラムラするのか? という疑問に

若いうちから悩んでおく必要があります。

それは、いつの日か、女子に「どうしてくれんのよ!」と凄まれたときに、

少しでも怖じ気づかないための予行演習でもあるのです。


正しい保健体育を学んで、人として正しい道を歩んでいってください。

それでは授業を始めます。
 

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COMMENT:あの、エロエロみうらじゅんが書いた性教育の教科書ですから、解説は野暮かもしれません。タイトルに冠せられた「正しい」という形容詞が、世で行われている保健体育の授業を皮肉っているわけですが、最初からさいごまでとにかく抱腹絶倒の1冊。書いてある内容はムチャクチャであっても、その支離滅裂な言葉の背後に牋Ν瓩感じられます。世で行われている多くの狎教育瓩如△そらく最も欠けているのはこの狆个き甅爛罅璽皀↓瓩陵彖任任呂覆い任靴腓Δ。昨日の記事でご紹介した渡辺京二さんの本にもありましたが、春画というのは単なるポルノグラフィーではなく、大人も子どもも問わず庶民が大事にしていた笑いの文化だったようで、江戸時代の日本にはその世界が息づいていたのでしょう。
単行本は理想社から「よりみちパン!セ」シリーズの1冊として2005年に出版され、また2015年には、『正しい保健体育2結婚編』と合わせて『正しい保健体育・ポケット版』というタイトルで文春文庫に入りました。こういうファンキーなメディアがお好きな方は『正しい保健体育DVD版』もぜひどうぞww!
ちなみにさいごの写真は、単行本の末尾より、谷川俊太郎さんから「よりみちパン!セ」シリーズ著者全員に向けられた4つの質問に応えている部分です。
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渡辺京二『逝きし世の面影』より


(296〜298頁)
・・・幕末来日した西洋人を仰天させ、ひいては日本人の道徳的資質さえ疑わせるにいたった習俗に、公然たる裸体の習慣があったことはひろく知られている。日本は、西洋では特殊な場所でしか見られない女の裸が、街頭で日常的に目にしうるという意味でも「楽園」だったのである。


ペリー艦隊に通訳として同行したウィリアムズは、1854(安政元)年の下田での見聞をもとに次のように断定を下した。「私が見聞きした異教徒諸国の中では、この国が一番みだらかと思われた。体験したところから判断すると、慎みを知らないといっても過言ではない。婦人たちは胸を隠そうとはしないし、歩くたびに大腿まで覗かせる。男は男で、前をほんの半端なぼろで隠しただけで出歩き、その着装具合を別に気にもとめていない。裸体の姿は男女共に街頭に見られ、世間体なぞはおかまいなしに、等しく混浴の銭湯へ通っている。みだらな身ぶりとか、春画とか、猥談などは、庶民の下劣な行為や想念の表現としてここでは日常茶飯事であり、胸を悪くさせるほど度を過ごしている」。ウィリアムズは「この民族の暗愚で頽廃した心を啓示された真理の光が照らし得るよう、神に望み、かつ祈る」と日記に書くような、無邪気に傲慢な宣教師根性の持ち主だったから、日本の庶民のあけっぴろげな服装を、可能なかぎり歪曲して誤読したのは仕方ないことだった。だが、春画や混浴にピューリタンが嫌悪をおぼえたのはいくらか同情してよいだろう。


おなじくペリー艦隊に随行したドイツ人画家ハイネの場合、ピューリタニリズムの眼鏡がかかっていない分、記述は淡々として客観的である。「浴場それ自体が共同利用で、そこでは老若男女、子供を問わず混じり合って、ごそごそとうごめき合っているのである。また外人が入って来ても、この裸ん坊は一向に驚かないし、せいぜい冗談交じりに大声をあげるくらいだった。この大声は、私が察するには、外人が一人入って来たので、一人二人の女性の浴客があわてて湯船に飛び込んで水をはねかしたり、あるいは、しゃがみ込んだ姿勢で、メティチ家のヴィーナスよろしく手で前を隠すポーズをとったりしたからであるらしかった」。この記述ぶりからすれば、ハイネの方も一向におどろいた形跡はない。彼は日本人の「極端な綺麗好き」の例証として、入浴シーンを紹介しているにすぎないので、そういう素直な眼のせいでこの混浴情景は、ウィリアムズのいうような野放図な情欲にくまどられた堕落図ではなく、おおらかで自然な習俗としての性格を示すものになっている。
 

(302頁)
・・・正面切って日本人を弁護したのはリングダウである。彼は言う。「風俗の退廃と羞恥心の欠如との間には大きな違いがある。子供は恥を知らない。だからといって恥知らずではない。羞恥心とは、ルソーが正当に言っているように『社会制度』なのである。…各々の人種はその道徳教育において、そしてその習慣において、自分たちの礼儀に適っている、あるいはそうではないと思われることで、基準を作ってきているのである。率直に言って、自分の祖国において、自分がその中で育てられた社会的約束を何一つ犯していない個人を、恥知らず者呼ばわりすべきではなかろう。この上なく繊細で厳格な日本人でも、人の通る玄関先で娘さんが行水をしているのを見ても、不快には思わない。風呂に入るために銭湯に集まるどんな年齢の男女も、恥ずかしい行為をしているとはいまだ思ったことがないのである」。リングダウは「大変育ちの良い日本人」とこの問題について話し合う機会があったが、その日本人は「ヨーロッパ人の憤激と、私が説明しようと努めたためらい」をまったく理解できず、次のように反問したという。「そうですね、私は風呂で裸のご婦人に気付いたとしても、目をそらすことはしませんよ。そうすることに、何か悪いことでもあるのですか」。


(315〜316頁)
・・・さらにまた、幕末の外国人観察者を驚かせたのは、春画・春本のはばかりない横行である。ヴェルナーは先述したように、日本人の裸体への禁忌の欠如を同情的に理解しようとつとめたのだが、それを「楽園の気楽さ」とみなす見解には、同意できないものを感じた。「日本にはそもそも欧米的な意味における無邪気さなどない。…絵画、彫刻で示される猥芸な品物が、玩具としてどこの店にも堂々とかざられている。これらの品物を父は娘に、母は息子に、そして兄は妹に買ってゆく。十歳の子どもでもすでに、ヨーロッパでは老貴婦人がほとんど知らないような性愛のすべての秘密となじみになっている」。ヴィシュスラフツォフによれば、本屋でよく見かける三文小説の挿絵には「品位というものにまったく無頓着」なものがあり、しかもそういう絵本を子どもが手にしていた。「それが何の絵であるか、熟知しているらしかった」。

 


(320〜322頁)
・・・一生独身を守った謹厳なハリスが眉をひそめ、こういう日本人を内心軽蔑しただろうことは想像にかたくない。だが、井上清直は川路の実弟で、幕末屈指の廉直な能吏として知られた人物だった。当時の日本人には、男女間の性的牽引を精神的な愛に昇華させる、キリスト教的な観念は知られていなかった。日本人は愛によって結婚しないというのは、欧米人のあいだに広く流布された考えだった。例えばヴェルナーは述べている。「わたしが日本人の精神生活について知り得たところによれば、愛情が結婚の動機になることはまったくないか、あるいはめったにはない。そこでしばしば主婦や娘にとって、愛情とは未知の感情であるかの印象を受ける。わたしはたしかに両親が子どもたちを愛撫し、また子どもたちが両親になついている光景を見てきたが、夫婦が愛し合っている様子を一度も見たことがない。神奈川や長崎で長年日本女性と夫婦生活をし、この問題について判断を下しうるヨーロッパ人たちも、日本女性は言葉の高貴な意味における愛をまったく知らないと考えている」。


たしかに日本人は西欧的な愛、「言葉の高貴な意味における愛」を知らなかった。ヴェルナーのいうように、「性愛が高貴な刺激、洗練された感情をもたらすのは、教育、高度の教養、立法ならびに宗教の結果である」。一言でいうならキリスト教文化の結果である。「真の愛情は洗練された羞恥の念なくしては考えられない。なんらかの理由から羞恥の念をもっていない娘は、愛を感じることもないし、また愛を与えることもできない。さらに勝手気ままに多くの妻をめとることを許している日本の婚姻法が、愛をめざめさすことはできない」とヴェルナーはいうが、男女の性的結合は「言葉の高貴な意味における愛」であるべきだとするキリスト教文化の見地に立つならば、彼の言うところはいちいちもっともということになるだろう。われわれはこうしたいわば高度な見識が、プロシャの一海軍将校によって開陳されていることに、十九世紀西欧文明の水準の高さを認識しないわけにはいかない。にもかかわらず、そのようなキリスト教的な異性愛の観念が、十九世紀後半から二十世紀前半にかけての西欧文学において、いかに多くの「愛」からの脱走者を生んだことかということを想いやればわれわれはこの問題についておのずと違った断面を見出すこともできる。


当時の日本人にとって、男女とは相互に惚れ合うものだった。つまり両者の関係を規定するのは性的結合だった。むろん性的結合は相互の情愛を生み、家庭的義務を生じさせた。夫婦関係は家族的結合の基軸であるから、「言葉の高貴な意味における愛」などという、いつまで永続可能かわからぬような観念にその保証を求めるわけにはいかなかった。さまざまな葛藤にみちた夫婦の絆を保つには、人情にもとづく妥協と許し合いだったが、その情愛を保証するものこそ性生活だったのである。

当時の日本人は異性間の関係をそうわきまえる点で、徹底した下世話なリアリストだった。だから結婚も性も、彼らにとっては自然な人情にもとづく気楽で気易いものとなった。性は男女の和合を保証するよきもの、ほがらかなものであり、従って羞じるに及ばないものだった。「弁慶や小町は馬鹿だなァかかぁ」という有名なバレ句に見えるように、男女の営みはこの世の一番の楽しみとされていた。そしてその営みは一方で、おおらかな笑いを誘うものであった。徳川期の春本は、性を男女和合と笑いという側面でとらえきっている。化政期には怪奇趣味や残酷趣味が加わるけれども。それも性自体のおそろしさ、その深淵のはらむ奇怪さを意識したものとはいえない。


従ってサディズムやマゾヒズムの要素も乏しい。刺激を求めて怪奇な趣向をこらそうとも、本質的にあっけらかんと明るい性意識がその根底にある。オリファントが彼を「いくらか不真面目で享楽的な民族」と感じたのは、一理も二理もあるというべきだった。
だが、西欧流の高貴な愛の観念と徳川期日本人の性意識は、いいかえるとハリス的な愛のリゴリズムと幕吏のシニシズムすれすれのリアリズムは、相討ちみたいなところがあって、どちらが思想的に優位であるか判定することはできない。この問題は伊藤整が名論文『近代日本における「愛」の虚偽』で論じたところで、いまは深入りを避けたいが、性を精神的な憧れや愛に昇華させる志向が、徳川期の社会にまったくといっていいほど欠落していたことが、日本人の性に対する態度になにか野卑で低俗な印象を帯びさせているという事実には、やはり目をつぶるわけにはいかない。しかしそれにしても、当時の日本社会に、性に関するのどかな開放感がみなぎっていたことは、何度強調しても足りない事実なのだ。

 

 

渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)第8章 性と裸体 より引用

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ちょっとだけエロい川柳2首

節 分 に  豆 ま き わ す れ  豆 い じ り



 

 

恵 方 巻  咥 え て 彼 を  お も い だ し

 

COMMENT:セクシュアリティの話題がつづきましたが、カタイ話ばかりでも疲れてしまいますから、ちょっとエッチな川柳を2首ほどひねってみました。ホントは節分の日に投稿したかったんですが・・・もう3月も半ばですね。読んでもどこがエッチなのか意味がよくわからない真面目なお子さまは、もう少し大人のお勉強が必要かもしれません。笑
イラストはネットで公開されているフリー素材を使わせて頂きました。<(_ _)>
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望月正弘『12歳の性 スケベでエッチなホンネを育てる』より


・・・ここでわたしが当面していたもっと難しい問題、

それは「性」と「愛」について、子どもたちと学びあうことであった。

未来に生きる明るい展望をもちながら、いかにそれを授業として組んでいくか。

たまたまわたしが、つぎに赴任していった学校が

「性教育研究校」という歴史を持った学校であったにもかかわらず、

あの「男女仲よくものがたり」のクラスの卒業から7年がたち、

「性教育」に手をつけないまま、6年生を2回、送り出していた。

その間、わたしの中で「性教育にとりくもう」という気持ちが熟してこないのは、

何であったのだろう。
 

 

それは、学校にあるカリキュラムが

たてまえとしては人間教育というようなことをとなえているけれども、

実際は、「生理」とか「精通」といったものだけを
内容としているからではないのか。

そこには、これから思春期のまっただなかで生きてゆこうという子どもたちの

「心」の問題がすっぽり落ちているのではないか。

「心」が落ちているから「セックス」が落ちているのである。

わたしの性教育のテーマを「思春期をどう生きるか」というところへしぼっていったとき、

わたしの授業へのイメージがはっきりし、わたしの気持ちが熟してきたのであった。


どんな授業でももちろんそうであろうけれども、

とくに性教育においては、

教師そのひとの存在、生き方が大事であろう。
 

わたし自身について言えば、わたし自身が暗やみの性教育のなかで育ち、

いわば、暗がりのなかでこそこそと語りつがれる性環境のなかで、

みずからの性のエネルギーと戦いながら自分を作ってきた大人のひとりなのである。

わたしのなかには、当然のように暗やみの性教育のぼろきれが、

いっぱいつまっているのである。
 

 

たとえばわたしは、子どもたちが日常使っている性器をあらわす用語をすらすら言えるであろうか。

どうしても何か羞恥心のようなものがわたしの心のなかに芽生えてしまう。

性器を、たとえば、指や耳と同じように、

体の一つの器官としてあたりまえに考えたり、

きちんとみつめたりすることができないのである。
 

 

それは性教育をたてまえとして認めても、

どこかで性はいやらしいこと、

秘密めかしくしたいこと(大人たちが独占しておきたいこと)、

はずかしく、人まえでは口にしてはいけないこと……という本音の部分が、

深く深くわたしのうちにあるのではないか。

性のことに真剣にとりくもうという教師は、

日々、このみずからの性意識とたたかわねばならないのである。


このことは、授業を受ける子どもたちも同じであった。

わたしの授業は

「あけすけで、えろい(子どもたちはエッチなことをこう言う)話をいっぱいさせて、

 それを180度転回して、いのちのふしぎさ、尊さに導こう」

というものであったけれど、授業はそうはうまくはいかないのである。
 

 

いつもの暮らしのなかでは、

あけすけで言いたいことをいくらでも言うクラスの子どもたちが、

「性の授業」の入口では口を閉ざし、

かたくなになってしまうのがしばしばであった。

 

貝殻のようにかたくなった彼らのなかにも、

わたしと同じような性意識があるのだ。

そうであるなら、

知識の量ばかりが多い教師が知識の少ない子どもに教える、

というだけの姿勢では、

子どもたちの心はひらかないであろう。

 

おなじ時代を生き、

おなじように暗やみからの性意識をひきずるものどうしが、

自分のからだをみつめなおし、
発見のよろこびをわかち合うことでなければ、

真の性教育とは言えないだろう。
 

 

ことばばかりの多いわたしの授業は、

わたしの願いからすればこころもとないかぎりだが、

授業のなかで生まれた子どもたちの声はみずみずしく、

授業の方向はまちがって居ないことを示していると思う。


性教育とは、教師の性意識の変革なしには成り立たないのではあるまいか。

いま、性教育の必要性は、若者たちの性にたいする意識の変化、

非行の問題、エイズの問題などから叫ばれているが、

それが「性情報から子どもを守る」といった対症療法的な指導になっていったとき、

やがて私たちは若者たちから強烈なしっぺ返しを受けるのではないだろうか。
 

 

「未来にどう生きるか」という展望のなかでの性教育ではなく、

大人社会の常識を押しつけるだけの授業では、

性の問題は、若者のエネルギーとともに暗やみに沈んでいくばかりではないだろうか。
 

 

望月正弘『12歳の性 スケベでエッチなホンネを育てる』(太郎次郎社)
 エピローグ・子どもたちのエネルギーに答えるために より引用

 

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『チビっ子猛語録』第7章 インテリジェンス より

 


昨日に続いて3/9に投稿した記事でご紹介した『チビっ子猛語録』の内容をご紹介。

 

この本は学校生活について、学ぶ側の子どもの視点で書かれていて、

学校に対して批判的な部分もすくなくありません。
 

 

45年も前に書かれたことや、デンマークで書かれたものを

北欧と日本との違いを意識しながら、

日本人に合わせて日本人が翻訳していることを考慮して読む必要はありますが

いまこの齢になったわたしが読んでもなかなか読み応えがあります。
 

昨日は先生についての文章で、

犇気┐覆ざ軌薛瓩慮凝世箸い辰討發茲さ述をご紹介したんですが、

今日は「インテリジェンス」と題された章から、

猜册闇塾牢儉瓠頁塾呂呂匹里茲Δ砲任睚儔修靴Δ襪箸いΩ方)の大切さに触れた部分です。
 

 

犖把蠻塾牢儉瓠頁塾呂論犬泙譴弔決まっていて変わらないという見方)に

ガンジガラメになっている人は

今日でも少なくないように感じています。
 

 

たしかに能力の個人差は存在するけれど、

その違いっていうのはそんなにたいしたことじゃない、という見方は、

こちらの記事で紹介した『ひとり 15歳の寺子屋』でも

吉本隆明さんが語られていました。
 

 

勉強ができないのは、個人の責任でもなく、

また、学校だけの責任でもないですね。
 

 

「〜の責任」という発想そのものを超えなければいけないし、

ひとつのところだけからモノを見ることには、

どんな場合においてもマチガイがあり得るということを、

常に念頭に置いておきたいことです。
 

 

 

♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ 


・・・勉強のできない子は、頭がヨワイ。すなわちパーだ。

昔は、本気でこう思われていたんだ。
 

またこうも考えられていた。
「勉強のできない子は、インテリジェンスが欠けている。

 だから、何をやってもダメなんだ」―――と。
いや、昔ばかりでない。

現在でも困ったことに、こう信じている人はかなりいるんだ。


たしかに人間というのは、生まれたときから頭脳も体力もまったく同じではない。

体が丈夫で、頭のちょっとヨワイ子もいるし、

オツムはバツグンにいいが、三日にあげずカゼをひいているような子もいる。

みんなそれぞれにちがっているんだ。


人びとは、この相違をまるでうまれついての宿命のようにきめてかかる傾向がある。

勉強のできない子は何をやってもダメだし、

学校でもほかの生徒にまじって、うまくやっていくことはできないのだと。


しかしこういうことをおぼえておこう。

人間は、たしかに能力の差がある。

ところが世の大人たちが考えているほど、その差は大きいものではないんだ。

「何をやってもダメ」なんてことはあり得ないのサ。


こうは言えないだろうか。

勉強のできない子は、彼、あるいは彼自身がダメなのではなく、

学校が彼らをうまく指導できないのじゃないかと。

つまり学校なり先生の指導能力欠如というわけなんだ。


学力がいちじるしく低下している生徒は、

自分の家に送りかえされてしまうことがある。

 

学校の程度には、とうてい順応していけないから、というのがその理由だ。
 

だが逆にいえば、学校がこうした生徒をうまく

順応させていけなかったということになるんだ。


学校は、すべての生徒達をうまく指導していく義務をもっている。

勉強ができなかったり、みんなよりおくれてしまう生徒にだって、

すこしでも向上させ、うまく社会にでられるようにしていく。

これが学校のもっている役目なんだ。


なにもかもできない生徒のセイにするのはまちがっている。

「何をやってもダメ」なんてことはないんだ。

世間が勝手にあたえた評価だって、

見る角度をちがえればまったく意味が変わってくる。
 

 

ひとつのところからものを見るってことは、いつの場合だってマチガイがあるのさ。
 

S.ハンセン&J.ジェンセン『チビっ子猛語録』(二見書房)より

 第7章 インテリジェンス より インテリジェンスは変えられる
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『チビっ子猛語録』第2章 レッスン より

 

・・・しかし、先生といっても、決して捨てたものではなく、

10人に1人くらいは優秀な、そして良心的な先生もいる。

 

この数少ない、だが優れた先生たちは、つぎのような方法で授業をするんだ。


彼は、まずキミたちに、何を学ぶべきかを自主的に決定させる。

キミたちはクラスの仲間と、あるいはグループで、

いったい何を勉強すればよいかを相談し最良の方法をえらぶわけだ。


先生がやるのは、キミたちの決定がうまくいくかどうかを見守ることなんだ。

そして先生は、キミたちがもっとも効果的に勉強できるように授業をおこなう。


先生はキミたちに、1から10まですべてを教えようとはしない。

キミたちが自発的に学問できるように、キッカケをあたえ、

道を切りひらいてくれるだけなんだ。


こういう先生は、実習のためにはどこかに行くこともすすめるし、

自由な討論もさせてくれる。

10分の9の先生たちのように、教科書だけにしがみついたりはしないんだな。

つまり流動性があるってことなんだよ。


たしかに自分でいろいろな実験をしてみることはむずかしいかもしれない。

しかしキミたちは、その困難さの中から、

旧態依然とした授業からは得られない、

新しいものを獲得できるんだ。


先生がキミたちに、自分でやることを任せる課目は、

ほかの先生たちやキミの両親が、

あまり重要だと思っていない種類のものかもしれない。

たとえば、図画とか、工作とかいったぐあいに——


しかしバカにしてはいけない。

それはキミたちにとって、またとないチャンスだし、

また大いに利用すべき意味があるんだ。

キミたちは、こうした機会をつくってくれた先生に感謝しなくてはいけない。


新しいことをやるというのは、先生たちにとってはつねに不安なんだ。

もし失敗したらどうしよう?

先生というのは、ウワベは何となくエラそうな顔をしてるけれど、

内心ではキミたちにバカにされたり、批判されたりするのを極端に恐れている動物なんだ。
(生徒たちはオレのやり方をいったいどう思っているんだろう?

 オレのことを好いているんだろうか?

 それともあんな教師なんぞ早くいなくなればいいと考えているのだろうか?)


これが多くの先生の、いつわりない心境だ。

どの先生も見かけによらず、みんな心の中では生徒たちの人気者になりたいと、

けっこう無邪気なことを考えているんだよ。


キミたち! 先生方のこうしたウィークポイントを利用しない法はないゾ。

キミたちには、講義のヘタな先生、一方的な先生、横柄な先生を

みんなの世論の力で人気最低の教師にしてしまうことだってできるんだ。
つまり、キミたちには、すべてを決定する権利があるということだ。


ただお義理で講義をしているだけの先生を、

10人に1人しかいない貴重な先生に仕立て上げるチャンスはここにひそんでいる。

忘れちゃいけないことだヨ。

 

S.ハンセン&J.ジェンセン『チビっ子猛語録』第2章 レッスン より 10人の先生のうちの1人がすること
 
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田縣神社のこと


昨日は小〜中学時代にこっそり読んでいた本の話でしたが、
関連して、わたしが子ども時代の話題を。

6年ほどまえから時折、名古屋経済大学(以下「名経大」と略)犬山キャンパスに
ゲスト講師の立場でお邪魔しているんですが、
名経大の最寄り駅は、名鉄小牧線の田縣神社前駅です。

名経大の学生さんたちはもとより、その周辺地域に住んでいる方で、
田縣神社に祭られているご神体が何かを知らない人は少ないかと・・。
 

亡き母の在所が岐阜県関市だったので、
井上家は、お盆や正月になると
R41経由で名古屋から関まで車で帰省していました。
 
この田縣神社は小牧市の旧R41沿いにあるので、
そうした帰省時の行き帰りに、何度か立ち寄ったことがあります。

初めて立ち寄ったのは小学校3年生ぐらいだったとおもうんですが、
神社内にはこのようなフシギな物体があちこちに散見し・・・

2009-06-25 02.22.38.jpg


こんな鈴が天井からぶらさがっていたり・・・

田縣神社の鈴.jpg

お賽銭箱もこんな感じで、

 玉さすり 賽銭いれて 珍となる
・・・とご丁寧に、川柳で説明書きまでが・・笑

2009-06-25 02.23.20.jpg

前にも書いたように、わたしの両親は
性についてそんなにオープンではありませんでしたが、
こんな経緯で、田縣神社のご神体として祭られているモノが何かは、
小学生の頃から知っていた次第です。
まさに珍スポットですねっ・・笑。

ただ、毎年3/15に行われている豊年祭は、
残念ながらまだ一度も覗いたことがありません。

海外にはこういう稀代のパワースポットは少ないらしく
見物客には外人さんも多いそうです。


ふだんなら猥褻物陳列罪に問われかねない
このようなオブジェを乗せた神輿が、その日ばかりは堂々と沿道を練り歩き、



祭りの終盤には、この神輿が本殿に突入する儀式まであるそうでww・・・
「田縣神社」「豊年祭」でネット検索すれば、

といったようなblog記事がいっぱいヒットしますし、
2016年の豊年祭がYouTubeに上がっていました。
 

この映像でとりわけ興味深いのは、
奉納するまえに大男茎形をのせた山車が3回、
右まわり、左まわりの順で回転させていることなんですが、
「なぜこのようなことをするんだろう?」という問いが浮かぶと、
いのちの本質について考えることに
つながるようにおもいます。

いずれにしても、江戸期以前の日本人の性意識は今とは異なり
とっても大らかなものだったことが想像できますね。

 
一昨日の20リストのうち、17番目に挙げた
『浮世絵入門 恋する春画』(新潮社)は、
江戸期の大らかな庶民のすがたを
文化的な側面から垣間見ることができるようにおもいますし、
18番目に挙げた
渡辺京二さんの「逝きし世の面影」(平凡社ライブラリー)は、
そうした明治維新以前の日本の姿を、外国人の視点から書きとめたものです。

今年も3/15は観にいけそうにないんですが、来年こそは・・笑
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『チビッ子猛語録』のこと



3/4に書いた犇気┐覆だ教育瓩砲弔い
の続編なんですが、

今日は、昨日挙げた20タイトルの本のうち、
わたし自身が一番はやく出会った本について書いてみます。
 
40年以上も前の本だけに
さすがにアマゾンの古書市場やヤフオクなどでも僅かにしか流通していないようで、
おそらくこれを読まれている方でも
ほとんど知らないんじゃないかとおもいますが、
1972年1月に初版が出ている豆本『チビッ子猛語録』がそれです。
 
豆本・・・いまではもうほとんど見かけませんが、
文庫本よりも一回り小さいポケットサイズの装丁でした。

この本が出たときは、わたしは小学6年生でしたし、
今となってはおぼろげなんですが、
手に入れたのは中学1〜2年ぐらいだったように記憶しています。

ちなみに、1972年11月に初版が出た『新チビッ子猛語録』の方は
アマゾンにも掲載がなく、
ネットでもこちらの記事ぐらいしかヒットしません。

最初に出た左側の本は、デンマークで出た原書
Little Red School Book を翻訳したもので、
毛沢東語録を意識した赤い表紙の装丁といい、
書名といい(猛語録←毛語録)、
当時としてはなかなか過激な内容で、目次は次の通りです。
 
第1章 なにをどうして学ぶのか?
第2章 レッスン
第3章 宿題
第4章 先生
第5章 学校での罰則
第6章 生徒・友だち
第7章 インテリジェンス
第8章 成績
第9章 自由時間
第10章 セックス
第11章 刺激剤
第12章 体制・キミの場所

出版後、PTAなどから猛反発を食らって、すぐ発禁図書扱いとなったらしいです。

でも、それにしても、なぜ発禁になったような本が
いまわたしの手元にあるんでしょう???・・謎ですねぇ・・笑
 
『ちびっ子猛語録』の方は、12の章立てで構成され、
学校生活のなかにセックスの話題が位置づけられているんですが、
『新ちびっ子猛語録』の方は、
『ちびっ子猛語録』を翻訳した人のひとり・石渡利康さんが著者で、
当時欧米で出版されていた性教育の本20冊近くを参考に執筆され
1冊まるごとセックスの話題です。

 
わたしの両親は、いずれも昭和ひと桁の生まれで、
たぶん、それぐらいの世代の人は
セクシュアリティの問題をオープンに語ったり、
子どもへの性教育を熱心にやろうとした人は
少なかったとおもいますし、
両親からそうした教育を受けた記憶はありません。
 
まあ、学校でも性教育の授業をうけたという記憶がなく、
当然のことながらこれらの2冊は、
親から買ってもらったものではなく、
わたしが近くの本屋でこっそり手に入れて
親に隠れてナイショで読んでたというわけです。
 
・・・というわたしは、
けっこう早熟なこどもだったかもしれないのですが、
セクシュアリティの問題は、
家庭でも学校でもないフィールドで、
それぞれ成熟度や興味関心度合いに沿って、
自発的に情報収集して・・・というのが
いちばん自然な在り方なのでは、とおもうし、
以前こちらの記事で紹介した
内田樹さんが三砂ちづるさんとの対談本「身体知」で語っているように、
「政治と宗教とセックスは、家庭では話題にしちゃいけない」という方針に
基本的に賛成なんです。
 
でも、それだと各々に異なる周囲の環境と
偶発性にゆだねられてしまうので、
中学生時代にこういう情報と出会えたわたしは、
ラッキーな人間のひとりだったかもしれませんね。
posted by Akinosuke Inoue 19:26comments(0)trackbacks(0)pookmark