往来物手習い

むかし寺子屋では師匠が書簡などを元に往来物とよばれる教科書をつくっていました。
寺子屋塾&プロジェクト・井上淳之典の日常と学びのプロセスを坦々と綴ります。





むかし書いたコラム記事から(その23)

第23回 「情報化社会の扉は“書くこと”から開かれる」
先週は勝手にお休みしてしまって申し訳けありません。ぴけのコラムニストも増えて、コラムばかりだと読む皆さんの方も大変でしょうから、これからはつぶやきの詞と交互で書いてみようかなと思っています。
それにしても、書く人が増えるというのはいいことですね。
なぜかというと、私は小説家とか新聞記者とか大学教授とか、“書く”ことを仕事としている人だけでなく、家庭の主婦やトラックの運転手など、今まであまり書かなかった人や、書くことについては素人と言われてきた人が、日常的に書いてどんどん情報発信をしていくことが、とても大事なことだと思っているからです。
パソコンが普及するだけでなく、インターネットによって世界中のコンピュータがつながったことで、世界中の人々を相手にメールマガジンを発行したり、メーリングリストを立ち上げるというようなことが、誰でもできるようになってしまったのですが、実はこれはものすごく革命的なことなのです。
たとえば、先生よりも学生の方が多くの情報を持つことが可能になったわけですから、一方的に情報を伝えるだけの教育は、早晩意味を失うことになるでしょうし、そごうの倒産や愛知万博の会場問題、雪印乳業の集団食中毒など、昨今の一連の事件には眼には見えない共通項があり、今までのピラミッド社会の枠組みが崩れて新しく変わっていくプロセスととらえると、時代の底流が見えると思います。
しかし、私たちはまだ“情報化社会”のほんの入り口に立ったところです。
ぜなら、多くの人は、自分自身が情報を生みだす主体だという自覚がなく、価値ある情報は自分とは別の所にあるとどこかで思いこんでいて、情報を生産する技術が確立されていないからです。

牛飼いが 歌よむときに 世の中の 新しき歌 大いに起こる

これは、「野菊の墓」で知られる伊藤左千夫の詠んだ短歌ですが、彼が東京の本所で乳搾りをしながら牛乳配達をしていたことを知る人は少ないかもしれません。
その牛乳が雪印だったかどうかは知りませんが、「牛飼い労働者の私までが歌を詠むようになったとき、短歌の中身も変わっていくだろう」という意気込みが込められていて、私の好きな歌の一つです。
北勢線廃止の話も世界から押し寄せるグロバリゼーションの波と無関係でなく、私たち一人ひとりが自分の言葉をもつことは、今のこの時代を生き延びるための知恵として必要です。
情報化社会の主役は私たち一人ひとりであり、その扉は、一人ひとりが自分の言葉で書いて発信することから開かれるのです。(2000.6.23)
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むかし書いたコラム記事から(その22)

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第22回 “クラシック音楽はお好き?”

NHK教育TVで毎週日曜日の夜9時から放映している「N響アワー」を見ていたら、イタリアの天才ピアニスト、マウリツィオ・ポリーニが3度目の来日をした22年前の演奏をやっていて、思わず目が釘付けになってしまいました。
私がポリーニをテレビで初めて見たのがちょうどこの3回目の来日をしたときだったこともあってか、テレビを見ながら22年前18歳だった私にフラッシュバックしたような気分になりました。
18歳といえば、ポリーニの名前を一躍世界にとどろかせた出来事が、1960年ワルシャワで行われたショパン国際ピアノコンクールにわずか18歳で優勝したことです。

当時はまだ米ソの冷戦があり東側に有利とされてきたショパンコンクールで、ポリーニは西側で最初に優勝した人でもありました。

そのとき審査委員長だったピアニストのA.ルビンシュタインが18歳の彼を「ポリーニは技術的には審査委員の我々の誰よりもうまい」と評したことも、ポリーニの演奏技術の高さを物語っています。
ポリーニのすごいところは演奏だけではなく、ショパンコンクールに優勝したからといってすぐに演奏活動に入らず、10年ほど哲学や美学、数学などの勉強をしてさらに研鑽を積み、演奏活動を本格的に始めたのは30歳頃になってからだったということです。

いや〜すごいでしょ。
ポリーニのレコードを初めて聞いたのは、確かFM放送からだったと記憶しているのですが、難しいショパンの練習曲を一音一音くっきり手にとって見えるように完璧に弾いているので、「これは本当に人間が弾いているのだろうか」と耳を疑ったことを思い出しますちなみにそのレコードの帯に記されていたキャッチコピーは、「あなたはこの上に何をお望みですか?」でした。
……なんてことを書くと、皆さんにはいかにも私がクラシック音楽ばかり聞いているガチガチ人間であるように思われるかも知れませんね。

でも、そもそも自分からクラシックを聞き始めたのは高校生になってからのことで、そうした片方では映画『野生の証明』で衝撃的なデビューをした薬師丸ひろ子が主演する新しい映画が封切られるのを機に、彼女のサイン会が名古屋であるというのでホクホクしてでかけたり(当時彼女は17歳でした)、榊原郁恵のアルバムを聞いたりもしていました。
ポリーニのビデオは、そんな当時の私を思い出すことにもなったのですが、そんな私ってやっぱり変?(2000.6.25)

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むかし書いたコラム記事から(その21)

第21回 「情報公開」とは文句を言われるということ?

先日、朝日新聞の記者から突然電話インタビューを受け、社会面の選挙関連記事で、その私の発言が紹介されたことがありました。

「有権者が今度の選挙をどう見ているのか」という内容の記事で、私の発言は次のように編集されていました。


「神の国発言は、古い価値観が社会に根強く残っていることをうかがわせた。発言の影響が選挙にどう出るのか、興味を持っている」
 

この記事が掲載された日の午前中、新聞社で聞いたのか、ハローページで調べたのかはわからないんですが、記事を見たといって私のところへ電話がかかってきました。

ところが、相手の人は、「日本は神の国であるという考え方のどこがいけないんですか? あなたのような考え方の人がいるから、日本の社会は良くならないんですよ」というような話を、名前も名乗らず一方的にしゃべってガチャリと切られてしまいました。
私は、自分から情報を公開し発信するということは、その内容についてどんな意見を言われてもいい覚悟ですることだし、考え方はひとそれぞれで違っていて当然だと思っていますから、こういう電話はむしろ大歓迎なのです。

しかし、こちらの話をまったく聞く姿勢がなく、感情的に自分の言いたいことだけを一方的に言って切ってしまわれたことが残念でした。

こちらはきちんと名乗って載せているのだから、もし意見があれば、自分も名乗り、「新聞の記事にはこのように出ていましたが、あなたの考え方はこの通りですか?」と確認をとり、まずは相手の話を聞くのが順序ではないでしょうか。

皆さんはどう思われましたか?
私は、神の国発言の内容を良いとも悪いとも言っていません。

首相という国の行政の最高責任者という公の立場で、公の場の発言としては問題があったのではないかと私は思っているわけです。

この場で何を言い、何を言ってはいけないか、というように、場をわきまえるということは、政治のような公の仕事をする人間に
とってはとても大切なことだと思うのですが、残念ながら森首相にはその自覚がないように思えたわけです。
でも、それは森首相に限ったことではありません。

私たちは、自分のことをわかっているつもりであっても本当は見えていなくて、ついついひとりよがりになってしまいがちですから、自分に対して言いにくいようなことでも伝えてくれる人(私はこれを朱入れと言っています)がどれだけまわりにいるかがとても大事だと思うのですが、森首相のまわりにはそうした人がいないのでしょうか。
あなたは、自分に対して朱入れしてくれる人はまわりにいますか? 

この私のコラムは反論異論大歓迎です。

ご意見ご感想をお待ちしています。(2000.6.18)

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むかし書いたコラム記事から(その20)

第20回「“おるたなてぃぶ”って?」

メールマガジンぴけの読者が800名を越えたようですね。
あたりまえの事ですが、人間は十人十色で感じ方や考え方は一人一人違いますから、私のこの文章もいろいろな受けとめ方をされているんだろうなと思います。
でも、そうは解っていながらも、こうして毎週書いていると、読んでどう思われるだろうと気になることがときどきあります。
たとえば、塾業界ではよく、生徒募集の新聞折込広告は1万枚のチラシを入れて1人───つまり効果は0.01%などと言われているのですが、メールニュースの世界ではリアクションは1%ほどという話を聞いたこともあります。
ところで、どうも私はメジャーなものよりもマイナーなものに魅かれるヘソマガリ(?)なところがあるようで、よく知られているようなことにはあまり興味がなく、そこからちょっと外れたところに面白いものを見つけるのが得意です。
主流に対して「もう一つの」という意味の“オルタナティブ”という言葉がありますが、私が大切にしているのは、マイナーであっても殊更にまわりに共感を求めず、淡々と自分の道を歩み、だからといってまわりからの反響は無視しないという姿勢です。
私がここで書いているような話題は、決して大衆ウケする内容ではないと思いますし、興味をもって読んで下さるのは実際には1%よりもっと少なくて、もしかすると新聞折込広告並の数字かもしれません。
でも、逆にそれだからこそ、読んで下さっている方からの何らかの反響があったときは嬉しいものですネ。
先日も、「地域通貨」の話題を書いたときに、NHKで放映された『エンデの遺言』という番組を紹介したところ、それを見逃した方からビデオを見たいというメールをいただいて、とても嬉しい思いをしました。
もちろん、良い反応ばかりではなく、「何が言いたいのかさっぱりわからない」というようなご意見も戴きます。
でも、そういう言葉をきちんと相手に返すということは、私自身はなかなかできないことなので、とても有り難いと思います。
『歎異抄』の12条に「人から悪口を言われないような思想は本物ではない」と書いてあったところを読んだ私は、思わず「そうだ!そうだ!」とうなずいたのですが、でも、親鸞聖人は、「悪口を言われる思想こそが本物である」と言ったわけではないんですよね。
みなさまからのこのコラムへのご意見ご感想を心よりお待ちしています。
何よりも励みになりますので、どうかこれからも応援してください。(2000.6.11)

【お知らせ】寺子屋プロジェクトも独自ドメインを取り、ホームページの移転がようやく完了しました。気が向いたら覗いてやってください。
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むかし書いたコラム記事から(その19)

第19回「“教えない教育”ってなあに?」

皆さんは“教えない教育”って聞いてどんなことを思いますか?
私は以前、進学塾で小中学生に勉強を教える仕事をしていました。
そこは日曜祝日でも朝から晩まで補習授業をしたり、受験生は夜中の2時まで学習したり、というスパルタの塾で、私はそこで徹底的に“教える教育”をやったわけです。
たしかにそれだけやれば、成績も上がらない方がおかしいですし、志望校にも合格していきます。
しかしその反面、「勉強は塾でするもので、先生から教えてもらうもの」という受け身の習慣が身についてしまいがちで、自分の頭で考え、自分で決めたことを自分の力で実現することや、壁を自分でのりこえる経験が乏しくなる面があることにも気づき、“教える教育”に次第に疑問をもつようになりました。
そんな私が、“教えない教育”という言葉と初めて出会ったのは8年前のことでした。
当時はバブルの真っ只中で、“教えない教育”に関心を寄せる人はほとんどいませんでしたが、私なりにピンとくるものがあり、できるところから、試行錯誤しながら自分なりの“教えない教育”を実践してきました。
いじめ自殺、学級崩壊、不登校、昨今の青少年の殺傷事件と教育の問題がいろいろ表面化していますが、こうしたことをきっかけに、教育のあり方を考え直してみようという人も少しずつ増えてきたようです。
今年の2月中旬にTBS系TV番組、筑紫哲也氏の「NEWS23」で“教えない教育”が取り上げられ、ご覧になった方から大きな反響があったのですが、そのとき、ゲストコメンテーターとして登場していたセルフラーニング研究所長・平井雷太氏を迎えて、「教えない教育セミナー」を8月に開くことになりました。
また、6月15日には平井雷太氏の編集する月刊雑誌『教えない教育2000』も創刊されます。(2000.6.4)
 
●教えない教育には
 一方的に教えるだけの先生はいません
 参加者全員が「先生」であり「生徒」です
 その場に集う一人ひとりが
 互いに学び合う場づくりの仕掛人なのです
 「“教えない教育”っていったい何だろう?」
 問いが浮かぶことから
 自分なりの学びが始まります
 
※関心のある方にはくわしい資料を送りますので info@terakoyapro.netまでメールを下さい
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むかし書いたコラム記事から(その18)

第18回 「“自分で決める”ということ」

※今回は趣向を変えて詞の形で書いてみました

「なぜあなたはこの世に生きているのか?」と問われたら
「私がこの世に生まれたいと思ったからだ」と答える。
生まれたこの時代もまわりの環境も両親もみな私が自分で選び、
自分の意志で“決めて”生まれてきたのだと思うようにしている。
 
なぜなら、時代も環境も両親も
自分の力ではどうにもならないし、
元に戻ってやり直すことなどできないからだ。
ところがこの、自分の力でどうにかできることと
絶対に自分の力でどうにもならないこととの区別は難しい。

だから、あれこれいろいろやってみて
どうにもならないことをどうにかしようとすることほど
無駄で愚かなことはないと
自ら気づくしかないのだが、
幸いこのことに気づけた私は、
与えられた条件をどう生かすかは自分次第だとわかり
自分のやることが次第にはっきりしてきて
生きるのがとても楽になった。

しかし、私自身がこのように思うことで
楽に生きられるようになれたからといって
他の人はそうとは限らないから、私の考えを押しつけるつもりはないし、
「あなたはどうしたいのか?」と問うことしかできない。

いろいろやってみてもうまく行かず、
行き詰まってどうにもならない事実につきあたったときにこそ
自分の課題や生きるテーマが見えるのだから、
それが見えたらあとは、
「私はどうしたいのか?」を自ら問いかけ
自分の位置を定めて今できることからやっていくしかない。

だから、どうするのかを“決める”ことが
楽に生きるための第一歩。(2000.5.28)
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むかし書いたコラム記事から(その17)

第17回「新聞報道に思うこと」

「高校生の主婦殺人事件」「高校生が高速バスジャック」と高校生が起こした事件が続きました。
最近の新聞の記事を読んでいて、こういう内容の記事を、読んでいる人たちは本当に読みたいと思っているのだろうか?
新聞社の人たちは書きたくて書いているのだろうか?
と思ってしまったのですが、皆さんはいかがですか?
事実を伝えるということの大切さはわかります。
でも、社会ではもっともっとさまざまなたくさんの事件が起きていて、そのたくさんの中でこうした事件を取り上げることの意味はいったい何なのでしょう。
新聞記者の人たちは、こうした事件を記事にすることで、私たち読者にいったい何を伝えたいと思っているのか、ときどきわからなくなってしまうことがあります。
私は週1回このコラムを書くと決めていることで、「私は読んで下さる皆さんにいったい何を伝えたいんだろう?」といつも考えざるを得ないわけですが、私にとってはこうした時間がとても貴重です。
私は、自分が大切だと思うことについて書いてみても、それが良いかどうかという判断は読む人にゆだねるように心掛けていますが、それでもこうして書くことによって、ひとつの価値観や考え方を押しつけたいと思っているいろいろな自分が見えてくるからです。
「情報化時代」と言われ、情報の価値をいろいろ説く人はいますが、洪水のように押し寄せる情報の波の中で、自分で取捨選択し判断する力を持たないと、その波の中で溺れてしまうことにもなりそうです。
事実を伝えているように見えるどんな情報も、実はそれを書いた人によって編集されているからです。
どんなに客観的な事実情報があったとしても、100ある事実の中からひとつの事実を取り出すということがすでに編集だからです。
また、皆さんは“メディア・リテラシー”という言葉を聞いたことがありますか?
日本語に訳すと「情報を読み解く力」というような意味なのですが、インターネットの普及などに伴って、子どものころから、「情報を読み解く力」を育てるような教育が必要と説く人が日本でも増えてきたようです。
このメールマガジン“ぴけ”も情報のひとつですし、私のこのコラムで書いていることも、私という人間によって編集されているわけです。
ですから、私がこうして書いていることは、ゆめゆめ、そのまま鵜呑みにしてはなりませぬゾ!(2000.5.21)
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むかし書いたコラム記事から(その16)

第16回 「健康を目的としない食生活講座って?」


私は16歳のときに大病をしたのですが、医者から見放されたおかげで、自分の身体と自分自身が向き合うようになり、それまで全く考えたことも無かった自然環境のことなど、いろいろなことを考えるようになりました。
さまざまな健康法や健康食品を試した結果、7年かかってようやく、そうしたものに頼ることよりも、日常の食べている物こそが大切だと気づくことになったのです。

それ以来私は玄米と野菜を基本とした食事をなお続けていて、治らないと見放された病気もよくなりました。

しかし、そうした食事がどんなに素晴らしいと説いたところで、それはあくまで私の個人的な体験にすぎません。

まわりの人に勧めれば勧めるほどかえって反発を生み、最初の10年間は、私のまわりで玄米を食べてみようという人は一人も現れませんでした。
そこで、伝え方を変えることにしました。

私は「玄米を食べなさいと絶対に人には勧めない」「どんな食事をすればいいかを私が一方的に教えない」「健康になることを目的にしない」というルールを自らに課して、徹底的に皆さんの話を聞くことにしたのです。

すると、「玄米が身体に良いという人もいるけど、消化が悪いから良くないという人もいて、どっちが正しいのかわからない」「身体に良いってことは分かっていても、値段が高いからできない」「一度は玄米食を始めてみたけれど、長続きしなくてやめてしまった」「理想と現実のギャップが大きく、そのことでストレスを感じてしまう」などなど…皆さんが抱えている悩みがわかってきて、私が何をすればいいのかが少しずつ見えてきました。
体質や環境は一人一人違いますから、食生活に唯一の正解などないのです。

私にできることは、皆さん一人一人が抱えている問題や学びたいテーマを持ち寄れる場をつくり、そこで話題を共有することでお互いが学び合い、その解決方法を自分で気づけるようにすることです。

私の言うことを鵜呑みにしないで、自分の身体と自分で向き合い、自分自身と対話しながら自分で判断できるのでなければ、私にただ依存しているだけだからです。
「食生活のセルフデザイン講座」というのはこんな経緯で生まれ、果たしてこんな講座に参加して下さる方がいるのか全然わからなかったのですが、3年前からかれこれ各地で30回以上もさせてもらっています。
今月22日から桑名の星見が丘にある「○○○○○」で始まりますので、おもしろそうだなと思われた方はご参加ください。

子連れの参加OKです。
今回もまたまた講座のPRになってしまってごめんなさい。

※講座のPRについては、これからの開催と取り違える人がでないように、開催場所を伏せさせていただきました。

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むかし書いたコラム記事から(その15)

第15回「田植えまつりを企画してみて」

大型連休もいよいよ今日で一段落ですが、いかがおすごしですか。
私は毎月最終土曜日の午後は、NPOをテーマにした学習会を企画しているのですが、4月はみどりの日が最終土曜日だったので、GWの初日に会議室でNPOのお勉強といっても、行きたいなと思う人は恐らく少ないだろうということで、交流会も兼ねて、菰野町に住む知人の田圃をお借りして「古代米 田植えまつり」を企画しました。
好天に恵まれたこともあり、参加者は大人子ども合わせて50名近く。
今年は例年よりも低温の日が続いたためか苗の育ちが遅くて、予定していた量の半分以下しかできませんでしたが、5畝(1反の半分)ほどの面積を手植えでやり、とくに子どもたちは大喜びでした。
また、菰野町には、赤米、黒米といった古代に栽培していたお米の研究をしている方がみえて、田植えを指導していただいただけでなく、古代米にまつわるよもやま話を伺うこともできました。
私は5年前にも手植えで田植えをやったことがあったのですが、人数が少なかったために、同じぐらいの面積の田植えをするのに、朝から夕方までまる1日かかってしまいました。
昔は田植えの機械などなくても、1反を1人が1日でやったと聞いて驚いたものです。
農業従事者の高齢化がすすみ、今農家で仕事をしているのはほとんど60〜70代のおじいちゃん、おばあちゃんで、後継者の問題はかなり深刻です。
都会生活をしていれば、毎日あたり前のように食べているお米が、どんなふうに作られているのかを知る機会はめったにありません。
食料の生産は誰かが担わなければならない仕事ですから、子どもの頃から農業体験を積んでおくことは大事なことのように改めて感じた1日でした。(2000.5.7)

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むかし書いたコラム記事から(その14)

第14回「お父さんのGWって休暇? それとも仕事?」
 
恒例のGolden Weekがやってきました。
今年は5月1〜2日に休めると9連休、休めなくても5連休という大型連休です。
多くの企業や自治体では、今年の正月はY2Kのために出勤となって、ここでその分の休みがとれる人が随分いて、海外旅行組も結構多いと聞いていますが、みなさんはどのようにお過ごしでしょうか。
私は3月末に春休みをとって、岡山の倉敷へ行ったのですが、わが家は2歳と5歳のちびっ子ギャングが二人いて、チボリー公園がお目当ての家族旅行でした。
妻の両親や妹夫妻の3世帯11人ででかけたので、お父さんとしては、休暇だったのか仕事だったのかがよくわからずどっぷり疲れて帰ってきました。
年度替わりと新学期のバタバタと休み中に山積みになった仕事のしわ寄せとが重なり、それと格闘しながらようやくリズムが出てきたかな、と思ったところで毎年やってくるこの黄金週間・・・大型連休といっても喜んでいいのやら複雑な気持ちです。
私の場合は、自分のやりたいことを仕事にしているというか、生活と仕事ということを分けて考えていないので、仕事と全く掛け離れたところに趣味も持とうという考えもありません。
それで、仕事を離れて思いっきり休暇を楽しもうとか、そうしたことで仕事上でのストレスを発散させようというようには考えなくなってしまったため、別に連休だからといって、仕事から全く離れて過ごすよりも、普段どおり仕事をしていたほうが、生活のリズムも崩れないし、私自身は都合がいいのです。
が、しかし、幸か不幸か私のまわりの人はそうではありませんから、まわりの人と接しながら、また自分自身の立ち位置や有り様を確認するということを繰り返しています。
まあ、仕事も生活もいずれも自分自身で選んだわけで、そのことに文句を言ってても始まりませんしね。
私はサラリーマン生活を離れて8年も経ってしまったので、今では随分感覚が薄れてしまっているでしょうが、サラリーマンも決して気楽な身分ではなくって、いろいろ大変なことがたくさんあるということも経験しました。
会社でも大変、家庭でも大変……ってことになれば、それこそボランティアとかNPOに関わるどころではないっていうのもよくわかります。
いずれにせよ、どんな境遇や環境であっても、それを「自分で選んでいること」という感覚が持てているかどうかがカギのような気がします。
さてさて、ことしのGWは、あなたはどうしますか?(2000.4.30)
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